episode 1
その冬はやけに寒かった。
だからなのか、朝、いきなり夫の咳が止まらなくなった。
「ごほごほっ」
冷え込みが強くなる早朝。この寒暖差で咳が出るのだろうか。一度出始めるとなかなか止まらない。
咳止め、のど飴、水分を駆使してなんとか治まるが、ここのところ夫の咳が毎朝で、こちらも少々辟易していた。
最初の頃は大丈夫? と声を掛けていたが、「咳が止まらないのに、話しかけられても返事ができないから困る」と言われてからは、不用意に心配すらできなくなった。
熟年夫婦、結婚20年。
非情と思われるかもしれないが、放っておくのが一番だし、こちらも気疲れしないということに気がついてからは、大丈夫? と問わなくなった。
ある日のことだった。
リビングの掃除をしていたら、キラリと光るものが落ちていることに気がついた。
「なんだろ……?」
拾ってみると、ダイヤのような輝きのある透明な物体。手のひらに乗せてみる。小豆より小さいくらいの、ガラスの粒だった。
見覚え?
もちろんない。
私はこういうビーズやスワロフスキーが装飾された服は好まない。
だから、私のものじゃない。
だが、この煌めきは、絶対に女性のもの。
だとしたら、夫が落とした浮気の証拠の欠片なのだろうか。
私たち夫婦は最初から、子どもは授かれないと分かっていたので、夫婦仲良くやってきたつもりだった。
ショックだった。
仕事から帰ったら、問い詰めてやろう。
とりあえず、証拠としてスマホで写真を撮ろうと思い、手の上に乗せて写真を一枚。
パシャ。
と同時に、ひゃっ!
ふいにしゃっくりが出たのだ。
よく見ると、手の上に乗せてあったガラスの粒がない。
「あれ? 落としたかな?」
浮気の重要な証拠だ。写真は撮ったけれど、実物がないのを理由に白状しないかもしれない。
そう思い、テーブルの下にまで這いつくばって探したが、とうとう見つからなかった。
「まあいいや、こっちには証拠写真がある」
そう思って、長い長い夕暮れを孤独に耐えながら、夫の帰宅を待った。
*
夜、とっちめてやろうと思っていたけれど、実際仕事で疲れ果てている夫の顔を見たら、そんな気にはなれなかった。
証拠のブツも無いわけだから、知らぬ存ぜぬで押し切られてしまうかもと、気後れしてしまったってこともある。
その日は眠れなかったが、さすがに夜明け前には眠ってしまい、なにも聞けぬまま朝を迎えた。
この日も寒い。厳しい冬の寒さ。
そういえば、夫と出逢ったころも、こんなような寒さだった気がする。
淹れたてのコーヒーを飲みながら、回顧する。
少し涙が出て、私は夫を愛しているのだと、改めてそう思った。
「おはよう」
夫が起きてくる。
「おはよう」
私が、コーヒーの湯気で涙を誤魔化していると、また夫の咳が始まってしまった。
夫は手で口元を覆い、洗面所に駆け込む。ドアをバタンと閉めて、ごほんごほんと咳く音が、遠く聞こえてきた。
(また聞きそびれちゃった……咳、大丈夫かな)