夢……
―――「大丈夫……みよさん、大丈夫?」
知らない声が遠くで揺れていた。
薄く目を開けると、陽の光がやさしく差し込み、制服姿の男の子が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「うん、平気です。貧血だと思う」
「そうですか。立てますか?」
そう答えると、男の子はふっと安堵したように微笑み、手を差し伸べてきた。その手は思ったよりも華奢で、でもあたたかくて、包まれるような力強さがあった。
男の子に支えられながら立ち上がり、軽くスカートの裾を払う。
七三分けの整った髪型に、キリッとした細い印象的な目。その瞳の奥に、澄んだ光が宿っている。
「本当に大丈夫ですか?」
まっすぐ向けられた声に、小さくうなずいた。
「はい、ありがとう、こうたろうさん」
男の子は照れくさそうに視線を逸らす。
「じゃあ、もう一度撮りますよ」
「はい」
男の子は数歩後ずさって、小さな岩場の上にのぼる。
辺りを見回すと、どこか見覚えのある風景。
振り返ると、重岩がひっそりと佇んでいた。
――状況がよくわからない。
でも、心のどこかでなぜか懐かしい。――
「みよさん」
その声に胸がきゅっと熱くなる。反射的に振り向いた。
「はい」
「じゃあ、撮ります」
男の子は片手を上げてカメラを構えた。
前髪と三つ編みを整え、少し緊張しながらも、にっこりと微笑む。
「ハイ、チーズ」
カシャ、という軽いシャッターの音。
ジージーという機械音。
レンズの向こう、彼の視線が、どこか切なげに見えた。
「もう一枚だけ、撮ります」
「じゃあ……笑って……ハイ、チーズ」
再び、カシャ。
ジージー。
男の子は軽やかに岩場を降りてくる。
「現像したら、プレゼントします」
「楽しみにしてます」
その声に、男の子は嬉しそうに、照れくさそうに、手で後頭部をかいた。
「じゃあ、行きますか」
「もう少し、ここに居たい……」
鼓動が速い。
ボーッ。
遠くで船の警笛が鳴る。
男の子がすっと手を握ってきた。恥ずかしくて、顔を伏せる。
「船が通るから、一緒に見ましょう」
「はい……」
風がやさしく抜けていく。
男の子と並んで、海を見つめる。
眼下を、白い航跡を描いて、ゆっくり船が進んでいく。
男の子の横顔を覗きみる。口を真一文字に結びんでいた。
それがほどけた一瞬。
「みよさんが好きだー!」
突然、男の子が空に向かって叫んだ。
「こうたろうさん、大好きー!」
嬉しくて、声を張る。
温かいものが心から溢れている。
男の子と見つめ合って、思わず笑ってしまう。
そのまま、そっと両肩を包まれた。
鼓動が高鳴る。
優しい眼差しに見下ろされ、自然と目を閉じる。
息遣いが近づいてきて、
おでこに――柔らかい唇の感触。
そして、やさしく抱きしめられた。―――
……少しずつ、まぶたの向こうが明るくなっていく。
私、誰かの腕の中にいる……その感覚が、ぼんやりとした意識の中に浮かび上がる。
「ん……ん……」
微かに喉が震える。
ゆっくりと目を開けた、私の視界に真っ先に飛び込んできたのは――
諒の顔。
……近い。
驚いて、しばらく瞬きを繰り返す。
頭が重い。体も思うように動かない。
「え……私……?」
言葉がぽろりとこぼれると、諒の瞳が、安堵と驚きと、ほんの少しの困惑を滲ませて見つめている。
その瞬間、自分がどんな格好をしているのかに気づいて、顔が熱くなるのがわかった。
……私、いま……抱っこされてる……?
頬と耳が一気に熱を持つ。
動揺して手を動かすと、胸元に置かれていた麦わら帽子がふわりと落ちた。
「あっ…」
慌てて手を伸ばそうとすると、諒の腕にグッと力がこもり、体が引き寄せられる。
「キャッ!」
しがみつくように諒の服の胸元をギュッと掴む。
「危ないよ」
低くて、落ち着いた声が、耳元に響く。
「帽子は……あとで拾おう」
その瞳が、ふと私に向けられた。
触れる寸前でそっと逸らされたような視線。
そこには、何かを抑え込むような静けさが宿っていた。
「……うん」
胸の高鳴りをなだめるように、そっと手を重ねる。
鼓動が指先まで伝わってくる気がした。
「気分は?大丈夫?」
柔らかく包み込むような声に、視線を合わせるのが恥ずかしくて、ただそっと、小さく、小さく頷く。
「じゃあ、下ろすよ」
その言葉とともに、諒の腕の中から、そっと地面へ降ろされる。
まるで壊れ物を扱うような細やかな手つきで。
足の裏が地面に触れる。けれど、感覚はまだふわふわしていて、ほんの少し、身体がふらついた。
夢から醒めきれないみたいに、まだどこか現実感が遠い。
でも、目の前にいる諒の姿を見た瞬間、現実が一気に押し寄せてきた。
ハッとして、慌ててワンピースに視線を落とす。
しわになった布地を、両手でなぞるように整える。
胸元、裾、腰まわり……しっかり直したくて、つい手つきが焦ってしまう。
落ち着かない心を隠すように、前髪を指で梳き、まとめた髪も崩れていないかそっと手で触れる。
あたふたしている私を、諒は一言も口にせず、ただ静かに、あたたかい眼差しで見つめていた。
その沈黙が、優しくもあり、恥ずかしくもある。
「はい、これ……」
諒が拾ってくれた麦わら帽子を両手で受け取る。
指先が諒の指にかすかに触れた気がして、トクンと揺れる。
帽子を軽く押さえるように被る。でも、彼の顔を見ることはできなくて、視線は自然と足元へ落ちる。
頬が熱くなるのを感じながら、そっと両手の指を絡める。
「……あの……私……目の前がぐるぐるして、景色が歪んで……」
言葉を探しながら、ぽつぽつと話す。
でも、あの感覚をうまく説明できないもどかしさが残る。
「本当に、大丈夫? びっくりしたよ」
少し震えた声で、諒は覗き込んできた。
「うん……ごめんね」
うつむいたまま、かろうじて言葉を紡ぐ。
顔は上げられなかったけれど、それでもそっと目だけを動かして、諒の顔をうかがう。目が合った瞬間――諒の口元が、やわらかく緩んだ。
「……ほんとに、無事でよかった……」
溜め息交じりな、諒の声には安堵の余韻を含んでいた。
そして、一拍置いてから続いた「大丈夫で」という小さな呟きは、まるで諒自身に向けたもののように聞こえた。
私が見上げると、諒のまつ毛がわずかに震え、視線はどこか遠くを彷徨っていた。
……こんなふうに、心配してくれていたんだ。
胸の奥がほんわりと温かくなる。
「少し、そこで休もう」
諒が指差したのは、社の裏手――
大きな木がいくつか並び、木漏れ日がまだらに地面を染めている、
ささやかな木陰だった。
諒がタオルを敷いてくれて、私はそっと腰を下ろす。
まだ、頭の奥が重たくて、夢の余韻が残っているようだった。
差し出されたペットボトルを両手で受け取り、口をつける。
ひんやりとした水が喉を通るたび、ざわついていた心が、ほんの少し静かに波打つようだった。
「色々、ごめんね。ありがとう」
諒は、首を振って答えた。
「謝らなくていいよ、それより、気分はどう?」
「うん、大丈夫。たぶん……貧血か、軽い熱中症かな」
「無理は禁物。病院、行こう」
「……少し休めば、落ち着くと思う」
「本当に?」
その問いには答えず、私は静かに頷く。
心配してくれていることが、ただ嬉しくて。
けれど、病院に行くことで、この時間が終わってしまうような気がして――
それが、少しだけ怖かった。
「……ならいいけど」
通り抜けた風が地面の斑点を散らかしていく。
少しの沈黙のあと、ふと口を開いた。
「あのね……なんか、変なものを見たんだ…」
「変なもの?」
誰かの記憶の、思い出の断片のような、色も匂いも曖昧で、ぼんやりとした映像。
私はその奇妙な感覚を、ゆっくりと話していく。
うなずくたび、諒の前髪がそっと揺れる。言葉のすべてを逃さぬように、視線を逸らさずに。
「……なるほど。ここじゃさすがに落ち着かないな。車に戻ってから話そう」
「うん、そうだね」
「歩けそうか?」
「うん、ありがとう」
差し伸べられた手。
その大きな手を、私はそっと握り返した。
温もりが、指先からじんわりと広がる。
立ち上がり、一歩踏み出したそのとき、
ボーッ――。
遠くで鳴るフェリーの警笛が、枝葉を揺らす風に乗って届いた。
その響きが哀しそうで、音のした方を振り返る。
サーッと風が追い越していき、飛ばないように麦わら帽子を片手で押さえた。
「どうした?」
「ううん、何でもない、行こ…」
でも、どうしてだろう。
遠くで響いた警笛が、誰かが名前を呼ぶ声みたいに聞こえた――
風にかき消されるような、淡い声。
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