夏影の方へ
バスは内海町を抜け、緩やかな登りを経て、峠のトンネルへと差しかかっていた。乗客は数えるほどしかおらず、自分を含めて五、六人ほど。
目的地は福田港――地元の人間か、それとも観光客か。
窓ガラスに映る自分の顔が揺れ、苦笑が滲む。
「まさかね……覚えていたとはね……」
あまりその手の誘いには乗らないのだが、例の手紙や写真。
それに――
トンネルを抜けた瞬間、ぱっと視界が開け、瀬戸内海の穏やかな青が眼下に広がる。夏の陽光が水面に反射し、きらきらと無数の銀の粒が舞っていた。
調べるべきことは山積みだが、まずは伯父の話を聞いてからにしよう……
両手を伸ばし、大きく欠伸をひとつ。
終点まで行けばいいから、うっかり乗り過ごすこともない。
腕組みをして瞼を閉じる――
「危ないから止めた方が良い」
男が耳元で囁く。
「なぜ?」
目の前の男の説得はこれで三度目だ。
「奇妙だからだ。気味が悪いと言った方が良いかもしれない…危うく死にかけたと言っても過言ではない」
「大袈裟な…」
「俺は迷信とかは信じていない。自分が目にしたことしかな…」
男は周囲を警戒するように視線を走らせ、さらに声を潜める。
「いいか、関わらない方が良い。興味が無くなった訳ではない。触れてはいけないものもあるってことだよ」
「だったら尚更…」
「…そうか…確かに事は動き出したようだからな…ただくれぐれも気を付けろ…」
呆れたのか納得したのか、男は肩を揺すり鼻で笑う。
「俺が言うのも可笑しいが、迂闊に人を信じるな、知り合い、友人、家族であってもだ」
「ああ、そうする」
男はワイシャツのポケットから紙片を取り出し突き出す。
「恐らく、この中にヒントがあるはずだ」
それを受け取った瞬間、男は視線を外し、背を向けて歩き出した。
フッと、体が前にのめりそうになり目を覚ます。
バスが終点の福田港に着き、運転手がアナウンスを入れている。
結局、居眠りする前の乗客もここまで一緒だったようだ。
あれ?
隣の座面に一冊の手帳が置いてある、忘れ物かと思い、手に取り、それを捲ると御朱印手帳のようだった。
栞が挟んでいる所は「三宝神社」「葦田八幡神社」と対照的な筆が踊っている。三宝神社の墨は赤黒く、字体も威圧感があるのに対し、葦田八幡神社のは柔らかく安心感を覚える。そして栞には「香取諒様に」とボールペンで記されていた。
顔を上げ車内を見渡す、乗っていた乗客はすでにバスを降り始めている。
慌てて席を立ち、御朱印手帳を小脇に抱え急いで席を立つ。
料金を支払う時、運転手に尋ねた。
「すみません、僕の隣に誰か座っていましたか?」
運転手は怪訝そうな表情で首を傾げる。
「いや、おらんよ」
「そう…ですか」
軽く会釈をして運転手に背を向けた時、閃きが湧く。
「あの、もしくは傍に来た人はいませんでしたか?」
運転手は少しムッとしたよう目を細めると、目の周りの皺が一層目立つ。
帽子を脱いで、白髪が混じった頭を撫でながら視線を宙に漂わせる。
「いや、それもなかったと思う」
口調には迷いも作為も感じられない。
疑う余地はないように思う。
そもそも運転手が嘘を着くメリットはない。
「ありがとうございました」
アスファルトを踏みしめると、バスの中がエアコンで冷えていたのか熱気が温かいくらいに感じる。
乗客のほとんどは福田港のフェリーターミナルへ向かって歩いている。
一人、手提げカバンを持った女性が、県道を自分の家と反対方向に歩いていた。
小走りで駆け寄り声をかける。
「すみません、ちょっと伺いたい事があるんですけど」
女性は歩みを止め振り返り、こちらを見上げる。目尻が下がった穏やかな顔立ちだが、眉間に刻まれた一本の深い皺に目がいく。
「何でしょう?」
「あの、さっきのバスに乗っていらっしゃいましたよね?」
「ええ、買い出しに出てましたけど」
女性は持っていた手提げカバンを持ち上げて見せた。
「僕は後方の席に座っていたんですが、あなたは乗車口の傍に座っていましたよね?僕の席の傍に来た人っていませんでしたかね?」
「うーん、どうやろ、おらんかった思うわ」
「そう…ですか」
「他に何か?」
「いいえ、ありがとうございました」
女性は会釈と共に歩き出した。
首を捻り踵を返す。
この御朱印手帳を置いた人物は誰か。
心当たりはない。
それにしても書かれていた神社の名前が気になる。
バス停から家までは歩いて三分。学生の頃によく使っていた道だ。
テレビの天気予報が始まるタイミングで家を出れば、バスの出発一分前にぴったり到着できた。
「ただいま……」
玄関の引き戸には鍵はかかっていない。
相変わらず物騒だ。案の定、誰も居ない。田舎とはどこもこんなものだろうか?
ギシギシと音を立てる階段を上り自室へと向かう。
久しぶりの染み付いた家の匂い。
懐かしさがある訳ではないが、東京へ出て、初めて帰省した時に、ああ、この家ってこんな匂いがしていたんだと始めて気が付いた。
階段を上がりきったすぐそばにある、義兄の部屋の扉が少し開いていた。
中を覗くと、がらんとしていて生活の気配がまるでない。
「あれ?」
去年戻って来た時は部屋から顔を出して、
「おう、諒、早速飲むか?」
陽気な笑顔を見せてくれた。
4歳離れた義兄との仲は悪いものではなかった。
どちらかといえば、義兄の方が自分に気を遣って接していてくれたように思う。
ドアノブを回し部屋に入る。
伯母が掃除してくれたのだろう。
綺麗に整頓された空間に時計の針が進む音だけが響いている。
時刻は11時30分を回った所。
荷物を置いてベッドに腰掛ける。
御朱印手帳の最初は御朱印ではなく「小瀬石鎚神社」とボールペンで書かれていて見開きの反対側に「山王神社」そして次のページに先程の神社が二つ書かれている、この四つの神社の内、「小瀬石鎚神社」「山王神社」「葦田八幡神社」は、男がくれた紙片のメモと一致する。ようはヒントの一部だということ。
すべての発端は、およそ一か月ほど前に届いた一通の封筒だった。
消印は夕凪島。
差出人不明。
中に入っていた紙には、明朝体の活字でこう記されていた。
「君の過去を知らんと欲すれば求めよ。欲さざるは有り得ないと思うがね」
そして署名は「カゲヌシ」。筆跡を隠すかのように、まるで定規を使ったような、直線的な字で記されていた。
自分の東京の住所を知っている人間は、そう多くはない。
差出人の目的や意図は分からない。送ったからといって自分が興味を抱くかどうかは別の話。
ただ、気にならない訳にはいかない文言がある。
“カゲヌシ”
これに引っかかるものがあった。
だから、ちょっとした餌を撒いてみた。その結果、何かが動いた。
誰かが、何かに導こうとしているのか、あるいは嵌めようとしているのか、どちらにせよ、男の言葉を借りれば誰も信じるなということ。
おや?――
何気なく見ていた御朱印の日付が目に入る。
葦田八幡神社の物は先月の31日。
だが一つ前の三宝神社の日付は平成✕✕年。
今から26年前…その前のページも平成✕✕年。
どういうことだ?
この持ち主は今になって葦田八幡神社で御朱印を貰い、自分に渡したという行動が理解できない。
だが、すべては、“カゲヌシ”へと繋がっている。
大きく息を吐き、ショルダーバックに必要な物だけを入れて家を後にする。
家の前を流れる川を挟んで、反対側の山裾にある葦田八幡神社へと向かう。
「とりあえず、伯父さんに挨拶だけでもしとくか…」
そう言えば安居の話だと、冥鬼と蜉蝣が夕凪島に来ているらしい。
正直、二人とはあまり親交がない。
冥鬼とは事務所で顔を合わせた時に会話する程度で、蜉蝣に至っては会った事もない。
冥鬼と蜉蝣という名は格好よく言えばコードネームみたいなものである。
ただ、二人とも常人とは異なり特殊な能力を持っているらしい。それがどんなものか知らない。
そもそも興味がない。
小さな川沿いを橋が架かるバス通りまで戻る。
今はちょうど満ち潮の時間帯らしく、海水が逆流しているようだった。
前方の橋の欄干に覆いかぶさり、女の子が川を覗き込んでいる。
釣られて視線を川面に移すと、白鷺が一羽、澄んだ水面の奥を睨みつけていた。
微動だにせず、獲物の一瞬の隙を待っている。
それに気を遣ったわけではないが幾らか忍び足のように歩く。
橋を渡り始め、女の子の傍まで来た時、白鷺の嘴が鋭く水を裂き、小魚を捕らえる。
見事な一撃だった。
パチパチと女の子が手を叩いた音に驚いて、白鷺は翼を大きく広げ川上へと飛んで行った。
その拍手は軽やかで、音自体は可愛らしいのに、空気が震えているような気がした。
少女は後ろに飛び跳ねるように欄干から離れると、首を傾げこっちを見上げる。キラッと眼鏡のレンズに光が反射する。
「こんにちは」
語尾が上がる独特のアクセント。反射的に言葉を返す。
「こんにちは」
女の子は細い指でメガネのブリッジを押し上げ、ニコッと白い歯を見せた。
ただレンズの奥の目は笑っていない。
目が合っているのに、合っていない気がする。
少女の目は、こちらの姿を見ているようでいて、見ていなかった。
まるで違うもの──もっと遠く、もっと深いものを見ているかのように。
そう思わせる一瞬の“ずれ”が、諒の背中をうっすらと汗ばませた。
「フンフンフーン……」
少女は鼻歌を口ずさみながら肩にかかる黒髪を左右に揺らせ歩いて行く。
「ん?」
夏の太陽の真下にもかかわらず、彼女の影だけが――他のものとは“角度”が違って見えた。寝不足のせいだろうか。
眼鏡を外し、目頭を軽く押さえる。
もう一度、眼鏡をかけ直して視線を向ける――
だが、そこにはもう少女の姿はなかった。
「はあ……」
溜め息を一つ。
そして、歩き出す。
橋を渡って、左に曲がり、また川沿いを進む。
二本先の路地を右に曲がると100mほど先に赤い鳥居が見えてくる。
参道沿いの古びた食堂には、観光客らしき団体が吸い込まれていった。
店構えも看板も変わっておらず、時が止まっているかのような町並み。
鳥居の前で足を止め、一礼する。境内へ一歩足を踏み入れた瞬間、耳をつんざくような蝉の声が、四方の木々から一斉に降りかかってきた。
まるで見えない壁にぶつかったような熱気が肌を包む。
木々に反響して鳴き交わすその声が、容赦なく真夏の空気を煽ってくる。
ほんの十分も歩いていないはずなのに、額には汗が滲み、背中にもじっとりとした湿り気が張りついていた。
けれど、その暑さ以上に、胸の内には別のざわめきが広がっている。
カラン、カラン――。
紅白の鈴緒を揺らし、目を閉じて静かに手を合わせる。
願いがあるわけじゃない。
ただ、ここに立っていることを――あの空の向こうに、伝えたくて。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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