綿貫沙良の朝。
綿貫沙良にとって、羽賀匠海は手のかかる幼馴染で、大事な人である。朝と夕方、誰かとコーヒーを楽しめる貴重な時間を共有できる人でもある。
何かと言い訳付けて、彼の家を訪れていた。小学生の頃は遊ぼうと。中学生の頃から今に至るまではご飯のお裾分けに。今はついでに、趣味の一つを謳歌できるからと。
昔の私はお裾分けだけならまだしも、一緒に食べるために何を言い訳にしていたのだろう。
いや、誰かと一緒にいたいことに、理由なんて無い。彼の傍の居心地が良い。過去の私がそう結論して、今もそれが継続しているだけのこと。
そんな彼に、同居人ができた。ただの同居人じゃない。
そこにいるだけで、空気を変えてしまう。すれ違えば思わず振り返って目で追ってしまう。
流れる黒髪は艶やかで、黒い瞳は全てを映すかのように澄んでいる。小柄な体格も堂々とした立ち居振る舞いが、それを感じさせない。
そう、強いのだ、彼女は。存在そのものの格が、違うんだ。それを嫌でも感じる。感じさせられる。
強すぎる存在は利用できない。身に余る存在に手を出すと、敵対だろうが共闘だろうが、どちらにしても痛い目を見るのだ。
だからどうした。
「よし」
綿貫沙良の朝は早い。
匠海君は渡したくない。
私なんか敵わない存在かもしれないけど。
匠海君は、匠海君だけは、渡したくないんだ。
向かい側の家を見上げる。息を吸って吐いた。朝の少し冷えた空気に肺が満たされる。少し淀んでいた胸の内を新しものに入れ替える。
なんとなく意識していた幼馴染を明確に意識するようになったのは中三の頃。
受験ももうすぐという頃のこと。そろそろ願書を出さねばという頃のこと。偏差値ギリギリの第一志望か。ワンランク下げて余裕で入れる高校かで、何度も担任と面談し、両親と言い争った。
「こっちも大学進学率も就職率も高い」
「無理に背伸びしなくても良い。高校受験だけが人生じゃない」
「三年間頑張って、大学は第一志望目指せば良い」
何度も聞いた大人の理屈。提出期限が迫る願書。焦りと一般的に正しい理屈に、私は丸め込まれ始めていた。
「どうするんだ? 高校」
昔から頭が良い匠海君は、私の第一志望宛の願書を書き終えてペンを置いた。
「んー。ワンランク、下げようかなって」
口に出そうと思えば、すんなりと言えた。安全策。当たり前の選択。ありふれた選択。
「沙良がそれで後悔しないなら、良いけどさ……」
匠海君はいつもそうだ。口数少ない割に、目が雄弁なんだ。今もほら、本心じゃないだろって。でも。楽なんだよね、諦めるのって。
ただ、大人の言う通りにして、大人の敷いたレールに乗って。自分の言う通りに動く子どもに、満足気に頷いて応援してくれる大人の顔色を窺って。
そうすれば、みんな余計な不安に襲われず、笑っていられる。
「俺と、同じ高校、行くって」
「匠海君とは、会えるよ。お向かいさんだし」
「そんな話、してないよ」
静かな声には、確かな怒りが込められていた。
抑えようとして、結果としてはちゃんと抑えきれている。けれど、長年一緒にいた私だ、気づかないわけがない。
「ごめん」
だから先んじて謝る。情けない私は謝罪しかできない。
「俺は、沙良と一緒だから、頑張ろうって。沙良と、同じ高校に、行こうって」
震える声。抑えようとしていたものが、漏れ始めている。でも、彼は優しいから。私を責めようとする自分を、許さない
いつもそうだ。私は彼の優しさに、甘えてしまうんだ。だけど。
「沙良がそう言うなら、俺も、同じところに行く」
こんな答えは、予想外だ。
「だ、駄目だよっ。折角、特待生枠も狙えるのに」
「知らねーよ。そんなのどこに行ったって、俺は俺で、沙良は沙良で。一緒に目指すなら、折角だから、県で一番上のところに行こうってなっただけで」
匠海君にしては、支離滅裂で、合理性なんて無いことを言って。
「……悪い」
そんな風にまくし立てる自分を許せないから、すぐに抑え込んで、謝ってしまう。
「俺が、口出せることじゃないな」
ううん。そんなことない。そんなことないんだ。
できもしない約束をしてしまった。そしてやっぱりできなかった。それだけのことなんだ。
「だから、謝らないでよ……」
「でも、それでも、俺は、沙良と同じ高校に行きたい」
「どうして?」
確固たる決意。覚悟を決めた人の目。自分の行く先をしっかりと定めている人の目はどうしてこうも、真っ直ぐなのだろうか。
その目に、強さに、憧れた。
「……入学してから話すよ。だから、俺も」
「ううん。わかった。私が諦めないよ。匠海君は合格して待ってて。私も、ちゃんと合格するから。だから、ちゃんと聞かせてね」
匠海君と両思いだ。怖い確信。的外れなら私はひと月寝込む。怖い確信は私の気持ちを強く、確かなものにしてくれる。
全力で頑張って、今も、全力で。誰にも、選んだことに後悔させないように。私の希望を最後は受け入れてくれた担任に、両親に、私に諦めないという選択をくれた匠海君に。
後悔させない。それが私の責任。覚悟。
強さに憧れて、憧れじゃなくて、私も、その強さを得ようと決意して。
ただ、ただただひたすら、上へ、上へと。どこまで続くかもわからない道を歩き続けて。その先に、匠海君がいると信じて。
新入生代表になれて。続く定期試験でも学年一位。獲ってしまったからには、誰にも奪わせはしない。……アリサちゃんにも、匠海君にも。この席は渡さない。
強く、強く。まだまだ。強く。強く、強くなりたくて。一位の座を守り続けて。
けれども、入学して二年目、彼は合格してからしてくれる筈の話を、未だにしてくれない。
コーヒーミルを回す手を止めた。ちらりとアリサちゃんの方を見る。その横顔には何の感情も感じられないけど、真っ直ぐな眼は手元に注がれている。
「あー。えっと、アリサちゃん、えっと、大丈夫?」
「……問題無い」
包丁を使う手が、何だろう、どこか覚束ない。見ていて危なっかしい。
ジャガイモの皮を剥いてもらっているのだが、手の皮の方が剥かれてしまいそうだ。おっかなびっくり包丁の方を動かしている。芋の方を動かすんだよと言いたいが飲み込む。何を言っても余計な一言になりそうな気がする。芋を持つ手も若干震えてる。
あれでどうやって、あの弁当を作ったんだ? 正直、食べてみたくなるくらいに美味しそうだった。でも何だろう、アリサちゃん、体調が悪そうにも見える。なんか弱々しい。よし。
コーヒーの準備できたら代わろう。今日はサイフォン式でドリップコーヒーだ。あのコクとまろやかさを味わいたい。
アルコールランプに火をつけてアリサちゃんに視線を戻すと。
「んん?」
ジャガイモが、綺麗に皮が剥かれ、乱切りされている。……どんな早業だ。
目の前で起きた現象に脳が追いつかない。えっと、それじゃあ。
「あ、あー。匠海君起こしてきてもらって良い? 今日、出かけようね、って」
「ん」
「そういえばアリサちゃん、連絡先」
「連絡先?」
「スマホある?」
「……ない」
「そっか」
「……聞いておく。彼に」
そう言ってアリサちゃんは背を向ける。私は朝ご飯作りに集中する。と言っても後は、出し巻き卵と味噌汁を作るだけ。すぐだ。匠海君はジャガイモの入った味噌汁が好きだ。
朝食をテーブルに並べ終えて、それから、未だ降りてこない二人の元に、足を向けた。




