蝉の声がやさしくなる頃
社務所を出ると、境内には、一組の参拝客が手水舎の前で静かに身を清めていた。
木漏れ日を受けた磐座は、まだら模様を纏いながら、変わらぬ静けさでそこに佇んでいる。
その様子がどこか、夢の続きを見ているようで、不思議と現実感が薄れていく。
鳥居をくぐりぬけ、くるりと体をひねって一礼をする。
参道沿いの民家の影が、真昼の陽射しを少し和らげてくれていた。通りの先にある食堂からは、忙しげな湯気が立ちのぼり、炊きたてのご飯の匂いが風に乗ってきて、ふいにお腹が鳴る。
「……なんだ、ちゃんと私、お腹空いてるじゃん」
おかしくて、ふっと笑ってしまう。
ちょうどそのとき、ガラガラと戸の開く音。出てきたおばあさんと目が合い、軽く会釈して通り過ぎる。
道端で小さな野花が、そよ風に揺れていた。
「こんな所に咲いていたんだね」
見慣れた景色が、ほんの少しだけ違って見える。
それは、心の中で何かが少し動いた証なのかもしれない。
彼が言っていた言葉が心の奥でふわりと響いていた。
「君自身が、自分を認めてあげることさ」
冴ちゃんも配信で同じような事を言っていた。
自分の事を大切に好きでいてあげて……。
確かに、誰かの役に立つこと、迷惑をかけないこと、期待に応えること――
ずっとそればかりを気にしてきたように思う。
いい子でいようと。
自分を大切に、認める……か……
掛け軸の絵の女性を見た時、彼から紡がれた言葉に胸の奥で何かが反応した……
懐かしくて、なにか切なくて、それでいて、どこか遠いところから手を差し伸べられたような感覚――
「あっ……名前、聞けばよかった……」
騒がしく感じていた蝉の合唱が、なぜか耳に優しく入ってくる。
張りつめた音の塊じゃなくて、夏の空気に溶け込むような、どこか懐かしい音。
焦るように鳴き続けるその声に、不思議と、今の自分が重なって見えた。
「……みんな、一生懸命なんだよね」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に向けたわけでもないのに、身体に染み込む。
知らず知らずのうちに気を張っていたこと。そうしなきゃいけないと思い込んでいた自分。
そんな自分を、蝉の声がそっと赦してくれるような気がした。
やがて、突き当たり。
そこを左に折れると、川沿いの道に出る。
川の両岸はコンクリートで固められていて、人工的な直線の中を、透明な水が静かに流れていた。
「今日も、いい天気だな……」
ぽつりと呟きながら、手すりの上に肘をついて川面を覗き込む。
魚は見えなかったが、水の中で光がちらちらと踊っていた。太陽の欠片のように揺れながら。
そう言えば……最近、見掛けないな……)
朝の磐座のお清めの時に会っていた男性。
その人が話した言葉でも同じ様に胸が苦しくなった。
歩き出すと、欠片も付いてきた。
すれ違う人もいない、静かな帰り道。
足元にできた木陰が、風に揺れて形を変えるたび、どこかで見たことがあるような記憶のかけらが心をくすぐってくる。
橋を渡っていると、反対側の歩道を歩いている女性と目が合った。
お互い立ち止まる。
茶髪のショートカット、黒いTシャツ、デニムのハーフスカート、黒いスニーカー。
軽く会釈を交わすと、女性は左右を見て車の往来を確かめ、小さな靴音を立てながらチョコチョコと小走りで近づいてきた。
少し頬を紅潮させ、片手を胸に当てて息を整えている。
「あの、間違ってたらごめんだけど」
「はい」
「もしかして、聡ちゃん?」
「え、はい、そうですけど……」
目の前の女性の表情はみるみるうちに笑顔に変わる。
そして両手を掴んできた。
「私よ、私!」
何かで見た回想シーンのように、頭の中の記憶のページがぱらぱらと捲られていく。
少し低めの声で、弾むような喋りかた。
くるんと丸い目が、くしゃっと細くなる笑いかた。
笑うとき、上唇の右端だけがすこし高く上がる癖。
遠い日、並んで写った写真の中の女の子と、今、目の前にいる彼女の笑顔が重なった。
「え?しーちゃん?」
女性は嬉しそうに、つかんだ両手を上下に振りながら、大きく何度も頷いた。
「うん、あーちゃん、久しぶり!」
懐かしい呼び方。
心がじんわりとほっこりする。
「しーちゃん」こと、渡辺栞。
幼稚園のときに、家族で島を離れてしまった友達。
それでも、しばらくは文通を続けていた——
栞がどこかへ引っ越して、転居先がわからなくなるまでは。
「え?え……? いつ?島に戻って来たの?」
「今日。それでさっき、あーちゃんの家行ったらさ、神社でバイトしてるって聞いて」
「そっか、旅行?」
栞はふふっと含み笑いを浮かべながら、ぺろりと舌先で唇をなぞる。
「実はね……」
少しうつむき、顔を前髪の影に隠すようにして黙り込む。
「しーちゃん?」
覗き込もうとした時、栞は、ぱっと顔を上げ、勢いよく抱きついてきた。
その腕の強さに驚いた瞬間に感じる栞の体温と、鼓動。
「島に戻ってきたんだ」
内緒話でもするように耳元で囁く。
「ほんとに?」
栞はそのまま黙って、何度も頷く。
「え、嬉しい……」
言葉にした途端、涙が出そうになる。
再会だけでも奇跡なのに、その続きを聞けるなんて。
「……私も嬉しい」
栞の声は、少し震えていた。
「え、じゃあ、しーちゃんと一緒に学校行けるんだね」
そう言って無邪気に笑った瞬間、栞の体からふっと力が抜けたのが分かった。
栞はそっと腕をほどくと、少し距離をとるように一歩後ろへ下がった。
「ああ、それはね……」
「どうしたの?」
栞は少し唇を噛んだ後、目を逸らして、橋の欄干の向こう、海のきらめきを見つめている。
「一緒には無理かな……」
その表情は、哀しさと悔しさと、ほんの少しの諦めが混じっていた。
「そっか。でも、しーちゃんが居るなら私はそれで幸せだよ」
一瞬眉を上げ、そして、はにかむ栞の瞳が潤んでいた。
「あーちゃん、ちっとも変わってない」
「それって子供っぽいってこと?」
腕を組んで、膨れて見せると、栞は慌てて手を振る。
「違う違う、そうじゃなくて。あーちゃんは、私が嫌がることはしないし、聞かない」
「そだっけ?」
「そだよ。だから、あーちゃんと文通できなくなくって……しんどかった……」
ふいに栞の瞳が遠くを見つめるように細められる。
その声には、懐かしさと寂しさが入り混じっていた。
あの頃、手紙が途絶えたときの感情が、今になってようやく言葉になったのだとわかる。
そっと手を伸ばし、栞の指先に触れる。
「それは、私もだよ。すごく寂しかった」
しばしの静けさのなか、夏の風がふたりの髪を撫でていく。
「あーちゃん、今日はこの後、空いてる?」
「うん、だいじょうぶだよ」
栞の顔に、ぱっと花が咲く。
「じゃあさ、話したい事あるから会おうよ」
「もちろん!」
「じゃあ、連絡先交換しよ」
「うん!」
お互いにスマートフォンを取り出し、微笑み合う。
画面の向こうに並ぶお互いの名前。
それを確認しただけで、心の中にじんわり温もりが広がる。
再び繋がったふたりの時間が、ここからまた動き出す。
何かが始まる。
そんな予感が、潮風に乗って、そっと頬をなでていった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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