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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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32/95

思わぬ再会

挿絵(By みてみん)

山肌を吹き上がってきた風が、前を進む文菜のワンピースの裾を弄ぶ。

そのたび、帽子を片手で押さえ、もう一方の手でふわりと裾を押さえながら、ゆっくりと階段を下りていく。

時折、振り返っては、こちらに笑みを見せる。

そのたび、胸の中に安心が広がるのを感じた。

……けれど、あの瞬間のことを思い出すと、今でも背筋に冷たいものが走る。

正直、心の底から焦った。

もし、あと一歩でも駆けつけるのが遅れていたら、文菜は、何の受け身も取れないまま、地面に頭を打っていたかもしれない。

意識を失い、膝から崩れ落ちた文菜を間一髪で抱きとめたときの感触が、まだ腕に残っている。

ぐったりとした身体は想像以上に重たくて、無抵抗に揺れる様子に胸が締めつけられた。

閉じた瞼の隙間から、わずかに覗いた白目を見た瞬間、ぞっとした。

何度も名前を呼び、頬を軽く叩いても、文菜は微動だにしない。

けれど、胸元に耳を当てると、ドクン、ドクンと確かな心音が聞こえた。

その鼓動に、張りつめていたものがふっとほどけ、思わずその場にへたり込みそうになった。

ほっとしたのも束の間。

この炎天下の下にとどまるわけにはいかない。

社がある所まで下りようと、文菜を抱え直して立ち上がった。

そのとき、肩に凭れた彼女の髪が揺れ、鼻先をくすぐるように、懐かしいシャンプーの香りがふっと立ちのぼった。

それを吸い込んだ瞬間、文菜の体温がじんわりと腕に伝わってくる。

柔らかく、しなやかで、思いのほか華奢で。

——息を呑んだ。

無垢な寝顔というにはあまりに儚く、どこか遠くを彷徨っているようなその表情。

ただ、文菜が何の抵抗もなく、自分の腕の中で身を委ねているということが、どこか、不思議で、痛いほどに愛おしかった。

岩場の手前まで歩いたところで、腕に圧し掛かる重みがフッと和らぐ。

文菜のまつげがピクリと震え、ゆっくりと瞼が開いていく。

光を探すように、パチパチと何度も瞬きをしているのが、どこか幼くてかわいらしかった。

思わず笑みがこぼれそうになり、そして心の底から、ほっと胸を撫で下ろした。

肌を刺すような陽射しは、相変わらずだが、木々がそよぐ音はどこか幾分大きくなった気がする。

前を行く文菜は、相変わらず風と戯れている。

そして、階段の最後の一段を、ぴょんと跳ねるように下りた。

「着いたー」

万歳をするように両手を挙げ、ストンと落とした。

文菜の明るい声色に、つくづくホッとした。

「どう?調子は?」

「うん、平気、ありがとう」

文菜は小さく頷きながら、後ろ手に手を組んで微笑んだ。

その仕草が、どこか照れくさそうで愛らしい。

ちょうど、その時、文菜の背後にある駐車場に一台の車が入って来た。

ふたりで車に向かって並んで歩いていると、車のドアが開き、一人の男性が姿を現した。

眼鏡をかけ、髪は七三にきっちりと分けられている。上下ジャージ姿の、痩せた初老の男性。

「あれ?」

思わず洩れた声に、その男性がピクリと反応する。

すれ違いざま、ゆっくりとこちらを見上げ、俺と文菜の顔を交互に見比べた。

「……まことか?……それに文菜も……」

「畑先生!」

文菜がはじけるような声を上げた。

畑正信。高校三年生の時のクラスの担任で、日本史の教師だった。

生徒を苗字ではなく名前で呼ぶ、少し風変わりなところがあった。

そして俺の名前をいつも「まこと」と呼んでいた。

理由は甥が同じ字で「まこと」と読む名前だったから。

「いやー、文菜とは去年も会ったけど、まこととは……卒業以来だな」

「ええ、まあ……先生、まことじゃなくてりょうですから」

「おっと、そうやったそうやった。すまんすまん。元気そうで何より……こんなとこでデートか?」

「え?……まあ……」

言葉を濁してこめかみを掻く。

ちらりと文菜を見ると、顔を赤らめ、恥ずかしそうに下唇を噛んでいた。

「先生は何をしてるんですか?」

「ん?先生は、ほらこの通り」

畑は両手を広げ、大げさなジェスチャーをして見せた。

何が「この通り」なのか分からず、俺は首をひねる。

隣を見ると、文菜も同じように不思議そうな顔で先生を見上げていた。

「わからんか、調べ物をしてるんだよ」

「調べもの?」

意味が掴めず、つい聞き返してしまう。

「そっか、諒くんは同窓会に来てなかったから知らないよね」

文菜が口を開く。

「先生ね、定年退職されたあと、島の歴史を研究されてるの」

「まあ、そんな大層な事はないけど、これが中々面白い」

畑は笑みを浮かべながら、楽しそうに目を細め、俺たちの顔を交互に見比べている。

「ということは……重岩を調べているんですか?」

「うん、あの巨石を誰がどうやって、あの山に上に運んだのか?……ということではなくて……」

畑は言いながら、重岩のある方向に目を向ける。

しばらく見上げたまま、ふっとこちらを振り返り、口元を綻ばせた。

「聞きたいか?」

声の調子は軽いが、視線だけで俺たちの様子をじっと窺っている。その瞳は、話す理由を探しているようにも見えた。――というより、話したくて仕方ないのだろうと思った。

「是非!」

俺より先に、文菜が勢いよく答える。

「うん、重岩もな磐座でね、大昔の人は万物に神宿ると信じていた。磐座は、その信仰の象徴と大切にされていたんだ」

「今の神社みたいな感じですか?」

文菜の質問に、畑は深く頷く。

「そうだな。神社ができる前の、もっと原始的な信仰のかたちとも言える。

それから時代が下るにつれて、磐座は日時計としても使われるようになった。

つまり、磐座が作り出す影によって、時間や季節の移り変わりを知ったという文献があるんだ」

「へー、そうなんですね」

文菜は目を丸くして感心している。

風で、あおられそうになる帽子を片手でそっと押さえていた。

「葦田八幡神社にも、磐座ありますよね?」

俺が思い出して言うと、畑は「お」と小さく声をあげて笑った。

「うん。あそこの磐座はな、昔は裏山の中腹にあったらしい。けど、ある災害で地滑りが起きて、今の場所に落ち着いたようだ」

「なるほど」

畑の話は意外と面白い。

けれど、それ以上に、文菜が食い入るように聞いているのが印象に残った。

「ん?お前たち、こんなに歴史に興味あったか?」

茶目っ気たっぷりに笑いながら、畑は眼鏡をクイッと持ち上げた。

たしかに、学生時代の俺は、歴史なんて教科書の中の話にしか思っていなかった。

「あ、先生のお話が面白くて、そうしたら、先生は島の磐座を調べてるんですか?」

文菜が優しく問いかけると、畑は満足そうに顎を引いて頷いた。

「そうだね。正確には磐座というより、結界と、百々楚姫ももそひめについて調べとるんだ」

「結界、ですか……」

心の中で、冥鬼の言葉がよみがえる。

――あのとき彼も、島にはいくつもの結界があると言っていた。

「うん、まあ、さすがに詳しい事は、お前たちでも話せないがな」

畑は胸を張りながら、得意げに眼鏡のブリッジをキュッと押し上げる。

「じゃあ、ももそ姫っていうのは何ですか?」

文菜が興味深げに問いかけると、畑は腕を組み、眉間に深く皺を寄せた。

「んー……そうだな。人知れず語り継がれてきた、儚くも美しい、一人の姫の伝説……そんなところか」

言葉を選ぶようにゆっくりと話しながら、ふと空を見上げる。

眼鏡越しにのぞく瞳は、どこか遠くを見るようでいて、同時に子どものような好奇心で輝いていた。

「ふーん」

文菜が小さく息を漏らす。

驚きでもなく、ただ胸の内でそっと何かを受け止めたような、そんな相槌だった。

「ああ、少し喋り過ぎたか……で、お前ら結婚まだなのか?」

「え?」

二人同時に反応してしまった。

俺も文菜も、動揺を隠せなかった。

隣で文菜がまばたきを一つし、少しだけ首をすくめたのが見える。

「だって、もう卒業してから何年だ?………まあ、今の時代、こだわる必要もないのか……それじゃあな」

畑は肩をすくめて苦笑し、何か照れ隠しのように、片手を上げて軽やかに歩き出した。

「……先生……なんだか、今の方が若々しくない?しかも楽しそう」

文菜がぽつりと呟く。見送るように目を細め、その背中に視線を重ねていた。

「……ああ、確かに」

俺も同じ気持ちだった。

あの頃よりも背筋が伸びて、言葉に力があって。

笑顔に迷いがない――

そう見えた。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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