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シルフィ

 シルフィは母が働いているのを見たことがない。

 父もいないのにシルフィの家はなぜか裕福だった。働かなくても暮らしてゆける。シルフィはいつも綺麗なワンピースを着られて、お腹いっぱいご飯を食べられた。ばあやがいて家の手伝いをしなくていいから好きなこともたくさんできる。それが普通でないと気がついたので、周りには内緒にしていた。でもきっと、シルフィが苦労していないことはみんな気がついていただろう。母に躾けられたシルフィの言葉遣いは平民にしてはお上品で、白い手は労働知らずの綺麗な手だったから。

 そうしてシルフィが七つになった頃、シルフィは「父親」に初めて会った。いや、たまに家に来るおじさんが父親だったのだと知った。シルフィはおじさんのことがあまり好きでなかったからがっかりして、さらにおじさんに引き取られると知って嫌な気持ちになった。でも父親がノーラント侯爵である以上は逆らえない。母も乗り気で、その横顔がなんだか知らない人みたいで気味が悪かった。

 シルフィが引き取られたノーラント侯爵家には既に女の子がいた。シルフィより年上の「お姉さま」。ベリンダ・ノーラントはシルフィたちに引き合わされて、ニコリともせずに名乗った。つんとすまして、綺麗なドレスを着て、貴族のお姫様って感じ。シルフィは呑気に思ったが母は気に食わなかったらしい。

 母がベリンダを叱りつけているところをそれからシルフィは何度も見るはめになり、母のことが嫌いになった。だってどう考えても言いがかりで、間違っている。どうして意地悪をするのと尋ねると、「あの娘は邪魔なのよ。仲良くしてはいけませんよ、あなたがこの家を継ぐのだから」と意味のわからないことを言われる。本当に知らない人になってしまったんじゃないかとシルフィは怯えた。

 そんなシルフィに声をかけたのがマーヴィンスだった。

「君がベリンダ様の妹?」

「……だあれ?ベリンダ様のことを知ってるの?」

 黒い髪に琥珀色の瞳。この辺りでは見たことのない色合いの少年は、ひどく整った顔立ちをしている。でも自分を警戒していることが分かって、シルフィはうっとり見惚れたりはできなかった。

「僕はマーヴィンス。庭師の手伝いをしてる」

「マーヴィンスね。わたしはシルフィよ。この家の子になったんですって」

 他人事のように言ったシルフィにマーヴィンスは片眉をあげた。ずいぶんとおとなびた反応をするものだとシルフィは思う。町の子たちは表情豊かで、ベリンダのように怒られても動じないなんてことはない。だからマーヴィンスはベリンダに似ていた。

「マーヴィンスはベリンダ様と仲がいいの?」

「……いいや、話したことはほとんどないよ」

「同じ家に住んでるのに。でも、マーヴィンスが使用人だからなのかしら?お母様は使用人に話しかけたらだめって言うの。おかしいわよね」

 そこにいる人に話しかけてはいけないというのがわからない。あなたは貴族なのだから、と言われてもシルフィは貴族じゃなかったはずだ。えらくて、お金を持っていて、それは父となった人のことかもしれないけど、シルフィは違うのに。けれど町の子たちともやっぱり違ったから、シルフィは自分が何なのかもわからなくて独りぼっちだった。

「私もベリンダ様とお話したことないの。マーヴィンスは私とお話ししてくれる?」

 使用人のマーヴィンスでも、町の子とは違うから話しても怒られないかもしれない。寂しかったシルフィが尋ねると、マーヴィンスは少し考えてから頷いた。

「いいよ。僕の手伝いをしてくれるならね」

「手伝い?なにをすればいいの?」

「ベリンダ様がいじめられないようにする」

 シルフィはぱちくりと瞬いた。ベリンダ様がいじめられている?誰に、というと、多分母にだ。ああそうか、とシルフィは納得する。あの言いがかりはいじめなんだ。母はベリンダ様をいじめるような、悪い人になっちゃったんだ。きっと父になった人のせいだ。

「わかった。いじめはよくないもの」

「君がまともな子でよかった。じゃあ、まずはね――」

 マーヴィンスが提案したのは、シルフィが母の気を引くことだった。その間はベリンダは一人でいられて、いじめられることもない。そうわかって、シルフィは嫌だったけど母とよく過ごすようになった。母はシルフィが家庭教師に勉強を教えられているときも、マナーを躾けられているときも、音楽を習っているときも、外に出てドレスを買うときもずっと一緒にいた。ベリンダがいないといじわるをするような悪い人にならないと思っていたけれど、やっぱり町の人たちを見下す嫌な人になってしまった。たまに父も交じって二人はベリンダや、シルフィの知らない人の悪口を言う。シルフィはそのたびに嫌な気持ちになってマーヴィンスに愚痴ったが、マーヴィンスはシルフィを慰めてくれた。

「ベリンダ様は悪いことなんかしていないのに。どうしてお母様はあんなことを言うのかしら」

「それは君の両親がこの家を乗っ取りたいからさ」

「のっとる?」

 マーヴィンスは家庭教師も教えてくれなかったことをシルフィに教えてくれた。この家はベリンダの母が当主だったこと。そのベリンダの母が亡くなり、父が代理の当主になったこと。父はシルフィの母と浮気をして、シルフィをつくった。そのシルフィにこの家を継がせようとしていること。

「おかしいじゃない。貴族は、血筋が大事だって習ったのに」

「そう、おかしいんだ。こんなのは許されない。でも君の両親は恥知らずなことに乗っ取りを行おうとして、ベリンダ様には味方がいない。一応婚約は結んでいるからその家が味方になるはずなんだけど……あそこの家は期待できないかもね。だってクラリッサ様が亡くなってからは婚約者は手紙もよこさなくなったし」

 ベリンダの婚約者はベリンダのことが好きじゃないらしい。そんなのひどい、とシルフィは思った。好きじゃない人と結婚するのはきっと寂しいことだ。ベリンダは不幸なのだとシルフィにもわかる。シルフィは相変わらずベリンダに避けられていて、ベリンダに嫌われているのだろうと思うけれど、シルフィ自身はベリンダのことを嫌ってなんていなかった。マーヴィンスが、いかにベリンダが努力をして立派な淑女であろうとしているかを教えてくれたからかもしれない。あるいは、シルフィ自身がずっと、自分がここにいることは彼女の権利を侵すことだという罪悪感を抱いていたからかもしれない。

「私、ベリンダ様にこの家を継いでもらいたい。でもそうしたら、私は邪魔なのよね」

「君だけじゃなくて君の両親もね」

「どうすればいいの?マーヴィンス、教えて。マーヴィンスなら知ってるでしょ?ベリンダ様にご飯を渡したり、家庭教師をつけたり、執事を呼び戻したり、マーヴィンスに教えてもらった通りにしたらうまくいったもの」

 ベリンダが母に理不尽に暗い倉庫に閉じ込められてご飯抜きになったとき、シルフィは夕飯に少しだけ口を付けて「私これ食べたくないわ。下げて、ベリンダお姉さまにあげてちょうだいよ。ご飯抜きなんでしょう?」と告げれば母は「そうねえ、あの娘には残飯で十分でしょう」と言った。

 シルフィが「あの家庭教師、レベルが合わないのよ。ベリンダお姉さまにつければいいわ」というと、母は「シルフィにはレベルが低すぎたわね。そうね、あの娘にはこのレベルの家庭教師がお似合いよ」と家庭教師すら取り上げられたベリンダにつけた。

 ベリンダを気遣っていた、昔からいるらしい執事が母に理不尽に辞めさせられた後は新しい若い執事が就いた。顔だけで採用されたその若い執事は、シルフィが「お姉さまにあげてね」と言ったお金を横領した。そのことを「私のドレス費が少ないの!あの執事のせいよ!」と訴えると、たちまちのうちに解雇され昔の執事が戻ってきた。マーヴィンスは「あの執事、無駄が多すぎるから全体的に出費が増えてたんだよな。無能はさすがに雇い続けられなかったのもあるんだろ」とシレっと言っていたけれど。どうして屋敷全体の支出をマーヴィンスが知っているのかは謎だった。

 マーヴィンスはいろんなことを知っている。そしてベリンダの味方で、賢く立ち回る方法をシルフィに教授してくれた。そのおかげでベリンダが飢えずに済み、ちゃんとドレスを着て教育を受けて、学校にも通えたということをシルフィも理解している。

「……こればっかりは、運かなあ」

「運なの?!」

「まあ、多分だけど、うまくいくと思う。()()()()()も準備をしてるだろうし、ついでに言うと侯爵はあまり有能じゃないからね。いざとなれば君がこの家から姿を消せばいいんじゃないかな?ベリンダ様が成人してからの話になるけど。今の侯爵は代理だから、ベリンダ様を退ける理由がなければ彼女が当主になるのは必然だ」

「今いなくなるのはダメなのかしら?」

「君以外の誰かを当主としようとするほうが面倒だろ」

「なるほど」

 シルフィはノーラント侯爵になりたいなんて思っていないが、代わりのひとが積極的になりたがってたら確かに厄介だ。マーヴィンスの言葉にうなずく。

「じゃあ、私がギリギリまで両親を引き付けておけばいいのね?」

「そういうこと。情勢が変わればベリンダ様には強力な後ろ盾がつくから、それまでは君が囮になるんだ」

「変わらなかったら?」

「その時は、そうだな。いっそ君が当主になって両親を追い出してからベリンダ様を復権させるとか?」

「当主ってそんなに力があるの?怖いわ」

 貴族社会にシルフィは相変わらずなじめていない。本当は侯爵になんてなれなかったはずの父がベリンダすら退けようとしているのだから当主の力が強いというのは本当なのだろう。そんな存在に自分がなるというのもぞっとした。

「君は善人だね。そういう人こそ力を持ってほしいものだ」

「いやよ!私、怖いもの。頭もよくないし、ベリンダ様を助けられるのも全部あなたの言うことを聞いてるからよ」

「いやいや、演技力と忍耐強さには目を見張るものがあると思うね。どうしてそんなに頑張れるの?」

 マーヴィンスに問われてシルフィは瞬いた。どうして?だって正しいことのためだ。ベリンダのためだ。貴族のお姫様が、自分たちのせいで地に堕ちて薄汚れて気高さを失うなんて、冗談じゃない。

「私、貴族になんてなれない。お母様たちも貴族じゃないと思う。でもベリンダ様はお姫様なの。お姫様であってほしいって、私が思うの。いじめられてもお姫様はハッピーエンドを迎えるって、絵本で読んだのよ」

 そう答えたシルフィに、マーヴィンスは「僕もそうであるべきだと思うよ」とささやいた。

 ただの使用人なんかではない。きらきらとした貴族のような少年。シルフィを、ベリンダを助ける魔法使い。では、王子さまは誰なのだろう?

 ベリンダの婚約者は期待できない。でも貴族なら結婚をしなくてはいけないのだと習った。血筋を重んじる以上は必然だ。そして、ベリンダの結婚相手は貴族でなくてはならない。

 シルフィはマーヴィンスを見た。「マーヴィンスだって、どうしてそんなに頑張れるの?」同じことを問い返す。

「ベリンダ様に言わない?」

「言わないわ」

「……ベリンダ様のことを、お慕いしているからだよ」

 いつも冷静なマーヴィンスははにかみながらそう言ったから。

 自分が好きなものは、決して手に入らないものなのだとシルフィは理解した。

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