プロローグ
7月23日日曜日
その人物を高松港から夕凪島へ向かう、午前中のフェリーのデッキで船員が目撃している。
ジーンズに黒いポロシャツというラフな格好に、グレーの大き目のリュックを背負っていて、スマホで写真を撮影しているようだった。
「夕凪島の風景を撮っていたようです。容姿?顔は見ていません中肉中背だったと思います」
船員は証言している。
次にその姿を見掛けたのは、タクシーの運転手である。
土庄港のロータリーにあるバス停前でバスが来るまでの10分程度の時間、煙草を数本吸っていた。
運転手自身がヘビースモーカーである事もあり記憶に残ったそうだ。
「セブンスターやね、俺もそうだから、背格好?バス停と同じくらいの背丈やったかな」
その後、土庄町の中心地にある図書館に現れた。
窓際の隅のテーブルで数時間食い入るように書物に目を通していたという。
「特徴?そうですね、額の中央にホクロがあったと思います。どんな本?チラッと見ただけですけど」
女性のスタッフが傍を通りかかった際、垣間見えた本は歴史関係のものだったと証言した。
そして、夕方になると宿泊先のホテル「ロイヤルビレッジ夕凪島」にチェックインしている。
時刻は17時42分。その際、宿泊費を前払いし、食事と部屋の掃除はいらないと伝えている。
翌朝、その人物は早朝にホテルを出発した。
まだ薄暗い時間帯で、夜半に降った雨の影響で辺りにはかすかな霧が漂っていた。
ホテルのフロントスタッフは、鍵を預け出て行く際に声をかけたが、その時の表情は、どこか焦りと迷いが入り混じったように見えたという。
「もしかしたら徹夜されていたのかもしれませんね、元々目が細い方でしたが、それよりも目の下のクマのほうが目立っていましたから」
スタッフはそう印象を述べていた。
その日の昼過ぎに男性はホテルに戻っている。
確実な足取りが確認されたのはここまでで、これ以降、男性は忽然と姿をくらませた。
彼が最後に目撃されたのは、外出した日の夕方、ロイヤルビレッジ夕凪島近くの瀬田港の桟橋付近だった。
漁船の手入れをしていた地元の漁師が、岸壁に立つ彼の姿を見かけている。
「なんとなく背格好が似てた。黒い服で、ずっと海の方を見てた」
しかし、その後の捜索や聞き込みでは、なんの手がかりも得られなかった。
そもそもの一連の失踪事件の発端は、ロイヤルビレッジ夕凪島から警察に入った一報だった。
25日のチェックアウト時刻になっても彼が姿を見せず、スタッフが部屋を訪れたことから始まる。
室内に彼の姿はなく、荷物も消えていた。
寝具は使用した形跡があり、テーブルにはカードキーと、もう一つ――
赤黒い墨で「カゲヌシ」と殴り書きされた紙片が、無造作に置かれていた。
「見た瞬間、ぞっとしました。なんとも言えない……嫌な色でした」
スタッフはそう証言している。
ゴミ箱の中には、破られていない便箋があり、
「重岩にて」「影の主が待っている」とボールペンで記されていた。
ホテル側が記載された連絡先に電話をかけるも繋がらず、住所は東京都江戸川区、氏名は香取諒。
予約は旅行サイトを通じての23日から2泊3日だった。
宿泊者カードには正しい住所と氏名が記されていたが、電話番号は架空のものだった。
警察は偶然か故意か、実在する人物の情報をなりすましに使ったと見ている。
警視庁に問い合わせをしたところ、その住所には香取諒という男性は確かに存在していた。
即日最寄りの交番の警官が本人確認を行う、ところが不思議というか当然と言えば当然なのだが、当の本人はホテルの予約を取った覚えはなく、実際にその期間には仕事をしていたのも裏付けが取れた。
本物の香取諒の風貌は、姿を消した男性に比べて182㎝と身長も10㎝ほど高く、年齢も26歳と若い。目撃者証言による男性の年齢は30歳位と遠くはない年齢にしても、あまりにも印象がかけ離れている。
何より当の本人に心当たりはなく困惑しているようだった。
念の為『カゲヌシ』について尋ねるも、
「さあ…何ですかそれ?」
逆に問い返される始末だった。
それでは、偽名を使ってホテルに宿泊していた男は一体誰なのか?
身長は170㎝ぐらい中肉中背で、細い目と額の中央にホクロがある。
それ以外、これといった特徴はない。
事件と呼ぶには曖昧だが、不可解であることは間違いなかった。
目ぼしい手がかりも得られないまま、彼の影は深い霧の中に滲んでいくように、時間だけが過ぎていった。
そして翌日の26日水曜日、「ロイヤルビレッジ夕凪島」のフロントに一通の手紙が届く。
宛名は香取諒、部屋番号まで記載されていたが、差出人の名前はなく、封筒には夕凪島の郵便局の消印が押されているだけだった。
その日付は24日月曜日。
ホテルの支配人が警察に連絡を取り、刑事が立ち合いの元で手紙を開封すると、中には一枚の写真と四つ折りにされた紙片が入っていた。
そこには、短いメッセージが書かれていた。
「重岩にて。影は目覚め待つ」
写真には、黄昏空の下に重岩が映し出されていた。
そこには彼、香取諒の名で宿泊したと思われる人物の姿が小さく写り込んでいたが、周囲に奇妙な黒い影が浮かんでいるのが見て取れた。
不気味な影は人型のようでもあり、何か異形の姿のようにも見えた。
その結果、捜査員たちは改めて重岩周辺を捜索することとなった。
しかし結果は空振りに終わる。
封筒は土庄港近くのポストに投函された事が判明したが手掛かりはない。
レンタカーを借りた形跡もなく、バスやタクシーなどの運転手の聞き込みも不調に終わる。
まるで足跡そのものが、影に飲まれたようだった。
そんな中、意外な所から情報が湧いてきた。
島の古老が「カゲヌシ」について知っていると噂が広がり、警察も聞き取りに訪れることになった。
古老によると、「カゲヌシ」は島に古くから伝わる怪異であり、霧や薄明かりの中にのみ現れるという。
その姿を見た者は「影に囚われる」と伝えられ、行方不明や不幸な事件が続くことがあるのだという。
「カゲヌシは人の心の奥深くにある影を映すんじゃ。自分が何を恐れているのか、何を逃れているのか……それが影に姿を変えて現れる。もし、彼が重岩でそれを見たのならば、彼は自らの影に囚われてしまったのかもしれん」
真顔で抑揚をつけて話す古老の言葉に、聞き込みに当たった捜査員は「ドッペルゲンガー」を思い浮かべたが、お伽噺の世界にしか思えず首を捻った。
ただ、古老の瞳が怯えているようにも見えなくもなかった。
それから二日後の28日木曜日、新聞に奇妙な記事が掲載された。
「行方不明の男性が目撃される」
25日の早朝、夕凪島の北東端に位置する葦田八幡神社の境内で、彼が目撃されたというのだ。
関係者が、境内の隅にある、磐座と呼ばれる巨石の前で祈るように座っている彼を見かけた。
しかし、話しかける間もなく、彼は霧の中に姿を消してしまったらしい。
「黒いポロシャツに、ジーンズでした……後ろ姿しか見ていませんが…」
目撃者は話していた。
それ以来、彼は島のどこかに「いるようで、いない」存在になった。
「影を追う者は、影に囚われる」
いつしか、この言葉が島中に囁かれるようになり、それからというもの、いくつかの場所で彼は人々に目撃されるようになる。
だが、その目撃談には共通点があった。彼を見かけた者は、皆一様に不安と恐怖に駆られるのだ。
目撃者たちは皆、彼の背後にある「黒い影」が気になり、目をそらさずにはいられなかったという。
そして姿を現すのは決まって早朝か日が沈みかけた頃、光と闇の境目だった。
島では尾ひれ背びれが付随した噂がささやかれる。
夜霧の中、どこからか現れる「影の男」の姿を見てしまうと、二度と元の世界には戻れないと──。
しかし、そんな話題も夕凪島を舞台にした映画「二十四の瞳・新」の撮影に訪れた俳優たちの物に飲み込まれ、島にあった“影”は再び、静かに、深く、霧のなかへと沈んでいった――。
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