理想のようにはいかなくて
*
「はああああ」
事務所に戻るなり腕をダランと下げて、テーブルに顎を乗せていると、
「穂波、負けたときのお決まりのポーズね」
三十代後半と思われる先輩弁護士の間宮瞳子さんがクスクス笑ってデスクにコーヒーを置いてくれた。
「す、すみません」
慌てて顔を上げて、マグカップを手にペコリと頭を下げてコーヒーを口に運んだ。
ミルクと砂糖が入った甘いコーヒー。
普段はブラック派の私だけど、落ち込んでいる時は砂糖とミルクを入れることを知っていてくれる瞳子さんの優しさと気遣いに胸が熱くなる。
しかし落ち込むたびに甘いコーヒーを飲んでいるなんて、いつになったら私は『カッコイイ女弁護士』になれるんだろう?
十歳の時、父が勤めていた会社がライバル社にスパイ容疑で訴えられた時、会社はその犯罪のすべてを父になすりつけて切り捨てようとした。
その時、救ってくれたのは美しき女性弁護士。
背格好と綺麗だったというイメージしかなくて、ハッキリとした顔は覚えていないんだけど、名前はちゃんと覚えている。
磯山京子弁護士。
当時二十代だったから今はもう四十代だろう。
ビシッと決まったスーツに短めのスカートから伸びたすらりとした長い脚。
高いヒールの靴に、長い髪をひとつにまとめて、法廷に立つ姿の眩しかったこと。
『仕事帰りにバーに行くことがストレス解消かしら』
何度か交わした会話の中で、そんなことも言ってた。
あの言葉もカッコ良かった。
私は彼女みたいになりたくて、頑張って来たんだ。
学生時代は恋愛になんて目もくれず勉強一筋!
だってカッコイイ女弁護士になってから、スマートに恋も仕事も楽しもうと思ってたから。
そんな私にもかつては彼氏がいた。
だけど何より勉強を優先させたことが災いして、フラれてしまった。
よりにもよって、司法試験に合格して、この事務所に就職が決まったことを伝えた時にだ。
『良かったな。お前が俺より何より欲しくて必要としてたものだろ? がんばってるお前を最初は応援してたけど……悪い。もう無理だ』
と去って行ってしまった。
後から聞いた話、彼自身就職活動が上手く行っていなかったというのも、別れの背景にあったらしい。
確かに私は自分のことばかりで、ちっとも彼のことは見ていなかったな。
夢が叶ったと同時にフラれた私は、人生で一番いろんな感情が渦巻いた複雑な一日だった。
でも、いいの、そんなことは。
もう、過去は振り返らない。
それよりも私は、目標に向かって進だ。
そう、父を救ってくれた、磯山先生みたいな弁護士になりたい。
いつかどこかで再会できたら、伝えたいな。
『あなたみたいになりたくて、私も弁護士になったんです』
だけど今の私じゃあ恥ずかしくて、そんなことも言えない。
一人前になってから、彼女に会いに行くんだ。
「穂波、足首どうしたの? 湿布なんて貼って」
瞳子さんの言葉に我に返り、
「少しだけくじいたんです」
と苦笑を返した。
「そんな高いヒールの靴を履くから」
「今、ローファーに履き替えます」
デスクの下からローファーを取り出して、履き替えた。
ああ、ローファーが悲しいほどに落ち着く。
やっぱりカッコイイ女にはほど遠いなぁ。
また落ち込むことを感じ、ため息をつくと、
「で、穂波のそれは落ち込んでるの? それとも恋患ってるの?」
瞳子さんにそう尋ねられ、飲んでいるコーヒーを吹きそうになった。
「な、なにを言い出すんですか。負けて落ち込んでいるんですよ、恋患っているわけじゃないです!」
「そう? 法廷の貴公子と対決した時は、いつもそんな感じだから」
楽しげに笑う瞳子さんに、頬が熱くなる。
「……奴と対決した時は、必ず負けてるからです」
「なるほどねぇ。私は対決したことないのよね。一度お手合わせしたいわ。イイ男よね。あの整った顔立ちにメガネ。結構好みなの。メガネ男子っていいわよね」
「あいつは伊達ですよ。本当は目がいいんです」
メガネを外した顔があまりにも華やかすぎて、お堅く見せるためにメガネをかけているだけ。
「そうなの、詳しいのね」
横目で見て来た瞳子さんに、
「そ、そんなんじゃないです。たまたま、聞いたことがあって」
誤魔化すように甘いコーヒーを口に運んだ。
「まあ、いいけど。それより工藤さんはまた夜の街?」
「たぶん」
「ったく、やることは山ほどあるってのに。とりあえず、これ次の事件だから目を通しておいて。民事だから」
そう言って瞳子さんは分厚いファイルを差し出した。
「あ、はい」
ズシリと重いファイルをデスクに置く。
裁判には大雑把に分けると、二種類ある。
刑事と民事。
刑事は言わずと知れた、刑事事件の弁護を行うもので、
民事は遺産相続や、破産、離婚といった個人から委任されるもの。
この世知辛い世の中、工藤法律事務所は刑事に民事と忙しい毎日を送っている。
で、割と多いのが……
「ああ、また離婚裁判ですかぁ」
そう、離婚裁判だ。
「そうね」
「はあ、世知辛い世の中を感じさせますねぇ」
「穂波、離婚依頼人の話をしっかり聞いてきてね」
ポンッと背中を叩かれて、「ええ?」と顔を上げた。
「私は忙しいもの」
デスクの上に積み上げられたファイルを横目で見ながらそう告げた瞳子さんに、一言も反論することもできずに「はい」と頷いた時、
「ただいまー」
もう一人の先輩が姿を現した。
ビシッとしたスーツに、アッサリした爽やかな顔立ちの若きエース・柿崎亘さん。
「お疲れさまです、柿崎さん」
「お疲れ、穂波ちゃん。どうだった?」
明るく聞かれて、言葉を詰まらせると、
「残念だったな。次はがんばれよ」
と頭に手を乗せてくれた。
ううっ、その優しい言葉に泣きそうになる。
うちの事務所は敏腕弁護士の集まり。
なんだか、私が事務所の足を引っ張ってるみたいで、本当に落ち込む。
力なくファイルを眺めていると、
「まぁ、そう落ち込むなよ。飲みにでも行くか」
といった柿崎さんに、わあ、と顔を上げた。
「は、はい。ぜひ」
嬉しい。
ちょうど飲みたい気分だったんだ。
「瞳子さんも行きましょうよ」
明るい気分でそう告げると、
「私はもうすぐ帰るわー。家のことも色々やらなきゃいけないし。若いもん同士どうぞごゆっくり」
瞳子さんは笑みを浮かべ、バイバイと手を振った。