幽霊のうわさ
2022.5.30 誤字修正
「兄上の幽霊だと?」
継貞は眉をひそめて、訪ねてきた数人の郷人を見まわした。
門前に並んだ人々が、どこか怯えた様子でうなずく。
「間違いないよ。あれは前の長だった。畑からの帰りに、池のほとりに立ってこっちを見てたんだ」
「俺も見た。北の峰に続く小道を歩いていって、すうっと消えたんだ」
「ばかな」
継貞は言い捨てた。兄はたしかに非業の死に方をしたが、則にしたがってきちんと葬った。迷って出たりするはずがない。
一人がむきになったように声を強める。
「俺たちだけじゃない。ほかにも、何人も見た奴がいるんだ。……なあ、長どの。これは、よくない兆しなんじゃないか?」
別の一人が、不安そうに言う。
「この前、葦原が焼けたのだって、不吉の前触れなんじゃないか? 明日のあれは、やっぱりやめたほうが……」
「おまえたち、怒るぞ」
継貞はぐい、と人々を見まわした。
「みんなで決めたことだろう。腹をくくれ。おまえたちが見たつもりになっているものは、怖じけた心が見せた幻だ」
郷人たちは口をつぐんだが、納得しかねる様子だった。互いに、怯えたような視線を交わす。
そこへ、「父さま」と声がした。
小道を上って、小走りに香与がやってくる。彼女は後ろに、のっそりと足を運ぶ郡司を案内していた。それを見て、郷人たちが慌てて立ち去っていく。
継貞が腰をかがめて、足労への礼を述べると、郡司は鷹揚にうなずいた。
「はなしを聞いて、正直驚いたぞ。命じられたとはいえ、よく決心したものだ。だが、郷の者の中には、まだ不安に思っている者もいるようだな」
「そんなことは──」
先ほどの、郷人とのやりとりを聞かれたのかと、ひやりとする。
だが、郡司は、責めるでなく頭をふった。
「長く続いてきた物事を変えようというのだから、無理もない。──そうではないか?」
最後の問いは、そばにいた香与に向けたものだった。
香与がびくりと顔を上げて、長をうかがう。ちょっとためらうふうだったが、意を決したように父親を見た。
「……父さま、わたし、本当は心配に思ってたの。こんなことをして、大丈夫なの? 天狗を怒らせたりしたら、姉さまがひどい目にあうんじゃ……」
「おまえが口をはさむことではない」
娘の表情が強ばったのを見て、きつく言いすぎたことに気づく。
「大丈夫だ。真朱のことは心配するな」
やや口調をやわらげてつけ加えると、香与はなおも不安そうにしつつも、屋形の中へ戻っていった。
香与が去ったほうを見ながら、郡司が口を開いた。
「姉というのは、先日、天狗に連れ去られた娘のことか? まだ見つかっていないのだったな」
「ええ……」
数日前に、開墾地からの帰り道に、真朱があらわれたことを思い出す。あのことは、誰にも話していなかった。数人の郷人がその場にいたが、今のところ、噂にもなっていないようだ。直後に一帯の葦原が焼ける火事が起こり、大騒動となったため、とり紛れて忘れられているのかもしれない。
あのとき聞いた、姪の烈しい叫びが、耳によみがえる。
──父さまが、なぜ殺されたのかを知るまでは、帰れない……!
継貞は、眉間に深くしわを刻んだ。
(……真朱、ばかなことを……)
頑固なところが、父親によく似ている。
「あの娘のためにも、明日は必ず成し遂げねばな」
郡司が、決意のこもった口調で言う。
それを、どこか空疎に聞きながら、継貞はうなずいて、ゆるやかに傾斜した郷のふもとに目をむけた。
西の街道から続く郷の入口に、郡司が率いてきた郡府の兵卒が続々と到着していた。
暗闇の中に、無数の灯火がゆらめいている。尾栗郷のはずれには、いくつもの幕屋が立ち、一目で郷の者ではないとわかる武装した男たちが群れ集っていた。
郷近くの雑木林にひそんだ真朱は、それらを遠目に眺めて眉をよせた。
(何だろう……?)
谷の開墾を進めるために、よそから動員されてきた人々かと思ったが、それにしては男たちが鎧を帯びているのが妙だ。
(まるで、戦をしに来ているみたい……)
頭に浮かんだ不穏な連想を、真朱は慌てて打ち消した。こんな山奥の郷で、どこの誰が戦などするというのだ。だが、ゆれる灯に照らされて鎧姿の男たちがたむろしているのは、不安をかきたてる眺めだった。胸に抱えた剣の柄をぎゅっと握りしめる。
「えらく賑わってるな」
郷のほうを透かし見て、鷲比古が言う。
「どうする、今日はやめておくか?」
ううん、と首をふり、真朱はあごをそびやかした。
「やるわ」
父親の幻をまとい、郷の人々に姿を見せる。
そんな、たちの悪いいたずらのようなことを、大真面目にはじめて、今日で五日目だった。
父親が死んだとき、本当は何があったのか確かめたい。そう、決意した真朱だったが、何をどうやって調べればよいかという段になって、はたとつまってしまった。
今のところ、手がかりは叔父と吉丸だけだ。特に叔父は、何かを知っていて、隠している。だが、先日の様子では、叔父に知っていることを話してもらうのは難しそうだった。
どうすれば、叔父に話してもらえるだろう。考えているうちに、ふと思い出したのが、以前、天狗のもとから逃げようとしたときに、霧の中で見た屋形の幻だった。鷲比古に尋ねると、あれは天狗たちのねぐらを守るために頭領の大天狗が張っている結界の一部だという。近づいた者に、幻を見せるというのだ。そこで思いついたのが、この企てだった。
鷲比古が懐から、薄青色の花のついた一本の草を取り出す。
真朱が、屋形の幻を見た場所にも生い茂っていた花だ。群の頭領の大天狗、太郎坊の験力によって咲く花だという。
鷲比古が茎を両手ではさみ、すり合わせて回転させると、房状にいくつも咲いた小花の一つひとつから、白い靄が立ち上った。
靄の上る花を受けとり、真朱は大きく円を描くように振った。
空中に広がった靄がしだいに凝り、あくのように濃くなってひとの形をとる。靄はしだいに細部までくっきりと像を結び、白装束をまとった痩身の男の姿になった。暗がりにもかかわらず、はっきり見える。亡くなった、真朱の父親だ。
真朱は靄に映し出された父親の姿を見上げた。はじめてこの幻を見たときは、父親がよみがえってきたような気がして、少し泣いてしまった。今はもう、ただの幻だということが嫌というほどわかっているから、涙は出ない。だが、目にすると、やはり胸が痛んだ。
真朱は花と剣を握りしめ、父親の像に歩みよった。像にぶつかると、彼女の体はその中に抵抗なくもぐっていき、すっぽり中に入りこんだ。
「何度も言うが、幻を維持できるのは、その花が咲いている間だけだからな」
父親の像につつまれた真朱にむかって、鷲比古が言う。
「その花が全部散ったら、幻は消えるぞ。それまでに、戻ってこいよ」
真朱はうなずくと、幻をまとったまま、郷へむかって歩きだした。
灯火と幕屋が集まっているあたりを避けて、郷の中に入る。暗い小道をたどりながら、どこへ行こうかと考えた。
日が落ちた後に外を出歩いている郷人を見つけることは難しかったが、今までに、数人に父親の幻を見せることができていた。そのたびに、彼らは皆、こちらがすまなくなるほど驚き慌てていたが、目的は郷の人々を驚かせることではない。
父親の幻が郷の中に出没していると噂になれば、何事かを頑なに隠している叔父の気持ちが、変わるのではないかと思ったのだ。あるいは、もし──父親の死に関係している者が郷の中にいるのなら、平静でいられず、何かしら行動を起こすのではないかという期待もあった。
ゆるやかな坂になった小道の先を見上げる。この道の突きあたりに、郷長の屋形がある。
(……行ってみようか)
そろそろ、父親の幻のことが叔父の耳に入っているだろう。父親の姿で尋ねれば、この前とは違った答えを聞けるかもしれない。
手に握った薄青色の花に目をやる。ここに来るまでの間に、いくらか散ってしまったが、まだ五、六輪残っている。屋形へ行って、叔父と話すくらいはできるだろう。
暗い小道を上っていくと、しだいに鼓動が速くなってきた。期待と怖れがどんどんふくらんできて、胸が痛くなってくる。
と、前方にぽつんと明かりが一つあらわれた。松明のようだ。明かりはゆっくり揺れながら近づいてくる。
誰か来る。
真朱は少し迷った。隠れようか、それとも、このまま姿を見せようか。
だが、明かりの中に浮かび上がったのは、意外な顔だった。
(……郡司どの?)
歩いてきたのは、染めの衣をまとい、太刀を帯びた郡司だった。
(どうして、郡司どのが郷に……?)
考えて、はっとなる。郷の外に集まっていた一団は、彼が連れてきたのだろうか。だが、なぜ。
真朱がまとう父親の幻に気づいたのか、郡司が足を止めた。松明を掲げて、目を細める。
「そなたの幽霊が出ると、郷の者が噂しておった」
郡司の声は落ち着いていて、怯えた響きはなかった。どこか、待ち構えていたようなそぶりさえある。
「さまよっているのか。……さもあろうな。無念であったろう」
だが、と続ける。
「郷の者たちを怖がらせるのは、筋が違うぞ。国司に解文のことを話したのは、わしだ」
真朱の心臓がはねた。
(……解文?)
なんのことだ。
「郷のことは継貞に任せて、静かに眠れ。死人のおぬしが憤ったところで、もはや流れは変わらぬ。ときが変わったのだ。天狗を退けて田畑を増やせば、郷はもっと豊かになる。皆の暮らしもずっと楽になる」
真朱は思わず、飛び出していた。
「……どういうことですか⁉」
郡司が、虚をつかれたように一瞬、立ちすくむ。
真朱が長に触れたとたん、火花が散った。薄青色の花がちぎれて茎から落ち、靄と幻がかき消える。長の胸の上で、紐で首からかけた木札がゆれた。
真朱は厚みのある大きな体に夢中で飛びつき、突き倒した。仰向けに倒れた郡司の胸の上に馬乗りになり、鞘におさめたままの剣でひげの生えたあごを押さえつける。
地面に落ちた松明が、組み敷く真朱と、組み敷かれる郡司の顔を照らした。
「おぬしは……、継貞の姪か……⁉」
郡司の顔が、怒りに染まる。
「これは……、なんのまねだ!」
「おしえてください!」
真朱は全身の力をこめて、剣で長をおさえつけた。
「父の死について、何かご存知なんですか? 解文って、何のこと⁉」
「どけっ! さっきのわざは何だ? おぬし、妖にとりこまれたか」
「答えないなら、刺します!」
真朱は剣を握る手にいっそう力をこめた。郡司のあごがみしっ、と鳴る。
「……おぬしの父親は、国司を中央に訴えようとしていたのだ!」
息をのむ真朱をにらみつけ、郡司が言う。
「郷人をそそのかし、天狗の領分を侵して土地の則を乱していると──。密かに田を開き、不正に私財を蓄えようとしていると──」
長の目に怒りと悲しみがないまぜになってよぎる。
「だが、国司のおこないは、告発せねばならぬほどの悪行か? 以前の国司に比べれば、今の国司の蓄財など、かわいいものだ。それに、天狗の領分を侵して、何が悪い。天狗を退けて、耕地を増やすことができれば、それだけこの地は豊かになる。人々の暮らしも楽になる。……だが、あの男は──お前の父は、どうしてもそれが許せなかったのだ」
真朱は息をふるわせた。
年初めの最初の満月の夕。尾栗郷の長が一人で北の峰に登ることは、近隣の者は皆知っている。
「父を殺したのは、あなたですか……?」
「……わしではない」
ぐい、と郡司が口を結ぶ。
ふいに、小道の先で、新たな明かりが揺れた。叔父の声が呼びかける。
「──郡司どの、そちらにおいでですか?」
はっと真朱がそちらへ注意を向けた瞬間、彼女の体がひっくり返った。郡司に押しのけられたのだと気づいたときには、地面を勢いよく転がっていた。
一転して立ち上がった郡司が、すらりと腰の太刀を抜いて叫ぶ。
「継貞、妖だ!」
小道の先から、ばたばたと足音がかけてくる。
そのとき、羽ばたきの音とともに、大きな翼が飛来した。翼は風のように真朱をすくい上げると、暗い空へ飛び上がった。
一瞬のうちに夜空高くに運ばれ、真朱ははるか下方で太い声が叫ぶのを聞いた。
「──妖だ! 天狗が出たぞ!」
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