ベリンダ・ノーラント②
家に帰ると父はいなかった。
継母もいない。彼女が引き連れていた侍女や、若い男性使用人の姿もなかった。王城から馬車を用意してエスコートしてくれたマーヴィンスの手をとってベリンダはいつもとは全く違う雰囲気の我が家を見回した。
――懐かしい。自然とそう思ったのは、母が存命の頃を思い出したからだろう。
当たり前のように侯爵家を継ぐのだと思っていた頃。侯爵として采配を振る母について回り、その姿が脳裏に焼き付いていた。
母が病に倒れ、必死に看病して、それでも何の甲斐なく儚くなって。その数ヶ月の間に屋敷はすっかり変わってしまい、父が不倫相手を招き入れてからはもう知らない場所のようだった。だって、ベリンダの居場所はなかったのだから。
それが今は邪魔者は誰もいない。当主の執務室に案内されたベリンダはさらに家の財政を聞かされて驚いた。まさか父の手の出せない資産が残っていたなんて。母の代から仕えてくれている執事は実に有能だった。
「……どうしようかしら」
「何かお困りかい?レディ」
「夢ではないのよね?私……」
侯爵家を守れないかもしれないとずっと思い悩んでいた。ベリンダが母から任されたのはこの家の存続だ。最悪の場合乗っ取られたとしても、民たちが平穏無事に暮らしていければよいと思っていた。けれど父は無能で、財政は傾いていた。婚約者に金があったとして、あのままではいずれ破綻していただろう。
でも今はそんな悩みは全て解決してしまった。婚約者がいなくとも後ろ盾があるし、資産もある。悩みの種の父と継母はトリルトンの手により強制労働施設に入れられるのだと聞いている。シルフィが公衆の面前で自身にノーラント家を継ぐ正当性がないと発言したおかげで爵位目当てで彼女には擦り寄る者ももういないだろう。
まるで、あるべき姿に全て戻ったようだった。母が死ななければこんな未来があり得たと夢想したような立場にベリンダはいる。
「私、何もしていないのに……」
「いいえ、レディ。あなたは逆境にもめげずに努力していたよ。婚約者とだって良好な関係を築けるように連絡をしていたし、元侯爵代理の無謀を諌めようともしていたのを私は知っている」
「でも、どれもダメだったわ。私に力はなくて、お母さまのようにはできなかった」
ハーモンドは微笑むベリンダの手を取ろうとはしなかった。父は憎き元妻の子であるベリンダを顧みることはしなかった。何が悪いのかと泣いて、そしてベリンダは諦めるしかなかったのに。
「そうだとしても無駄ではなかったんだよ。シルフィはそうやって貴族の務めを果たそうとするあなたを幸せにしたいと願ったのだから」
ベリンダはマーヴィンスを見上げた。ずっと近くにいて、でも喋ることもできなかったひと。そんな人と今は間近で多くの言葉を交わしていることも、奇跡みたいだった。
「――あなたも、そう思ったの?」
彼の心のうちを知りたいと思った。ベリンダは侯爵の座を確約されていて、マーヴィンスは日陰で暮らす必要はもうない。障害はもう何一つなく、今なら踏み込むことを許されているのを知っていた。
わざわざトリルトンが声をかけてきたのだ、ほかの誰かを寄越されるのは時間の無駄なのだから早く約束をしてしまいたい。
「シルフィに聞いたわ。あなたがいつも助けてくれたのだって。ねえ、マーヴィンス。あなたはどうして私を助けてくれたの?」
「私の恩人だからですよ、レディ」
「それだけ?」
昨夜、初めて姉妹として言葉を交わしたシルフィ。彼女の言葉をベリンダは信じることにした。目の前の男の、じわりと朱が滲む頬が何よりも雄弁に伝えてくる。
「私ね、自分に自信がないのをわかっているわ。だから夫は私を愛してくれる方がいいの。この人に愛されているのなら自分に価値があるのだってそう思える人がいい」
「……あなたはあなたというだけで素晴らしい人だ。一目見た時から、あなたに冠を差し上げたいと思っていた。クラリッサ様は、今なら許してくださるだろうか」
「もうお母さまはいないのよ。誰に許しを乞えばいいのか、わからない?」
マーヴィンスはたちまちのうちに膝を折った。差し出す準備ができていたベリンダの手を取った彼の琥珀色が真っ直ぐにベリンダに向けられる。
血筋。外見。能力。どれもかベリンダの自信になる。そして何年もの間気づかないうちに捧げられていた献身。幼いあの日、シルフィに笑いかけていた彼を見た時、ベリンダが悟った敗北が覆された。
「――レディ・ベリンダ。あなたに自信という名の冠を捧げる栄誉を、私にくださいますか?」
「ええ、許します」
ぱあっと輝いた表情にベリンダは目を細めた。ひたむきな好意を受けてくすぐったくなる。自分がこれからは同じように好意を返せるのも嬉しかった。
「ああ!ありがとう、レディ・ベリンダ!本当に僕を選んでくれるんだね」
「そうよ。ああ、シルフィのことは怒らないであげてね」
シルフィが「本当は秘密なのだけど、多分言っておかないと後悔するから伝えさせてね」と暴露した彼の秘密に、ベリンダだって感謝していた。シルフィとトリルトンに背中を押してもらわなくては踏み出せなかったと思う。
「今回はあなたに免じて許すよ。彼女も僕を思って言ってくれたのだろうし」
「でしょうね。あの子、本当にいい子なのだから」
シルフィを憎めなかったから苦しかった。でも憎めなくてよかったともベリンダは思う。もしシルフィを本当に憎んでしまっていたのなら、この日を迎えることはなかっただろう。
「いい子には早く伝えてあげないとね。でも必要ないかしら?シルフィ!聞いているんでしょう」
ベリンダが声を張り上げると、執務室の扉が静かに開く。そこにいたのはシルフィと老執事だった。
「シルヴェスタ、あなたも聞いていたの?」
「いえいえ、この分厚い扉越しでは聞こえませんでしたよ」
呆れるベリンダに老執事はしれっと答える。シルフィも同調するようにうなずいた。
「うんうん、ちゃんと聞いていなかったから安心してくださいな、お姉さま。本当よ?でもその様子ならうまくいったみたいね」
部屋に入ってきたシルフィはマーヴィンスに駆け寄ると、手のひらを突き出した。その手をぱちんとはたいたマーヴィンスにベリンダは目を丸くしたが、自分にも突き出されるとどうしていいか困ってしまう。
「ハイタッチですよ、お姉さま!うまくいったときは成功を喜んで手を合わせるの」
「えっと、こう?」
シルフィの手とベリンダの手がやわらかく合わさる。音はちっともならなかったが、シルフィは満足そうだった。
「よし!はい、ではもう心残りはありません。マーヴィンスのほうが私よりずうっとうまくやるでしょうしね」
「……シルフィ、本当に出ていくの?」
「はい。私は貴族になりたいわけじゃないですし、争いの種も残したくないので隣国に行きます。生活基盤はベルカス公爵閣下がお約束してくださいましたので大丈夫です。荷物もまとめ終わりました」
「そんなに早く……」
シルフィが一度屋敷に戻ってきたのは荷物をまとめるためだと聞いていたが、彼女はどうやらほとんどの私物を処分してしまうらしい。その潔さは貴族に未練がないというシルフィの心そのものだ。
「シルフィ、何かあれば遠慮なく頼れよ」
「あらマーヴィンス、私がそんなへまするわけないでしょ。だって今度の頭はベルカス公爵閣下だもの」
「そりゃそうだが」
「ふふ。ではお姉さま、いえ、ノーラント侯爵閣下。私はこれでお暇します。長らくご温情を賜ったこと、感謝しています」
貴族の令嬢そのものの優雅なカーテシーをするシルフィにベリンダは立ち上がった。手をとって顔をあげさせる。すう、と息を吸い込んだ。
「シルフィ。勝手なことを……言うわ」
言い淀んだのは許可なんて必要ないと思いなおしたからだ。
今の距離感ならシルフィを愛することができるだろう。けれど彼女はいなくなる。だから、後悔しないためにベリンダは自分のために告げることにした。
「私はあなたを妹だと思っています。これからずっとね」
「……ありがとう、お姉さま」
伸ばされた手に抱きしめられて、抱きしめて、シルフィが自分とほとんど同じ身長だと初めて気がついた。
それは全く似ていない妹の、これまでちっとも感じることのなかった血のつながりのよすがなのかもしれなかった。