墓参にて 四章
8月10日木曜日。
電線にとまっている雀が、チュンチュンと囀りながら朝を告げていた。
雲が陽射しをやわらかく遮っているせいか、暑さも和らいでいて、風が吹くたびに、少し肌寒ささえ感じる。
諒は、柄杓で墓石に水をかけ、束ねられた線香にライターで火を点ける。
細く立ち上る煙とともに、懐かしい香りが空気に溶けていく。
しゃがみ込み、手を合わせた。
墓前には、父がよく飲んでいたビールを供えた。銘柄は数年前に製造中止になっていたため、代わりに自分が普段飲んでいるものを選んだ。母が好きだったひまわりも、鮮やかに風に応えて揺れている。
「父さん、母さん……あの日、何があったんだ……」
思わず漏れた問いかけは、墓石の静けさに吸い込まれていく。
立ち上がり、ポケットから煙草を取り出した。
火を点け、一口吸い込む。朝の風に混じる煙の匂いが、どこか遠くを思い出させた。
父は母の家に養子として入ったが、実際に暮らしていたのは、母の実家があるこの内海町ではなく、福田町だった。
伯父の下で神社に関わる仕事をしていたからだ。
神社の歴史や地域の由緒については、自分よりもよほど詳しかったはず。
もしかすると――今の自分と同じように、「カゲヌシ」について調べていたのかもしれない。
仮にそうだとしても、なぜ父がそんなことを知ろうとしたのか。
あの事故は、本当にただの不運だったのか。
伯父や義兄の言うように、何か別の“力”が働いていたのか。
文菜の体験や、あの男の語った出来事……それらを思い返すと、簡単には荒唐無稽と笑い飛ばせない気もする。
両親との記憶――思い出すのは、ごく普通の日常ばかりだ。
休日になると、三人で出かけていた。
近くの公園、寒霞渓、高松の水族館、岡山の動物園。
飴細工を買ってもらった帰り道、手がべたべたになって、父が笑いながら自分のハンカチで拭いてくれたこと。
母の作った弁当が少ししょっぱくて、けれど「おいしい」と言ったら嬉しそうに笑ってくれたこと。
家では一緒にテレビを観て、ゲームをして笑い合った。
義兄もよく一緒だった。夏の海で浮き輪を取り合い、網を持って虫を追いかけ、夕焼けの帰り道を競争した。
あの頃は、毎日が当たり前のように、ずっと続くものだと思っていた。
でも――あの日から、全てが一変した。
事故の後、自分は伯父の家に引き取られた。
思い出の詰まった家は、しばらくして取り壊されていた。
瓦礫の山の中に、父と一緒に入った風呂場の浴槽が、むき出しで横たわっていた。
「ただいま」
と言って玄関を開ければ、母が出迎えてくれていた家。
もう本当に、帰る場所はなくなったのだと、静かに思った。
友達と遊ぶこともなくなった。
何をしていても、心がそこになかった。
両親との思い出を思い返そうとしても、途中でふっと切れてしまうことがあった。
遊んでいたはずなのに、景色が出てこない。声も、音も。
思い出そうとするほど、その先に霞がかかっている気がして。
伯父も伯母も、優しかったと思う。責められたことは一度もなかったし、生活に不自由もなかった。
けれど、自分の中でその家は、ずっと「仮の場所」だった。
誰かが用意してくれた、安全で静かな箱。
でも、本当の自分は、そこにはいなかった。
思い出の中に両親の影を追いかけて過ごしていた時、心の奥にふと浮かんでくる違和感があった。
――自分には、小さい頃の記憶がほとんどない。
両親と過ごした日々の断片はある。
けれど、それ以前――小学校低学年の頃や、幼稚園の記憶は、霞がかかったように曖昧だった。
どうして覚えていないのか、考えても答えは出なかった。
けれど、どこかに「違うもの」が混じっているような気がして、記憶の奥をのぞくのが怖かった。
そうして少しずつ、自分の輪郭がわからなくなっていった。
自分は、本当にこの家の子どもだったのか。
この島に、自分の居場所はあるのか。
誰も責めていないのに、自分だけが、ずっと他人のふりをしているような気がした。
そんな自分に、昔と変わらず接してくれていたのは、義兄だけだった。
黙って部屋にこもっていた自分を、何も言わずにドライブに誘ってくれたことがあった。免許取りたての義兄は、緊張しながら、
「お前が、俺の運転する車に乗った第一号だ」
と、冗談めかして笑っていた。
あの頃のように、変わらぬ距離感で話しかけ、さりげなく気にかけてくれた。
そのことに、何度も救われた。けれど、感謝の言葉さえ、どう伝えればいいかわからなかった。
空を見上げながら、両親や、もう一人の“自分”に語りかけていた。
天国でも空はあるのだろうか?
何で自分だけ生きているのか?
自分はどうしてここにいるのか?
広くて、どこまでも続いている空。
時に青く、白く、黄色く、赤く、黒く、色んな表情を空でさえ見せてくれるのに、自分の心は灰色のまま。
それでも、自分の色を取り戻せる場所を探していた。
知らない街。見たことのない景色。触れたことのない空気。
きっと、この世界のどこかに、本当の自分の居場所がある気がしていた。
線香の先が赤く輝き、灰が風に煽られた。
スマホを取り出すと、時刻は6時半を少し回っていた。文菜との待ち合わせまで、まだ30分ほどある。ここから、文菜の実家までは車で5分もかからない。
「……なあ、父さん、母さん、何か知ってるなら、夢でもいいから教えてくれよ……」
ゆらゆらと宙を彷徨うトンボが一匹墓石の上に止まる。
スーッと草が擦れる音がして、トンボは羽をふるわせ舞い上がった。
携帯灰皿に煙草を入れてパチンと口を閉じ、口元からゆっくりと煙を吐き出した。
「また、明日来るよ」
墓石に背を向け、静かに歩き出す。
遠くで蝉の鳴き声が重なり合い、夏の朝の空気に揺れていた。
駐車場へと続く坂道を下る。
雲の切れ間から、まだらに顔を出している青空。
遥か頭上を、二羽の大きな鳥が風を切りながら通り過ぎていく。
サーッと葉を揺らしながら斜面を上ってきた風が、ふいに過去の映像を連れてきた。
――窓の外で木の葉が一枚、風に吹かれて揺れていた。
図書室の時計の針が、小さく音を立てる。
「諒くん」
やさしげな声に本から視線を上げる。
文菜は、自分の読んでいた本で顔を半分隠しながら、目だけこちらを覗かせていた。
「私のこと、ちょっと変って思ってるでしょ」
「うん、まあ」
すると、文菜はすっと本で顔をすっぽり覆った。
「うれしい」
小さく、微かな声が、本の向こうから聞こえた。
そのまま、くすっと肩を揺らして笑い出す。
「諒くんだって。変だよ」
「どこが?」
文菜は本を少しずらして、また目を覗かせた。
「だって、私のこと変って思ってるから」
その瞳が、やわらかく笑っていた。――
こんな時でも文菜の面影が襲ってくる。
こぼれた笑みを噛みしめながら歩く。
話し声に釣られて目をやると、前方から親子連れが坂道を上ってきていた。
両親に挟まれて歩く、帽子をかぶった小学生くらいの男の子。
両手を引かれながら、交互に親の顔を見上げては、楽しげに笑っている。
父親も母親も、ゆっくりと話しながら、その笑顔に応えるように微笑んでいた。
その先には、年配の夫婦と思しき男女が見えた。
髪をまとめ上げている女性は花束を抱え、白髪交じりの男性は柄杓が入った桶を手にしていた。
軽く会釈をして通り過ぎる。
早朝にもかかわらず、意外に多くの人が墓参りに訪れていることに驚いた。
駐車場の端に差しかかったとき、自分の車の傍に、一人の女性が背を向けて立っているのが見えた。
肩まで伸びた髪は艶やかに揺れ、動きにあわせてジャケットの裾が軽くはためく。細身のパンツスタイルに、足元は華奢なピンヒール。
記憶の糸をたどるが、見知った人物ではないようだ。
周りには誰もいない。駐車場に止まっている車は、自分の車を含めて三台。
用心するように、足音を潜めて進む。
こちらの気配を察したのか、女性がゆっくりと振り返る。
眼鏡越しに見えた瞳が、朝の光を受けて妖しく瞬いたような気がした。
年齢は、二十代後半から三十代前半か。
年齢よりも、何か別の“深み”が輪郭から感じ取れた。
彼女は運転席を塞ぐように立っている。
必然的に、傍を通らざるを得ない。
「おはようございます」
静かで、どこか余裕のある声。
島のイントネーションとは明らかに違う、けれど不自然ではない。
ただ心が伴っていない――
表面だけをなぞったような、空虚な響きがあった。
「……おはようございます」
わずかに眉をひそめながらも、礼儀として応じる。
女性は一歩、間を詰めて、口元に笑みを浮かべた。
「ねえ、バス停まで……送ってくれたりする?」
唐突な頼みに、一瞬返答に詰まる。近くにバス停があることは知っている。
送るほどの距離ではない。
「すぐ近くにありますよ」
女性は唇をゆるめ、ひときわ含みのある笑みを浮かべた。
「ふふ……慎重さん。……そうか、彼女に遠慮してるの?……かな」
顔を背け、流し目のような視線を送ってくる。
思わず視線を逸らす。
彼女?……文菜の事を知っている?
「さあ、良く分かりませんが……」
努めて平静を装い、軽く会釈して車のドアロックを解除する。
ドアに手をかけた瞬間。
脇からそっと手首を取られた。その触れ方は驚くほど柔らかく、だが意志のある静かな力が宿っていた。
「いい感じ、そんなに警戒しなくても……いいんだけどな」
低く囁く声が耳にかかる。
吐息混じりの声には妙な親密さがあり、同時に、独特な香水の匂いがふわりと鼻をかすめた。
香りは甘いのに、後味だけひどく苦い。
どこか異国めいていて、一度嗅いだら良くも悪くも印象に残る。
そして、俺の顔の前に、真っ赤なマニュキアの指先に挟まれた名刺が突き出される。
「送らなくてもいいから……連絡して」
そのまま無視して車に乗り込もうとした、その時。
「私ね、彼女の力になれるんだよね……きっと」
唐突な言葉に、指先がドアノブから離れた。
ゆっくりと女性の方を向いた。
眉を上げ微笑む。その表情からは、まるでこっちの行動を読んでいるような余裕すら感じる。
その瞳は目が合っているのに、合っていない気がする。
焦点がぼけているというか、俺ではない何かを見ているようなそんな目。
そして、首を傾げながら、もう一度名刺を突き出してきた。
その仕草も、どこか芝居じみていて、演技であることすら計算に入れているようだ。
「……あなたは?」
「どうぞ……」
淡々とした口調。
目の前の名刺に視線を移す。
肩書きはない。
ただ一行の名前。
電話番号とメールアドレスだけが記されていた。
――飛田五月。
ただ、黒々と印刷された名前が、不釣り合いなほど真っ直ぐに、名刺の中央に浮かび上がっていた。
「肩書がないですが?」
「私には……必要ないの」
名刺を口元に当て、微笑む。伏し目がちに、睫毛がわずかに揺れた。
「飛田さん……そのどういう意味でしょう?その彼女の力になれるというのは?」
「あら、彼女の事になると一生懸命なんだ。かわいい」
「いけませんか?」
少し語気を強めると、彼女は唇の端に艶めいた笑みを浮かべた。
品よく、しかしどこか挑発的に。
「いいわ。ただ……妬いちゃうわ。フフフ」
唇の端に艶めいた笑みを浮かべながら、こちらを値踏みするように見つめてくる。
「それはご勝手に」
「私……あなたにも興味があるの……香取諒……くん」
背筋に冷たいものが走る。名乗った覚えはない。
なのに、彼女は当然のようにフルネームを口にした。
彼女はすっと近寄り、手を添えるように名刺を俺の胸に押し当ててくる。
その動きは滑らかで、拒絶する隙すら与えられなかった。
「受けとってくれる?名刺。落ちちゃうから」
彼女の冷たい手の感触が布越しに伝わる。
その手の下に自分の手を添えると、彼女の手が胸から離れ、名刺が俺の掌に落ちた。
「フフ。それから五月でいいわ。私たち――話すことになるって、ずっと思ってたの…………連絡、待ってる。できれば――早めにね、諒くん」
そして、そのまま踵を返すと、ジャケットの背をひるがえし、カツカツとヒールを打ち付け、軽やかな足取りで坂道を上っていく。
揺れる髪と黒い布地が淡い光に溶け、輪郭だけが次第に薄れていく。
まるで現実の縁を踏み越えて、別の次元へと戻っていくようだった。
ため息をつきながら、運転席に滑り込む。
もう一度名刺に目をやると、紙面からほんの微かに、さっきの香水の匂いが立ちのぼった。
深く息を吐き、名刺を鞄の中にしまう。
ハンドルを指先で軽く叩くリズムに、思考が絡まる。
文菜の“力になれる”とはどういう意味なのか。
力になる必要があるような何かが、文菜にあるというのか?
それとも――あの封筒の中身と、関係が?
そして、なぜ五月は、俺の名前を知っていたのか。
五月のあの目、どこかで見たことあったような気がする……どこだった?
そもそも、あの名前……「飛田五月」それ自体、どこか嘘くさい。
考えは、まとまらないまま、ギアをドライブに入れる。
アクセルを踏むと、タイヤがゆっくりと朝の空気をかき分けて動き出した。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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