終章
赤や黄に色づいた山のふもとから、晴れた空にむかって白い煙がひとすじ上っていた。
煙がたっているのは、山の奥へと続く踏み分け道を外れて、木立の中へ数十歩ほど入った樫の古木のそばだ。地面に掘られた浅い穴の中で、ヨモギの葉が燃えている。
穴の前に、二つの人影がうずくまっていた。一人は真っ黒に日に焼けた、なめし革のような肌をした老翁。もう一人も、よく日焼けした少年だ。二人とも脱いだ笠をかたわらに置き、頭を垂れて一心に手を合わせている。
「どうかお頼み申します。息子がこのまま亡うなったりしたら、嫁も孫たちもこの先暮らしていけません」
少年も、幼い声で祖父に続く。
「おねがいします。父ちゃんをたすけてください」
老翁が背負っていた包みから小さな葛籠を取り出し、煙の前に供える。
「わしらがお捧げできるのは、今はこれが精いっぱいです。だけんども、息子の足が治って、また舟に乗れるようになったら、そのときは堅魚を桶いっぱいお持ちします。息子は浜一番の漁師なんです。ですんで、なにとぞ山姥さまの薬を分けてくだされ」
老翁と少年はしばらくの間、手を合わせて、頼みごとを繰り返し唱えていた。やがて、穴の中の葉がほとんど燃え尽きて、煙が薄くなった頃、ようやく顔を上げた。
「山姥さまに聞こえたかな。薬をわけてくれるとおもう?」
そうさな、と老翁が孫の頭をなでる。
「おまえがよくよくお願いしたから、きっと聞きとどけてくださるだろう。明日、もう一度来てみような」
老翁が木の枝を杖がわりにして、少年に支えられながら立ち上がる。二人は手をつないで、煙をふりかえりながら、踏み分け道のほうへゆっくりと去っていった。
彼らの姿が木立のむこうに見えなくなり、しばらくして。樫の後ろの笹やぶが揺れて、繁みの中からほっそりした影があらわれた。鹿革を被衣のように頭からすっぽりかぶっているが、どうやらひとだ。
人影はあたりをうかがいながら煙に近づき、穴の中に土を落として火を消すと、葛籠を拾い上げた。そのひょうしに鹿革がずり落ちて、あごのとがった小さな顔があらわになる。
黒い髪を男性のように髷に結っているが、若い娘──真朱だ。
以前は、ふっくらとやわらかな線を描いていた頬は引き締まり、表情からも娘らしい甘さが消えて、だいぶ印象が変わっている。
真朱は葛籠を胸に抱えると、鹿革をかぶりなおしてきびすを返し、再び笹やぶの中へ戻っていった。
松焔山が燃えて、天狗たちが去ったあの秋から、三年がたつ。
赤い光球が東の方角へ飛んでいくのを見送った後、真朱は尾栗郷へは戻らず、近くの山に身を隠した。それ以来、山の中で人目を避けて暮らしている
たった一人、何の備えもなく身一つではじめた山中での暮らしは、厳しかった。特に、はじめの二年ほどの間は、一日いちにちを生き延びるのがやっとで、飢えや体調の悪化で、このまま死んでしまうのではないかと覚悟したことも一度や二度ではない。それでも、山を下りることは考えられなかった。ひとと関わるのが怖かった。
毎晩のように夢をみた。郷の女たちの怯えた悲鳴、罵声とともに石を投げつけてきた男たち、剣をふり上げた叔父の顔──。そのたびに飛び起きては、ふるえる体を抱きしめて、朝が来るのを待った。
あれから、叔父たちがどうなったのか、尾栗郷のひとたちが今どうしているのかは知らない。確かめるつもりもない。二度とひととは交わるまいと、心に決めていた。
時おり山の中でも、近隣の郷の住人と思しきひとたちを見かけることはあったが、そんなときは、そっとその場を離れたり、木立や繁みに身を隠して、存在を悟られないように気をつけた。
そんなふうに息をひそめて、必死に日々を重ねて──
ところが半年ほど前、そんな暮らしに思いがけなく変化が生じたのだ。きっかけは、山の中で迷子を見つけたことだった。
真朱は笹の繁みを抜けると、斜面にそって進み、崖をおおう葛のつるをかきわけた。
重なりあった幅広の葉の下から、岩肌にうがたれた穴の入り口があらわれる。真朱が棲み処にしている場所のひとつだ。
洞口は一丈ほど、奥行きは半丈もないくらいの、洞穴とも呼べないような小さなくぼみだが、雨風をしのぐには十分だった。彼女が山の中に複数もっている棲み処の中では、上等の部類だ。
半年前に迷子を見つけたのは、山の東のすそにある泉のそばの棲み処の近くだった。
泣き声が聞こえて、そちらへ足を向けると、窪地に幼い少女がうずくまっていたのだ。歳の頃は四つか五つといったところだったか。郷の子どもが迷いこんだようで、ひざから血を流して泣きじゃくっていた。
はじめは、関わるつもりはなかった。けれど、結局、放っておけなかったのは、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙をこぼしている少女の様子が、小さい頃の香与に少し似ていたからだ。
真朱は少女の傷を手当てして、おぶってふもとまで運んでやった。山を下っているうちに少女が眠ってしまったので、しかたなく郷へつながる踏み分け道の近くの古木の根もとに少女を下ろし、郷の人たちを呼びよせるために煙をたいた。
繁みに隠れて待っていると、しばらくして、郷の住人らしき数人がかけつけてきた。眠っている少女を見つけると、安堵の声をあげて抱き上げて、郷へと連れ帰っていった。
翌日、真朱は古木の根もとに、蕗の束とひとかかえの芋が置かれているのを見つけた。おそらく少女が、郷の大人たちに真朱のことを話したのだろう。
郷のひとたちに自分の存在を知られてしまったことに、一抹の不安や恐れはあったが、そのときは満足感のほうが大きかった。久しぶりに心が満ちるような快さがあった。
今回は、これでよかったのだ。けれど、こんなことはもうしない。郷やひととかかわるのは、これきりだ。
あらためて、そう心に決めた。はずだったのだが──
それから二十日ほどたって、真朱は山のふもとから再び煙が上っているのを見つけた。
行ってみると、郷の住人らしき若い夫婦が、古木の根もとに握り飯を供えて、少女の手当てに使った薬を分けてほしいと頼んでいた。家族がケガをしたらしい。
そこではじめて真朱は、自分が郷で「鹿革の山姥」と呼ばれていることを知った。
真朱が少女を手当てした際に使ったのは、之布岐の根や青久須莉の汁を混ぜてつくった傷薬だった。もともとは自分の矢傷を治すために、薬効のありそうな植物をあれこれと試しているうちにできたもので、たしかに効果には自信がある。
真朱は迷ったが、彼らが帰った後で、握り飯と引き換えに薬をつくって置いた。
それ以来、しばしば薬を求めて郷から人がやって来るようになり、古木を介してやりとりが続いている。古木のそばから上る煙が、取引の合図だった。
真朱は鹿革を脱いで葛籠と一緒に洞口に置くと、ひざをついて穴にもぐりこんだ。
奥の地面には笹の葉が敷きつめてあり、団子状のかたまりが並んでいる。昨日、仕込んだばかりの傷薬だ。
真朱はいくつかの団子を選び出すと、洞口に戻って岩に腰かけた。あらためて日差しの下で、一つひとつの団子の状態を確かめ、最もよさそうな三つを選ぶ。
取り分けた三つの団子を新しい笹の葉でくるみながら、真朱は古木の前で手を合わせていた老翁と少年を思い浮かべた。
二人とも笠を持って、小さな荷を背負い、足につけたはばきは埃まみれで汚れていた。言葉にも、わずかに聞き慣れないなまりがあったような気がする。近辺の郷ではなく、もっと遠くから来たのかもしれない。
このところ、薬を求めてやって来るひとが少しずつ増えている。その中に、ふもとの郷の住人ではなさそうな人々がぽつりぽつりとまじるようになったことには、薄々気づいていた。
薬のことが噂にでもなって、周辺に広がっているのではないかと、気になりはじめていたのだが、もしかしたら、真朱が思っていたより遠くまで伝わっているのかもしれない。
(頃合いかな……)
そのうち、山姥の正体に興味をもつ者が出てくるかもしれない。そろそろ、やりとりを終わりにするべきときだろう。これ以上続けるのは、たぶん危険だ。
もともと、こんなに長く続けるつもりはなかった。
ふもとに煙が上がっているのを見ると無視できず、二度、三度とやりとりを重ねるうちに、ずるずると今日まできてしまったが、ずっとこんなことはやめよう、やめるべきだと思っていた。
真朱はため息をつき、笹の葉でくるんだ薬の団子を見下ろした。
本当は、自分でも気づいている。薬のやりとりを今日まで続けてきたのは、思いがけずはじまった郷のひととの関りを終わらせたくない気持ちが、真朱の中にもあったからだ。
今も、ひとは怖い。けれどその一方で、古木を介して郷のひとたちとやりとりするのは──楽しかったのだ。
胸にわいた寂しさをふりきるように、真朱はひとつ頭をふった。
そう、楽しかった。でも、今度こそおしまいにしよう。薬のやりとりは、これが最後だ。
ひとの気持ちやかかわりが、どれほど容易く変わってしまうものであるかは、骨身にしみて知っている。今はよくても、真朱は所詮、得体の知れない山姥だ。何かの拍子に風向きが変われば、郷のひとたちは躊躇なく彼女を狩ろうとするだろう──松焔山の天狗たちが山を追われたように。
真朱は洞口にかぶさる葛の葉を押しやり、空を見上げた。
煙を見ると、きっとまた決心が揺らいでしまう。この機会に、煙が見えないくらい離れた、一つ二つ山を越えたあたりへ棲み処を移してもいいかもしれない。天気が悪くなければ、明日にでも周辺の山に下見に行こう。
ひとつ息をつき、かたわらの葛籠に目をやる。使いこまれた粗末な小さな籠。
薬のやりとりをやめなければならない理由は、もう一つある。このやりとりを続けているうちに、いつの間にか、真朱は薬を求めてやって来るひとたちからの供え物をあてにするようになっていた。
真朱にとって、彼らが置いていく芋や野菜は貴重だった。供え物のおかげで、危うく飢え死にしそうだったところをしのいだこともある。けれど、
(こんなことを続けていたら、だめだ)
供え物に頼ることにこのまま慣れてしまったら、いつかこのやりとりが断たれたときに、きっと自分を支えられなくなる。知らずしらずのうちに生じていた甘えを、自分の中から取り除くためにも、やはり棲み処を移すべきだろう。
移った先では、ねぐらを確保したり、水場や植生、獣の通り道を探ることを、また一からやり直さなければならないが、しかたがない。
そんなことを思いつつ、葛籠をひざにのせ、蓋を開けて──真朱はぱちくりした。
籠のいちばん上にのっていたのは、真新しい草鞋だった。
手に取ると、日差しを吸った乾いた稲わらが香った。懐かしいにおい、懐かしい手触りだ。
山に入ったときに真朱が履いていた草鞋は、早々にすりきれてぼろぼろになってしまった。今は、稲わらのかわりに藤や葛のつるを編んだ履物を使っている。丈夫だけれど、履き心地は草履に比べてかなり劣る。
草鞋の下には、丁寧にたたんだ淡い黄色の布が入っていた。
指先でつまんで、かるく広げてみる。布は麻の小袖だった。もとは、あの少年の母親か姉のものだろうか。ところどころ繕ったあとはあるが、まだ染の色は鮮やかで、尾栗郷の娘だったら、祭りのためにとっておくような衣だ。
真朱は、小袖と草履をまじまじと見つめた。今までもらった供え物は、食べ物ばかりだった。衣や履物が置かれていたのは、はじめてだ。
空になった籠に、笹の葉でくるんだ薬をおさめて蓋を閉めると、真朱はもう一度小袖を手にとって、穴の外に出た。そっと小袖を広げて、肩にかけてみる。
日の光の下では、黄色がいっそう鮮やかだった。張りのある布の肌触りが心地よい。くるりと回ると裾が広がり、かすかに何かのにおいがたった。青くさいような、塩辛いような、今までかいだことのないにおいだ。むっと濃密な、けれど嫌なにおいではない。
と、小袖のたもとから、何か小さな物が転がり落ちた。
慌ててかがみこみ、行方を追う。
地面の上で、薄いかけらがきらりと光る。落ちたのは、親指の爪ほどの大きさの淡い紅色の貝殻だった。二枚貝の殻の片割れだ。
小袖のもとの持ち主の物だろうか。これも山姥への供え物か。それとも、もとの持ち主が抜き取り忘れたのか。
真朱は貝殻をつまみ上げ、日の光にかざした。
(きれい……)
まるで、薄紅色の花びらみたいだ。こんなにきれいな貝殻ははじめて見る。
ふいに記憶の底から、以前、尾栗郷にやって来た、わたりの鍛冶師から聞いたはなしが浮かび上がってきた。
山を越えたずっと先には、見わたすかぎり水をたたえた「海」というものがあるらしい。水面の色が季節や天候によって、深い青や藍色から目のくらむような黄金色まで様々に変わり、川や池とは比べものにならないくらいたくさんの魚や貝が獲れるという。さらに、西のほうの岸辺では、早春に花びらのような貝殻がいくつも流れ着くとか。
真朱は日差しに透ける薄紅色の貝殻に見入った。
もしかして、あの鍛冶師が言っていた貝殻は、これのことだろうか。あの老翁と少年は、海のそばから来たのだろうか。
郷の人々と炉端を囲み、鍛冶師のはなしを聞きながら、香与と、一度でいいから見てみたいねと、ため息をついたことを思い出す。
──それなら、見に行けばいいじゃない。
ふいに自分の内からわいてきた言葉に、真朱はまばたいた。
見に行く……、山を越えて、海へ?
(まさか、そんなこと)
打ち消しかけた心の中に、再び声が響く。
──どうして、行けないと思うの? 見に行きたいのでしょう?
にわかに鼓動が早くなる。真朱は小袖の襟をかきよせた。
(だって……)
海へ行くには、この山を出なければならない。山の外には、ひとがいる。
けれど、胸の奥からわいてくる声は消えなかった。
ひとの暮らしに戻るわけではない。日々を過ごす場所が、山の中から、海への道行に変わるだけだ。道中、ひとと行きあうのが怖いなら、道を避けて進んだっていい。
どのみち、棲み処を移るつもりなのだ。山を離れて、ずっと遠くへ行ったっていいではないか。
急に、目の前が開けたような気がした。
真朱は大きく目を開き、貝殻を握りしめた。
翌朝、まだ空が暗いうちに、真朱は山のふもとの古木の前に立った。
川でよく洗った体に昨日もらった小袖を着て、足には草鞋を履いている。髪も細い枝を使って丁寧に梳いた。およそ三年ぶりの娘らしい恰好は、懐かしさが半分、こそばゆさが半分だ。
古木の根もとに膝をつき、薬を入れた葛籠を置く。
昨日の老翁は、息子がケガをしたと言っていた。きっと、一家の暮らしを支える働き手なのだろう。この薬が少しでも役に立てばよいが。
次に真朱は、そばの地面にあいている穴にむかった。
老翁たちがヨモギの葉をいぶしていた穴だ。それ以前にも、薬を求めてやってきた何人ものひとたちが、同じ場所で煙をたいてきたので、穴の中は煤で黒くなっている。
真朱は穴の底にたたんだ鹿革を置くと、周囲から石を拾い集めてきて、穴を埋めていった。
今日かぎり、山姥はこの山からいなくなる。彼女はこれから、海と薄紅色の貝殻の流れ着く岸辺を見に行くのだ。
真朱がいなくなった後も、しばらくの間は、薬を求めてひとが来るかもしれない。そんなひとたちは──特に遠方からわざわざやって来たひとは、薬を得られないとわかったら、がっかりするかもしれない。そう思うと、いくらか胸が痛んだが、決心は揺らがなかった。
まもなく、穴があったところは石を積んだ小さな塚のようになった。
手についた土をはらい、真朱は晴れやかな気持ちで石の小塚をながめた。
この先、薬を求めてひとが来ることがあっても、穴が埋まっていれば異変があったと気づくだろうし、石を取り除けてその下に埋まっている鹿革を見れば、山姥が去ったと悟るだろう。真朱から、薬を求めてやって来るひとへむけた、置き文代わりのしるしだ。
いつの間にか、あたりはうっすら明るくなっていた。
穴を埋めるのに、思ったより時間がかかってしまった。まだ日は昇っていないが、まもなく郷のひとたちが起きだすだろう。急いで出発しよう。
自分を奮い立たせるつもりで、勢いをつけて立ち上がる。
と、そのとき。背後から下草を踏みしだく音が聞こえて、真朱はぎくりとした。
昨日の老翁と少年だろうか。もう薬を受けとりに来たのか。
慌てて古木の後ろに隠れようとしたが、間に合わなかった。
踏み分け道のほうから、繁みをかきわけて人影があらわれる。老翁たちではなかった。笠をかぶり、旅装束に身をつつんでいるが、昨日の二人より大柄な男性だ。
真朱を見て、男もぎょっとしたように足を止めた。しばし、うかがうように沈黙した後、用心深げに問いかけてきた。
「あんた、郷のひと? このへんに、山姥が出るって聞いたんだが──」
言いかけたところで、樫の古木に気づいたようだ。「ああ、これか」とつぶやき、大きく広がる枝を見上げながら、古木に歩みよっていく。
真朱はそっと後じさった。
この男も、薬を求めて来たのだろうか。そうだとしたら、一日遅かった。冷たいようだが、あきらめてもらうしかない。
真朱は足音を忍ばせて、踏み分け道のほうへむかった。怪しまれる前に、急いでこの場を離れよう。
と、背後で、「おっ」と男の声がした。ちらりとふりむくと、男が腰をかがめて、葛籠に手をのばすところだった。
真朱は思わず、声を上げた。
「──っ、だめっ!」
言ってから、「しまった」と思ったが、もう遅い。訝しげにふりむいた男に、真朱はつっかえながら言った。
「……ええと、それ、ほかの持ち主のものよ。たぶん。……だから、その、勝手に持っていってはだめだと、思……」
真朱を見上げていた男が、葛籠を置いて立ち上がる。
「あんた、もしかして──」
まずい。
真朱は後じさった。
山姥だと悟られただろうか。よけいなことを言うのではなかった。
もう、怪しまれてもかまうものか。きびすを返し、繁みにむかってかけだす。
「──待てよ!」
後ろから腕をつかまれ、引き戻される。強い力に、真朱は身をこわばらせた。
なんてこと。まだ出発さえしていないのに、もうひとにつかまるなんて──
焦る真朱の頭の上から、のん気な声が降ってきた。
「──あんた、やっぱりそうだろ。俺だよ、わからないか?」
まさか、顔見知りか。真朱を知っているということは、尾栗郷の住人だろうか。
全身から、冷や汗がふきだす。あれから三年もたっているのに、こんなところで捕まるなんて。
男が片手で真朱を捕まえたまま、もう一方の手でかぶっていた笠をとる。
おい、とゆさぶられ、真朱は怖々、男を見上げた。
近くで見ると、男は声から予想したより、だいぶ若いようだった。真朱といくらも歳の違わない青年のようだ。尾栗郷に、こんな若者がいただろうか。
記憶をたぐるうちに、目の前の顔が、あるひとつの面差しと重なる。
真朱は大きくまばたいた。
(まさか……)
いや、そんな馬鹿な。
だが、黒い瞳を躍らせて、きかん気の子どものように得意げな笑みを浮かべているこの顔は──
「……あなた、まさか、天狗の──」
青年が、にっと笑みを深くする。
真朱は口をあけた。
「本当にそうなの? 本当に、あの──?」
大天狗の鷲比古なのか。
目をみひらき、青年をながめまわす。彼の容姿は、目立つ特徴が別人のように変わっていた。
髷に結った髪は、いくらか白髪がまじっているが、ほとんど黒い。肌の色も、やや浅黒いが、以前のような赤銅色ではない。昨日、訪れた老翁たちの日焼けした肌のほうが、よっぽど鷲比古の以前の肌の色に近かった。それに、何より──
「あなた、翼はどうしたの?」
鷲比古の背中には翼がなかった。金色の光を散らす、あの鷲のような大きな翼が。
ああ、翼な、と鷲比古がちらりと自分の肩の後ろに目をやって言う。
「とれちまった」
「とれた⁉」
そんなことがあるものなのか?
鷲比古が肩をすくめる。
「東の山へ群を運んだところまではよかったんだが、むこうに着いてすぐ、俺だけまた験力が使えなくなってさ。葛のあざも消えて、翼もしなびてとれちまった。どうも群を運ぶのに、限界をこえて験力を絞り出しすぎたみたいなんだな。魔縁葛が枯れちまったらしい」
「枯れた⁉」
「そ。要するに、ひとに戻っちまったらしい」
真朱はまじまじと鷲比古をながめた。たしかに、今の彼はただのひとに見える。
「大天狗が魔縁葛を枯らすなんて、前代未聞だとさ。また大騒ぎだよ。ジジイどもは嘆くし、ほかの連中は泣くし……。けど、ひとが天狗の群にはいられねえからな。結局、追放になったってわけだ」
「追放⁉」
真朱は口をぱくぱくさせた。
「群を離れたってこと? で、でも、あなた、天狗の頭領だったんでしょう? 頭領がいなくなったら、群が困るんじゃないの?」
「秋沙たちがなんとかするさ」
からりと笑って、鷲比古が言う。
「また苦労をかけることになっちまったが、あいつらがいれば、群は大丈夫だ。先代が残した魔縁葛の種もある。あれがあれば、新たに大天狗を迎えることができる。もう、大天狗の養育はこりごりだって言うなら、天狗だけで群を維持する新しい仕組みをつくったっていい。いずれにせよ、あとは、あいつらが決めることだ」
真朱は口を開きかけ、再び閉じた。
三年前、ほんの短い間だったけれど、間近に接した鷲比古と彼の仲間たちを、真朱は覚えている。その記憶に照らせば、鷲比古がひとり群を出たことも、残される側がそれを受け入れたことも、彼が言うほど簡単だったとは思えない。
だが、鷲比古がそんなふうに言うのなら、真朱が言えることはなかった。
「しかし、あんたが山姥だったとはな」
鷲比古が面白そうに、真朱を見下ろす。
「西のほうで、山に棲みついた山姥が、まわりの郷から貢物をせしめてるって噂を聞いてさ。詳しく聞けば、どうやら俺たちが以前に棲んでた山の近くみたいだろ。俺たちが移った後に入りこんで好き勝手やっていやがるのは、どんな奴だろうと思って、よってみたんだが──」
「……ちょっと待って。貢物をせしめてるって、何?」
真朱は眉をよせた。
「どういうこと? わたし、そんなことしてない!」
薬と引き換えに、供え物をもらっていただけだ。それも、真朱のほうから要求したことなど、一度もない。なぜ、そんな噂がたっているのか。
「だいぶ遠くまで評判がとどろいてるぜ。鹿革の山姥ってさ」
「わたしがそう名乗ったわけじゃないよ」
真朱はぶすりと言った。
「それに、山姥は今日でやめたの。ここを出て、西へ海を見に行くのよ」
へえ、と鷲比古が瞳をきらめかせる。
「俺も西にある泊へ行くところなんだ」
泊というのは、海を往来する船が停泊する場所のことだと、鷲比古が説明する。
「ずっと西に大きな泊があって、大陸との交易船が出てるらしい」
「タイリク……?」
「海をわたった先にある、でっかい土地だよ。この日の本のくにの何倍も広い地面が、遥かかなたまで広がってるらしい。天狗は大昔に、大陸からわたってきたって言い伝えがあるんだ」
真朱はまばたいた。見わたすかぎり水をたたえた「海」、そのむこうに広がる「大陸」。とても想像がつかない。
鷲比古がちょっとあごをひき、真朱をながめて片眉を上げる。
「あんた、そのなりじゃ、長旅は心もとなくないか。一日、二日でたどり着く道行じゃねえぞ。せめて、もう一枚単と、できれば袿も手に入れたほうがいいだろ。たしか今日、門前に市がたつはずだから、そこで調達しようぜ」
真朱はまばたいた。鷲比古の言葉を頭の中で反芻し、尋ねる。
「……それ、一緒に行こうって言ってる?」
「だって、あんたも海に行くんだろ?」
当然のように返されて、真朱は口をつぐんだ。
鷲比古と一緒に──海へ?
黙りこんだ真朱を、鷲比古はしばし見下ろしていたが、ややあって、そろりと言った。
「……ひょとして、恨んでるのか? あのとき、あんたを連れて行かなかったから」
(恨んでる──?)
真朱は慎重に自分に問いかけた。
そう、たしかに山で暮らしはじめたばかりの頃は──、いや、その後もかなり長いこと、恨んでいた。一緒に連れていってほしいという彼女の渾身の頼みを、鷲比古があっさり退けて、仲間とともに去ったことを。
置き去りにされたことが悔しくて、恨めしくて。そして、そんなどろどろした思いでいっぱいになっている自分が、みじめでたまらなくて。自らの内から生まれる怨嗟に灼き尽くされてしまいそうだった。
けれど、今は──?
注意深く自分の心の内をさらい、真朱はゆっくり口を開いた。
「……恨んではいないわ」
今は、もう。
三年の間に、真朱は山の中で、孤独を怖れを見つめ、ひとり生きるすべを身に着けた。そして今、自分の意志で山を出て、自分の足で望みを叶えに行こうとしている。
もう、以前の真朱ではない。
真朱は、ひとつうなずいた。
「……そうね、行き先が同じなんだもの。一緒に歩くことになるのは、しかたないものね」
鷲比古が「しかたないって、なんだよ」と口をとがらせる。
小さな子どもが拗ねているようで、思わず真朱はふきだした。そのまま、なぜか笑いが止まらなくなる。鷲比古がだんだんむくれ顔になっていくのが、またおかしい。
と、ふいにぼすんと頭に笠をのせられた。
真朱が慌ててひさしを持ち上げると、「行くぞ」と声が飛んできた。すでにこちらに背中をむけた鷲比古が、繁みをかきわけ、踏み分け道のほうへ歩いていく。
真朱は微笑んだ。笠をかぶりなおしてあご紐を結び、跳ねるように追いかけて、鷲比古の隣りに並ぶ。
鷲比古についていくのではない。頼みこんで連れていってもらうのでもない。
並んで歩く二人の行く手に、木立のむこうから朝日が白く射しこんでいた。
以上で完結です。
読んでくださって、ありがとうございます!
ご意見、ご感想などいただけたら嬉しいです。
今後の参考にさせていただきます。
(ちなみに友人からは、「もっと恋愛っぽい展開を期待したのに。
ぜんぜん異類婚姻譚じゃない」と言われました……)
………………………………………………………
《主な参考図書》
小松和彦(責任編集)「怪異の民俗学第五巻 天狗と山姥」河出書房新社、2000.
窪田文明「信州の天狗──その祭りと伝説」一草舎、2007.
杉原たく哉「天狗はどこから来たか」大修館書店、2007.
知切光歳「天狗の研究」原書房、2004.
ヒサクニヒコ「テングの生活図鑑」国土館、1995.