公達の誘い ※2022.5.26修正
肩の痛みで、真朱は目を覚ました。左肩がずきずき痛む。
身を起こそうとして、両腕を背中にまわして縛られていることに気がついた。うつぶせに横たわった体勢のまま、首をめぐらせて周囲を見まわす。
(ここ、どこ……?)
真朱がいるのは、どこかの屋敷の庭のようだった。
正面には、いくつもの屋を渡殿で結んだ、天上の御殿かと思うような壮麗な殿舎が横たわっている。あたりはだいだい色の夕暮れにつつまれていて、そこここでかがり火が燃えている。
真朱のまわりには、彼女を囲むように四本の笹竹が立っていて、間に細い綱が張られていた。綱には、墨で文字の書かれた木札がいくつも下がっている。
(国司は……?)
掃き清められた庭に、ほかに人影はない。
地べたにへたりこんで、こちらを見上げていた国司の姿が浮かぶ。あそこまで追い詰めたのに、逃してしまったのか。
同時に、胸のうちに自身へのかすかな怖れがわく。あのとき、いかずちを落として、自分は国司をどうするつもりだったのだろう。
そこへ、殿舎の奥から衣ずれの音が近づいてきて、勾欄をめぐらせた簀子の先へ男が出てきた。
「おお、目覚めておるな」
あらわれた男を見て、真朱は身を固くした。藤原雅平──あの公達だ。
「傷は痛むか? 手当はさせたが」
真朱はすぐには答えず、用心深く男を見上げた。
「……ここはどこですか?」
「宇治のわたしの館だ」
公達の館──。以前、香与が、この公達が宇治の荘園に滞在していると言っていたことを思い出す。では、ここはこの公達の別荘か。なぜ、そんなところに連れてこられているのか。
「むやみに動かぬほうが身のためだぞ。その結界は、魔性のものには越えられん」
そう言うと、公達は簀子から庭にかかる階に腰を下ろした。
小袿姿の女性たちが、渡殿をすべるようにやってきた。懸盆や折敷を公達のそばに並べ、盃に酒を注ぎ、来たときと同じように影のように戻っていく。
盃を取りながら、公達が真朱をしげしげとながめる。
「おぬし、先日、天狗に連れていかれた郷の娘であろう? 天狗だったとは、気づかなかった。うまくひとに化けていたものだな」
「わたしは……っ」
真朱は声をつまらせた。
「わたしは、ひとです! 天狗じゃないわ」
そうか? と公達が眉を上げる。
「だが、おぬし。空を飛び、妖術で国司を襲ったそうではないか。よほどひどい目にあわせたのだろう。あの男、たいそうな剣幕であったぞ」
「それは……っ」
先ほど、胸にわいた怖れが大きくなる。
射られる直前に鏡にうつった自分の姿や、香与たちの怯えたまなざしが浮かび、真朱は瞳をゆらした。それとともに、耳の奥にひとつの声がよみがえる。
──ひとの群に戻れなくなるわよ。
そう言っていたのは──そうだ、あの翠という名の天狗の娘だ。
自分は、もうひとではないのか。天狗の験力を身に宿しているうちに、いつの間にかひとではなくなってしまったのだろうか。
(そんなわけない。わたしは、ひとだよ……!)
くちびるを結んで黙りこんだ真朱に、公達が苦笑する気配がした。
「咎めているわけではない。ひとでないなら、それでよいのだ。──おぬし、わたしに仕える気はないか?」
(え……?)
思いがけない言葉に、真朱はぽかんと公達を見上げた。
「前々から、妖を配下に欲しいと思っておったのだ。あの白髪の天狗とあわせて、おぬしら二人を召し抱えたい」
「……あの、どうして、そんなこと……?」
真朱は困惑して言った。貴人のきまぐれにしても、度が過ぎないか。
「わたしは次の除目で殿上へ戻る。先にはうかつにも掬われて、このような境遇に落とされたが、決してこのまま終わりはせぬ。今は、新たな布陣をととのえているところなのだ」
さらにとまどう真朱に、公達が口の端を上げる。
「内裏はおぬしらなどよりはるかにおぞましい、ひとの皮をかぶった魍魎どもの巣よ。そうした者どもを相手にするには、こちらも化け物を飼わねばな」
ぞっ、と真朱の背筋を冷たいものが伝う。言われた内容は半分も理解できなかったが、公達が何か尋常でなく昏い感情を──恨みや恩讐のようなものを抱いていることは感じられた。一見涼やかなおもての内側に、一瞬、猛り狂う炎が──業火が見えた気がした。
盃を口もとへ運びながら、公達が言う。
「あの白髪の天狗が来たら、わたしのもとへ降るように、おぬしからも言ってくれ」
真朱は、はっとなった。
「ここに来るの……?」
「来るだろう。おぬしが捕まっているのだから。そのために、ここへの道中も、せいぜい盛大に触れながら連れてきたのだからな」
真朱は頭をふった。
鷲比古をおびきよせるために、真朱をここに連れてきたということか。だが、鷲比古が来るわけがない。
真朱は、庭に視線をむけた。掃き清められ、秋の草花が配された広い庭は、いつの間にかすっかり薄暗くなっていた。かがり火が赤々と輝きを増す。
(日が落ちたんだ……)
まだ、鷲比古に験力を返していないのに。験競べがはじまってしまう。
(間に合わなかった……)
あのとき、真朱が躊躇せずに国司を討っていたら、こうはならなかったかもしれないのに。験力なしに鷲比古が験競べに勝利する希みは、どれくらいあるのだろうか。
灼けるような後悔と申し訳なさが、胃の腑の底から立ちのぼる。真朱は強く目をつぶり、額を地面にすりつけた。
そのとき、公達の声が言った。
「──来たな」
強い羽ばたきの音がして、あたりに風が吹く。
頭を上げた真朱は、あらわれるはずのない姿に、目をみはった。
「どうして……」
笹竹の前に降り立った鷲比古は、不機嫌な顔で真朱を見下ろした。
「それは、こっちの言うことだ。おまえ、なんでこんなことになってるんだ」
真朱は、信じられない思いで鷲比古を見上げた。
「だって……、なんで……験競べは……?」
「昼間の騒ぎのせいで、それどころじゃねえよ。天狗が、ひとにやられるなんざ……」
ぶつぶつ言いながら、鷲比古が腰をかがめて腕をのばす。
「──っ、だめっ!」
遅かった。鞭を当てるような音が響き、鷲比古の体が勢いよく跳ね飛ばされた。
笹竹がふるえ、注連縄に下がった木札が激しく揺れる。
「それは結界だ。おぬしらには破れぬよ」
階の上から、盃をかかげて公達が言う。
「待っておったぞ。どうしても、おぬしと話しがしたくてな。こちらへ来い。おぬしのために酒肴を用意してある」
庭のすみまで転がった鷲比古は、一回転して起き上がった。羽根を逆立て、注連縄にむかって腕をふるう。だが、今度は木札がかすかに揺れただけで、注連縄も笹竹も小ゆるぎもしなかった。
「無駄だと言っているだろうが」
公達を無視して、あたりに視線を走らせた鷲比古は、手近のかがり火を支え木ごと持ち上げた。はずみをつけて、笹竹に投げつける。
燃える割木の入った鉄籠や、重たそうな支え木が飛んでくるのを見て、真朱は慌てて身を縮めた。だが、鉄籠や支え木は見えない壁に阻まれたよう注連縄の上ではじかれ、火の粉を散らしてバラバラに散らばった。
やや気分を損ねたように、公達が鼻を鳴らす。
「今のは感心せぬな。力まかせで芸がない。──まあ、よい。そのへんにして、話を聞け。おぬし、わたしの配下にならぬか」
「断る」
真朱がちょっと驚くほど素早く、鷲比古が切り返す。
公達も意外だったようだ。
「もう少し考えてから答えてはどうだ。なぜだ?」
「天狗が従うのは、群の長だけだ。ほかの何者にも、降ることはない」
それに、と、笹竹と注連縄に向けていた視線をちらりと公達に向け、軽蔑をあらわに続ける。
「俺たちは、同族を利用することはしない。──おまえたちのように、こんなふうに同族の娘をおとりに使ったりはしない。絶対に、だ」
なるほど、と公達が瞳を躍らせる。
「魔性には魔性なりの道義があるというわけか。──面白い」
階を蹴って立ち上がり、扇の先で鷲比古を指す。
「おぬし、ますます欲しくなったぞ!」
その言葉が合図だったかのように、かがり火のむこうの薄闇の中から、胴鎧をつけた衛士が次々に現れた。彼らが手にしているのは、木綿や紙垂を結んだ榊の枝や、木札のついた輪縄だ。
鷲比古めがけて、いっせいに輪縄が飛び、榊をふりかざした衛士が襲いかかる。
真朱は叫んだ。
「行って──、逃げてよ! わたしは、大丈夫だから!」
鷲比古は答えず、けれど飛び去ることもしなかった。衛士たちの攻撃をかわしながら、先ほどバラバラになったかがり火の残骸を拾っては笹竹や注連縄に投げつけて、結界を破ろうとする。輪縄や榊が彼の翼をかすめるたびに、茶色の羽根が散った。
おいおい、と公達がやや呆れたように言った。
「その結界は破れぬと言っただろう。ほどほどにせぬと、丸裸になってしまうぞ。──娘よ、おぬしからも言ってやれ」
そんな軽口めいた言葉になどとりあう余裕はなく、真朱は入り乱れる衛士のむこうの鷲比古の姿を必死に目で追った。
鷲比古にむかって、公達が続ける。
「わたしと来れば、おぬしも、そこの娘の天狗も、いまよりずっとよい暮らしを約束するぞ。それに、どのみちおぬしらには、もう帰る場所などない」
(え……?)
ぞくりとして、真朱は公達を見上げた。
階に立った公達が、二人を見下ろして不吉にほほえむ。
「昼間、おぬしらの仲間は、北の峰で郡の軍勢に太刀打ちできなかったようだが──。あれだけの兵が、たった一本の木を伐り倒すためだけに集められたと思うか?」
公達の笑みが深くなる。
「今頃、おぬしらの棲み処の山に攻め入っておるよ」
鷲比古が息をのみ、公達をふりむく。
その隙を逃さず、衛士の一人が鷲比古の背後から輪縄を投げた。鷲比古の頭上に飛んだ縄が、意志をもった生き物のように円く開く。
「だめっ──!」
後ろ手に縛られたまま、真朱は夢中で地面を蹴った。半ばはい、半ば転がるようにして、縄を操る衛士にむかって突進する。
飛び出してから、周囲に結界が張られていることを思い出した。国司に打ちかかったときに、全身を襲った鋭い痛みが頭をよぎり、体が強ばる。
だが、真朱が、先ほどの鷲比古のように結界にはじかれることはなかった。躍り出た真朱の体は、抵抗なく注連縄の下を通り抜けて、衛士に激突する。はずみで輪縄がそれて、鷲比古をかすめて地面に落ちる。
ふりむいた鷲比古は、迫りくる衛士の足もとを滑りこんでくぐりぬけると、地面に転がってもがいている真朱を片腕で引っかけるように拾い上げた。すぐさま向きを変え、真朱を小脇に抱えたまま、今度は階の上の公達にむかって突進する。
「ほう、来るか?」
公達がにやりとして、扇を手に身構える。衛士たちが慌てたように、いっせいに公達の前に駆け戻る。
と、鷲比古は彼らの手前で翼を広げ、ひと蹴りで殿舎の軒の高さまで跳躍した。衛士たちが「あぁっ!」と声を上げる。
空を翔け上がる鷲比古と真朱を、笑いを含んだ公達の声が追いかけてきた。
「気が変わったら、いつでも戻ってくるがいい。すぐにわかる。おまえたちには、ほかに行く場所など、もうどこにもありはしないのだからな!」
次話更新 5月中予定