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水の精霊

作者: 紅碧

 ドアをノックする硬質的な音が響いた。「どうぞ」と言いながら私は椅子から立ち上がった。

 叔母は始め、恐る恐るといった様子で顔をのぞかせる。それから、まあ、と息を呑み、ドアを大きく開けて部屋に入ってきた。

「まあまあ、とても綺麗ね、素晴らしいわ」

 叔母は一度この格好を見ているはずなのに、大げさに感嘆する。

 叔母の後から、叔父も入ってきた。生来無口な叔父は何も言わない。しかしその表情はにこにこと満足そうだった。

「本当に綺麗ね。みんなびっくりしてしまうわ」

「ええ、特に彼には、まだこの姿を見せていませんから。どういう反応をするのか、楽しみです」

 私は叔父と叔母に精一杯の笑顔を見せる。そして右側にある姿見の方を向いた。

 姿見に映るのは、白いドレスに白いヴェールを被り、ブーケを持った私の姿。私はシンプルなものが好きなので、ドレスはあまり派手なデザインではない。しかし、形や生地にはこだわったつもりだ。ブーケは胡蝶蘭のキャスケードブーケ。白い蘭と葉の緑がよくあっていると思う。

 再び叔父と叔母を見ると、叔母はすでに涙を浮かべていた。この人は涙もろいのだ。彼女は鼻を軽くすすりながら言った。

「お兄様もお義姉様も、きっと喜んでいられるわ」

 父と、母。もう二度と会うことができない二人。

 私は光あふれる窓の外を見た。きっと叔父と叔母には、私が父母を懐かしんでいるように見えるだろう。でも、本当に考えているのはそんなことではなかった。でもそれは、父母がいなくなった出来事と密接に関係していることだった。


*     *     *


 私がまだ少女だった頃、両親に連れられて船で旅行をした。海を挟んだ向こう側の国に住む父の妹を訪ねるのが目的だった。

 船での生活は子どもにとっては刺激が少ない。いくら色んな施設があるにしろ、何日も海の上での暮らしは退屈すぎた。

 それに、両親は子どもに悟られまいと必死だったけれど、幼い私は二人が不仲になりつつあることを感じつつあった。

 母は私と父を心底愛してくれた。父は、私を本当に愛してくれた。でも、母のことはもう愛していなかった。

 それなのに何故わざわざ船で旅行しようなどと思ったのか。その閉鎖された空間の中で、両親の仲はますます悪化していった。二人は毎晩喧嘩ばかりしていた。

 私は両親が好きだったが、一緒にいるのがしだいに息苦しくなっていった。しまいには、二人と同じ部屋で眠ることすらつらくなってきた。

 両親がいる部屋の空気はギスギスしていて、酸素をあまり含んでいないような気がした。吸えば吸うほど苦しくなり、涙がぼろぼろ流れ出た。

 旅の行程が半分すぎた夜、私はついに限界を迎えた。数日間ろくに寝ておらず、これ以上部屋にいる窒息死してしまうという思いに駆られてしまった。

 部屋の鍵は両親のベッドサイドにおいてある。私は静かにベッドから降り、鍵を手に入れ、ドアを慎重に開け部屋から抜け出した。

 客室はどこも寝静まっているせいかとても静かで、時間が止まっているような錯覚を受けた。

 甲板に出ると、夜の海は真っ暗で、ただひたすら闇が広がっている。空には月や星が浮かんでいる分、海の方が闇は濃い。深呼吸すると、潮を含んだ新鮮な酸素を吸収できた。

 甲板のふちには柵があり、高さは私の身長と同じくらい。私は柵の間から海を見つめた。聞こえるのは、船が海をわって走る音だけで、とても静かだった。

「こんばんは」

 そんな中で唐突に声をかけられ、思わず飛び上がってしまった。恐る恐る振り向くと、その人と目が合った。

 全く面識のない男性だった。黒いコートに黒い帽子、黒い革靴に黒いステッキ、その上黒い丸縁眼鏡という黒尽くめのいでたち。中年のようにも見えるが老人のようにも見え、しかしその表情は無邪気な子どもそのものという、なんとも不思議な人だった。

「とても気持ちのいい晩ですね」

 男性はにっこりと笑った。人懐っこく、どこか安心させるような微笑みで、私もつられて笑ってしまった。その瞬間、不思議なことに、私の警戒心も一気に解けてしまった。そして密かに、この人のことをおじさまと呼ぼう、と思った。

 おじさまは、私の隣にやってきて、柵にもたれかかった。それから私の方を向き、再びにっこり笑った。

「ウンディーネのことをご存知ですか?」

「ウンディーネ?」

 私は首を傾げて見せた。

「川や泉に住む、水の精霊のことですよ。美しい女性の姿をしているそうです」

 眼鏡の奥の瞳はとても澄んだ色をしていた。

「普通、彼女たちのような妖精族は魂を持っていませんが、ウンディーネは人間の男と結婚することにより、魂を得ることができます。そして、心配や悲しみを感じるようになったウンディーネは、その分不幸になるようですよ」

 おじさまの声は、同時に聞こえてくるさざなみの音と似ていた。

「そして人間の男と結婚した場合、大きな禁忌が付きまとうのです」

 禁忌、という言葉は、子どもには難しすぎた。私が眉をしかめると、おじさまは絶対に破ってはいけない約束のようなものです、と教えてくれた。そして、その内容も話してくれた。

 私はそれを何度か反芻し、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「悪いことしかないのに、どうしてウンディーネは人間と結婚するのかしら」

 おじさまは笑顔を崩さなかった。

「それでも、魂を得たいからじゃないでしょうか」

「でも、魂を得たら不幸になってしまうのに?」

「確かにそうですね。でも、魂がなければ喜びも楽しさも感じることができませんから」

 おじさまの視線は海に移った。私も再び海を見た。相変わらず闇が広がっている。

 私はそこから精霊が出てくる様子を思い浮かべた。波の間から、突然飛び出してくる美しい女性。人間の男と結婚し、不幸になって涙を流している姿。

 何故か涙が出そうになり、空を仰いだ。真上には銀色の月が浮かんでいた。

「それでは、私はそろそろお暇します」

 最初と同じくらい唐突だったのと、その声があまりにも波の音に似ていたので、一瞬おじさまがしゃべったことに気づかなかった。隣を見ると、おじさまは帽子の縁を少し上げ、赤ん坊のような笑顔を見せた。

「おやすみなさい」

 そう言い残して、おじさまは柵から離れた。私は挨拶を返すことは出来たけれど、口以外は何故か動かなかった。とても軽い足取りで歩くおじさまを、見送ることしか出来なかった。

 おじさまが船内へ入った瞬間、くしゃみが出た。いつの間にか体は冷えきっていた。自分を腕に抱きながら、私は部屋まで走って帰った。その後はぐっすり眠ることが出来た。

 翌日からも、両親の仲は相変わらずだった。私は息苦しくなったとき、おじさまやウンディーネのことを考えるようにした。そうすると、ほんの少し楽に息が吸えるようになった。それでもやはり、どうしても眠れなくなる日はあった。そういう時は、小さな期待を胸に再び甲板に出てみた。しかし、私がおじさまに出会うことは二度となかった。


 両親を二度と会えなくなったのは、明日には目的地に到着するという時だった。

 その夜、両親の言い争いはいつにも増して激しかった。二人とも低い声でぼそぼそと話していたが、母は時々ヒステリックな声を上げた。そのたびに父が慌てて母を制し私を見ながら何かを言った。私は毛布をかぶってジッとしていたが、眠れるわけがなかった。そのうち、二人は揃って部屋から出て行ってしまった。私は少し経ってからベッドを抜け出し、両親の後を追った。

 両親は、私がおじさまと出会ったのと同じ場所にいた。私は息を殺し、甲板の荷物の陰から様子を伺った。

 二人は相変わらず言い争いを続けていたが、距離があったため内容はほとんど私の耳に届かなかった。しかし遠目からでもはっきりわかるほど父はうろたえ、母は興奮していた。

 私はよっぽど両親の前に出て行こうかと考えた。そうすれば、両親はきっと言い争いをやめてくれる。しかしそれは、一時しのぎにこそなれ、根本的な解決にはならない。二人はまた必ず喧嘩を始めるだろう。そう思いとどまった。

 今から思えば、例え一時しのぎでも両親の喧嘩を止めればよかった。そうすれば、きっとあんな自体は避けられただろうに。

 それまでずっと声を荒げているのは母だけだったのに、突然父が怒鳴り声を上げた。その声はとても大きく、私の耳にまではっきりと届くほどだった。

 私は父が何を言ったのか理解できなかったけれど、何かとてもひどいことを言ったのだとは感じていた。母は目を見開き、顔を手で覆って泣き出し……。

 その時だった。

 突然両親の後ろに巨大な水柱が立ち上がり、船が大きく傾いた。危うく転がりそうになった私は、慌てて近くの柵につかまった。両親はほぼ同時に水柱に気づいたが、悲鳴を上げたのは父だけだった。母は水柱を一瞥し、すぐに私のほうを見た。私と目が合う。母は口を動かした。水柱は私の目の前で両親を飲み込んだ。

 どこか遠く、あちこちで船乗りや乗客の騒ぐ声が聞こえており、私はぼんやりとさっきまで両親がいた場所を見つめていた。

 ふと気がつくと、私はいつの間にかベッドの中にいて、部屋には船員の制服を着た人が数人いた。その中に、一人だけ見覚えのある顔があった。他の人より少し年を召した、立派な服を着た人。そう、出航したその日、挨拶をした、船長だ。

 船長はベッドに近づき、調子はどうかと尋ねてきた。私は体を起こしながら大丈夫だと返事をし、何故自分がこんなところにいるのか訊き返した。船長と船員たちは顔を見合わせた。一瞬の間の後、船長は再び私を見返し、説明をしてくれた。

 船体の揺れが収まったあと、数人の船員が様子を見るために甲板に出た。すると、水浸しの甲板に私が倒れていたらしい。どうやら気づかないうちに気絶してしまったらしい。

 さらに船長は続けた。甲板が濡れていたことから高波か何かに襲われたようだが、奇妙なことに、船はどこにも損傷がなかった、と。

 今度は私が説明する番だった。ただ、彼らが知りたかったことは何一つ教えてあげられなかったと思う。私はただ、自分が見たままを話すことしか出来なかった。

 彼らは私が両親を一瞬で失ったことに対し、酷く同情してくれた。とてもいい人たちだ。わざわざ私が目覚めるのを待っていてくれたのに、こんなことしか話せないことを申し訳なく思った。

 一通り話を聞くと、船長はもう少し休んだ方がいいと言ってくれた。それもまた申し訳ないと思ったが、ここで押し問答を繰り広げるのもまた申し訳ないと思い、素直に横になった。

 その時、両親がいなくなってしまったのを悲しいと思わなかった。まだそれほど現実感がなかったのだ。それより私の頭を占めていたのは、ウンディーネのこと。

「一つ目の禁忌は、ウンディーネを水辺で罵ってはならないということ。これを破ると、ウンディーネは水に帰らなければなりません」

 静かな闇の中、おじさまは語った。

「もう一つは、夫が不義を……、ウンディーネ以外の女性を愛してはいけないということ。これを破ると、ウンディーネはたとえ水に帰った後でも、夫の命を奪わなくてはなりません」

 父は海の真ん中で、母にとてもひどいことを言った。そして、これはあくまで推測でしかないが、母ではない誰か別の女性に心惹かれてしまったのだろう。もしかしたら、両親があれほどまで不仲になった原因はそれかもしれない。

 水柱があがった瞬間、母は平然としすぎていた。あの時、私には母の最期の声が聞こえていた。「ごめんなさい」と。

 私の母は、ウンディーネだったのかもしれない。

 次の日、船から下りると、叔母夫婦が迎えてくれた。すでに連絡がいっていたのだろう。叔母は目に涙をため、叔父もなんともいえない表情をしていた。

 二人を見た瞬間、私は両親にもう二度と会えないという事実を思い知った。そして初めて、両親のために涙を流した。


*     *     *


 叔父と腕を組み、赤いバージンロードを一歩一歩進む。その先で、私の夫となる人が待っていた。彼は私が隣まで来ると目を見開き、それからにっこり笑い、綺麗だよ、と言った。

 今度はその人と腕を組み、牧師様の前まで歩いていく。

 私は隣に立つ彼をちらりと見た。

 後になって、自分でもウンディーネのことを調べてみた。それによると、魂を得たウンディーネの子どもは、人間として生まれるのだそうだ。それならば、私はウンディーネの子どもであるが、人間の子どもでもあるのだろう。

 彼は私を一生愛してくれるのだろうか。

 それとも父のように、いつか他の女性に心を奪われてしまうのだろうか。

 もしそうなったとき、私はいったいどういう行動をとるのだろうか。

 彼を許してあげるのだろうか。それとも、ウンディーネの子どもとして、母と同じ行動をとるのだろうか。

 彼が私の視線に気づいたらしく、目が合った。

 私が何を考えているなんて知る由もない、私の夫となる人は、私を見つめて実に優しく微笑んだ。

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