いつまにか
玄関の扉を開けると、焼酎と焼き魚の匂いが鼻をくすぐった。
奥の居間からは、伯父の低い笑い声と、それに応じる伯母の穏やかな声。
テレビの音がかすかに混じっている。
「おかえり、諒くん」
伯母の声に軽く頷き、靴を脱ぐ。
居間の戸口に顔を出すと、伯父が湯呑みを片手に振り返った。
「一緒にどうだ」
諒は卓上の肴に目をやりながら、軽く笑って首を振った。
「風呂、先にいただきます」
風呂で軽く汗を流し、湯気をまとって自室へ戻った。
髪をタオルで拭きながら、静かに自室のドアを閉める。
この家に帰ってきても、何かが満ち足りるわけではないし、期待している訳でもない。
ベッドの縁に腰を下ろし、しばし黙考する。
明日は神舞の撮影の日。
今年は祭りの本番に帰ってこられなかったぶん、ぜひ見届けたいと思った。
撮影は午前中で終わるだろうか。
できれば午後には、“こうたろう”という男の子の家を訪ねてみたい。
文菜に送られた写真の謎は、ひとまず解けたと言っていい。
写っていたのは、彼女の祖母――珠代。
なぜ、それが文菜に届いたのか、送られた意図は未だ霧の中だが、それでも、着実に前進している感触があった。
スマホの通知履歴を確認する。
男と安居からの連絡はまだ入っていない。
ひとつ息を吐き、背中からベッドに倒れ込む。
手枕をして、無意識に天井をぼんやりと見つめていた。
記憶のスクリーンに浮かぶのは、水色のワンピースを着た文菜の姿。
「変わってないな……」
いや、外見はずいぶん綺麗になった。華やかで、大人びて。
でも――
根っこの部分、不器用なほどまっすぐなところ。
あれは、変わらない。
まさか、初めてまともに会話した日に見た、あの無防備な表情を、自分の前で見せるとは思わなかった。
儚げで、けれど内にある何かと戦っている。心をそのまま晒すような。
でも必ず、そう必ず、最後はいつも笑っている。
意識的かどうかは関係なくて、文菜の場合、それはきっと、心を許してくれている証拠なのだと分かる。
信頼してくれている。
そして、それだけ想いがある。
頭では分かっている。
「なんでそこまで」
ぽつりと呟いて、身体を起こす。
窓を開け放つと、夜の風がカーテンを揺らしながら、部屋に流れ込んできた。
煙草に火を点け、ゆっくりと一口、煙を吸い込むと、潮の香りが混ざり合う。
島の空気だ。
どこにいても感じられる、海と風の匂い。
その香りが、過去の記憶を呼び覚ます。
「ここから見える景色、忘れないと思う」
そう言って、屋上の手すりに手をかけ、こちらを見上げて笑った文菜。
あの笑顔が、脳裏によみがえる。
目の前には、高校の三年間、毎日のように見続けた海と空と山。
「そういうものかな」
「うん、誰かが忘れても、私は忘れないよ」
風に揺れる文菜の髪。くすぐったそうに首を傾げ、唇にかかった髪を指でそっと払いのけた。
「まあ、毎日見てれば、いやでも覚えてるかもな」
「もう、そういうのじゃないんだよ」
手すりに腕を乗せ、そこに顔を預けた文菜は、少し口を尖らせながらも、どこか優しく言い聞かせるように呟いていた。
あの頃、自分には理解できない事を言っていた。当時の俺は、純粋に面白い事を言う子だと深く考える事はなかったし。文菜自身も何かを押しつけてくることは一度もなかった。それは今もそうだ。
あの会話の中には文菜が感じた何かが入っている。でも今は、何を見て、何を感じて、何を想って、文菜が、その言葉を紡いだのか。知りたいし、少し分かるような気がした。
きっと、あの時のニュアンスは自惚れでなければ、俺と一緒に見た景色だからじゃないかって。
夜行バスで会うまで忘れていた。
……いや、本当は忘れたふりをしていただけなのかもしれない。
思い出そうとしなかった。あの頃の記憶に蓋をして、触れずにいた。
それなのに――
八年経った今でも、思い出せば鮮明に甦る。
「……俺が、面倒なのかもな」
微かに聞こえる潮騒が、そっと返事をする。
知らず知らずのうちに、自分の腕を擦っていた。
文菜を抱き上げた時の細くてしなやかな身体の重み。
肌越しに伝わった温もり。ふわりと胸元にかかった髪の感触。
それらが、まだ自分の中に残っている気がして、ふと息を呑む。
文菜が目を開けた時の安堵感。心の底からホッとして、嬉しかった。
もし、目覚めなかったら……
馬鹿な思考を巻くように大きく煙を吐く。
それは、闇の中に白く漂い消えていった。
思えば――久しぶりに、あんなに穏やかに食事をした。
あの夕食の時間は、まるで、両親が生きていた、あの頃の団欒のようだった。
くだらない話に笑い、温かなご飯の湯気に目を細めていたあの頃。
ひとときだけ、何もかもを忘れられそうな気がした。
けれど、同時に思ってしまった。
そんな安らぎを、素直に受け入れてしまう自分に、少し戸惑っている――。
煙草の灰を灰皿に落とし、煙を吸う。
「見つかるといいね。諒くんが見たもの、私も一緒に見てみたい――」
文菜にそう言われたとき、心が大きく揺れた。
大げさに言えば、それは闇夜の中に見つけた灯台の明かりのようだった。
見えないときもあるけれど、確かにそこにあって、海原を行く船が路頭に迷わないように、道標となって導き、見守ってくれる。
たしかな灯。
あの頃も、そうだった。
知らず知らずのうちに、少しずつ染み込んでくる文菜の笑顔や表情、仕草、そして言葉。
一緒にいるとき、文菜はいつも寄り添ってくれていた。
今も変わらずに。
自分の過去や状況を文菜に話すべきかを、ずっと迷っている。
文菜自身もまた、当事者なのだから。
でも――言えなかった。いや、言わなかった。
自分に死がまとわりついている気がして――
「カゲヌシ」の正体が分からないうちは、話してはいけない。
けれど、どこかで、文菜なら受け止めてくれるのではないか、何かを見つけてくれるのではないかと。
気づかないうちに、そんなふうに思っている自分がいて――
だから今、迷っている。
「どうしたいんだろ……」
投げかけに応えるのは、潮騒だけ。
止むことのない穏やかな音に耳を傾け、目をつむる。
ブゥッ、ブゥッ……
スマホが震えた。
吸いかけの煙草を灰皿に置いて、スマホをポケットから取り出す。
ディスプレイに表示されている名前は意外なものだった。
『俊兄』
……義兄さん?
「もしもし」
「諒か、久しぶりだな」
義兄の声が電話のせいか、少しだけくぐもって聞こえる。
「ああ、義兄さん家を出たの?」
「……まあ、色々あってね…」
歯切れが悪い。
「……そう」
「親父から何か聞いたか?」
「……何かって?」
「……叔父……いや諒の両親について」
「え?聞いてないけど……何?」
「そうか……今から出れるか?」
「え、今……から?」
「電話じゃ話せない……30分後に内海の……あのファミレスでどうだ?」
あのというのは、よく義兄と二人で行っていた所だ。実際、内海町にファミレスは一件しかないのだが。
「……分かった」
「じゃあ……」
ツー……ツー……。
通話が切れる。
時刻は22時13分。
手早くメッセージを打つ。スマホを仕舞い掛けて、もう一件メッセージを打った。
煙草の火を消し、窓を閉めると鞄を抱えて部屋を出る。
伯父夫婦には、「友達に誘われた」とだけ告げた。
玄関を一歩踏み出すと、静けさの中に、潮騒だけが響いていた。
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