松焔山へ
耳もとで轟々と風が鳴る。
鷲比古が猛烈な勢いで飛び続けているので、彼の脇に抱えられて運ばれている真朱は、全身に風を受けて、ほとんど目を開けていられなかった。
両手両足を縛られたままなので、鷲比古にしがみつくこともできず、落っことされないようにひたすら祈るしかない。
触れている体を通して、鷲比古の激しい鼓動が聞こえる。全力で飛行しているせいだけではないだろう。
──おぬしらには、ほかに行く場所など、もうどこにもありはしない。
公達の確信に満ちた言葉が、呪いのように耳から離れない。
どれくらいの間、そうして飛んでいたか。
ふいに、鷲比古が息をのむ気配がした。真朱の胴を抱えた腕が、きつく強ばるのを感じる。真朱は行く手に頭をもたげて、薄く目を開けた。
空はすっかり暗くなり、白い月が上っていた。地上には、見わたすかぎり、連なる山々がひと続きの黒い影になって広がっている。その影の中、はるか前方に、赤い光が見える。
吹きつける風に目をしばたきつつ、しばしその光を見つめ、真朱ははっとなった。赤い光は、山の中腹に広がる炎だ。
(山火事……⁉)
近づくにつれて、激しく燃える炎の様子がはっきり見えてきた。夜空にむかって、黒い煙がもうもうと噴き上がっている。
もしや、あれは松焔山か。
公達の言葉を思い出す。郡の軍勢が、天狗の棲み処に攻め入っていると言っていた。まさか、軍勢が火を放ったのか。
ふいに、鷲比古が高度を下げはじめた。川筋の一本にむかって滑空し、そそり立つ崖にはさまれた渓谷に下りていく。
流れていく周囲の様子を見ているうちに、真朱は気づいた。
(ここって、もしかして……)
暗いせいか、かなり雰囲気が異なっているが、以前、郷の娘たちとともに山から帰る途中で、真朱がはじめて鷲比古たちと遭遇した、あの渓谷だ。
鷲比古は谷底の川原に下り立つと、真朱を地面に下ろした。彼女の手足をいましめている縄を解いて、言う。
「ここからなら、歩いて帰れるな? おまえ、郷へ帰れ」
「え……?」
真朱は驚いてまばたいた。いま、そんなことを言われるとは、まったく予想していなかった。
「で、でも……、だって験力は? まだ……」
鷲比古に験力が返っていない。
だが、鷲比古は首をふった。
「それは、もういい。おまえは、ひとの暮らしに戻れ」
そう言うと、翼をひと打ちして飛び立った。
「あっ、待っ──」
翼を広げた鷲比古の姿は、またたく間に高く上り、夜闇にまぎれて見えなくなる。
鷲比古が消えたほうの空を、真朱は呆然と見上げた。
(郷へ帰れって……)
あまりにも突然で、どうしたらいいのかわからない。置き去りにされたような心細ささえ感じる。
けれど──そうだ、父親の死の理由をつきとめるという目的は、ほぼ遂げたのだ。明らかになったところで、何ひとつ慰めにならない──、それどころか、怒りややりきれなさがいっそう募るばかりだけれど。
地面をはいずりながら、「知らぬ、知らぬ……」と繰り返していた国司の姿を思い出し、真朱は胸をおさえた。怒りと、憎悪と、侮蔑と──熱く、どろどろとした昏い感情が、再び強くわき上がってくる。深く呼吸し、ひとつ強く頭をふる。いまは、考えたくない。
(郷へ、帰る……?)
少し前の、天狗たちにさらわれたばかりの真朱だったら、一目散に郷へ帰っていただろう。けれど──
昼間、屋形の中庭で見た、香与や郷の女たちの顔が浮かぶ。今は、あの場所へ帰るのが怖かった。
それに、このまま帰ってよいのだろうか。
足もとの地面に目を落とす。大きな羽根がいくつも散らばっている。鷲比古の羽根だ。公達の館にあらわれた鷲比古の、艶を失い、ささくれた翼が浮かぶ。
空から見た松焔山は、山の中腹が遠目にもわかるほど激しく燃えていた。郡の軍勢も入っているのではないか。そんな場所に、あんな痩せた翼で戻って、危険はないのだろうか。そよ風さえろくに起こすことができないと、自分で言っていたのに。
山並みに視線をむける。手前にそびえる山や、立ちのぼる黒い煙に隠れて、松焔山の影は見えない。だが、山むこうの空が不穏に明るく、焦げる臭いが風にのってここまで流れてくる。
やっぱり、このままにしてはおけない。
(そうだ、もう一度、翼を──)
国府から北の峰まで飛んだときのように、光の翼で飛んでいけないか。
だが、強く念じてみたものの、周囲にわずかに光の粉がまたたいたが、すぐに消えてしまい、あのときのように翼の形にはならなかった。
少しの間ねばり、真朱はあきらめた。
翼があらわれないなら、いい。それなら、走っていくまでだ。
駆けだそうとして、真朱はふと思いつき、衣の一方の袖を手にとった。
袖口に歯を立てて、布を細く裂き、ひも状の切れ端をむしり取る。乱れた髪を手櫛でまとめ、切れ端のひもでひとつに束ねる。結び目をきつく引きしぼると、ひとつ息を吸いこみ、今度こそ赤く燃える山へむかって走りだした。
次話更新 6/5予定