夏のひと時
それは夏休み入ってすぐの頃だ。
七月も終わり、そろそろ八月になるという頃。
魔神との戦いでの反動もすっかりなくなり、アリサと日がな夏休みの宿題の処理をしていた。最初の方、アリサが指を鳴らすとシャーペンが勝手に動き、答えを次々と埋めて行っていたのだが、三十分くらいして、目の前でシャーペンを走らせる俺を見て、何か思ったようで。
「アリサもそうする」
と、自分の手で宿題をやり始めた。
それから一時間、紙とシャー芯の擦れる音が鳴り続ける部屋。アイスコーヒーの入ったグラスを呷り、俺はふと湧いた疑問を何となく呟いた。
「アリサの父親、破壊の概念魔術で何で俺の肉体を壊しに来なかったんだろ。不可能なのか?」
シャーペンを走らせていた手を止め、アリサはゆっくりと顔を上げ。
「可能ではある。人体を直接破壊すること……我慢して」
「ん?」
アリサが指を鳴らして手を振ると。
「えっ」
腕が……。右腕が、文字通り崩壊した。爪が指が手首が腕が皮が肉が血管が骨が崩れ落ちていく。それから血が、噴き出している。その事実を、現象を呆然と眺めて、そして。
「いっ!」
頭の認識がようやく追いついて、いや、追いつかない。景色がチカチカと白み始めて、けれど時折赤が目に入って来て。崩れ落ちた腕を探して左手が彷徨って……すぐに指が鳴る音が聞こえた。
「……なんだ、今の」
身体が急に熱くなったと思うと、腕が、戻っていて、痛みが消えた。あぁ、痛かったんだ。
クーラーが効いた部屋の筈なのに、汗が頬を伝った。下着が濡れて気持ち悪かった。
「今体験してもらった通り、可能」
そうか、今のが、身体を直接崩壊させる破壊の概念魔術。
「ただ、非常に難しい。世界の狭間を超えるのに殆どの魔力を消費した父上なら猶更」
「どういうことだ?」
「身体を直接破壊する場合、その者の扱える魔力、及びその者が保有する魔力、その者が無意識、意識的に張っている魔力障壁と防御と同等の魔力。さらに概念魔術発動時に働く世界の修正力を超えて、その上で肉体そのものを崩壊させるための魔力が必要。父上ほどの適性があっても殆ど誤魔化せない程の必要魔力」
「世界の修正力? って世界の穴を塞ぐのに働いてるやつだよな、この場合でも働くのか?」
「ん。魔術には全部働いてる。世界を元に戻そうとする力。あらゆる魔術、例えば魔術で起こした火と火打石で起こした火は同じ火でも魔術的には同一ではない。特に世界に結果を押し付ける概念魔術にはより強く働く。それらを振り切るために出力を上げなければならない」
「だから余計に魔力が必要と……んーそのわりに、今、結構簡単そうにやっていたけど」
「腕だけならまだ難しくない。それに、気を抜いていた、あなたが。アリサに。魔力防御は薄くなる。信頼している相手の前では」
「へ、へぇ」
「好き? アリサのこと」
「……言わせんな」
熱くなった顔を逸らす。ゆっくりと顔を戻すと、アリサは薄く微笑んだ。
魔神との戦い以降、アリサは何というか。うん。心臓に悪い。
そう、心臓に悪いのだ。
「買い物行って来るから。アリサは適当にしていてくれ」
「一緒に行く」
「へ?」
白いワンピースにつばの広い白いハット帽。避暑地に来たお嬢様かと。アリサの白い肌と相まって何だか眩しい。
「いや、ちょっとスーパーに行って来るだけだから」
「良い。行く」
「おう」
白いヒールの付いたサンダルを履いたアリサが隣に立ち、手を差し出してくる。
「? なんだ?」
「察しの悪い騎士。エスコート」
「……はいよ」
俺はアリサの騎士。この世界にいる間、俺は、アリサを守る。アリサを助ける。
そんな必要なんて無いくらい強い子だけど、それが俺の責任だから。
アリサの手は柔らかくて、滑らかで。なんというか、手が荒れるなんて経験を知らない手をしていた。
「……このまま手、繋いでいくのか?」
「だめ?」
「だめ、というか、アリサは、恥ずかしくないのか?」
「別に」
「そうか」
うちの同居人は、どうにも心臓に悪い。スーパーでカゴを持つ時は流石に手を離したが。沙良から受け取っていた買い物メモを開く。
「……卵と、醤油……は特売で一人一本か」
アリサを連れてきて正解だったようだ。二本買って一本は綿貫家に献上しよう。
「なぁ、アリサ」
「ん?」
「アイス何が良い?」
「……この、チョコの奴。この間食べた時、美味しかった」
「おう」
パリパリのチョコを売りにしている棒アイスか。俺はスーパーなカップのバニラが夏は美味しいと思っている。……久々に食べるな。お風呂上りにアイスが無い生活にすっかり慣れてしまった。五年という時間の長さを改めて実感する。
「帰るか」
「ん」
アリサは淡々と、けれどその視線は並んでいる様々な商品に目を奪われていて。何と言うか、微笑ましい。
「何か興味ある奴、あるか?」
「……これ、なに?」
「カップ麺だな。お湯を注げばラーメンになる」
「……ラーメン?」
「あぁ」
向こうにも似たようなものはあったが、そっか。
「試しに食ってみるか」
「ん」
そんなわけで、とりあえず五年前の俺のおすすめをカゴに追加。
これからはこういう時間、少しずつ増やしていきたいところだな。
そして家に帰って。早速お湯を沸かして。
「……不思議」
「まぁ、凄い技術だよな」
お湯を注げばそこには段々お店で食べるラーメンと遜色なくなってきている、企業努力の賜物とも言える逸品が出来上がるのだから。
ちまちまとフォークで麺を絡めて食べるアリサ。ちらりと目の前で食べる俺を一瞥して。
「……豪快な食べ方」
「麺を啜るの好きなんだよ」
麺の食感がダイレクトに味わえる気がするし。汁との絡みを感じられるし。何なら口の中で弾け飛んだ汁が喉にぶつかる熱も好きだ。
アリサは一つ頷き。ゆっくりと麺を持ち上げると。
「……ちゅる、ちゅ、ずずっ。んくっ」
「……無理しなくて良いぞ」
麺を啜ろうとして、でも、上手く吸えなくて、結局フォークで絡めて口まで運んで。
「……難しい」
「出来ない人も珍しくないから」
「そう……」
恨めし気に、カップに残る麺を見つめ。
「今度はお店のラーメンに連れて行くよ」
「お店の」
「あぁ。お勧めがあるんだ」
「……楽しみ」
玄関の方で足音、扉が開いて。
「匠海くーん。アリサちゃーん、いるー?」
沙良が入って来たのがすぐに分かった。
「あ、なんか美味しそうなの食べてる。夕飯食べられる?」
「余裕」
「同じく」
「ふふっ、良いね」
アリサとの日々は、少し心臓に悪いけど、穏やかだ。




