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ひとと天狗と

 滝のように降った激しい雨は、しばらくしてぴたりと止んだ。松焔山の上を厚くおおっていた雲も消え、後には満天の星空が広がった。

 その山の一角。数本の倒木が岩に引っかかり、そこへさらに泥が積もって小山のようになった場所で、倒木と岩の隙間が動いた。内側から泥が突き崩され、はじめに手が、次に小さな肩と頭があらわれる。

 最後にうんと力をこめて泥の中から腰と両足を引き抜くと、真朱はその場に転がり、大きく息をついた。

 全身が強ばっていてずっしりと重く、このまま地面に同化してしまいそうだ。冷たい泥に埋まっていたせいで、体の芯まで冷えきっている。

 あの後──渓谷の川端で迫りくる濁流を目にして、真朱はそそりたつ崖にむかって逃げた。川はまたたく間に水嵩を増し、激しくしぶきを上げる暗い流れが谷いっぱいに広がった。

 だが、険しい岩壁をよじ登り、逃れた先の崖の上は、火の海だった。まもなく雨が降りだすと、火の勢いは徐々に弱まったが、猛烈な雨足のせいでまったく視界がきかなくなり、煤や灰の混じった泥水が地面に激しい流れをつくった。

 真朱は泥水に足をとられて流され、途中で倒木の積み重なった隙間にはまりこんでしまい、そのまま動けなくなってしまったのだった。

 泥まみれの顔をぬぐって、のろのろと身を起こし──真朱はあたりの様子に気がついた。

 山の景色はすっかり変わっていた。

 見わたすかぎりむきだしになった地面を、星明りが青白く照らしている。鬱蒼としていた樹葉や下生えは燃え尽きてなくなり、黒焦げになった幹だけがぽつりぽつりと墓標のようにつっ立っている。あたりはしんと静かだ。

 真朱は呆然とまばたいた。あまりに変わり果てた光景に、頭がはたらかない。

(叔父上……、郷のみんなは……)

 崖にむかって走る彼らの姿が浮かぶ。たしか、みんな真朱より先に川端から逃げたはずだ。渓谷の崖を登って──その後は、わからない。

 ふいに、川端で対峙した叔父たちの表情が脳裏にひらめき、真朱は息をつめた。

 ふりおろされる刃。鈍く光る切っ先。彼女にむかって投げつけられた石。

 くちびるがわななき、体がふるえだす。あのとき、川の水が押しよせてこなければ、きっと真朱は殺されていた。

 両眼から、涙があふれてくる。真朱は動くほうの腕で、自分の体を抱きしめた。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 郷をつぶすつもりか、という叔父の声が耳によみがえる。

 そんなこと、考えもしなかった。父の死が誰かの手によるものだったという事実と、その理由を追うことだけで頭がいっぱいだった。それでは、いけなかったのか。

 真朱の行動が、国司や郡司の怒りをかった──

 彼女を責める叔父の言葉は、言われてみれば、たしかに頭では理解できる。けれど、それでは、どうすればよかったのだろう。

 叔父のように、知らないふりをしていればよかったのか。疑いも悲憤も飲みこんで、何も触れずに、父親は落石に巻きこまれて亡くなったのだと自分に言い聞かせて。

 岩を砕いた砂礫の中から、青銅の剣を見つけたときのことが浮かぶ。そもそも、あの剣を掘りだしたのが間違いだったのか。

 そう考えて、ふと、ここへは鷲比古を追って来たのだと思い出した。

(そうだ、天狗は……?)

 真朱は涙をぬぐい、周囲に視線をむけた。

 ふもとから頂まで山肌があらわだが、天狗らしき姿は見えなかった。それどころか、真朱のほかに動くものはひとつも見あたらない。虫や鳥や、獣の気配もない。みんな、あの炎に焼かれ、豪雨に流されてしまったのだろうか。

 再度、あたりを見まわした真朱は、斜面の上のほうで金色の光がまたたいているのを見つけた。小さな光だが、輝きは星より明るい。

 真朱は、しばしその光を見つめていたが、ややあってよろめきながら立ち上がった。光にむかって、ゆっくり歩きだす。

 地面は濡れていて、ところどころ泥がたまってぬかるんでいた。何度も転びながら、真朱は光にむかって歩を進めた。

 近づくにつれて金色の光は大きくなり、後ろに枝を広げた木の影が見えてきた。

 真っ黒に焦げているが、枝ぶりに見覚えがある。真朱が寝泊まりしていた崖に生えていた、朴の大木だ。その枝の下に、たたずむ人影がある。

 人影に気づいて、真朱はぎくりと足を止めた。郡の兵卒か、それとも郷の男衆だろうか。

 後じさろうと引いた足が、ずるりと滑った。天地が回り、真朱は泥水を跳ね上げてひっくり返った。地面に背中をしたたか打ち、思わずうめく。

 ふりむいた人影が、真朱を見とめて声を上げた。

「おまえ……!」

 真朱は、はっとなった。痛みを忘れて、大股で近づいてくる声の主をふりあおぐ。

(この声は──)

 星明りの下に、白髪の青年が浮かびあがった。

 真朱の前に立った鷲比古は、よほど驚いたのか、少しの間口を開けて、よろよろと立ち上がる彼女を見下ろしていた。ややあって、言った。

「すげぇ格好だな。泥のかたまりが動いてるみたいだぞ」

「……なりたくてこうなったわけじゃないよ」

 わざわざ指摘されなくても、ひどい恰好なのはわかっている。そんなことより──

 真朱は、鷲比古の背中の翼を見つめた。艶を帯びた茶色の羽根のまわりに、金色の光がたゆたっている。

「あなた、翼が……。験力が戻ったの?」

 ああ、と鷲比古が翼を広げる。羽根の間から、金色の光があふれ出た。先刻別れたときより翼の厚みも増して、二まわりくらい大きくなったように見える。

 安堵と、なぜかかすかな寂しさを感じながら、真朱は「そう……」とつぶやいた。涙ぐみそうになり、急いで微笑む。

「よかった。これで、頭領を継ぐことができるのね。……ああ、でも山がこんなになってしまって……、これから暮らしていけるの?」

 いや、と鷲比古が首をふる。

「ここで暮らすのは、もう無理だ。だから、山を移ることにした」

(え……?)

 真朱の心臓が、大きくどくんと鳴った。

「……どこへ?」

「ずっと東。もうここへ戻ることはないだろうな」

 そう言って、鷲比古が朴の木を見上げる。

「昔、ジジイに連れられて、よくここで飛ぶ練習をしたんだ。最後に、もう一度見ておきたくてさ」

 真朱は、どくどくと鳴る自分の鼓動を聞いていた。彼らが行ってしまう。どこへも行き場所のない、真朱だけを残して──

 考えるより先に、言葉が口から転がり出ていた。

「……わたしも行きたい」

 ふりむいた鷲比古が、「は?」と眉を上げる。かまわず、真朱は言った。

「わたしも行く。一緒に連れて行って……!」

「いや、待てよ。おまえはひとだろうが」

「天狗になるよ。──ううん、きっと、もうなってるわ。わたし、空を飛べたのよ。あなたたちみたいに……!」

 真朱は両手を組み合わせた。国庁から郷まで飛んだときのように、光の翼があらわれるよう念じる。だが、やはり今度も金色の翼はあらわれなかった。

「本当だよ。本当に飛べたの。だから、お願い。一緒に連れて行って……!」

「俺たちと行ったら、もうここへは戻ってこられねえぞ。郷へも帰れなくなるし、親父さんの死んだ理由をつきとめるんじゃなかったのか?」

 口を開きかけ、真朱は言葉をつまらせた。

 今までの出来事が──、いくつもの感情が──、頭の中と胸のうちに一挙にあふれてきて、破裂しそうになる。けれど、そのひとつも言葉にすることができず、真朱はただ激しく首をふった。

 父の死の真相をつきとめるまでは郷に帰るまい、そう思い定めたのは、ほんの数日前だ。だが、今では遠い昔のことのようだった。

「……間違いだったのかもしれない。わたしのしたことは、全部……」

 だが、それなら、どうすればよかったのだろう。何度も繰り返した問いが、再び頭の中をめぐってくる。

 ときを戻せたとしても、きっと違う選択はできない。父親の死の真実を、知らずにいたほうがよかったとも思えない。けれど、その結果、真朱は帰る場所を失った。

 真朱は腕で顔をおおった。

 剣をふり上げた叔父の顔が、石を投げつけてきた男たちの顔が、怯えたように真朱を見た女たちの顔が、次々に脳裏をめぐる。

 何より確かだと思っていたつながり。変わることなく、ずっと続くと思っていた結びつき。そうではなかった。こんなにもあっけなく壊れてしまうものだったなんて。

「もう、ひとは嫌……、ひとでいたくないの……!」

 鷲比古はしばらく黙っていたが、ややあって声がした。

「……そんなこと、言うなよ」

 鷲比古の手が、真朱の腕に触れた。ゆっくりと、彼女の顔から腕を除ける。

「少なくとも俺は、おまえを見ていてはじめて、何かに必死に取り組むっていうのがどういうことだか知ったんだ」

(必死に……)

 真朱は頭をふった。そう、たしかに必死だった。けれど、ただ必死だっただけだ。その先に、もたらされ得るものについては、あまりに無頓着だった。

 真朱は、鷲比古の袖をつかんで、握りしめた。

「……お願い、一緒に連れて行って。わたしも、天狗になりたいの」

 ひとは怖い。どんなに強固に思えた親しみも、これほど容易く覆るのだと知ってしまっては、もう二度と信じることなどできそうにない。もう、ひとの中では暮らせない。

「お願い……」

 甲まで赤いあざにおおわれた鷲比古のてのひらが、真朱の手をつつむ。期待をこめて見上げた少女に、静かに言った。

「……おまえは、連れていかないよ」

 瞳を凍らせた真朱の指をそっと衣からほどき、視線を山に向ける。

「……俺は、ひとが憎いよ。仲間を奪って、山をこんなふうにしたひとが憎い。自分がもとはひとだったんだと思うと、自分の生まれさえ憎みそうになる。だけど──」

 鷲比古はちょっと言葉を切り、真朱に目を戻してかすかに微笑んだ。

「おまえがひとなら、俺はひとのすべてを憎むことはせずにいられる。……おまえは、ひとでいてくれよ」

 真朱が口を開くより早く、彼女のまわりでどっと風が巻き起こった。髪が、衣が、吹き上げられて乱れる。強い流れが絶え間なく吹きつけてきて、目を開けていることができない。

「そんなの……!」

 腕をかかげて顔をかばいながら、真朱は懸命に声を上げた。

「そんなの、勝手だよ……!」

 風のむこうから、笑い声がした。

「天狗は勝手なもんだ。しかも俺は、その頭領の大天狗なんだからな」

 風の音が高まる。奔放な風が渦を巻いて真朱を押しつつみ──

 はっと目を開けると、真朱は一人、暗い小道の真ん中に立っていた。

(ここって……)

 真朱はとまどって、周囲を見まわした。どういうことだろう。何が起きたのだ。たった今まで、山の中にいたはずなのに。

 小道の片側には築地塀が長くのびていて、すぐそこに板葺きの屋根をのせた四つ足門があった。塀のむこう側には、刈りこまれた松の枝と、豪壮な建屋の屋根がのぞいている。

 誰ぞ、身分のある人物の屋敷のようだ。そう考えて、ふと思いいたる。もしや、ここは真朱が捕えられた、あの公達の屋敷だろうか。

(どうして、こんなところに……)

 そのとき、ぱあっと空に光が射した。北に連なる山並みのむこう──松焔山の方角から、巨大な赤い光球が昇り、流星のように空を横切る。束の間、あたりが昼間のように明るくなって──

 声もなく立ちつくす真朱の頭上に、長い光の尾を残して、光球は東の空へ消えていった。


あと一話続きます。

次話更新 7/21予定→ 7月中→ 8月上旬

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