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鷲の羽をもつ魔物①

 朝方まで降っていた雨のせいで、山の木々はまだ濡れていた。赤や黄に染まった葉の先で水滴が光っている。

 ぶなが繁る山の中腹に、数人の少女の姿があった。

 衣のそでをひじまでまくり上げて、ざるやかごを小脇に抱えている。近隣の尾栗郷(おぐりのさと)に住む娘たちだ。

 彼女たちはあたりをうかがいながらリスのように素早くより集まると、めいめいのざるやかごを傾けて中を見せあった。入っているのは、しっとりと艶やかなマイタケにナメコだ。

「どう、真朱(まそお)?」

 友人たちに問われて、真朱は収穫を見回した。すっきりと濃い眉をした、やや大人びた顔立ちの少女だ。

「いいと思う。きっと、これだけあれば充分よ」

 少女たちの顔がほっとゆるむ。

「よかったぁ」

 と、ふいにざあっと葉擦れの音が響いた。あたりの枝が大きく揺れて、雨が降るように雫が落ちてくる。

 首を縮めた少女の一人が、青ざめて言う。

「もう帰ろう。いいよね、真朱?」

 真朱はうん、とうなずいた。

「急ごう。天狗に見つからないうちに、早く」

 天狗──鷲の翼で空を飛び、怪力や妖術を操る魔性の怪物。

 真朱たちが暮らす尾栗郷から、北へ山を一つ越えた先。松焔山(しょうえんさん)周辺の一帯は、昔から天狗の群れの棲み処となっていた。うかつに足を踏み入れて、手ひどく天狗に追い返された者の話は数えきれず、郷人はめったに近づかない。

 真朱たちも郷の北にある谷より奥に入ることは固く禁じられていて、ふだんであれば決して踏み入ったりしないのだが、今日はやむを得ない理由があった。

 しんと静かな木立の中に、少女たちの浅い呼吸とやや急いた足音だけが響く。

 地面は湿っていて、ところどころ水たまりがあったり、ぬかるんでいたりする。はじめて入る山なので、帰り道がわからなくならないよう、来る途中で、目についた枝を折ってしるしをつけていたが、足もとに気をとられていると、度々目じるしを見落としそうになった。

 しばらく歩くと、前方が明るくなってきた。かすかに水音が聞こえてくる。

 唐突に木立が途切れて、勾配のきつい斜面に出た。山肌に沿って狭い岩棚が続いている。

 見るからに歩きにくそうな道だが、少女たちの表情は明るくなった。行きに通った場所に違いなく、帰り道を間違えていないことに確信がもてたからだ。ここを越えれば、天狗の領分を抜けるまであと少しだ。

 はるか下方には、逆巻く静川の流れが見える。この流れを下った先に、真朱たちの郷があった。

 ざるやかごを抱えなおし、一列になって慎重に足もとを確かめながら、岩棚をつたって進む。

「もう少し楽な道を見つけられたら、よかったよね」

「しかたないよ。ほかの道を探してる暇なんてなかったもの」

 尾栗郷を含む近隣八郷は、宇治郡に属している。宇治郡はほかの七つの郡とともに山城国を成していて、国を治めているのは都から派遣された国司である。今般、その国司が巡検で宇治郡を訪れることになったらしく、もてなしに供する食材を急ぎ集めて届けろと、昨夜遅くに、宇治郡の長から郷へ指示があったのだ。そして、郷長から山での採集を命じられたのが、真朱たちだった。

 この時季、山で採れるものといえば、木の実や茸類だ。だが、どういうわけか、栗も栃も今年は実りが悪かった。となると茸だが、こちらはつい先日、郷の女衆総出で山に入り、あらかた持ち帰って、干したり漬けたりしたばかりだった。雨の間に新たに生えてきていないかと、山の中をまわってみたが、やはり十分な量は見つからない。そこで、やむなく天狗の領分に足をのばしたというわけだった。

「もったいないよねえ。こんなにいい山なのに、入れないなんて」

 少女の一人が口をとがらせる。

「天狗なんか、国司さまが追い払ってくださればいいのに」

「ダメダメ。去年、新田を開こうとしたときも、さんざん天狗に邪魔されて、結局あきらめちゃったじゃない」

 そういえば、と真朱の後ろを歩いていた小柄な少女が瞳をきらめかせた。

「知ってる? あの後しばらくの間、国司さまのお屋敷に夜な夜な天狗が出たんだって」

 へえ? 本当に? と少女たちが身をのりだす。

「本当だよ。父さまが話してたもの。一晩中、大嵐の中にいるみたいにお屋敷が揺れたり、砂や小石が降ったりしたんだって。奥方さまは怖がって都へ帰ってしまったそうよ。ねえ、真朱姉?」

香与(かよ)ったら」

 先頭を歩いていた真朱は、ちらりとふりむいて、すぐ後ろを歩いてくる少女をねめつけた。

「そういうこと、ぺらぺらしゃべっちゃだめでしょ。叔父上に叱られるよ」

 真朱と香与は姉妹ではなく、二歳違いの従姉妹だ。香与の父親は尾栗郷の長で、真朱の父親の弟──真朱にとっては叔父にあたる。

「いいじゃない。香与、もっと詳しく聞かせてよ」

「ええとねぇ……」

 だめよ、と真朱は顔をしかめた。

「ほら、みんなもう口を閉じて。気をつけないと、落っこちるよ」

 そのときだった。

 突然、少女たちの頭上から強い風が吹き下ろしてきた。

「わぷっ」

「きゃあぁっ」

 突風にまじって、小枝やちぎれた木の葉の切れっぱしが飛んでくる。

 少女たちは悲鳴を上げて、その場にしゃがみこんだ。身をよせあい、岩棚にしがみつくように小さくなる。

 風はみるみる勢いを増し、高く低くうなりを上げて少女たちをとり囲んだ。

(これって……)

 真朱はざるを抱える腕に力をこめた。嫌な予感がじわじわと背筋をはい上ってくる。突風。小枝や礫の雨。──まさか

 そのとき、風のうなりのむこうに、強い羽ばたきの音が聞こえた。足もとの地面を、黒々とした大きな影が走る。

 はっと見上げた視線の先、目にしみるほど青い空を影がよぎった。逆光に沈んだ巨大な翼。日差しをはじいて、輪郭が白く光る。

 誰かの声が叫ぶ。

「──天狗っ!」

 ドォッと空気をどよもして、ひときわ強い風が吹きつけてきた。

 少女たちが悲鳴を上げて、いっそう身を縮める。

 間違いない。天狗だ。見つかってしまった。

 真朱は体をこわばらせた。一瞬のうちに無数の思考がとりとめなく頭をめぐる。

 ──あの天狗──彼女たちをどうするつもりだろう──無事に郷へ帰れるだろうか──もっと早くに引き返せばよかったのか──いや、そもそも天狗の領分に立ち入るような危険をおかすべきではなかったのか──

(──ううん、だめだ。こんなこと、考えてちゃだめ)

 背中のむこうから、友人たちの動揺と怯えが伝わってくる。ぎゅっと目をつぶると、真朱は息を吸いこんだ。

(わたしが怯えてちゃだめ。みんなを連れて、郷へ帰らなきゃ)

 腹の底に力をこめてふるえを抑え、背後の友人たちに声をかける。

「みんな、大丈夫よ」

 半べそをかいている香与の肩に手をそえて励まし、声を強くして続ける。

「慌てないで。固まって、ゆっくり進むよ」

 少女たちは身をかがめたまま、岩棚をはうようにして進みはじめた。

 風の勢いは強く、いっこうにおさまる気配がなかったが、少女たちを吹き飛ばすことまではできないようだった。なんとか岩棚を渡りきって木立の中に入れば、きっと逃げきることができる。

 そのとき。背後で「あっ」と声がした。

 香与が抱えていたざるが傾き、こぼれ落ちた茸が風に舞う。ぱっと手を伸ばした香与の体が、岩棚の外にむかっておよぐ。

「香与!」

 真朱はとっさに従姉妹の腕をつかんだ。夢中で引きよせたそのひょうしに、足の下で湿った地面がずるりとすべった。

(あっ……!)

 まずい、と思ったときには遅かった。香与と入れ替わるように、真朱の体が岩棚から勢いよく飛びだす。

「真朱姉っ!」

(──っ!)

 ぞっとするような浮遊感。体がなすすべもなく宙を舞う。焦りと恐怖に頭の中が真っ白になる。

「真朱!」

 風が頬を打ち、友人たちの悲鳴が遠ざかる。

 視界がめまぐるしく変わり、一つひとつの光景が不思議なほど鮮明にすみずみまで目に焼きつく。

 よく晴れた空。風に巻きあげられたざるから茸が散らばる。岩棚のふちに飛びついて、悲鳴をあげる友人たちの顔。谷底の急流が散らす激しいしぶき。

(わたし、死ぬの……?)

 凍りつくような怖れと絶望が全身をつらぬき、しびれたように息がつまった。風にあおられた体が、木っ端のようにきりもみする。視界が暗くなり、意識が遠のく。

 かすかに羽ばたきの音が聞こえたような気がしたのを最後に、真朱は何もわからなくなった。

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