欠片
「お参りありがとうございます」
「わあー、かわいい」
御朱印帳を差し出すと、参拝客の女性はぱっと顔を輝かせ、明るく黄色い声を上げた。
「ありがとうございました」
女性は御朱印帳をパタンと閉じると、両手で大切そうに挟んだまま深々とお辞儀をして去っていった。
ひとまず御朱印を求める人の波は落ち着いたようだった。
「ふぅー……」
聡は小さく息を吐き、境内を見回す。数組の参拝客がゆっくりと社殿に向かって歩いている。
山の上、雲一つない真っ青な空に、ひと筋の飛行機雲がまっすぐ伸びていた。飛行機は白い尾を引きながら、どこか遠くへ向かっている。
「聡ちゃん、今日も来客があるんだ、手が空いたら座敷の準備を頼むよ」
背後から聞こえた宮司の声に、「はい」と返事をして掃除機を手に座敷へ向かう。
軋む廊下を進んでいくと、奥から猫のモモがスタスタと軽やかにこちらへ向かってきた。
「モモ、こんにちは」
すれ違いざまに「ニャー」と鳴きながら足にまとわりついてきて、くすぐったくて思わず笑ってしまう。
しゃがんで背中を撫でると、モモは満足そうに「ニャーオ」と小さく鳴き、尻尾をゆらゆらと振りながら事務所の方へ歩いていった。
座敷の掃除を終え、ふと違和感の正体に気が付いた。
「あれ?」
以前床の間にあった女性が描かれた掛け軸がない。代わりに葦田八幡神社と宮司の筆で書かれた掛け軸が吊るされていた。
「やあ」
不意に声がして、肩がビクリと震えた。
振り向くと、長髪の男性が腕を組んで立っていた。柔らかい光を反射するその髪は、まるで風になびく草のように自然で、やっぱり所々、癖のある跳ね毛が目立つ。
「あ」
「おや?僕に会いたかったのかな?」
くすっと口元を緩めた彼の笑みはどこか意地悪そうで、それでいて不思議と安心感を抱かせる温かさがあった。鳶色の瞳が鋭くも優しげに、まっすぐこちらを見つめてくる。
「あなたも……人の心が読めるんですか?」
気づけば、そう問いかけていた。
「ふぅん……どうだろうね。でも、“も”ってことは、君のまわりにも他に、いるのかな?」
彼は興味深そうに首を傾げ、探るような声で言った。その眼差しの奥には、確かに何かを見透かすような、冷ややかで冴えた光が宿っていた。
思わず視線をそらし、俯いてしまう。
「…」
「で、何が聞きたいのかな?」
「えっと、その……こないだ言っていた私の欠片を埋める者ってどういう意味なんですか?それに私の何を…知っているんですか?」
しばらく沈黙があった。彼は視線を天井の梁に泳がせながら、ぽつりと答えた。
「欠片っていうのはね、君の“今”から欠け落ちてる“過去”のことだよ。君自身が忘れてること、見て見ぬふりをしてきた感情、あるいは……誰かから託された“想い”」
「想い……?」
「それが揃ったとき、君は本当の自分に戻る。僕は、それを手伝うためにここにいるんだよ」
彼の声は静かだったが、どこか胸に染み入る切なさがあった。微笑んでいるのに、どこかその奥に孤独が漂っているようで、心がふらっと揺らぐ。
「じゃあ……私は、今のままじゃ……“欠けてる”ってことですか?」
声は少し震えていた。
胸の奥にある、名前もつかない空洞がじんわりと広がっていく。
「誰だって、欠けたまま生きてるよ。でも、君はその“欠け”に気づいた。だから、もう大丈夫」
今まで見たことのない優しさを滲ませた笑みを浮かべる。その柔らかい光に、思わず心が緩む。
「どうしたらいいんですか?」
思わずこぼれた問いに、
彼はほんの少し目を細めた。庭の木々の葉が、風にそよいで微かに揺れる音だけが辺りに満ちている。
「君自身が、自分を認めてあげることさ」
それは、まるで霧の向こうに光が差すような言葉だった。
「……自分を、認める?」
「そう。君はずっと、“こうじゃなきゃ”っていう誰かの形に、自分を合わせようとしてきた。でもね、本当の君はもっと自由で、もっと優しい存在なんだ」
彼はそっと歩み寄り、しゃがんで視線の高さを合わせる。
その仕草に、心がキュンと高鳴る。
そして、息がかかるくらいの距離でふわりと微笑む。
「怖いかもしれない。自分を知るって、時には痛みを伴うから。でも、欠けていた“何か”を見つけたとき、君の世界は変わるよ。……心の奥にしまってある記憶にも、触れることになるかもしれない」
「記憶……?」
「うん。君が忘れてしまったこと。それとも、忘れさせられたことかもしれないね」
心がぎゅっと掴まれる。名もない違和感が、ひっそりと疼く。
「でもね、ひとつだけ覚えておいて。君の中の“欠片”を見つけられるのは、君だけだ。僕は、ただその道を照らす光でしかないんだよ」
彼の声は淡々としているのに、不思議と涙が出そうになるくらい温かい。
「聡ちゃん――君は、ずっとここにいたんだ。ちゃんと、生きて、ここに」
体の中の奥に奥に、その言葉が深く染み込んでいく。訳もなくこみ上げるものを、必死に押しとどめようとした――けれど。
「本当は気づいているのかもしれないね」
その一言で、堰を切ったように滴が頬を伝い、胸の前で組んだ手に、ぽたりと落ちる。
彼は軽く目を伏せると、背筋を伸ばす。
そして床の間に歩み寄り、花瓶のそばに落ちた花びらを摘み上げた。まるでそれが、世界の秘密の一欠片であるかのように、そっと指先に乗せて。
「このあいだ、ここにあった掛け軸を気にしていたでしょ?あれを見た時どう思った?心の中で感じたでしょ」
「……ただ、素敵だな……懐かしかったです」
頼りない声だけれど、それは紛れもない本心だった。
「うん。それでいい。人の心は、少しずつ、輪郭をなぞるようにしか前に進めない。けど、立ち止まっているようでいても、それは確かに“歩いている”んだよ」
彼は窓を開け指に挟んだ花びらを宙に放った。
光の加減か、それとも心の色か……薄桃から白へと淡く色を変えながら、ハラハラと舞う。
その儚い軌跡に目を奪われながらも、なにかが静かに胸の奥で共鳴しているかのように涙は落ち続ける。
「それにね。君が“自分を取り戻す”その時は、自然と来る。その欠片は、もうすぐ君の手に戻る」
窓を静かに閉め、振り返った彼はふっと微笑む。
その瞳は、今という時を超えて、遠い時間の向こう側を見ているようだった。
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