98.春の嵐
「ん……、くわぁ……」
最近は暖かくなってきたからついつい眠りが深くなる。
窓の外からは小鳥の囀りが心地よく耳に届き、柔らかな日差しは眠れと言っているかのようだ。
ただここでは少し薬品臭いのが難点だった。
「病院ってあんまり来る機会なかったから分からなかったんだけど、結構退屈なんだね。匂いもまだ慣れないや」
あの戦いが終わってから大体三ヵ月、寒さもどこかに行ってしまって暖かな春がやって来た。ワタシもラゥルトナーが事実上消滅していたことを隠す必要もなくなって、のんびり過ごせている。
お金になりそうなものなんかは元の屋敷を漁ればいくらでもあるし、生活には問題ない。あ、強いて言えば右目をヨナに上げちゃったから病院に通わなくちゃならないのが面倒かな。
「ね、そう思わない?」
「…………」
話しかけた相手は返事を返すこともなく、ただ窓の外を見ている。
「それにしても、皆頑張ってるよね。特にユーリなんか色々と押し付けちゃったから、てんやわんやしてるみたいだし。ヌイちゃんいなかったら危なかったねぇ」
戦いの後、彩音達の四方総界によって、世界は修復された。廃墟でしかなかったこの辺りも今となっては病院や喫茶店が立ち並ぶ大通りに作り替えられた。当然、ナイギというか『崩界』の住民だった人たちも一緒に暮らすこととなったわけだけど、思いのほか何とかなったという印象。
一番の悩みが電化製品の扱い方が分かりにくい、なんていうことだから結構平和にやっているみたい。
「よかったよかった、やっぱり戦ってるよりも寝てられるほうのがずっといいよね。そう思うでしょ?」
「…………」
「んー、あ、そうだっ。イユラったらナイギに戻らないで学校の先生を始めたんだって。シエがどうしてもってお願いしたみたいなんだ。イユラもシエにはだいぶ心を許してるからつい請け負っちゃったみたい」
「…………」
「でもイユラったら、元の性格のままでちゃんと授業できるのかな、なんて気になったりしない? 本で見たことあるんだけど、ああいう鬼教師って授業中にチョーク投げつけたりするのかな。イユラならそのまま四方界使っちゃったりしそうだけど」
「…………」
「ねーぇー。どう思うかくらい反応してよー」
「…………」
だけど、彼は窓の外をただ見ているだけだ。こっちに振り向くこともせず、反応の一つも返ってこなかった。
「ほかには……えーと、なにがあったかな」
この病室に毎日に通って、他愛ない話を延々としているけど彼はいつもベッドの上で外を眺めている。
「そんなんだから、みんな心配してるよ? もうちょっと反応とかあってほしい」
ずーっと、つまらなさそうにしている相手に話をし続けるのは、やっぱり疲れちゃうからさ。また前みたいに話したいだけなのに、どうしてこんなことが難しく感じてしまうんだろう……。
「……、ちょっと、外に出てくるね? またすぐ戻るから」
なんだか喉が渇いちゃったから適当に買いに行ってこよう。
「何がいいとかある? ほしいものがあれば言ってくれれば買ってきてあげるっ」
「…………」
「……、はぁ、それじゃあ行ってくるね。また昨日と同じもの買ってくるから楽しみに——」
「……待て——」
「———あ」
ようやく聞けた、聞きたかった声。
それは思いがけないタイミングで、ドアを開こうとしていた手の動きが止まる。
「……まさかとは思うが、昨日のとはあの甘いだけのやつじゃないだろうな……」
「ダメだった?」
振り返った先にはすっごく嫌そうな顔をした彼、“ジンくん”の姿があった。
「もうやっぱりちゃんと聞いてたんじゃない。もっと相手してくれないと拗ねちゃうよ?」
「……知らん、日中は家に誰もいないからと通い詰めている貴女の方がおかしいんだ。僕が相手をしてやる理由なんてないだろう…」
「え、嫌だった? それに昨日のも? あんなにも勢いよく飲んでたのに」
「あまりにも不味かったからだ。捨てようとしても貴女が邪魔をするっ。放っておいてくれ、どうせここに来ても寝るか独り言をしゃべっているだけだろう」
「独り言なのはジンくんが相手してくれないからだよ? こんな絶世の美人が会いに来てるんだからもっと嬉しそうにしてほしいな」
「……もういい、こんな話をしていてもどうせ勝手に来るんだ。飲み物を買いに行くならさっさと行ってくれ。そして普通のお茶でいい」
「はーい、もうジンくんったら初めからそう言ってくれればいいのにー」
「いいから行ってくれ……」
ちゃんと返事もしてくれたし、とりあえずは満足。
(それにしても、なんだか疲れてたのはどうしてだろう?)
ワタシがお見舞いに来ていながらああなっているのはとても不思議だけど、まあいっか。
「さぁって、お茶って言ってた——ん?」
何台も並んだ自動販売機、その中から適当に気になるものを買いつつ、ジンくんに頼まれていたお茶を買おうとした時——、その隣に新製品と大々的なポップが目に付くジュースが一本。
「……お茶、かぁ…」
頼まれていたものを思い返しているはずなのに、ワタシの指はなぜだかそっちに向かっていって——。
「ジンくーん、おまたせー。面白そうなの買ってみたらちょうどお金が無くなっちゃってーー、あれ? ユーリ来てたんだ」
「ん? おおリアちゃんか、聞いちゃいたがマジで毎日来てんだな。ま、コイツがまた何かしでかさないか見張っててくれるのは助かってるけどな」
「ふふんっ、ジンくんのことが放っておけなくってね。ワタシの優しさでほら、ジンくんもこんなに元気いっぱい」
「いいから、飲み物を買ってきてくれたんだろう。ユーリの相手でさらに疲れたんだ…」
「お前それ言うかね、最後の最後に迷惑かけやがったくせしてよ。マジで焦ったぞあの時」
「……僕にとっては大事なことだ。これは譲れないことだった…」
「アヤネちゃんたちがいたからよかったものを…、おかげで肝を冷やした。つっても…はぁ、その結果が全治半年の大怪我か。ハハっ、手酷くやられたもんだ」
「ああ、そうだな…。僕じゃ勝てそうにないと、思い知らされた」
「うんうん、そういうことを何度も重ねて人は大人になっていくんだねぇ。ハイコレ、新商品だって」
「……お茶を、頼んだはずだ」
「えぇ? でもおいしそうだよ?」
「どれどれ…? っと、こりゃあすげえや。よくもまぁこの色で販売できたな」
渡したジュースは何というのか、どどめ色…と白っぽい層に別れていて、振って混ぜ合わせるらしい。
「まま、せっかくだし飲んでみようよ。今までシエのお茶ばかり飲んでたし、体に悪いからってあんまり買ってきてくれなかったから、色々なの買ってみてるんだー」
「オレも毎日シエちゃんの淹れてくれたお茶飲みてぇなぁ……」
「いいから、せめてマシなのを寄越してくれ」
しみじみと目を閉じるユーリと、他のものを要求するジンくん。目は治っていないから、どれがどの飲み物かまでは分からないみたい。ちなみに件のジュースのお味は——。
「あ、すっごい酸っぱいというか、うん、マズイ!」
次の商品に期待しつつ、とりあえず捨てよう、これは、ウン。
「それにしてもユーリ、仕事はいいの? いつも忙しそうにしてるじゃない」
「ん? ぁー…まぁ……大丈夫だって! オレには優秀な右腕であるヌイちゃんが——」
「ユーリィ!! やはりここにいたか、早く戻るぞ! まったく隙を見せればすぐに逃げ出しおってからに!!」
「あーヌイちゃんだ、元気してるー?」
「ム、ラゥルトナーか。ユーリは回収していくぞ、この男ときたら仕事が一切終わっていないというのにすぐ姿を消すからな」
「え?! い、いやー何のことかなぁ!? オレはちょーっとだけ気分転換に——」
「そのために影武者まで雇ったのはどういう腹積もりだ? しょうもないことをしてないで帰るぞ、邪魔をしたな」
「えぇ~、ヌイちゃんもうちょっとオレにも休みをくれてもいいんじゃないの!? 月休2日も危ういのは現代社会においてマジでどうかしてるって!! 」
「そうか、ならば半日だけは確保してやろう。それでいいな、安心しろ働くときは私も一緒だ」
「それなら一緒に休みとろ——」
嵐のような勢いで連れていかれたユーリはそれなりに抵抗していたようだけど、根は真面目だからちゃんとやり切るんだろうね。そういうのを見越してヌイちゃんも付き合ってあげてるんだろうし。
二人が去った後の、ゆっくり閉じていくドアを見ながらジンくんに話しかける。
「ねぇねぇジンくん、あの二人将来くっついたりするかな?」
「しらない、というか貴女も帰ってくれ。ほら、時間もいい頃合いだろう…」
時計を見ると、確かにいつも変える準備を始める時間になっていて——。
「うん? あー、いつもだとこれくらいがちょうどいいんだけど、今日はまだダメなんだ」
「遂に追い出されたか」
「失礼なっ、ワタシは皆を愛し、皆に愛されてるからそんなことにはならないの。ただ今日はワタシ以外の番なの」
「?」
怪訝そうな顔をしているし、せっかくだから我が家のルールでも教えてあげようかな。話し相手がいないと退屈だし。
「それに今日は補習の日なんだ。ふふっ、なんと二人して赤点だったらしいから、イユラも複雑な気分だろうね」
「はぁ……その話、どれくらい続けるつもりだ?」
「んー、きょうは皆帰るの遅くなるって言ってたから……面会時間終わるまではいようかな」
「…………」
「あーっ、また無視しようとしてー。ダメじゃないジンくん、そういう頑固なところは受け継がなくっていいんだから!」
「………僕の勝手だ…」
「じゃ、どこから話そうか」
「……勘弁してくれ」
疲れ切ったような顔をしてるけどダメダメ、ワタシの話し相手としての役目をしっかり果たしてもらわないと。彼等が、学生として当たり前の日常を過ごせるように、ワタシは少しの間だけおとなしくしてないとね。
「ふふっ、幸せだなぁ」
「…それは、僕にも適用されないのか…?」
「だからおすそ分けだよ、質問はいつでも受け付けてるからね」
「まったく……」
窓の外で桜の花びらが舞っている。
その花びらはどこまで飛んでいくのかは分からないけど、もしもみんなのところにまで飛んで行っていたなら、なんだかロマンチックだな。
□ □ □
帰宅の途中、川沿いの桜並木を二人で歩いていた。
舞い落ちる花びらは桜吹雪、とまではいかないもののそれなりの量で、隣を歩く少女の肩や頭に降りもっている。初めの方は払っていたようだが、キリがないから一旦諦めたらしい。おかげで遠目から見たら髪の色が薄桃色に染まりかけている。
「今日どうだった?」
「ん…、まあ別に。いつも通りだった」
「そう? でも衣優ちゃん悩んでたよ? なんでこれが分らぬのだーって」
「そういわれてもな……、難しいものは難しいんだ」
「あははは、でも追試だって一発合格できたから成長してるんだよ。これからも予習復習を忘れないように」
「分かってるよ、やらないと怒ってくるしな」
「愛の鞭ってやつだよ」
そういうと彼女は空を見上げながら歩き出す。
「わっぷ…っ」
綺麗に飛んできた花びらが勢いよく顔に当たってよろけているが。
「…うん、こうやって学校に通えて、本当に嬉しい」
だが彼女は、皆方はとてもうれしそうに、面々の笑みを見せてくれる。
「ああ…皆のおかげだ。閉じ込められた俺達を見つけてくれた」
「ほんのちょっぴりだけ虚無領域が残ってたのは奇跡、なのかな?」
「どうだろうな、認めたくはないけど……。ホロウの影響っていうのもあるだろうな」
門が閉じた後、俺とジンの兄弟喧嘩は領域が消滅するまで続けられ、結果は俺が勝利した。
不幸中の幸いだったのは俺自身がホロウの残滓であったことだろう。そのせいか主を失ったことで崩壊を始めた虚無領域は、俺のいるほんの少しだけ領域を残していた。
その頃、地上ではリアが魔眼の感覚を辿り位置を把握、皆方とあやねが『巫女』の力で再び門を創りだし、俺達は助けられた。
「本当、生まれてから今の今までホロウの影響で生きてこられてるようなのが気に食わねえ。もう一回ぶん殴りたくなってくる。もう会いたくもないけど」
「あはは…、でももう殴れるような相手じゃなくなっちゃったんでしょ?」
「…まあな、個としての自我があるかどうかも分からないけど、出来ることはせいぜいが地震とか台風とかだ。これからは異常気象が増えるかもな」
四方纏界によってホロウを別の概念へと置き換えた。それは奴の望んでた怪物、とまでは行かないが親和性の高い天災へと当てはめた。
その上、仮にも『総界の巫女』を取り込んでいたせいでその規模は『境界』を含む星の宙全体に及んでいる。いくら弱っていたとしても、ホロウの力は強大。
それこそこれから先の世界では、総ての世界において異常気象による天災が年に数回増えることだろう。
……この程度の被害、人間は乗り越えられるはずだと心の底から信じながら。
「そうだっ、あーえと、うんっ補習大変、だったね!」
「迷惑だったろ、待ってなくてよかったんだぞ。今日は早く終わったからよかったけど、シエはまだ居残ってるわけだし」
「いいよ、ちょうど日直だったから待ってる間に仕事も済ませられたし、むしろ待たせなくってちょうどよかったくらい」
ちなみに、俺とシエは今日、数学教師に出戻りした“内儀衣優”先生…、イユラの補習を受けていた。理由は小テストで赤点を取ったからであり、俺の方は何とかすぐ終わったが、苦戦しているようだったシエは——。
『よ、ヨナギ様…アヤネ……、どうか私を置いて先にお帰りください……っ、私は、まだこの問題と格闘せねばならないようですので……っ、うぅぅううぅ』
『ウム、その意気だシエ。安心するがよい、お主が解けるまでは付き合ってやる。もし時間以内に解けなければその時は、また考えよう……』
『ハ、ハイ…っ、ガンバリマス——』
あの時、頭から煙が立ち上っているように見えたが大丈夫だろうか。
「まあ、あやねもついてくれてるし、おかしなことにはならないんじゃないかな。そうだ、買い物とか寄ってったりなんかは——」
「俺は別に買うものはないけど、寄りたいなら付き合うぞ?」
「そ、そうっ!? それならよかった、なぁ。なぁんて、へへ」
「……」
「それじゃあ参考書でも——」
「皆方、聞きたいことでもあるのか? なんか様子が変だぞ」
最近やけになにか言い出し辛そうにしていたような気がしていたが、今日の様子はひとしおだった。
「う——っ、そう…です、聞きたかったことがあります…」
肩を落とし、降参とばかりに両手を上げる。
少し複雑そうな顔をしていたが、俺の顔を窺がいながらおずおずと話し始めた。
「えっと、夜凪くん」
「うん」
「私たちって…付き合ってるん、だよね?」
「告白は、したと思ってる」
此方に戻ってから、怒られはしたもののその後には約束通り俺から気持ちを伝えている。
「彼氏彼女の関係でいいんだよね?」
「いい、と思う…」
「なんでそんなに自信なさげなの!?」
「いやだって、告白した時も言ったけど、俺自身皆方への想いが恋愛感情かどうかはハッキリしてないというか…、好きなのは間違いないけどそれを一生言い続けられるかと改めて問われると考え込んでしまうというか——」
「んもーっ、そこはキミが一番だよ! って言ってくれてもいいじゃないっ、例え嘘であっても!」
「そういう、人の想いを踏みにじりかねない嘘をつくのはもうしたくないんだ」
「そうだねっ、ゴメン気にしてるところに突っ込んじゃったね!? はぁぁ…ぁ…」
大きくため息をついて足を止めた。俺は少し通り過ぎてしまったので振り返ると、不満そうに唇をとんがらせた皆方がこっちを見ていた。
「あのね、おもったんだけど」
「なんだよ」
「いつから、私のこと、その…好きだったりしたのかなーなんて」
「さぁ、な。一緒にいたのが長すぎて覚えてないし、おぼえてても言わない」
「…夜凪くん大分めんどくさいよね。……でもさ迷惑とか苦労とか、いっぱいかけてよ。夜凪くんは一人じゃないし、私の方も迷惑かけ帰すから、それでおあいこ」
「そうか」
「ふふんっ、そうです。じゃないと夜凪くんったらまた一人で抱え込んだ挙句、落ち込みまくってみんなが面倒見てあげなきゃならないんだから」
「皆方はその時いなかったろ」
元気を取り戻し始めた皆方は俺の横まで並び、また一緒に歩き始めた。
「でも多数証言を得てるもん。ユーリさんなんてすっごい教えてくれたよ?」
「アイツ…」
「夜凪くんは皆に大切にされてるから、もう一挙手一投足が全員で共有されてるから。私に隠し事なんて無理だもんねーだ」
「それ以上言ってたらその口ふさぐぞ」
「へっへーん、そんなの脅しでもなんでも——、んん——!!?」
何でもないと言おうとしていた口にキスをしてやったらやたら驚いて飛び上がった。
「はっ、どうした」
「だだだだってそれは不意打ち過ぎて卑怯すぎるんじゃ……っ!」
こっちを指さしている手を取ると、そのまま腰に手を回す。
「これも迷惑だったか?」
「…………めいわく、です」
「なら返せ」
「——、ん…」
背中に回される手と、唇に伝わる柔らかな感触。
離れた後の皆方のは顔は真っ赤で、愛おしいとおもう。
紆余曲折すぎる道程だったけれど、それでも皆方を護ることができたのは俺にとっての救いでもあった。
「ムゥ…、お、思わず乗っちゃったけどこれしたら許してもらえるとか思っちゃダメだよ!? ダメだからね!?」
「はいはい」
「あ、でもこれが夜凪くんの初めてのキス……なわけないかリアさんもあやねもいるし、…でもシエよりは速かったり——」
「……アイツならリアになんか吹き込まれたのかこの前寝込み襲ってきたぞ」
「けだもの!!」
「アイツらに言えよ」
「んーー! もぉーー!!」
「ほら、髪の毛ぼさぼさになるぞ」
「んー…」
手足をばたばたと振る皆方の手をもう一度とると、そのまま手を繋いで歩き始める。
「いい天気だな」
「…うん。綺麗」
「今年はさ、ちゃんと夏祭りにもいこう」
「…うん、その前にお花見だけど」
「そうだな、今まで出来なかった分、いっしょにいられたらいいな」
「そうなるように頑張るのも夜凪くんのお仕事だよ。彼氏、だもん」
「そうか、なら…頑張ってみるよ」
「うんっ」
「——」
花開くような満面の笑みの前では、何を頼まれても応えてしまいそうになる。
春の陽気に釣られて、跳ねるような心臓の鼓動は我ながら浮かれていると思わされる。けれど、これが恋ならば、いつか愛と呼べる日が来るまで大切にしていこう——。
「ふふ、楽しそうね」
「「——うわっ」」
不意に耳元で掛けられた声に二人して驚く。
その声の主は微笑みながら俺達とは対照的に落ち着き払っていた。
「あやね、驚かすなよ」
「もう、そんなに驚かなくっても。シエの補習が終わったから追いかけてきたの」
「あ、もう走れるようになったんだ!」
「ううん、残念ながらそこまではまだ無理かな。シエにね、運んでもらったの。お姫様抱っこ。結構前には追い付いてたんだよ?」
「……へぇ、けっこう、前?」
「うん、結構前」
ニコニコとしたあやねの表情からは真意を読み解くことは難しい。
だから分かりやすい方、具体的に言うとすぐ顔に出る方。
「で、そのシエはどこ行った」
「そこの茂みじゃないかな。シエー、出てこないの?」
「ひゃい!」
なぜか出てきた時のシエは顔を真っ赤に染めていた。
「……見てたよね、二人で、間違いなく」
「ふふ、何のことかしら?」
「見ておりません! 何も!!」
「共有されるってのは、多分俺だけでおさまりそうにないな」
「うん…そうみたい」
「それじゃあ、わたしたちも買い物にご一緒していい?」
「ホントに結構前から聞いてたんだね!? ああもう…うんっ、そうだね。皆でお買い物に出発っ、一応参考書を買いに行くつもりだったのは本当だし」
「ア、アヤネ…実はワタシ、今は少し疲労困憊でして…」
「だったら余計に鉄は熱いうちに打たないとね!」
「アヤネェエェエ…」
「———い…よなー」
「ん? 今の声」
聞きなれた声がしたかと思うと、桜並木の先からリアが手を振ってやって来た。
「来ちゃった、テヘ。お邪魔しちゃっていいかな?」
「今日は早いな、いつもみたいにジンのところで油売ってたんじゃないのか」
「流石にしびれを切らしたのか追い出されちゃった…。ワタシと皆の間にどれくらい強い愛が生み出されているのかを説明してただけなのに……」
「お前な……」
「あらそれは残念ね、また明日再挑戦しないと」
「うん、もちろんそのつもりだけどね。まだまだ話足りないことは山ほどあるもの、いざとなったら録音しておいたのを置いていくつもりなんだー」
「…お前らジンのこと許してないだろ」
「「なんのこと?」」
「……いや、なんでもない。黙ってます……」
これ以上深く突っ込んじゃいけない。
あそこでジンと戦ったことを悔いてはいないが、皆を怒らせるには十分すぎることをしでかしたという自覚はある。
「あ、でもこれでみんな揃いましたね。リアさんどっか寄りたいところあります?」
「んー、ワタシは皆の行きたいところでいいよ。あ、でもさっき変なジュース飲んじゃったから口直しに美味しいお茶飲みたいな」
「ああリア様、また見るからにおかしなものを飲んだのですね! それはいけませんと注意しておりますのに!」
「アハハ、ゴメンゴメン。興味に負けちゃって」
「でしたら途中でお茶葉を買っていきましょう。美味しいものを飲めばリア様も変なものに手を出さなくなるはずですっ」
「おー、シエがんばれー!」
「ハイっ、ガンバリマスっ!!」
「あ、私も一緒にお願いしたいな——」
「ならお菓子も買っていかないと——」
「…………」
少し足を止め、皆が進んでいった背を見つめる。
ふと桜並木を見上げると薄桃色の花びらが風に吹かれて、彼女たちの姿を彩っていた。その姿を半ば放心して見てしまう。
この光景こそ、俺が望んでいた奇跡なのかもしれないと、頭の片隅で考えていたような気がして……。
「————あ」
ずっと遠くで、花吹雪に紛れて一人の女性がこっちに手を振っている。
その人を俺は知らない。はずなのに、その隣に立つ男の姿は苦々しいほどよく知っていた。いつも通り崩すことのない厳めしい面のまま男は立ち去ろうとして、女性は楽し気にその後ろを追いかけていく。
とても楽しそうに、嬉しそうに。二人は花吹雪の中へ消えていった。
「あれ、夜凪くんは——。あ、もう夜凪くーん、置いてっちゃうよー」
「え、——あ、ああっ、すぐ行くから」
皆方の声に意識を引き戻された時、もう二人はいない。今見たのはきっと幻覚みたいなものだ。いつかの俺が見たいとどこかで思っていた光景が現れた。ああ、そういうことなんだろう。
騒がしい日々の、緩やかな日常を皆で桜並木の間を歩いていく。これから先の世界がどうなっていくのかは分からない。またホロウみたいなのが現れるかもしれない。けどそんなことはもう嫌だし、勘弁してほしい。
でも、そう心配することもなく、このまま大した事も起こらず平々凡々な毎日というのがやってくるのかもしれない。それならそれで十分すぎるほどの奇跡に他ならない。
「……」
今はただ、穏やかな春を享受しよう。
ゆっくりと、本のページをめくっていくように、ありきたりな幸福を読み解いていくことが俺にできる唯一のことだろうから。
「ほらっ、夜凪くんっ。はやくはやくっ!」
「ああ、分かってる——」
ずっと、待たせ続けた彼女の幸福と共に過ごせていけるように。
俺達はこの一歩を踏み出してゆけるのだから。
『本編について』
・最終回です。
これで彼らの物語はおしまいになります。今までお付き合いいただいた皆様には大変ありがたく思っています。読んでいただけた中で少しでも面白いと思っていただけたなら自分にとっては十分です。本当にありがとうございました。
『定期連絡』
・高評価、いいねなどいただければ、皆様には特に見返りはありませんが自分が喜びます。
・更新日の後にそのことを伝える呟きをしているので、思い出す用にツイッターフォローいただけると幸いです。
・細かい設定や反省点等々は完結後にでもおまけでまとめようとでも思っているので、質問をいただければまとめて回答します。よければどうぞお願いします。




