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ベリンダ・ノーラント①

 ベリンダ・ノーラントには妹がいる。

 といっても、血は半分しか繋がっていない異母妹だ。政略結婚だった両親。母が儚くなってからすぐに父が連れてきた継母と異母妹。自分と彼らの間には分厚い壁があるとベリンダは知っている。

 ベリンダは父と継母から疎まれ、そして反対に愛されているのが妹のシルフィだった。ふわふわとした淡い色の髪も、くりくりとした愛らしい瞳も、何もかもがベリンダと正反対だ。あれが愛される象徴なのだと幼いベリンダは悟った。

 そう、愛されるのはシルフィだ。

 だから、ベリンダは驚かなかった。

「もう君のような人間とは付き合っていられない。君との婚約を破棄して、シルフィと婚約を結び直す!ノーラント家を継ぐのは私とシルフィだ!」

 自分の婚約者がこんなふうに人前で詰ってきても、胸中にあるのは諦念だけだった。

 ベリンダは婚約者が自分に会いに屋敷に来ているはずなのに、シルフィと連れ立っている場面を見かけたことがある。ベリンダは選ばれない。いつでも真ん中にいるのはシルフィで、そう、今だって婚約者の横で可憐に佇んでいて――。

「何を言っているのですか?ハーモンド様」

 しかし、そのシルフィは苦々しい顔でこう言ったのである。

 ベリンダは思わずぽかんとシルフィを見た。ハーモンドもそうだ。隣国の使者との交流を深めるパーティーの最中に起こった婚約破棄騒動に関心を寄せていた誰もが驚いただろう。

 シルフィは自分の肩を抱き寄せるハーモンドの手を叩き落とし、ため息をついた。

「私はノーラント家を継ぐことはできません。ノーラントの正統なる血を継ぐ後継者はお姉さまのみですし、入婿の父とノーラント家とは縁もゆかりもない母の娘である私が継げるわけないではありませんか。そもそも家系図もろくに読めないどころか根も葉もない婚約者の悪口を吹聴する男なんて願い下げです」

 キッパリと言い放ったシルフィは、それからベリンダに視線をやった。

「お姉さま。ハーモンド様はこのような方ですし、身辺調査をしたところこれ以外の埃も出てきましたわ。まあ、この失態の時点で『ナシ』ですけれど。私に言い寄ってきた時点で婚約契約書は確認しておきましたから、慰謝料をがっぽりいただきましょう!」

 ニコニコと言い放つシルフィはベリンダの知るシルフィではない。いや、シルフィが「まとも」なのは知っているが、こうも人前でズケズケと言い放つとは思っていなかった。言われた側の浮気男は顔色を赤くしたり青くしたり忙しい。

「な、な、な、シルフィ、どうして……!」

「どうしてもこうしても浮気野郎と付き合っていいことなんかひとつもありませんし、あなたのような方にお姉さまをくれてやる理由がありまして?」

「シルフィ、そうじゃないわ。そっちじゃないのよ」

 ノーラント家の家庭事情は有名だ。唯一の直系のベリンダ、それを蔑ろにする入婿と不倫女。後妻の連れ子のシルフィをベリンダ以上に我が子として扱うノーラント侯爵は不貞を公言して憚らないようなものだ。ベリンダは血の正当性はあるものの、残念ながら後ろ盾がない。もしかすると入婿に乗っ取られるのでは、いやまさかそんなことが許されるはずが、なんてずっと噂されてきたのだ。

 しかし今のこの構図を見る限りは、「乗っ取る」側のシルフィにはこれっぽっちもそんなつもりはなさそうに見える。それどころか、ベリンダの味方をしているのである。

「それではどちらでしょう、お姉さま。私、前々からこの男にも家系図を読めないお馬鹿さんたちにもきちんとお話しなくてはならないと思っていましたのよ。ノーラント家を継ぐのはお姉さまだけですもの。そうですよね?」

「そ、そうだけれど。あなた、それでは」

 ノーラント家を乗っ取ろうとしているのは彼女の実の両親だ。一体どのように反抗するつもりなのかとベリンダは腹の底が冷える思いがした。

 それにシルフィがボロックソに言い放ったハーモンドも一応は伯爵家の息子である。というか母が存命の頃に婚約が結ばれた、ベリンダの後ろ盾となるべき家の男だった。いくら人前で恥をかかされたからと言って考えなしに貶すと逆上される可能性がある。

 シルフィはぱちくりと瞬き、蕩けるような笑みを浮かべて答えた。

「まあ!お姉さま、私の心配をしてくださってる?なんてお心が広いのでしょう!大丈夫ですわ、お姉さまにご迷惑はおかけしません」

 この状態が迷惑と言えば迷惑だ、と言えるわけもない。悪いのはシルフィではないのだし。シルフィは賢く可愛らしく、そして父や継母とは違ってベリンダを疎んだことは一度もなかった。悪口を言っているところを聞いたことさえない。ベリンダが曲がりなりにも貴族の令嬢としての生活水準を維持して暮らしてこられたのは、シルフィの存在も大きかった。

 とはいえ、ベリンダはシルフィが好きではない。だって彼女が、彼女とその母親がいなければ、ベリンダの生活は壊されなかったのかもしれないのだから。

 わかっている。母が死んだ時からベリンダには未来がなくて、シルフィはその最悪の未来を少しはマシなものしてくれる存在だった。恩人だなんて言いたくない。悪女なんて言えもしない。異母妹でなければうまく付き合えたかもしれない相手でも、この関係ではベリンダは劣等感が刺激されるだけだ。

 シルフィはハーモンドの横から一歩踏み出し、ベリンダの前まで進み出た。ベリンダの冷たい指先はシルフィの手袋に包まれた手に握り込まれる。

「……恨んでくれていいです。ベリンダ様」

 自分だけに聞こえるよう、小さく囁かれた言葉にベリンダはパッと顔を上げる。何か返事をする前に、シルフィは目を細めて微笑んでからぐるりと野次馬を見回した。

「私、将来を約束した方がいるのですわ」

「そんな話聞いていないぞ、シルフィ!」

 甘い声の宣言に噛み付いたのはハーモンドだった。もちろん、ベリンダも初耳だ。両親がシルフィのために条件のいい結婚相手を探して――それこそ自国の王子にすら打診していたことは知っていたけれど、決まったなんて聞いていない。決まれば盛大な婚約式を設けたはずだ。

「気安く名前で呼ばないでくださる?あなた、もうお姉様の婚約者でもなんでもありませんのよ」

 冷たく言い放ったシルフィにハーモンドはたじろぐ。おそらくこの会場にいるほとんどの人がさっきからおどきっぱなしだろうなとベリンダは思った。普段のシルフィはこんな冷たい目をすることはない。コロコロと笑い、愛嬌を振りまく可愛らしい少女だ。貴族然とハーモンドに立ち向かうなど、誰も想像していなかっただろう。もちろん、ベリンダでさえも。

「だ、誰だ……その相手は……ッ!君に婚約者がいないことは確かなはずだ!」

「私の権限では答えられませんわ」

「馬鹿にしている!では狂言か!クソッ、この私をここまでコケにしておいてタダで済むとは思うなよ!」

 憤慨するハーモンドにベリンダは怖気つく。シルフィの相手というのが誰であれ、ハーモンドから今後嫌がらせを受けることは確実だ。それを凌ぐことができるのか、シルフィがその気でなくとも自分に侯爵家を継いで盛り立てていく力があるのか。

 後ろ盾も何もなく、功績もない。学校の成績が優良だったのがせいぜいなものだが、それだってなんの役に立つのか。侯爵領は悪い土地ではなかったが、無駄に事業へ投資をする愚かな父のせいで借金をする寸前であることは知っていた。だからハーモンドの家からの援助が必要だったのに。シルフィに乗り換えられたとして、彼女が黙ってさえいれば侯爵家は存続できた。つい俯いてしまいそうになった瞬間、男の声がホールに響いた。

「随分と興味深い見せ物だったね」

 本気で面白がる声色に、その場の視線が全てさらわれる。ベリンダも息を呑んだ。本当はこのパーティーの主役であるはずのその人は目を細めてベリンダに微笑んだ。いや違う、すぐに思い直す。笑みを向ける相手はきっと異母妹(シルフィ)だ。しかしベリンダは続けられた言葉に絶句した。

「まさか、ノーラント家の血を継ぐ麗しいレディが私の前で貶されるのを黙って見ていろとは言わないだろう?」

「トリルトン殿下……」

 隣国の使者――王の従弟であるトリルトン=ベルカス公爵は王位継承権を持っているため殿下と呼称されるほど身分の高い人間だ。そんなひとがわざわざノーラント家の()()()()麗しいレディ、なんて言うことが信じられずベリンダは目を瞬かせることも忘れてトリルトンを凝視した。一方でシルフィは動じずに一礼する。

「お姉さま」

 シルフィにそう囁かれて我に返ったベリンダはドレスを優雅に持ち上げて挨拶をした。それにもトリルトンは気を悪くした様子は見せずに、ゆっくりと近づいてくる。シルフィはサッと邪魔にならぬよう退いてしまい、ベリンダは心もとない気持ちになりながら目の前に立つ男を見上げた。

「君の母君――クラリッサどのには世話になったからね。会えて嬉しく思うよ、レディ・ベリンダ・ノーラント」

「は、母と……お知り合いなのです、か?」

「知らないのかい?」

 どうにか絞り出した問いかけにトリルトンは眉根を寄せてなぜかシルフィを見た。

「どういうことだ?小さなレディ」

「お尋ねになる相手が違うのではありませんか?ベルカス公爵閣下。私も少し前まで存じませんでした。我が父か、リネット様か……マーヴィンス様にお尋ねくださいませ」

 リネット、それにマーヴィンス。思いもよらない名前にベリンダは瞬いた。リネット夫人とその息子のマーヴィンスはノーラント侯爵領の、侯爵邸の別館に住んでいた人物だ。

 存命の頃の母はリネット夫人のことを友人だと言っていて、病で寝たきりになる前は頻繁に別館に通っていた。そのリネット夫人を貴族の令嬢だとはベリンダも勘づいていたが、母が死んで以降はどう接すれば良いか分からず特に関わりのなかった相手だ。――いや。

 シルフィはマーヴィンスと仲が良く、庭で遊んでいるのをよく見かけた。そこに混じりたいと思ったことは、本当はある。だってそれこそシルフィがくる前からベリンダはマーヴィンスと遊んでみたかった。この国では珍しい髪と瞳の色を持つ美しい少年。一度挨拶をしたときに、ベリンダの心は彼にとらわれていた。思えば母がリネット夫人に会うときにベリンダを連れて行かなかったのは、政略結婚を強いられる娘の幼い初恋に気が付いていたからなのかもしれない。

 そんなマーヴィンスの満面の笑みを向けられるシルフィ――そのときベリンダは自分がシルフィにかなうことなどないのだと悟った。

 それからほとんど関わることなく彼らは数年前に別館を出て行った。最後に挨拶をされたことを覚えているが、どこへ行ったのかはベリンダも知らなかった。

「リネットは伝えていなかったのか?あれほどクラリッサどのには世話になったというのに。マーヴィンス、どうなのだ」

 トリルトンに呼ばれて一歩前に進み出てきたのは、ベリンダの知るマーヴィンスその人だった。見覚えのある黒髪に琥珀色の瞳、最後にあった時より背が伸びて大人の男性になったのだと感じる。トリルトンに劣らぬ仕立てのいい服装にベリンダは瞬いた。

 トリルトンと話をしているということは、マーヴィンスは隣国の使者団の一員なのだろうか?どうしてそんなところに?どうしてそんな服装を?疑問で頭がいっぱいだった。

「私もレディ・ベリンダがご存じではないとは知りませんでした。母が話してお分かりになっているのだとばかり」

「随分な扱いではないか。レディ・ベリンダ、本当に母君から聞いていないのだね」

「申し訳ございません、トリルトン殿下。何のことをおっしゃっているのか、見当もつきません」

 トリルトンに冷ややかな視線を向けられるマーヴィンスにベリンダは焦って頭を下げた。何だか自分が悪いような気がしてくる。置いてけぼりにされているのも嬉しいことではなかった。

「君が謝る必要は一つもないとも。顔を上げてくれ、レディ・ベリンダ」

 俯いた視界に手が伸ばされる。それがトリルトンのものだと分かり、ベリンダはむしろ焦ってバッと顔を上げた。差し出された手にどうすべきか分からずおろおろしそうになるが、なんとか自分も手を伸ばす。トリルトンに恥をかかせてはならないというそれだけがベリンダの原動力だった。

 トリルトンの手はあたたかくベリンダの手を握ったが、本音を言えば離してほしい。ベリンダは事なかれ主義だ。こんな、隣国の公爵閣下に手を取られて目立つのは趣味ではない。それを言えば、こんな目立つ場所で婚約破棄などをやらかした元婚約者が元凶であるのだが。

「ノーラント前侯爵クラリッサどのは我が妹リネットの恩人だ。クラリッサどのの正統なる後継、レディ・ベリンダにも当然私が声をかける理由はあるのだよ」

 周りに聞かせるようにトリルトンはゆっくりと言った。つまり、ベリンダの後ろ盾は他でもないトリルトンである、と。それを聞いてハーモンドは顔色を失い、貴族たちはざわめいた。まさかここに来てベリンダに味方が現れるとは。ノーラント侯爵家の後継争いだけではなく、隣国との関係にも大きく影響を及ぼすのではないか。

「お姉さま、顔色がよろしくありませんわ。ご移動された方がよろしいのではなくて?」

 ベリンダもまたあまりの事態に顔色を変えていた。シルフィが低い声で――ベリンダではなくトリルトンに訴えるように囁くと、トリルトンは頷いた。

「このような場で公然と侮辱をかけられるとはレディ・ベリンダも心労があるであろう。些事は私が片を付けよう。マーヴィンス、レディ・ベリンダにこれ以上粗相のないようにせよ」

「は。レディ・ベリンダ、お手を」

「ええ……」

 この場から離れられるのはベリンダにとっても願ってもないことだ。マーヴィンスにエスコートをされて退室するベリンダに向けられる視線は様々だったが、それらから逃れるだけでは今のベリンダには精一杯だった。

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