思わぬ再会
山肌を吹き上がってきた風が、前を進む文菜のワンピースの裾を弄ぶ。
そのたび、帽子を片手で押さえ、もう一方の手でふわりと裾を押さえながら、ゆっくりと階段を下りていく。
時折、振り返っては、こちらに笑みを見せる。
そのたび、胸の中に安心が広がるのを感じた。
……けれど、あの瞬間のことを思い出すと、今でも背筋に冷たいものが走る。
正直、心の底から焦った。
もし、あと一歩でも駆けつけるのが遅れていたら、文菜は、何の受け身も取れないまま、地面に頭を打っていたかもしれない。
意識を失い、膝から崩れ落ちた文菜を間一髪で抱きとめたときの感触が、まだ腕に残っている。
ぐったりとした身体は想像以上に重たくて、無抵抗に揺れる様子に胸が締めつけられた。
閉じた瞼の隙間から、わずかに覗いた白目を見た瞬間、ぞっとした。
何度も名前を呼び、頬を軽く叩いても、文菜は微動だにしない。
けれど、胸元に耳を当てると、ドクン、ドクンと確かな心音が聞こえた。
その鼓動に、張りつめていたものがふっとほどけ、思わずその場にへたり込みそうになった。
ほっとしたのも束の間。
この炎天下の下にとどまるわけにはいかない。
社がある所まで下りようと、文菜を抱え直して立ち上がった。
そのとき、肩に凭れた彼女の髪が揺れ、鼻先をくすぐるように、懐かしいシャンプーの香りがふっと立ちのぼった。
それを吸い込んだ瞬間、文菜の体温がじんわりと腕に伝わってくる。
柔らかく、しなやかで、思いのほか華奢で。
——息を呑んだ。
無垢な寝顔というにはあまりに儚く、どこか遠くを彷徨っているようなその表情。
ただ、文菜が何の抵抗もなく、自分の腕の中で身を委ねているということが、どこか、不思議で、痛いほどに愛おしかった。
岩場の手前まで歩いたところで、腕に圧し掛かる重みがフッと和らぐ。
文菜のまつげがピクリと震え、ゆっくりと瞼が開いていく。
光を探すように、パチパチと何度も瞬きをしているのが、どこか幼くてかわいらしかった。
思わず笑みがこぼれそうになり、そして心の底から、ほっと胸を撫で下ろした。
肌を刺すような陽射しは、相変わらずだが、木々がそよぐ音はどこか幾分大きくなった気がする。
前を行く文菜は、相変わらず風と戯れている。
そして、階段の最後の一段を、ぴょんと跳ねるように下りた。
「着いたー」
万歳をするように両手を挙げ、ストンと落とした。
文菜の明るい声色に、つくづくホッとした。
「どう?調子は?」
「うん、平気、ありがとう」
文菜は小さく頷きながら、後ろ手に手を組んで微笑んだ。
その仕草が、どこか照れくさそうで愛らしい。
ちょうど、その時、文菜の背後にある駐車場に一台の車が入って来た。
ふたりで車に向かって並んで歩いていると、車のドアが開き、一人の男性が姿を現した。
眼鏡をかけ、髪は七三にきっちりと分けられている。上下ジャージ姿の、痩せた初老の男性。
「あれ?」
思わず洩れた声に、その男性がピクリと反応する。
すれ違いざま、ゆっくりとこちらを見上げ、俺と文菜の顔を交互に見比べた。
「……まことか?……それに文菜も……」
「畑先生!」
文菜がはじけるような声を上げた。
畑正信。高校三年生の時のクラスの担任で、日本史の教師だった。
生徒を苗字ではなく名前で呼ぶ、少し風変わりなところがあった。
そして俺の名前をいつも「まこと」と呼んでいた。
理由は甥が同じ字で「諒」と読む名前だったから。
「いやー、文菜とは去年も会ったけど、まこととは……卒業以来だな」
「ええ、まあ……先生、まことじゃなくて諒ですから」
「おっと、そうやったそうやった。すまんすまん。元気そうで何より……こんなとこでデートか?」
「え?……まあ……」
言葉を濁してこめかみを掻く。
ちらりと文菜を見ると、顔を赤らめ、恥ずかしそうに下唇を噛んでいた。
「先生は何をしてるんですか?」
「ん?先生は、ほらこの通り」
畑は両手を広げ、大げさなジェスチャーをして見せた。
何が「この通り」なのか分からず、俺は首をひねる。
隣を見ると、文菜も同じように不思議そうな顔で先生を見上げていた。
「わからんか、調べ物をしてるんだよ」
「調べもの?」
意味が掴めず、つい聞き返してしまう。
「そっか、諒くんは同窓会に来てなかったから知らないよね」
文菜が口を開く。
「先生ね、定年退職されたあと、島の歴史を研究されてるの」
「まあ、そんな大層な事はないけど、これが中々面白い」
畑は笑みを浮かべながら、楽しそうに目を細め、俺たちの顔を交互に見比べている。
「ということは……重岩を調べているんですか?」
「うん、あの巨石を誰がどうやって、あの山に上に運んだのか?……ということではなくて……」
畑は言いながら、重岩のある方向に目を向ける。
しばらく見上げたまま、ふっとこちらを振り返り、口元を綻ばせた。
「聞きたいか?」
声の調子は軽いが、視線だけで俺たちの様子をじっと窺っている。その瞳は、話す理由を探しているようにも見えた。――というより、話したくて仕方ないのだろうと思った。
「是非!」
俺より先に、文菜が勢いよく答える。
「うん、重岩もな磐座でね、大昔の人は万物に神宿ると信じていた。磐座は、その信仰の象徴と大切にされていたんだ」
「今の神社みたいな感じですか?」
文菜の質問に、畑は深く頷く。
「そうだな。神社ができる前の、もっと原始的な信仰のかたちとも言える。
それから時代が下るにつれて、磐座は日時計としても使われるようになった。
つまり、磐座が作り出す影によって、時間や季節の移り変わりを知ったという文献があるんだ」
「へー、そうなんですね」
文菜は目を丸くして感心している。
風で、あおられそうになる帽子を片手でそっと押さえていた。
「葦田八幡神社にも、磐座ありますよね?」
俺が思い出して言うと、畑は「お」と小さく声をあげて笑った。
「うん。あそこの磐座はな、昔は裏山の中腹にあったらしい。けど、ある災害で地滑りが起きて、今の場所に落ち着いたようだ」
「なるほど」
畑の話は意外と面白い。
けれど、それ以上に、文菜が食い入るように聞いているのが印象に残った。
「ん?お前たち、こんなに歴史に興味あったか?」
茶目っ気たっぷりに笑いながら、畑は眼鏡をクイッと持ち上げた。
たしかに、学生時代の俺は、歴史なんて教科書の中の話にしか思っていなかった。
「あ、先生のお話が面白くて、そうしたら、先生は島の磐座を調べてるんですか?」
文菜が優しく問いかけると、畑は満足そうに顎を引いて頷いた。
「そうだね。正確には磐座というより、結界と、百々楚姫について調べとるんだ」
「結界、ですか……」
心の中で、冥鬼の言葉がよみがえる。
――あのとき彼も、島にはいくつもの結界があると言っていた。
「うん、まあ、さすがに詳しい事は、お前たちでも話せないがな」
畑は胸を張りながら、得意げに眼鏡のブリッジをキュッと押し上げる。
「じゃあ、ももそ姫っていうのは何ですか?」
文菜が興味深げに問いかけると、畑は腕を組み、眉間に深く皺を寄せた。
「んー……そうだな。人知れず語り継がれてきた、儚くも美しい、一人の姫の伝説……そんなところか」
言葉を選ぶようにゆっくりと話しながら、ふと空を見上げる。
眼鏡越しにのぞく瞳は、どこか遠くを見るようでいて、同時に子どものような好奇心で輝いていた。
「ふーん」
文菜が小さく息を漏らす。
驚きでもなく、ただ胸の内でそっと何かを受け止めたような、そんな相槌だった。
「ああ、少し喋り過ぎたか……で、お前ら結婚まだなのか?」
「え?」
二人同時に反応してしまった。
俺も文菜も、動揺を隠せなかった。
隣で文菜がまばたきを一つし、少しだけ首をすくめたのが見える。
「だって、もう卒業してから何年だ?………まあ、今の時代、こだわる必要もないのか……それじゃあな」
畑は肩をすくめて苦笑し、何か照れ隠しのように、片手を上げて軽やかに歩き出した。
「……先生……なんだか、今の方が若々しくない?しかも楽しそう」
文菜がぽつりと呟く。見送るように目を細め、その背中に視線を重ねていた。
「……ああ、確かに」
俺も同じ気持ちだった。
あの頃よりも背筋が伸びて、言葉に力があって。
笑顔に迷いがない――
そう見えた。
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