鷲比古の験力
松焔山の中腹は火の海だった。熱風が渦を巻き、木々が次々に炎に飲みこまれていく。
乱流にもまれながら、鷲比古は炎の上を飛んだ。
どうして、こんなことになったのか。同じ問いが何度も頭をめぐる。松焔山は太郎坊の結界で守られていたはずだ。それが破られたのか。
炎の隙間をぬって、群のねぐらが点在するあたりに下りる。激しい炎に照らされて、あたりは真昼より明るい。
「誰か、いないか──⁉」
仲間の姿を探して、鷲比古は炎の中を走った。
数十人の天狗が棲み処にしている一帯だが、今は一人の姿も見えない。みんな、どこへ行ったのか。空の上にも、仲間の姿は見えなかった。
(頼む、無事でいてくれ……!)
火の粉を散らして、樅の巨木の上から火のついたかたまりが落ちてきた。柴を編んだ円蓋だったもの──天狗の寝床だ。さらに、めりめりと音をたてて、炭と化した幹が崩れ落ちる。
鼻と口をおおって飛びすさった鷲比古は、燃え落ちた幹のむこうの岩陰に、うずくまる影を見つけた。背中に翼らしきものが見える。──天狗だ。
鷲比古は夢中でかけよった。
「おい、無事か──」
言いかけた言葉が消える。うずくまる影には、何本もの矢が突き立っていた。翼の一方は縮こまり、もう一方は中途半端に伸びていて、動かない。
近づいて、「おい……」と呼びかける。うずくまる影から応えはない。翼をよけて、丸まった背中に手をかけると、ぐらりと傾いて地面に転がった。
まだ若い──たしか昨年、成年に達したばかりの一人だ。わき腹に二本、首筋に一本、深々と矢が刺さっていた。あどけなさの残る顔は血と煤で汚れて苦痛にゆがみ、みひらかれた両眼が悲しげに虚空をにらんでいる。
鷲比古は膝をつき、横たわる天狗を見下ろした。
頭の中が真っ白で、何も思考できない。激しく鳴る心の臓の音だけが、体中に響いている。
ややあって、鷲比古はのろのろと手を伸ばした。天狗に刺さっている矢を抜いて、まぶたを閉じてやる。
制御を失ったように体がふるえる。胸の底からいくつもの感情がこみあげてくる。怒り、悲しみ、悔い──いや、そんな言葉では、とてもあらわしきれない。
(どうして、こんなことに──)
と、意識のすみに何かが引っかかった。
考えるより先に、体が動いていた。天狗の亡骸を抱えて、身をひねる。
一瞬前まで鷲比古がいた場所に、鈍く光る刀身が振り下ろされた。
刀を握った兵卒が、舌打ちする。いつの間にか、胴鎧をつけた数人の兵卒が忍びよっていた。
鷲比古は亡骸を抱えて飛びすさり、薙ぎ払われた刀をかわした。飛び立とうとしたが、周囲の炎に阻まれて、翼を広げることができない。
「逃がすな、囲め!」
兵卒が散らばり、じわじわと鷲比古に迫ってくる。
鷲比古は背後をとられないよう後じさりながら、地面に落ちていた枝を拾った。一方の腕で天狗の亡骸を抱え、もう一方の手で燃える枝をふりまわす。
兵卒の一人が声を上げる。
「死骸だけでも奪いとれ! ひとつでも首を持ち帰れば、来年は雑徭に駆り出されずにすむ!」
燃えさかる炎が兵卒たちの顔を照らす。血走った目。熱風にあぶられて、てらてらと光る赤い顔。
鷲比古は、ひとの暮らしをながめるのが好きだった。天狗の領分に入りこんできた連中を、仲間と一緒にからかうのももちろん面白かったが、それ以上に、天狗よりはるかにひ弱でなまっ白いひとたちが、木や土を積み上げた住まいで、いろいろな道具を器用に使ってちまちまと暮らす様子は、どれだけ見ていても飽きなかった。けれど──
つばを飛ばして声を上げながら、兵卒のひとりが刀を突き出して突進してくる。鷲比古はよけきれず、枝をふるって受け止めた。
その隙を逃さず、別の兵卒が斬りかかってきた。刀の切っ先が、鷲比古が抱えた天狗の骸の翼を裂く。
鷲比古の視界のすみで、茶色の羽根が散る。体の芯を、猛烈な衝動が貫いた。手にしていた枝の先が、ぱっと燃えあがる。鷲比古は火のついた枝をふり抜いて、兵卒の顔面に叩きつけた。
兵卒がぎゃあっと悲鳴を上げて、刀を取り落として顔をおおう。ほかの兵卒が仲間にかけよってきて、ぎらぎらとした目を鷲比古にむけた。
「この、化け物め!」
(──化け物は、どちらだ!)
次の瞬間、空を裂いて紫電が落ちた。一帯が白い光に飲みこまれ、とどろきが大地をふるわせる。
しばし残響があたりを揺らし、それが消えて──、いかずちが落ちたところを中心に、地面が広く焦げて、半球状にえぐれていた。兵卒たちの姿はない。燃えていた炎までもが吹き飛んでいる。
鷲比古は荒い息をつきながら、目の前の光景をながめた。
(これは……、俺がやった、のか……?)
頭がくらくらする。力の余韻か。全身がかるくしびれている。
そこへ、空の上から鷲比古の名前を呼ぶ声が降ってきた。炎をぬって、勢いよく伊那が飛び下りてきた。
「鷲比古! おまえ、とうとうやったな……!」
いくぶんぼうっとしている鷲比古の肩をつかみ、興奮してまくしたてる。
「験力だよ! とうとうものにしたんだな!」
(俺が、験力をふるった……)
見ると、両腕両足に、つるが巻きついたような赤い斑紋が輝いていた。ささくれて、けば立っていた翼は、蜜をぬったように艶をおびて大きく伸びている。羽根の間から金色の光の粒がこぼれて、翼のまわりにたゆたっている。
「とうとうやったな……!」
いや、と鷲比古は頭をふった。喜びはなかった。
「……遅すぎた」
腕を開いて、抱えていた天狗の亡骸を示す。
伊那がはっと顔をこわばらせた。痛ましげに、若い天狗のひたいをなでる。
「あいつら、突然襲ってきたんだ。気づいたときには、もう結界の内に攻めこまれてた」
そうか、と鷲比古は奥歯を噛みしめた。かがり火がぶつかってもびくともしなかった笹竹や、風をはね返していた木の札が浮かぶ。天狗の験力を破るような、新たな呪術だろうか。
「ほとんどの連中は、山の上に逃げて無事だ。行こう、鷲比古。まもなく、太郎坊さまが御力をふるわれる」
「ジジイが……⁉」
そのとき、あたりに地を這うような低いとどろきが伝わった。山そのものがうなり声を上げたような──いや、鳴っているのは地面ではない、空だ。
伊那が「急ごう」と言って、鷲比古から天狗の亡骸を抱きとる。両腕で亡骸を抱えて、翼を広げて飛び立った。彼に続いて、鷲比古も飛び立つ。
炎と煙の上に出ると、上空から冷たい風が吹き下ろしてきた。湿ったにおいのする風だ。冷たい風と、地上から吹き上げる熱風の両方を感じながら、山頂にむかって飛ぶ。
伊那の後に続いて飛びながら、鷲比古は再び不穏なうなりを聞いた。
噴き上がる黒煙より暗く厚い雲が、行く手の頂から急速にわきおこりつつあった。
次話更新 6/13予定⇒ 6月中