目にしたもの
7月29日土曜日
先日の二十五日の早朝、神社の境内で「影の男」を見てしまった。
黒いポロシャツにジーンズ姿のその男は、霧の中、磐座の前で胡坐をかき、両手を合わせて静かに座っていた。
こんな時間に珍しいなと思い、声をかけようと近づいていくと、足音か気配に気づいたのか、男はすっと立ち上がり、社殿横の裏山へと続く道を森の中へ入っていった。
気になって後を覗いたが、霧が濃くて、すでにその姿は見えなかった。
その出来事を父と母に話すと、「もしかして行方不明になっていた男性ではないか」と言われ、後日、地元の警察や新聞社がやって来て話を聞かれることになった。
私は見たままを伝えたつもりだったが、新聞の記事には、「男の背に黒い影がついていた」とか、「座ったまま姿を消した」とか、話してもいないことが書き加えられていて、正直うんざりしている。
幸い、記事には“神社関係者の話”としか書かれておらず、私が当事者だと知るのは、家族と、神社の宮司さん一家だけだ。
私、上名部聡は、神社で巫女のアルバイトをしている。
もともと巫女に興味があったわけではない。けれど、昨今の御朱印ブームの影響で、父の友人である宮司に習字の腕を買われ、強く頼まれて始めたのがきっかけだった。
「聡ちゃんに打ってつけだと思う。聡ちゃんじゃないとダメなんだよ」
まるで通販番組のセールストークのように、自信満々に美辞麗句をまくし立てられた。
正直、そこまで乗り気ではなかったけれど、自宅から近いというのが一番の決め手になって、引き受けることにした。
そして、初めて巫女装束に身を包んだ時、背筋に一本、すっと線が通ったような感覚があった。
もともと習字やピアノを習っていたこともあって、姿勢には自信があったが、それ以上に――装束をまとうことで自然と心が落ち着き、気持ちが引き締まるような気がした。
そんな経緯で始めたバイトだったが、気づけばもう一年が経つ。
予定がなければ土日は神社に入り、夏休みなどの長期休みには週四日ほど働いている。
出勤時間が朝の6時と早いのは難点だけど、業務の中心である掃除は嫌いではなかったし、何より、自分の書いた御朱印に参拝客が喜んでくれることが一番の励みだった。
始めた頃は、お手本通りの型にはまった文字しか書けなかった。
けれど、ある日宮司がこう言ってくれたのだ。
「神様に失礼がなければ、どんな書体でもいいよ。気持ちを込めて書いてさえくれれば」
その言葉に背中を押されて、少しずつ自分らしさを表現するようになった。
今では、「葦田八幡神社」と踊るように、波打つように、どこか笑っているような書体で筆を走らせている。
それが思いのほか評判となり、神社の御朱印を紹介する情報サイトに自分の書いた写真が載ったときには、思わず目を奪われてしまった。
だけど、私はネットの評判に浮かれることなく、日々の地道な作業を黙々とこなしていた。
その中でも特に大事にしているのが、朝一番に行う境内の隅の磐座の清めるというもの。
バイトを始めた当初、宮司からは「神域であるから」と立ち入りを禁じられていた。
けれど、今年に入ってから、彼はこう言った。
「聡ちゃん、この場所好きだよね」
それは確かに的を射ていた。
磐座が鎮座するその場所は、晴れた朝には木々の間から光が差し込み、風も心地よくて、そこにいると心が洗われるような気持ちになる。
それに、背丈の数倍もある大きな磐座は、デコボコしているのに、どこか茶饅頭のような可愛らしさがあって、私は気に入っていた。
素直に「はい」と答えると、宮司が直々にお清めの作法を施してくれた。それ以来、それは私にとって、神社での重要な仕事の一つになっている。
「時間はかかってもいいから、丁寧にね」
宮司のその言葉を胸に、聡は毎朝の清めに心を込めている。
作法は、少し変わっていて、けれどどこか愛おしいものだった。
毎朝6時、磐座の正面に立ち、「おはようございます」と一礼する。
次に磐座に向かって、左手で三回、塩を撒く。
塩は、専用の桐の容器に入ったもので、宮司が祝詞を捧げた清めの塩だ。
そのあと、磐座の周囲を時計回りに巡りながら、三か所に印のある場所で、それぞれ同じように三回ずつ塩を撒く。
正面に戻ると、「かしこみかしこみも申す」と唱え、コップ一杯の酒を磐座に向かって撒いて、お清めは終了する。
ちなみに、雨の日でもこの作法は欠かさないが、その際は宮司が代わって行ってくれている。
バイトに誘われた当初は尻込みしていたが、今では、自分の御朱印のことや、大切な仕事を任されているということ、そして何より、この神社の境内――静かで穏やかで、心が落ち着く空間――で働けることに感謝している。
それに、亡くなった祖父がこの場所で働いていたことも、私にとっては大きな誇りだった。
巫女の仕事を始めてか、毎年瀬田神社で行われる神舞に興味を持つようになった。
とくに今年の舞手を務めた先輩たちの見事な舞に感動して、自分もあんなふうに踊ってみたいと、ひそかに練習を始めている。
さっそく仲の良い友人を誘ってみたものの、反応はいまひとつだった。
お清めの準備をして社務所を出ると、境内は深い霧に包まれていた。
まるで、あの日と同じ――いや、それ以上に濃く、まるで音までも吸い込んでしまったかのように、あたりはしんと静まり返っている。
「おはようございます」
磐座の前に立ち、いつもの作法に則って清めを始める。
最後の言葉を言い終えた瞬間、霧の中を生ぬるい風がかすかに頬を撫でた。
ふいに、背後に人の気配を感じた。反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、50代くらいの男性だった。
白い半袖のワイシャツにジーンズというラフな格好で、じっと磐座を見つめている。
肩まで伸びた髪が風に揺れ、日焼けした肌に、印象的な大きな黒目がくっきりと浮かぶ。
あれ……? どこかで会ったことがあるような――
不思議な既視感が胸をよぎる。
「おはようございます」
挨拶をすると、男性はゆっくりとこちらに視線を移した。
少し驚いたように大きな目をさらに見開き、やがて目尻に優しい皺を浮かべて微笑んだ。
そして低く張りのある声で「おはよう」と返してくれた。
男性はにこにことしながら、私の隣に立つと、磐座を見つめ「綺麗だね」と言った。
その響きが、妙に胸に染み込んでいく。
声のトーンや言い方、それに込められた想いが、自分の中の何かを呼び覚ますようで――急に目頭が熱くなってきた。慌てて両手を胸に当てる。
(なに……どうしたの……?)
その時、男性が何か小さな声でつぶやき始めた。
それはまるで呪文のようで、さっきまでの活舌の良い話し方とは違い、もごもごとしていて、何を言っているのか聞き取れなかった。
けれど、ただならぬ気配だけは、はっきりと伝わってくる。
磐座に手を添えた男性の姿は、神聖そのもので――
言葉では説明できないけれど、「儀式」のようなものに見えた。
その場から動いてはいけない。
声をかけてはいけない。
そんな気がして、ただ黙って見守る。
不思議な呪文は抑揚をもち、旋律のように空気を震わせながら、しばらく続いた。
やがて男性は両手でリズムよく何かの形をいくつか作り、最後にそっと手を合わせる。
その姿は、まるでアニメで見た陰陽師のようで――でも、それよりもずっと現実的で、重みがあり、気がつけば息をするのも忘れて見惚れていた。
「君は、この場所が好きなんだね」
男性は、まっすぐ磐座を見つめたまま言った。
「はい」
そう答えると、男性は顔だけこちらに向け、嬉しそうに笑った。
「私もね、この場所が好きだよ。ここは、神様のいる場所なんだ」
「そうなんですか……」
どういう意味なのか、正直よく分からなかった。
神様って、神社の中にいるものだと思っていたから。
でも、この場所が好き――ただそれだけの共通点が、なぜか嬉しかった。
男性は再び磐座に向き直り、両手を合わせて静かに拝む。
そして、心なしか潤んだ瞳に笑顔を浮かべ、
「ありがとう」
と深々と頭を下げた。
その言葉の意味を理解する間もなく、男性は霧に包まれた境内を歩き出す。
つられるように、聡も頭を下げたまま――霧の中へと消えていく背中を、じっと見送った。
(ありがとうって……なんで……?)
霧の中に男性の姿が溶けて消えたあとも、心の奥では、その存在の気配、声やまなざしが、やさしく反芻され続けていた。。
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