見えているもの
伯父とは「橘屋」の前で別れた。
舗道に広がる午後の陽射しが、正面からじわりと肌を刺す。
諒の頭の中は、行きつく先のない螺旋階段を巡っている。
上っても下りてもいない。
かといって止まっている訳でもない。
ただ、延々と同じ景色を繰り返しているだけ――そんな錯覚に囚われていた。
正直、食事中に伯父と何を話していたのか覚えていない。
言葉を交わしたはずなのに、内容は風のように抜けていた。
代わりに、頭の中では、ずっと自問自答を繰り返している。
――「君って、有名人なのかもね」
冥鬼が放った一言が頭から離れない。
何気ない口ぶりだったが、その響きは胸の奥でじわじわと染み込み、ひどく静かに苛立たせた。
アムロ・レイみたいな、有名人ね…どういう界隈でだよ!
思わず皮肉めいた独白が浮かぶが、すぐに押し殺す。
笑い飛ばせるほど、気持ちは軽くなかった。
――カゲヌシ。
俺自身が事故に遭った時、うわごとのように口していたという。
それが一番の衝撃だった。
――羽代
養子になる前の俺の苗字。羽代諒…今となってはしっくりこない。それと、両親に掛ってきた謎の電話。羽代という苗字に何か曰くがありそうな気配がする。
ダメだ、さすがに、まだ整理がつかない。
散らばったジグソーパズルのピースを、指先で拾い集めるように、自分なりに調べを続けている。
けれど、まだどの一旦も組み上げられていない。
「ふー」
天に向かって大きく息を吐く。
空は高く、青く澄んでいる。
その中を、一羽の鳶が、ゆったりと弧を描きながら漂っていた。
橋の欄干に手を付いて川面を覗き込む。
そこに映った自分の顔は、ゆらゆらと揺れて、輪郭を保てずにいる。
まるで、自分自身の存在さえ、どこか曖昧に溶けていくかのように。
ふと、耳の奥で、文菜の声が蘇る。
「諒くん?何見てるの?」
「……ん?」
「この本の主人公さ、諒くんみたいだね」
「どこが?」
「教えない」
「は?」
「私だけが、知ってる」
「……ふーん」
「私は、知ってるよ」
俯いて笑った文菜の顔が、水面の淡い光の中で揺れていた。
ブゥッー……ブゥッー……
無機質な響きが現実に呼び戻す。
ポケットの中でスマホが震えている。
画面を見るまでもなく、誰からか察しがついた。
「もしもし」
「今、どこだ?」
「ああ、自宅の近所だけど」
「気になることがある、どこかで落ち合おう」
「こっちも聞きたいことがある。そっちは今どこ?」
「ここは、角銀醤油工場の近くだな」
「分かった。じゃあ内海町のドラッグストアで落ち合おう。そうだな40分後には行ける」
「人目に付かないか?」
「かえって、こそこそする方が目立つ。田舎じゃ、人気のない場所にいる方がよっぽど不審がられる」
「なるほどな」
通話を切った指先に、妙な冷たさが残った。
風の中に、また、文菜の声が滲む。
「昼間にも星はあるってこと?」
「そうだけど」
「目に見えてるものが、全てじゃないってことか」
「ん?どうしたの?」
「どうやったら、見えるかな」
「いやいや、だから説明したでしょ……」
「それでも。見てみたい。いつか……」
「……何を?」
「内緒……」
唇を尖らせて、囁いた。
俺は目を閉じて、深呼吸をする。
……目に見えているものが全てじゃない……それでも、見てみたい……か。
文菜の言葉が心にそっと触れて、そして静かに消えた。
「よし」
そっと瞼を開き、車の鍵を借りるため、駆け足で神社を目指した。
ドラッグストアの駐車場に停まった男の車。
その運転席の窓は、わずかに開いていた。
ドアを開けて乗り込むと、車内にはいつものように、タバコの煙が立ちこめていた。
灰皿には吸い殻が幾重にも折り重なり、まるで時間の堆積のようだった。
時計の針は、15時30分を過ぎた所だった。
「どっちから話す?」
男が、前を向いたまま短く言う。
「どっちでも」
「じゃあ俺から。例の赤黒い墨、鑑定結果が出た。血と辰砂、硫化水銀が混ざっていた。血液型はAB型。ただ、島内のどの神社仏閣でも、それを使った記録はなかった」
男は煙草を指先で弾いて灰を落とす。
「血と硫化水銀で、こんな赤黒くなるのか?」
「血はともかく、硫化水銀は朱肉や赤色顔料として昔から使われてる。毒でもあるがな」
「これを見てくれ」
御朱印帳を差し出す。男が手に取り、眉をひそめる。
「三つの宝……なんて読む?さんぽう?……この墨、見覚えがある。同じやつか?」
「おそらく。君の反応からして、この神社のことは知らないようだな」
「んー、初耳だ。分かった調べよう。しかし、この葦田八幡神社だけ日付が最近なのはどうしてだ?そもそもこの御朱印は誰のだ?」
さすがに目ざとい。
御朱印帳を拾った経緯、そしてそこに至るまでの出来事を、淡々と語った。
「おいおい、冗談はよせ、と言いたい所だが…あんな経験をしちまったらな」
続けて、自身の“身の上”について慎重に言葉を選びながら明かした。
「マジか?」
男は肩眉を上げ、こちらを睨むような見る。ふう―と息を漏らし、静に煙草に火をつけた。
長く吸い込んだ煙を、ゆっくりと吐き出す。それを何度となく繰り返し、灰皿に吸い殻を押し込んだ指先が、わずかに震えているように見えた。
「うーん。そもそも、あんた自身がカゲヌシなのかと思ってしまうな」
顎を擦りながら言う、男の言葉には、冗談とも警告ともつかない重さがあった。
「俺もそれは思っている。カゲヌシの意味する所は不明だが、はなから誰かの手の内で踊っているだけかもしれない」
男は少し目を細め、車外に視線を投げると、無造作に水晶の腕輪を覆うように擦っている。
「その警戒心は忘れずにいた方が良い。再三の忠告を無視したあんただ。覚悟は出来ているんだろうが。影に纏わる言葉。そもそもの発端となった写真と彼女に送られた写真、一人なのか複数なのか分からないが全てを知っている誰かがいるのに間違いはない…」
「だとして、目的は何だ? 俺の過去を知ることと、どう繋がる?」
「うーん。さすがにそれは分からん。ただ、手紙の消印は夕凪島のものだった。つまり、差出人はこの島の中にいると考えるのが自然だ。わざわざ島まで来て投函する理由がない。何せ写真に写っていたのはこの島の“重岩”って場所だ。しかも……」
「俺や、ふ……彼女の住所を知っている」
「そうだ。そこで、もう一度確認するが、心当たりはないんだな?」
「ああ、今の所は」
「そうか……もしかしたら、あんたの旧姓、羽代だったか、全く聞いたことない苗字だが、何か関係があるんじゃないか?」
「ああ、それは、こっちで調べてみる」
「了解。そうそう、影の男の噂は、もうほとんど聞かれなくなったようだが。試しに動いてみるか?」
「いや、それは止めとこう」
「そうか……まあ、現にもうアクションはあった訳だしな」
「ああ、この御朱印帳といい。伯父からの手紙といい。あれから何か蠢きだしている」
「そうそう、彼女の方はどうだ?」
「ああ、これだ見てくれ」
文菜から預かった写真を手渡す。
「なるほど……美人だな……そっくりなんだろ?」
男はニヤリと片頬を上げてチラリとこちらを見た。
「あんたに送られてきたモノと画角は一緒か。俺が作った合成写真もなかなかの出来だが……」
「気になる事って?」
男は身を乗り出し、ダッシュボードの中から地図を取り出した。
「我ながら迂闊だったが、重岩、山王神社、葦田八幡神社、この三ヵ所——地図で確認したら、一直線に並んでいた。しかも明々後日、8月11日の日の出のラインと重なるんだ」
まるで忘れた教科書を見せるようにページを開くと、夕凪島の全体地図が現れ、いくつかの場所が赤ペンで丸が描かれていた。
男の説明によれば、この直線に何か意味がないかと考え、補助線を引いたり、形を作ったりして試行錯誤を重ねたのだという。
そうした中で「レイライン」という言葉に行きついた。
レイラインとは、重要な場所――山や建築物などの地点が線で結ばれ、そこに意味のある図形や形が浮かび上がるという考え方である。
またそれは、夏至や冬至といった特定の時期の「日の出の方角」と重なることもあるそうだ。
そこで、この三か所を結ぶ線と、日の出の方角を調べてみた結果が8月11日だという。
「……」
返す言葉が出ない。
「どうした?」
「命日だ……両親の」
「おいおい」
車内に沈黙が落ちる。一直線に並ぶ、重岩、山王神社、葦田八幡神社…冥鬼が放った、有名人という言葉…それに、夕凪島にあるという結界…カゲヌシ…羽代……これらがどう繋がっていくのか…
「ん?この山王神社……丁度、葦田八幡神社と重岩の中間のようだな……」
男が指で地図をなぞる。
「山王神社か、カゲヌシの怪異伝説が残ってる地域だ」
「そうだな……ん?いや待てよ……」
男は顎に手を当て、顔をしかめている。
「どうした?」
「ああ、確か、図書館で読んだ民話の本に、こんな話があったんだ。妖怪や怪異の話で、三種の神器を奪った三人の妖怪が、夕凪島に逃げてきて討伐された」
「その妖怪どもは天狗のような鼻を持ち、背丈は2メートル、地面まで伸びた髭を持ち、肉を食らい血をすする。根子、夜子、羽子だったかな。日が昇る頃と黄昏時に姿を現し、魅入られた者には呪いがかかる」
「たしか、魂が吸われるとかなんとか、これ、カゲヌシの話と似てないか?姿を現す時間といい、ようは不幸になるという結末といい、ん?三種の神器……三つの宝……」
男が思考の旅に出そうになるのを、俺は呼び止める。
「だから?」
「……いや、昔話や童話みたいな物は、実際に会った出来事の暗喩だったりすることもあるようだ」
「あなたの口から、そんな言葉が出るとは思わなかったよ」
男はフンっと鼻で笑う。
「明日、その山王神社も含めて調べてみる」
「助かる。それから、一つ頼みたいことがある」
煙草を灰皿で消しながら、男はちらりとこちらを見る。
「なんだ?」
「うん……」
男は頼みを二つ返事で請け負った。
車から降りると、男は軽く右手を額に添え、敬礼のような仕草を見せてから車を発進させた。
遠ざかっていくエンジン音を背に、駐車場の片隅で、しばし佇んでいた。
自分の車に戻る前に、ふと視線を移す。
ドラッグストアの建物の一角、風除けのアクリル板に囲まれた喫煙所。
そこに誰もいないのを確認して、そこへ足を向けた。
肌を撫でる風に湿り気が混じっている。雲が太陽を覆いはじめ、午後の光にかすかな翳りが差し始めていた。
ポケットから取り出したスマートフォンの画面を指先でタップする。
2コールで相手が出た。
「もしもし、お疲れさん」
安居の柔らかい声。
いつものように軽やかで、飄々とした印象を受ける。
「どうも」
「今日、島に着いたんだろ? 何か頼みごとかい?」
「ええ、まあ」
言葉を選びながら続けた。
「安居さん、歴史に詳しかったですよね。ちょっと調べてほしいことがあるんです」
「ほう、君から頼み事とは珍しい。なんだい?」
「“はしろ”という苗字についてです。鳥の“羽”に、君が代の“代”で、“羽代”。聞いたことありますか?」
「ふうん、羽代……。なるほど。これは今回の調査と関係があるのかね?」
「ええ。失踪した男が“カゲヌシ”という、この島に伝わる怪異伝説を調べていたようなんです。それに何か関係があるかもしれなくて」
「ほう、面白いね」
安居の声が少しだけ弾んだように聞こえた。興味をそそられたのだろう。
「しかし――」
「はい」
「ソースはどこだい?」
「それは……企業秘密で」
「ハハハ、それは残念だな。でもまあいいでしょう。君には調査能力があるらしいからね。冥鬼でさえ、数週間いて何も掴めなかったのに……どこでそんな情報を手に入れたのかな?」
その問いには答えず、煙草をくわえたまま視線を遠くに向けた。
買い物を終えた人々が店から出てくる。
夕方の光は徐々に赤みを帯びはじめ、駐車場に長い影を落としていた。
「お願いします」
「分かった。調べて連絡しよう」
「ありがとうございます」
通話を終え、深く息を吐いた。白い煙が、風に揺られながら消えていく。
喫煙所の隅、誰もいない空間に一人、灰皿に煙草を押し付けながら、目を細めた。
見上げれば、薄曇りの空の向こうで、日がゆっくりと傾いていく。
明日もまた、何かが動く。そんな予感が、静かに胸を騒がせていた。
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