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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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御朱印と跳ね毛

挿絵(By みてみん)

7月31日月曜日

それからというもの、あきが磐座のお清めをしていると、あの長髪の男性と出くわすようになった。

挨拶を交わし、二言三言、何の変哲もない会話を交わす程度で、男性の行動には特に変わった様子はなかった。ただ、境内を歩き回り、決まって磐座の前でまるで、そこにある「何か」に語りかけているかのように。

散歩がてらにお参りなのか、お参りがてらに散歩なのか、いずれにせよ、日課のように訪れる近所のお爺ちゃんお婆ちゃんは多い。

夏休みのせいか、今日も参拝客は多い方だった。

とはいえ、御朱印を貰いに来たのは十組ほどで、家族連れや女子旅の二人組、一人旅の男性など。

御朱印帳を預かり、ページを捲るとき、否が応でも一つ前の神社仏閣の御朱印が目に入る。

大体は夕凪島のものだが、出雲大社や金毘羅さん、時には知らない神社やお寺のものもある。

どの御朱印にも個性があり、筆致や構成にその神社仏閣の“気”のようなものを感じる。それを読み取るのも、密かな楽しみになっている。

その中で、ひときわ異彩を放つ御朱印が目に留まった。

「この隣に書いてくれますか?」

白髪交じりのお爺さんが差し出した御朱印手帳には「三宝神社」と書いてある。

さんほう、さんぽう、何と読むのか分からなかったけど、その御朱印は印判の朱肉が混ざったのか、少し赤黒い墨で書かれていて、筆使いは荒々しく威圧的な太い文字で、何となく不気味な感じがした。

それと、自分には到底真似できない独特な書体で印象に残った。

私は、ゆっくり息を吐き、姿勢を正すと、細筆でサラサラと御朱印を書き上げる。

今日もいい出来。

丁寧に御朱印帳を開いたまま返す。

「どうぞ、御朱印になります」

「これは凄い、君の筆使いは麗筆だね……見ていて心地良い。ありがとうお嬢さん」

お爺さんは優しげな眼差しを向けてくれた。

その瞳は穏やかで、まるで何か大切なものを思い出しているようでもあった。

「どういたしまして」

「うん、実に宜しい」

お爺さんは見開きの二つの御朱印をじっと見比べ、満足気に何度も頷く。

「……この対比は……あいつにも見せてやろう」

小さく呟くように言葉を漏らすと、使い古された肩掛け鞄に帳面をそっと仕舞い、一礼して去っていった。

昼に近づくにつれて参拝客の姿もまばらになり、気になっていた「三宝神社」をスマホで調べようとしていると、宮司から声をかけられた。

「大事な来客があるから、座敷の準備をお願いできるかな」

「お部屋の準備って、どうしたらいいんですか?」

不安を口にすると、宮司さんはうちわをパタパタと仰ぎながら、のんびりと笑う。

「大丈夫さ、いつも通りに掃除をしてくれればそれでいいんだよ」

座敷は細長い平屋の社務所の一番奥にある。

事務所の入口とは別に廊下の先に玄関があって、その脇の部屋が座敷で、宮司がお客さんを迎える時に使っている。

畳敷きの八畳間に縁側が付いた、日当たりのいい空間。

襖を開けると、すでにエアコンが入っていて、廊下よりひんやりしている。

窓ガラスが作り出した陽だまりで、宮司の飼い猫のモモが丸くなっていた。

気配に気付いたのか、小さく鳴いて伸びをすると、廊下の方へスタスタと歩いて姿を消した。

座敷の中央には大きな木製のテーブルが一つあるだけ。

言われた通りに掃除を始める。

エアコンをつけたまま窓を開けると、むっとした熱気が顔を包んだ。

毎日誰かしら掃除をしている筈だから、特に目立った汚れはない。

最後に座布団を対面に敷き、私は手をパンパンとはたいた。

「よし、いいんじゃない」

窓を閉め終わったとき、ふと床の間の掛け軸に目が留まった。

「わぁー素敵」

思わず声が漏れてしまう。

それは古ぼけたものだが、不思議と引き込まれるような魅力を感じた。

描かれているのは、着物姿の美しい女性。

扇子を手にしており、舞を踊っている最中なのだろうと想像できた。

だが、それ以上に目を引いたのは女性の表情。

どこか寂しげで、切なさを帯びているように見える。

「やあ」

ビクッと小さく体が跳ねる。突然、背後背後から声をかけられて振り返る。

見知らぬ男性が腕組みをして静かに私を見つめていた。

年齢は20代?身長は170cmくらい、細身の体型で整った顔立ち。

イケメンだが、何より目を引いたのは肩まで伸びた長髪。

ところどころ癖があり、外にはねた毛先が印象的。

服装は黒いカーゴパンツと赤いボタンシャツ。どちらもくしゃくしゃにしわが寄っている。

まるで時間の中に取り残されたような、不思議な雰囲気を漂わせていた。

「こんにちは」

男の人にしては声のトーンが高い。

「あっ、はい、こんにちは……あのぉ、失礼ですけど……」

戸惑いながらも、恐る恐る見上げた彼の瞳は、鳶色で柔らかく優しい光を湛え、どこか懐かしいようなぬくもりを感じさせた。

けれど、その視線に引き込まれたのは一瞬のことで、すぐに目を逸らしてしまった。

「その掛け軸が気になるのかい?」

まるで、自分の心の中を見透かされているような気がして胸がドキリとする。返答に詰まっていると、

「僕は……宮司の親戚だよ、夏休みでね遊びに来てるんだ、でどうなんだい?」

また、心を覗かれた様な気がした。

「はい……その掛け軸の絵がとても素敵だなと思って」

俯いたまま答え、上目遣いに様子を見ると、彼は身を屈めて顔を近づけてきた。

鼻先が触れそうなくらいの距離。

真っ直ぐに私を見つめてくるその目に、思わず身をすくめてしまう。

すると、彼はニコリと笑って姿勢を戻し、掛け軸を指さした。

「この絵はね、昔この辺りに住んでいた女性を描いたものなんだよ、掛け軸のタイトルはね……あれ?なんだったけ?」

拳で額をトントンと叩くその仕草が、どこか微笑ましくて少し笑ってしまう。

でも、実在のモデルがいるんだ……

歴史の教科書に載っていた絵は、どれも表情が乏しかった気がする。

それに比べて、目の前のこの絵は墨で描かれているのに、表情の細やかさが伝わってくる不思議な感覚。

漫画のようにも見えなくはない。

「あの、その人はどんな人だったんですか?」

「ん?」

彼は拳を額に当てたまま、少し間を置いてから言った。

「そうだね……とても優しくて思いやりのある人だったけど、同時にとても強い意志を持った女性だったよ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、何故か顔が赤くなる。

絵の中の女性の話なのに、自分のことのように思えてしまう。

「君は、この女性に似ているかもしれないな」

「えっ?」

思わず彼を見ると、真っ直ぐ掛け軸を見つめている。

「うん、君の瞳を見てそう思ったんだ。彼女の目は真っ直ぐで曇りのない綺麗な目をしていたからね」

胸がまたチクリとした。嬉しさと照れくささが入り混じる。

でも、悪い気はしない。むしろ、心の奥が少しだけ温かくなる。

つられる様に掛け軸を見た。

自分の事を褒められているような気がして、思わず笑みが零れ肩をすくめた。

そんな感情を凍り付かせる言葉が、彼の口から紡がれる。

「僕はね、君が生まれるずっと前からこの場所で暮らしているから、君の事も知っているんだよ」

「え……?」

背筋がゾクゾクとする。

少し身を引いて彼の横顔を見上げる。

視線に気づいているはずなのに、彼は一点を見つめたまま動かない。

知っているって、何を知っているの?

全てを見透かされているような気がしてならない。

「あなたは、一体誰なんですか?どうして、私の事を知っているんですか?」

呼吸を整えて尋ねたつもりでも、自然と声は震えていた。

すると彼は少し俯いて、そして天井を見上げる。

「僕は、そうだな……君の欠片を埋める者……」

それ以上は何も語らなかった。

「君の欠片を埋める者」ってどういう事だろう?

彼が放ったゆったりとした物言いが頭の中で反芻される。

天を仰いだままの彼に質問しようとした時、

あきちゃん」

遠くから宮司の呼ぶ声がした。

彼はくるりとこっちを向いてニコリと笑うと、どうぞと言わんばかりに黙って手を差し出した。

私は、お辞儀をして座敷を後にした。

あの人の事を聞いてみよう。

そんな気持ちに突き動かされるように、軋む廊下を足早に宮司の元に向かう。

「どう?掃除は終わったかい?」

宮司はデスクの椅子に座り、雑誌を読みながら、うちわを扇いでいる。

「はい、でも…」

「ん?」

首を傾げる宮司に、今さっき座敷で会った男性の話をする。

「ん?ああ、あいつか……またか……あいつはいつも……」

あいつ……という事は知り合いの人だったんだ。

宮司は顎に手を当てて考え込んでいる様子だったが、やがてハッと我に返ると、うちわを扇ぎ始めた。

「まあ、いいか。それよりもあきちゃん、もう一つ頼み事があるんだが……いいかな?」

「はい、なんでしょうか」

「これをね、出してきて欲しいんだ」

宮司はデスクの上に目をやると、指先でそっと一枚の茶封筒を滑らせて差し出した。

「分かりました」

封筒を両手で受け取ると、宮司はふっと笑って、

「ありがとう。助かるよ」

手にしたうちわで自分の顔をぱたぱたと扇ぎながら、親指と人差し指でオーケーのジェスチャーを作ってみせた。

その茶目っ気たっぷりの笑顔に、思わず笑みを返す。

「こんちは」

その時、玄関の方から男性の声がする。

「おっ、来たか……相変わらず時間より早いな」

宮司は腕時計をチラッと見て、ニヤっと笑う。

「おーい弓削ゆげ、おらんのか!」

男性が声を張り上げる。

「畑、座敷に上がってくれ」

それに負けじと宮司も大きな声で応える。

「ほんなら、邪魔するよ」

「おう、今行く。じゃああきちゃん、今日は上がっていいよ。それからそれお願いね」

宮司は椅子から立ち上がると、私の肩を軽く叩いて座敷へと向かった。

事務所の壁にかかる時計は、もうすぐ11時を指そうとしていた。

普段より一時間早いけど、更衣室へ向かう。

ロッカーを開けて、束ねた髪を解き、装束を脱いで丁寧に畳んで棚に置く。

ジーンズを取り出して足を通し、Tシャツを頭からすっぽりかぶった。

その視界が一瞬、布に包まれて閉ざされたとき――

さっきの男の言葉が脳裏をよぎった。

「僕は、そうだな君の欠片を埋める者…」

欠片……どういう意味なんだろう?

そして嘘か本当か、私の事を知っている様な口ぶりだった。

突然そんなことを言われて戸惑ったけど、なぜだか嫌な感じはしなかった。

むしろ、あの鳶色の穏やかな瞳で見つめられた時、胸の奥が小さくチクリと痛んだ。

「……変なの」

思い返した今も、同じように胸の奥がうずく。

まるで忘れていた感情の扉が、そっとノックされたような、そんな感覚。

Tシャツの首元に手を入れ、内側に巻き込まれていた髪をつまみ出す。

そう言えば、あの人どこに行ったのかな?

「……まぁ、また会えるよね。その時にちゃんと、聞いてみよう」

大きく息を吐いて、ロッカーの扉をガチャンと閉める。

事務所には誰もおらず「お先に失礼します」と声に出し後にした。

外に出でると、もわっとした蒸し暑さが身体を包む。

蝉の鳴き声が四方から聞こえるだけで人気のない境内。

陽射しに照らされて白く光る石畳を進み、楼門をくぐって振り返り、お辞儀をした。

まっすぐ伸びる参道を歩く。距離にしておよそ百メートル。

食堂の方から、香ばしい匂いが漂ってきた。

「お腹空いた」

今日の昼ご飯は素麺だと、母親が言っていたのを思い出した。

夕凪島の素麺は特産品で。ツルツルしていて喉越しも良く、みずみずしくて、いくらでも食べれてしまう大好物。

参道を抜けて川に突き当たる、左に曲がり川に沿って歩く。

暑さも影響しているのか、元々人通りは少ないけど、人っ子一人いない。

そうだ、あの神社の事を調べよう。

ところが、スマホで検索してみるが出てこない。

あれ?間違えたかな?

もう一度「三宝神社」と打ち込む。

やはり出てこない。スクロールしてもページを進めても見当たらない。

有名じゃないのかもしれない。

そう自分を納得させるように理由をつけ、スマホをポケットにしまった。

やがて県道にぶつかり右に曲がり橋を渡る。

その先にある福田港のフェリーターミナルに、郵便ポストはある。

手に持っている封筒の宛先は東京。

宛名は香取諒と、宮司の達筆でそう書かれていた。

習字をしているから、文字を書くのは好き。

だけど手紙を書いたことってあったかな?

あっ、そういえば――

幼稚園の頃に島を離れた友達と、手紙の遣り取りをしたことがあった。

結局、いつだったか覚えてないけど、文通は自然に終わっていた。

母の話では、送った手紙が転居先不明で戻って来たらしい。

こっちの住所を知っている友達からも、手紙が来ることはなく、疎遠になっていった。

今ならスマホも使えるから音信不通になる事はなかったかもしれない。

それにしても、メッセージアプリを使えばいいのに、今どき手紙?

そんな疑問を抱きながらも、封筒をポストの投入口に押し込んだ。

ポストに背を向け、足を一歩踏み出した、その瞬間だった。

香取諒――

封筒の宛名の名前がふっと頭の中に浮かんだ。

どこかで聞いたことある……いや、見たことが……

グーッとお腹が鳴る。

「……あー、もう、お腹すいた……」

記憶の奥を探ろうとしていた意識は、空腹の波にあっさりとさらわれていった。

歩道を歩いていると福田港にフェリーが到着したようで、車が次と次と追い越して行く。

小さい頃は、とても高く思えた防波堤の向こうに広がる瀬戸内海は、今日も凪いでいて青い空に負けないくらいの深い青。

その景色を眺めながら、両手を広げ、大きく息を吸い込む。潮の香りが胸いっぱいに満ちていった。

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