疫病神
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「また負けちまったなぁ」
法廷を出るなり自嘲気味に笑う上司の工藤さんに、「すみません」と肩をすぼめた。
敗因は、あきらかにこちらの準備不足。
向こうは付け入る隙もないくらいの証拠と証人を揃えて来ていた。
「ま、仕方ないな。俺はこれから用があるから、先に事務所戻っててくれよ」
そう言って工藤さんはポンッと背中を叩いた。
まるで仕事が立て込んでいるような顔をしているけれど、どうせお姉ちゃんのいるお店にでも行くんだろう。
いつものことだ。
キャバクラ通い大好きなバツイチ、四十男。
いつもなら『事務所に戻って山積みの仕事を片付けますよ』って彼のスーツの襟を引っ張って帰るところだけど、今日は嫌味の一つも言えずに黙って頷く。
私のせいで、また事務所の顔に泥を塗ってしまった負い目が胸をチクチクと刺す。
「それじゃあ、穂波。みんなには仕事だって伝えておいてくれな。特に間宮にはキッチリと」
と工藤さんは念を押すようにそう言って弾んだ足取りで通路を駆けて行った。
浮かれた背中を見送りながら、ふぅ、と息をついていると、
「へえ、また、工藤さんはキャバクラなんですね。
あの人は裁判に負けると、いつも夜の街にまっしぐらだ」
と背後から聞こえてきたのは、聞き慣れた嫌味くさい言葉。
振り返りたくなくてシレッとしていると、
「君は裁判負けると、どうなるの? やっぱりヤケ酒ですか?」
と楽しげに言われて、カチンと来て勢いよく振り返った。
「あなたに関係ありませんから」
振り返るなり、すぐ目の前にあったその端正な容貌に思わず鼓動が跳ねる。
うわっ、こんなに近くに顔があった。
バクバクとうるさい鼓動を押さえるように、グッと拳を握る。
こいつにドキドキなんてしない。
「君、法廷でハアハア息荒くしてなかった? 僕と対峙するかと思うとコーフンした?」
ニッと笑って更に顔を覗き込んで来た久住に、またバクンと鼓動が跳ね、ついでに後ろにものけぞった。
「はあ? そんなわけないでしょう? あんた相手にコーフンなんて! 自惚れもいいとこ、第一セクハラです」
真っ赤になって声を上げると、
「自惚れ? 『コーフン』って、そういう意味じゃなかったけど? 『いい戦いができる』って興奮したのかって意味だったんだけど?」
サラリとそう言われて、急激に熱が下がりグッと言葉が詰まる。
興奮ってそういう意味だったんだ。自惚れてたのは、私の方?
久住に覗き込まれたからって、意識しすぎた?
うわっ、恥ずかしい。
バツが悪い気持ちで目をそらしていると、
「ねえ、なんなら、ベッドでコーフンする?」
耳元で囁かれて「なっ!」と目を開いた。
「なななな、なんてことを。本当にセクハラですよ! 検事のくせに! 刑法第174条公然わいせつ罪で訴えてやる」
「174条は『公然とわいせつな行為をした場合』を言うんだけどな。んっ? それはもしかして僕と公然とわいせつな行為しましょうって誘いですか?」
「ち、違います!」
ああ、もう、信じられない!
こんなのが検事だなんて、世も末!
そう思っていると、
「久住さん」
と彼の背後で冷静な女性の声がした。
そこにいたのは黒いスーツがビシッと決まった、まるで私が理想とするものを形にしたような『美しきデキる女性』。
久住の秘書、五十嵐茜さんだ。
「時間ですよ」
ニコリと微笑みながらも冷ややかな目には、こちらまで気圧される。
久住はアハハと笑い、
「そうですね、失礼しました。それじゃあまた、ヒヨコちゃん」
と背を向け、彼女と共に歩き出す。
「ヒヨコじゃないです! 何度も言いますが、私は穂波 日和!」
「なるほど、すぐ日和るわけだ」
「生まれた日が、行楽日和だったからです!」
ぶっ、と彼は口に手を当てる。
「次の裁判では、絶対に負けませんから!」
歩き去る背中に向かって叫ぶと、彼は「はいはい」と言う様子で片手を上げ、
「そうそう、足首、お大事に」
振り返って、気の毒そうに眉を下げつつそう告げた。
確かにグニッとなった足首はズキズキと痛い。
くっそ、あのやろー!
やっぱ、いつは疫病神だ!