まだ終わっていない
諒の家は、夕凪島の北東端――福田町にある。
瀬田港から福田港行きのバスに揺られて、約五十分。
文菜の実家がある内海町は、そのちょうど中ほど、二十分ほどの距離。
だから、こうして一緒にバスに乗れる時間は、わずかだけれど、どこかかけがえのないひとときだった。
夏の陽は車窓越しにじわりと熱を伝えてくる。
蝉の声もエンジンの音にかき消されながら、遠く耳の奥で鳴り続けているようだった。
バスの後部、二人掛けの座席。あの日と同じ場所。
座面のわずかな弾みと温もりが、懐かしく太ももに触れた。
エンジンが低く唸り、車体が滑るように発車する。
車内はほとんどの席が埋まり、知らない人たちの会話がさざ波のようにささやいていた。
ほんの少しだけ肩が触れる距離。
……言わなきゃ。今度こそ――
心の中で小さく拳を握る。
少しだけ体を傾けて声をかけた。
「諒くん、明日って予定あるの?」
なるべく自然に言ったつもりだったけれど、喉の奥がこそばゆくなって、ほんの少し声が上ずる。
諒はゆっくりと眉を上げて、首を傾げた。
「ん?どうして?」
「いや、その手紙の事とか……写真の事とか……気になるし……」
答えながら、内心では心臓がどくどくと鳴っていて、自分だけ浮き足立っているような気がする。
「……じゃあ、昼飯でも食べる?」
「うん、いいね」
思わず声が弾んだ。予想よりもずっと嬉しい返事だった。
「何か食べたいものとかある?」
「うーん…………そうだな素麺食べたいかな」
「ああ、諒くん好きだもんね素麺。じゃあお店は私が調べて後で連絡するね」
「うん、ありがとう」
何気ない会話なのに、まるで心の奥に灯りがともったように嬉しかった。
けれど、伝えたいことはもう一つある。
もう一歩だけ、踏み出してみよう。
「それとさ……」
「なに?」
小さく深呼吸してから、視線を諒に向ける。
「あのさ、神舞なんだけど、私も、毎年お祭りの時は帰って来てたん。けど今年は諒くんと同じで帰れなくて見てないん」
視線を少し落としながら、言葉を選ぶように続ける。
「でもね、10日の日に映画の撮影で神舞のシーンを撮るのに、もう一度、神舞をやるんやって、良かったら一緒に見に行かん?」
言い終えた瞬間、自分の頬が少し熱くなるのを感じた。言ってしまった。
断られるかもしれない。
でも、どうしても誘いたかった。
「ああ……」
諒は視線を宙に彷徨わせ、思案に沈む。
車内のざわめきがふっと遠のき、二人の間に沈黙が落ちる。
ダメかな……、窓の外に目を移すと、穏やかな内海湾が広がる。
夏の陽にきらめく水面は、まるで小さな波が光を弾いて踊っているようだった。
「それって何時からあるの?」
「え?あ?ごめんそこまで調べてないや…」
「そっか、分かったら教えてよ、折角だから見たいし、一緒に行こう」
眼鏡越しに目を細め微笑む諒の顔を見て、嬉しさと照れくささがないまぜになって、思わず見惚れてしまう。
「どうした?」
「ん?え、あ……ううん何でもない」
カーッと頭に血が上り顔が赤くなる、思わず視線を逸らした。
「……オーケー。そしたら連絡するね」
「じゃあ、よろしく」
バスがゆるやかに減速し、内海町のバス停に滑り込む。
あっという間に、別れの時間がやってくる。
でも、明日も明後日も会える。
バスを降りて見上げた真っ青なキャンバス。
その上を、どこか気ままそうな一羽の鳶が、くるりと円を描いていた。
大通りから路地へ入り、家まではもう少し。
照りつける夏の光は陽炎のように揺らぎ、アスファルトをとろけさせている。
後ろから車の気配がしたので振り返り道端を歩く。
黒の軽自動車が追い抜く――かなと思ったらスピードを緩め並んで進む。
助手席の窓が開き、涼しい風が頬を撫でる。
「文菜お帰り」
懐かしい声に、屈んで車内を窺うと助手席に身を乗り出した玲美が軽やかに手を振っていた。
「玲美、久しぶり」
「乗ってて」
助手席のドアを閉めると、車内に玲美の香水の甘い香りがふわりと広がる。
エアコンの冷たい風が、頬の火照りを和らげてくれた。
玲美によると瀬田港まで迎えに来てくれていたみたいで、驚かそうと思っていたらしい。しかも今日の為に有給まで取ったそうだ。
「お昼まだでしょ?一緒にどう?」
「もちろん、私も話したい事あるし」
「そうなん?私も~」
車は、細い路地をゆるゆると抜けていく。
舗装の継ぎ目を拾うたび、タイヤがやわらかく揺れた。
「ほんま、久しぶりやなー」
運転席の玲美が、ふっと笑いながら言う。
「そうそう亜希や友美も会いたがってるよ、友美、裕太と別れてさ…」
懐かしい名前が、ひとつひとつ、玲美の口からこぼれてくる。
そのたびに、記憶の奥に沈んでいた顔が、ふわりと浮かび上がる。
やっぱり、地元はいいな。
そう思った瞬間、ふいに浮かんだのは、なぜか諒の横顔だった。
車窓に流れる景色と重なるように、頭のスクリーンの隅を、彼の淡い輪郭がすべっていった。
「もう、文菜聞いてる?…あれ?何かあったん?」
「うん、実はね…帰りのバスでね、諒くんに会った」
「えっ?マジで?うわ、それドラマみたいやん!偶然再会パターンやんか!」
思わずハンドルを軽く叩いて、玲美が目を丸くする。
まるで自分の事のように喜ぶ玲美を見て、笑みが零れる。
「そう。ほんと偶然。でも、会えてよかったかも。話せたし…手紙のことも相談できて」
「手紙?」
うなずきながら、車窓の外に目を向ける。白く燃えるような陽射しが道を照らしていた。
「うん。変な手紙と写真が届いたの。差出人不明で……ちょっと気味悪いやつ……写真には私にそっくり女性が写ってるん……」
「なんそれ……怖。え、ストーカーとかじゃないよね?」
「そういう感じじゃないと思うけど……なんか妙に引っかかる言葉が書いてあって、カゲヌシって」
「カゲヌシ? え、それって妖怪とか?なにそれ、初めて聞いた……」
「わかんない。諒くんが調べてくれるって言ってくれて…明日、また会う約束した」
「……へえ」
玲美がにやりと笑って、信号待ちでふとこっちを見る。
「諒くんも、大人っぽくなってたよ」
「ふふ、それは文菜もやろ。そうやね…二人が並んでたら、ちょっとした映画のワンシーンやもん」
「からかわんといて」
「ほんまやって……」
笑い声の余韻が車内にふわりと残る。
そのすぐあと、玲美はそっと髪を耳にかけ直し、どこか無意識のように唇を噛んだ。
言葉を探しているような、何かをのみ込もうとしているような、そんな気配。
「玲美?」
呼びかけると、間を置いて、小さく返事が返ってくる。
「……ん?……電話でも、ちょっと話したやん、気になる夢を見たんよ。何日か続けて」
「ああ……」
「決まって、重岩の前に立つ文菜の姿があって、そのあと山王神社の裏の森。あの、誰も近づかん場所が出て来て……」
言葉のひとつひとつが、車内の空気を少しずつ湿らせていく。
「でな、目が覚めると、涙が出てるんよ。理由もわからんのに……ずっと」
「……」
「でさ、変やと思って神主さんにちょっと聞いてみたら、あのあたり、最近立ち入り禁止になってるんやって」
「え、どうして?」
「崖が崩れかけてるとか、そんな話。でも、昔からあるやん。神隠しの噂とか、あそこで変なもん見たとか……なんか、それと関係ある気がしてさ」
外の景色がにじむ。日差しが、まるで白く燃えるように眩しい。
心の中で、何かが静かにざわめき始めていた。
「それって……私が、呼ばれてるってこと?」
問いかけながら、自分の言葉に自分が驚いていた。
「……わからん。でもな、文菜がどっか遠くへ行ってしまうような……そんな気がして、怖かった」
玲美は視線をフロントガラスに戻しながら、ゆっくりハンドルを動かす。
「だから、帰ってきてほしかった。会いたかったんよ。顔が、見たかってん」
「そっか……」
「で、いつまでおるん?」
「えーと、14日の夜に東京に戻る」
「そっか、じゃあ、けっこうゆっくりできるんやね」
車が緩やかにスピードを落としレストランの駐車場に入る。
エンジンを切った玲美がこちらを向いて、にこっと微笑む。
「でも良かったやん、諒くんに会えて、今年は、何かあるんちゃうかって。誰かに会うべき年やって、勘やけどな」
「勘?」
「うん。私、こう見えて第六感だけは鋭いんよ」
「嘘くさ〜」
「ほんまやって!なんなら占いでも始めよかなってくらい当たるんやから」
二人の笑い声が車内に弾む。その一瞬、空気が軽くなる。
でも、ふと玲美が真顔に戻り、静かに言う。
「でもな、ほんまにそう思ってた。地元に帰るタイミングって、何か縁が引っ張ってる気ぃせえへん?文菜と諒くん、なんかまだ、終わってへんような気がしてたから」
「……そうかもね。終わってない。全然」
「じゃあ、ご飯食べよう」
玲美が運転席のドアを開けた瞬間、むわりとした外気と一緒に、蝉の声が一段と鮮やかに耳に飛び込んできた。
「そういえばさ……洋一さんとは、上手くいってるん?」
ぽつりと口にした問いに、少しだけ気を遣ったつもりだった。
けれど、車を降りかけた玲美の動きが、ふと止まる。
ほんの一瞬、髪が揺れる、その一呼吸の間に、ドアに手をかけたまま、玲美がこちらを振り返る。
顔だけを覗き込むようにして、小さく笑った。
「うん、順調や」
口元はいつも通りに緩んでいたけれど、
その笑顔の奥に、ほんの少しだけ翳りが射していた。
それが気のせいだったのか、確かに見えたのか…
「お腹空いた、今日は私が奢るからね」
玲美は車を降りバタンとドアを閉めた。
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