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四方総界縁起  作者: くろよ よのすけ
73/100

73.六等星の導き③

「ごちそうさまでした。マダム、これほど料理がお上手だったのですね」

「そんなに褒めないで、これ以上は顔が熱くなってしまうから。でもそうね、みんなの食事は当番制で、個人的に料理をする機会は無くなってしまっているから。久しぶりに作ってお口に合わなかったらどうしようかと少し不安だったのよ」

「そんなこと、全く感じられませんでした」

 お世辞なんてない。本当に彼女の用意してくれたお茶もパンも、非の打ちどころのない食事だった。あれで自信が持てなかったといわれると、私の方が打ちのめされてしまうかもしれません。

「ありがとう。そうね、行き過ぎた謙遜はかえって失礼ね。でもいまだに自信が持てないのも本当なのよ? ふふ、昔は本当に下手だったから」

「そ、そうなのですか…? とてもそうとは思えませんが」

「ええそうなのよ。いつも味見をさせる相手がいたのだけど、お茶なんて淹れるたびにマズイか飲めなくはない。なんて評価だったから私も意地でね、気が付いたらこんなおばあさんになってしまったけど」

 カップの淵をなぞりながら懐かしむように話す姿からは、思い出の回顧と少しの憐憫が混じっているように私の目には映った。


「その方は今どちらに?」

 質問してからしまったと思った。

 誰の過去にも暗い影は落ちている。彼女の憐憫を感じ取っていながらつい口に出てしまったのだ。

「いいのよ、ずっと昔に過ぎたことだもの。あの人はいうなれば六等星のようだったわ。小さな輝きでも、そこには必ずいてくれる。……でも彼とは、戦いの中で分かれてしまってね。今もどこかを旅しているのかもしれないし、死んでしまっているのかもしれない」

 空を見上げ、弱々しくもまばらに瞬く六等星を見上げながら彼女は想いを馳せる。その姿は今度こそただの少女にしか見えない。

「ただそうね。もしも星に願いをかけてもいいのなら、もう一度くらい会ってみたいわ。あぁでも、お婆さんの姿を見られるのはイヤね。きっとからかってくるだろうから」

 大切な人との別れを笑いながら口にできるまでどれほど時間を必要としたのかは分からない。

彼女に比べればどうとでもなるが、私も近しい状況へ身を置いてしまっているせいか他人事のようには思えなかった。


「差し出がましい発言ですが、きっと……その方は幸福だったと思います。私にはマダムはお年を召されていてもお美しく見えます。お若いころから心身ともにお綺麗だったのでしょうね」

「あらあら、シエさんにそう言ってもらえると嬉しいわね。嘘もお世辞も苦手そうだもの」

「ほ、本当にそう思っているので…」

「ありがとう。ならお礼にお茶のお代わりはいかが?」

「いただきますっ」

 これほど美味しいお茶ならば何杯でも飲めてしまう。

さきほどまでの沈んだ気持ちもお茶に溶けて呑み込んでしまったかのように、一時ではあるけれど、私の心の裡を綺麗な雨のように洗い流してくれた。

「少しは気分転換になってくれたかしら」

「はい、心より感謝しますマダム」

「大げさよ、私はこんなことしか出来ないもの。若いころに剣でも納めておくべきだったかしら、なんてね?」

 いたずらっぽく笑う彼女の表情はまるで少女のような可憐さを含んでいて、本来の年齢よりもずっと若く見えた。


「それにしても、もう三ヵ月もたつのね。ユーリがシエさんを連れてきたときは驚いたわ。こちらに『崩界』ごと移動した矢先だったから慌ただしかったというのもあるけど。まさか自分から屋敷に足を運ぶなんて。若い子たちの中でも噂になってたのよ、ついにユーリが誘拐してきたのかって」

「い、いえこの行動は私の意志です。……ですがそう、ですね、ユーリ・ナイギなら頼めばそのように振舞ってくれるのでしょうね…、そこまで借りを作るつもりもありませんが」

「まだユーリのことは嫌っている? 普段の振舞いほど悪い子ではないでしょう」

 くすくすいう笑いを抑えきれずに目を細めているマダムはそれでも絵になっている。長く勤めているとのことなので彼女からすればユーリも赤ん坊と同じようなものなのか。


「先の戦いでは助けられましたし、感謝もしております。ですがやはり、……軟派なところはどうかと思います」

「ふふ、そうね、あれも一種の不治の病かもしれないわね。でも誤解しないであげてちょうだい。私の目から見た主観でしかないけれど、きっと貴方への想いに嘘はないと思うわ。だから受け取ってあげてほしい、なんていうつもりはないけれど」

「は、はぁ…。それは、まぁ……」

 なんと答えればいいのかすぐに出てこなかったために曖昧な返事をしてしまった。

 その様子を微笑みつつ見ていたマダムは、空になったティーポットの中身を確認しながらゆっくりと席を立つ。


「それじゃあ年寄りがこれ以上鍛錬の邪魔をしてはいけないわね。まだ鍛錬は続けるのかしら。みんなは帰りを待っていたようだけど」

「すみません……、ですがもう少し続けていこうかと思います。三ヵ月という時間をいただき、皆さまから良くしてもらいながら、私はまだあの屋敷の中で居場所を見つけることができないでいる。まだ、私自身の進むべき道を決めあぐねているのです……」

「そう、分かったわ。御飯は用意しておくから好きな時間に戻ってちょうだい。……誰でも自らの未来に不安を抱えている。そしてそこへ進む方法を同じとする人はいないわ。シエさん、貴女は貴女の納得する道を選んでね」

 皺だらけの手で頭を撫でられる。苦難を重ねてきたであろうその手は優しく、柔らかかった。私は母というものを知りはしないが、もしもいたのならこのような温もりを言うのかもしれないと思えるほど。


「……マダム、今日は本当にありがとうございました」

「いいのよ、ただのお婆さんにできることはこれくらい。でも力になれたようでよかった。それじゃあまたお屋敷でね、用があれば好きな時に話しかけて頂戴」

「はい」

 深々と礼をして、見送る。

 日は完全に暮れ、街灯が点々と広場を照らしていた。

「ああそうだった、一つ言い忘れていたわ」

 帰路についていたマダムが振り返る。その様子からして大した話ではなさそうだが……。

「はいなんでしょうか?」

「これは古い、年寄りの考えだから参考になるかは分からないけど。もしも貴女にとって大切な男性が苦しんでいるのだとしたら、思い切りひっぱたいてしまって構わないと思うわ」

「へ……、マダム?」

 思いがけない提案につい聞き返してしまう。……ひっぱたく、とは?

「ふふ、それだけよ。どうするかはシエさんが選べばいいわ。それじゃあ」

「あ、あの——マダ……ム…、行ってしまいました……」

 呼び止めるのも追い付かず、彼女は広場につながる階段を下って行ってしまった。


(ひっぱたく? わたしが、ヨナギ様を……?)

 少し想像して、想像しきれずブンブンと頭を振る。そうだ、今はそれどころじゃない。

「為すべきことを、こなせるように。私にできるのは…決戦までに『聖槍』を操れるようになることが第一です。それまでは他のことなど——」

 しかし思考はそこで中断させられる——。


「そこでマダムとすれ違った。朝からいないと思えば、まだやっていたのか貴様」

 再び掛けられる声はマダムとは正反対の刺々しさを宿したもの。物腰も纏う空気も慈母というより戦士であることを決定付けている。

「暇なら体を慣らすのに付き合え。こちらは完治して間もないのでな」

 そこに立つのは不愛想な顔を浮かべ、機嫌が悪そうに腰に手を当てた女性。かつてアヤネをレストランで襲撃したナイギの戦士。 

「ヌイさん」

「付き合えシエ・ジンリィ、こちらも体を動かしたいと思っていたが、相手がいなくてな」

 そして彼女は相も変わらずの仏頂面で、敵であったはずの私に手合わせを申し出てきた。

「私とではお断りか?」

「かまいません。一人では限界を感じていたところでしたから」

「そうか、ではさっさとやるぞ。四方展開」

「なっ、四方界の使用を——」

「当然だ。決戦が近いというのに甘ったれた鍛錬など意味はないだろう。分かったならやるぞ」

「は、ハイ!」


 そこからは本気で命の取り合いを、とは言わないもののそれなりに全力での戦闘を繰り広げることとなった。

 彼女もまた、レイガンとの戦いで急成長を遂げている。四方界の精度も威力も以前のそれではなく、彼女自身の身のこなしや技巧そのものが高い練度を誇っていた。

「ハァ!!」

 ならばこちらも手を抜くことは許されず、全霊をもって聖槍を振るう。日は完全に暮れ、街灯が点々と照らす夜の広場。そこに武器の衝突による火花が加わる。


「……っ」

「ふンッ!」

 それは月が中天に上り切るまで続けられ、互いの動きが止まった時にはそれぞれの首筋に刃がピタリと添えられていた。

「……ふぅ、これで終いだな。これ以上は続けても意味はない」

 息をつくと、互いに武器を納める。これは殺し合いではない。敵同士ではあったが、現状は同じ相手を敵に定めた者同士、協力関係にあたるのだ。

 ヌイという女性がそのことを理解して行動できる相手であることはこの三ヵ月でよくわかった。


(一度決めると意固地になるところはありますが、おおむね面倒見の良い人です。ユーリにもよく噛みついていますし)

 手首のストレッチをしているヌイの姿を目にしつつ、これまでの彼女の様子を思い出す。

 敵であったとはいえ、その性質は好感の持てる人だ。文句は言いながらも頼まれれば応えるし、頼まれていなくても気が付けばこなしてしまう。

 その上あの屋敷で唯一ユーリを正面から殴り飛ばしてくれる。……他の人たちの場合はいつものことだと流してしまうから、あれで大丈夫なのだろうかと見ているこちらが心配になってしまう。


「む、なんだジロジロと。貴様もあの三人組のように殺す前提での鍛錬でないと意味がないとでもいうつもりか?」

「いいえっ、そのようなつもりでは…っ」

「ならいいがな。ふぅ…、少し動きを止めただけで寒くなるな」

「そうですね、ここに来たときは夏で、何をせずとも汗が噴き出していたのですが、今は真逆です」

 夕焼けの中でヨナギ様と再会し、アヤネと出会った日。

「………」

 あれから気が付けば多くの時間が経ち、状況も大きく変わってしまった。


「一つ聞いてもいいか」

「はい、なんでしょうか?」

「なぜ手を抜いた」

「え…? そのようなつもりはありません。私のような半端物が口にするには失礼ですが、以前と比べヌイさんは非常に強くなられております。『胎蔵領域』も扱えるとお聞きしていますし、自信を持って構わないと思います」

「そうではない。自分の実力は把握している。その上で今の戦闘を相打ちにしてのけた貴様の注意散漫さに腹が立っている」

「え、えぇと…それは……そのようなつもりは一切なかったのですが……」

 どうしようか、本当に手を抜いたつもりはない。それは相手に対して失礼でしかなく、鍛錬の質を自ら下げる行為でしかないからだ。


「なるほどな、自覚はないか。なら仕方ない、とも言えないが。……大方ヨナギと『巫女』のことだろう。気になるのならとっとと片づけてしまえ。そんな精神状態で戦いに挑むつもりか」

「………」

 返す言葉はでてこない。彼女の指摘したことは事実としかいえないから。

「聖槍の力も使いこなせてはいないらしいしな。手合わせをしたうえで、いまの貴様を戦力として数えるのは些か疑問だ。もう三ヵ月になる、そろそろ覚悟を決める時だと思うがな」

「……そう、ですね。ヌイさんのおっしゃる通りです……。ですが、どうしても顔を合わせるとなると体がいうことを聞かず…」

「それで朝食だけを届けては逃げ帰ってきているというわけか」

「っ、逃げ帰っているわけ、……では………。いえ、おっしゃる通りです…」

 反論しようにも事実をそのまま目の前に置かれてしまえば、それは幼子が駄々をこねているのと変わらない。指摘された以上、内容自体を否定しても何の意味もないのだ。


「シエ、心臓であった聖槍を取り出したお前が生きている理由。聞いているか?」

「え? それはユーリ曰く『ホロウが気まぐれに治した』のだろうと」

「ユーリからしか聞いていないのか?」

「は、はい」

「お前のところの、何だったか、あのいけ好かない金髪の」

「リア様を悪く言わないでくださいっ、ただ普段から自由気ままなだけなのです」

「……、主であるその女からは何も聞いていないのか。それを言うならヨナギもだが、本物の『巫女』のことも口に出してはいなかったのだろう」

「それは」

 お二人は確かに、ただの一度もアヤネの存在と『総界の巫女』の関係を口にしたことはなかった。そしてホロウの存在も。間違いなく知っており、お二人の目的が最初からホロウであったことに間違いはない。

(知らなかったのは、私だけです…)


「いい加減、聞いてみてもいい頃合いだろう。『巫女』のことも避けているようだが、このままでは何も為せぬまま後悔することになる。あの二人が知らないことでも『巫女』なら知っていることも多いだろう」

「……はい」

「……、まったく。何をそこまで手をこまねいている。惚れた男が他の女と一緒にいることがそれほど嫌か」

「ぶっ!? けほっ、こっほ——。ななななにをおっしゃるのですがヌイさん!? わたしは従者でありそのようなことは一切思っては……っ!」

「…ヨナギを異性としてどう思う」

「それは好きで——、…すがあくまで主従関係でその……」

「隠し事が下手にもほどがある」

 頭痛を抑えるかのように手を額に当て、かぶりを振るう。

「別に貴様がヨナギにどのような想いを抱いていようが私の知ったことではないが、それで戦いの邪魔になるならとっとと片をつけてしまえ」

「で、ですがヨナギ様にとっては『巫女』である彼女が心に決めた人として……、それにリア様も——」

「本人がそういったのか? 違うだろうが、ただの一度もそんなことを話したこともあるまい。シエ、貴様は戦いの前から負けへの道を選んでいるだけだ。その必要はないからと、勝負の土俵にさえ立っていない」

「うぅ…」

「ユーリを見ろ、貴様にどれほど拒絶されてもあの様子だ。……いや参考にしろと言ってるのではない。あんな人間が二人以上いるなど私が耐えられん。だが、なんだ。己の想いを、意志を伝えぬままでいいのか。知るべきことを知らぬままで終わらせてしまっていいのか」

「私は…」

 以前、リア様にも問われたヨナギ様への恋心。あの時は従者である私にその資格は無いと、ヨナギ様への迷惑でしかないと自らの心を抑えつけたが、…今は、どうなのだろうか?


「それほどに時間を掛けるというのなら、それは貴様にとって重要なことだ。価値のある選択だ。どうするべきかは分かっているとは思うが」

 思いのほか、しばらく考え込んでしまっていたらしい。呆れたように背を向けた彼女の声で我に返る。


「…ヌイさん、その、ありがとうございます。気を使っていただいて」

「む、別にそういうことではない。ただ鍛錬に付き合ったついでに気になっただけだ。貴様を慮っての行動ではない」

「ですが、ヌイさんは屋敷でも多くの方々の面倒を見ておりますし、口には出さないようにはしておりますがとてもお優しい方だというのは皆さまも思っていることで——」

「ヤメロヤメロっ、それ以上はよせ。ヤツらがあんまりにもどんくさいから手を貸してるだけだ! べ、べつに普段から様子を見ているわけではないっ!」

「そ、そうですか…、それは失礼しました…」

 剣幕に圧されてつい謝ってしまう。とはいえ否定する彼女の顔は耳まで真っ赤になっており、褒められるのが苦手なのだろうと推察できる。

「もういいっ、時間も遅くなったし帰るぞ。これ以上遅くなれば連中のしょうもない絡みがさらに悪化するからな」

「は、はいっ」

 夜闇の中、街灯が点々と道を照らす。その先にある人の営みを示す光は、不安定ながらも私が一歩踏み出すための道しるべになってくれているような気がした。

 けど、その前に一つ。少し困ってしまうことがあるとすれば——。


「シエちゃんお帰りー! いやぁきょうもかぅわぃぃねぇ…! …ぐへへ」

「ちょっと、趣味の悪いおじさんみたいよ、それ」

「あ、あの」

「いいじゃんいいっじゃんー。だってほら見て、触ってみなよ。めちゃかわいくって髪の毛ふわふわほっぺふにふにだよ! これで特になんにもお手入れしてないんだよ!? 羨ましすぎない!?」

「…別の部分の本音がでてきてるわよ」

「おっとこりゃあいけねえ、あーでもなんだろ…。こうやって腕の中にいてくれるだけで心が洗われるようだよ…、おさまりがいいんだよねー」

「えぇと、えっと……」


 屋敷に戻ると、面倒をよく見てくれている二人に見つかった。気が付けばあれよあれよと後ろから抱きしめられ頭とか頬を好き放題に触られている。

 優しくしてくれているのはとても助かっているものの、どう対応すればよいのか分からずされるがままになってしまう。


「ほら、シエちゃん困ってるから離してあげなさいな。カチコチじゃない」

「そんなことないもーん、全身柔らかいよーだ」

「…そういうことじゃないの。はい、屁理屈言ってないで離れた離れた」

「ぶーぶー」

「す、すみません……」

「謝ることないわ。いつもの悪ふざけよ」

「そんなことないもんっ、こっちはいつも本気だもーん。…だからシエちゃん、もっかいだけぎゅってさせてほしいなー! …と。あのー……、あてくしの首を掴んでいるのはどこのどなたなのかなー?」

 飛び掛かってきた彼女はというと、その後ろから服の襟元を掴まれていて、まるで子猫のように宙にぶら下がっている。


「相も変わらず、ずいぶんと楽しそうだな」

「おぉやヌイヌイ、今日も今日とて仏頂面だねぇ。ほーらもっと笑って笑ってー」

「その呼び方は止めろと言っているだろう、まったく聞く耳を持たん。…シエ、貴様は風呂にでも入ってさっさと寝てしまえ。奴らに話をするというのなら、体調は万全にしておけ」

「貴女の中では私が行くと決まっているのですね」

「何も言わなかったとしてもそのつもりだろう。貴様は自分が思っているよりも強い。自信を持つことだな」

「……はい、ありがとうございます。ヌイ」

「そら、さっさといけ。コイツの息が完全に止まる前にな」

「え」

「ちょっとヌイちゃんっ、ほんとに顔色不味くなってきてない?! 大丈夫なの!?」

「ぬ…いぬい……、お、たすけ~……ぐえ」


 持ち上げられているときに首が締まっていたらしい。

どうやらヌイさんは私が立ち去るまではそのまま持ち上げているつもりらしく、時間経過に比例して顔色が青紫へと変色していく。


「では私はお風呂にいきますのでっ、それでは失礼します…っ!」

 これ以上ここにいても死人が出てしまう。

 ヌイさんの好意(?)を無駄にするのも忍びないので、言われた通り今日は早く湯船で疲れを取り、寝むってしまおう。

(明日、ちゃんと足を踏み出せるでしょうか……)

 大浴場の隅で身を沈め、今日と明日のことを思案する。

 不安はあるものの、今日一日で勇気を振り絞るきっかけはもらえた。ならばこの勢いのまま、私は一歩前へと進まねばならない。

 その結果、今まで慕ってきた彼らへの心象が変化してしまうかもしれないとしても。

「………」

 自分以外誰もいない大浴場で目を閉じて、静かに湯の流れる音に耳を傾ける。何も起きない平穏、疲れが湯に溶けだしてしまいそうな感覚。


『まったく、音がしないと思えば。何かあれば呼べと言っただろう』

「ん…」

 そんな中でふと、昔の記憶が顔を出した。

 幼いころ、私がヨナギ様に命を救われ、ラゥルトナーの屋敷に住み始めた頃。

 言われたことを額面通りにしか受け取ることのできなかった私は、ヨナギ様の『風呂に入っていろ』という言葉を受け、のぼせるまで湯に浸かっていた。どうしてか、出るのにも許可がいると思っていたのだ。

 拾っていただく前の記憶はない。リア様曰く、『もしかしたら虐待でも受けてたのかも』とおっしゃってはいたものの、思い出すことができない以上あまり気にしてもいない。

 ただその時の結果として私は溺れた、というよりも意識を失った。紙の船が浸水によって音もなく沈みこむように。全身を廻る血液の熱に脳が耐えきれなくなったのかもしれない。

 風呂から出てこないとヨナギ様が様子を見に来なければ、そのまま死んでいても不思議ではなかった。


『どうしてお前は何においても俺から許可を得ようとするんだ』

「わたし、の…あるじだから……」

『それはリアだ、俺じゃない。第一俺はここの住人ですらない。ただの人殺しの道具だ』

「……? でも、あなたはわたしのあるじです…」

『その理由を聞いている。…いやいい、くだらない、どうでもいいことだった』

 幼い私には彼の言っていることが分からない。くだらないと、どうでもいいと斬り捨てながらこちらへ向けられた視線にこもった憐憫。それは、誰に向けられたものだったのでしょうか。私、それとも彼?


『お前は、そのままでいろ』

「……その、まま?」

『武器を取るな、異能を修めるな。お前はただ、茶でも淹れていればそれでいい。いいな、シエ。お前は——』


「………ん」

 気づいた時にはベッドで横になっていた。火照った身体の熱は冬の冷たい空気によってさらわれ、体を起こすと頭からは濡れタオルがずり落ちた。

「まったく、早く寝ろとは言ったが風呂で寝ろとは言っていない」

「んぅ…ヌイ、さん……?」

「まだ寝ぼけているのか? なるほど確かに、これではヨナギも手を焼くだろうさ」

「……あ、わたし、もしかして——」

「ああ、少し遅れて風呂に入ったら貴様が沈んでいた。いないとは思っていたがまさかだ」

「ぅ……すみません、考え事をしていたらつい……」

「はぁ、まあ死んでいなかったのならそれでいい。墜天子というのは身体が丈夫なのだと聞く。あのまま放っておいても何とか——、いや呼吸は何ともならんか」

「スミマセン」

「いや…今のは私の言葉が悪かった。いいから気にするな早く寝ろ、いいなっ」

 言い終わるや否やすぐに部屋を出て行ってしまった。

 扉の向こうでは『ヌイヌイやさしー』とか、『やかましいっ!』といったような声が聞こえてきたが、早く寝ろと言われた以上、これ以上迷惑をかけるわけにもいかない。

(明日のためにも、早く寝てしまいましょう……)

 まだ頭は少しぼぅっとするものの、眠るだけなら苦でも入はずだ。

 

 わたしにあてがわれたベッドで横になって目を閉じる。

ゆっくりとした呼吸につられて意識は夢に向かって沈み込み、到達した夢はまたしても幼いころの記憶。

——ではなく、つい三ヵ月ほど前に見た、彼の怒りと悲しみだった。


『———』

 あの時、ヨナギ様の死を前にして、私のすべきことはたった一つだけだった。与えてもらった命を返すべき時が来たのだと。悲しさはあったものの、それでもあの方へ命を託すことができるのなら、それでよいと。

 そして私の意識は闇へ落ちた。間違いなく死という名の無の世界へ魂は落ちてしまったのに。その後、抗いがたい力の濁流に運ばれるようにして私は目覚めた。

 どうして、なぜ目覚めることができたのか、理由は分からない。

 これがユーリの言っていた通りホロウの力によるものであれば、その力は想像を絶しているといっていい。

 人一人、死んだ人間を生き返らせることなどできない。

 もしもそのような奇跡を可能とするならば、数え切れぬ人間の魂を捧げてなお成功するかどうかも怪しいと、いつかリア様が仰っていた。


『命は大切にしないとね、せっかく聖槍なんて大層なもので繋いだ命なんだから。シエ、キミはね奇跡を宿した子なんだよ』

 ソファに身を預け、開いた本で口元を覆うようにしながら口にしたリア様はとてもうれしそうだったことを覚えている。一日のほぼすべてを睡眠に費やし、起きている間は本を読む生活。そのお世話をするのは私としては楽しく、家事の能力が向上した理由でもある。


『だからきっと、シエが死んじゃったらヨナもすごく悲しむだろうね。気をつけなきゃダメだよ、フフ——』

『そう、でしょうか?』

 ヨナギ様が『総界』に旅立ち5年ほどだったろうか。クスクスと笑うリア様の言葉にその頃の私は実感がわかなかった。

 けれど『総界』での再会、ユーリとの戦いを経てその考えも少しずつ変化していたように思う。

 ……それでも、彼の死を認められなかった。私の心の奥底では決して変えられない想い、救っていただいた命を、戦う力として返す時が来たのだと。

 いつか来るであろう日こそが今日だったのだと思った。傍にいられなくなることは辛く、悲しかったものの、それでも悔いはないのだと言い聞かせて。


 でも、それは強がりでしかなかったのでしょう。だからこそ、まだ為すべきことがあるのだと、死より目覚めた瞬間にヨナギ様の危機へひた走った。

 世界そのものが崩壊し、混ぜ合わさる混沌の渦へ巻き込まれる中で、立ち上がる力もないヨナギ様と…、『巫女』の二人を助けることに必死だった。

 崩壊が収まり、複数の世界によるパーツが並び替えられた今の『総界』。目覚めてすぐ皆の応急処置を終えた時。右目からの出血を抑えながらヨナギ様が口を開いた。


「シエ、どうして『聖槍』を俺に渡したんだ」

 その声は怒りを抑えるかのように微かに震え、一言一句を確かめるように絞り出されていた。

 世界はグチャグチャにはめられたパズルのようになっていたけれど、ヨナギ様が気にしているのはそこではない。

 ホロウの復活、魔眼である右眼が潰された。そして……アヤネが立ち去り、本物の『巫女』が戻った。

 その状況の変化に、これまで張り詰めた状態ギリギリで保っていた精神の糸が切れてしまったのだと思った。事実ヨナギ様は戦いのことだけではなくひどく疲弊しており、『纏界』に居た頃のヨナギ様を思い出す。


「それは…、私よりもヨナギ様の方が——」

「ふざけるな……っ」

「ぅ……っ」

「違う、そうじゃない……」

 頭を抱え、悲痛な声を上げる。その勢いに押されてそれ以上の弁解は出来なかった。

「……ちがうだろう、だからといって槍を返す必要はなかった…!」

「で、ですが……。レイガンの力の前ではヨナギ様がいなければ倒すことは出来ませんでした…っ。そのためなら私の借り物の命をお返しすることは——」

「借りものだと!? お前は、まだそんなことを——!」

「で、ですが……」

「アレはくれてやったものだ、もうお前のものなんだ…! 終わった後に助かる見込みもない癖に、命ごと返す必要があるか!」

「———」

 これまでに向けられたことのないほどの怒りに身がすくみ、のどが渇く。身体は固まってしまって返事を返すことさえできない。

「もう二度と——、二度とこんな真似を——!」

「っ——」


 勢い良く立ち上がり、私へと向かって腕が延ばされた。

 …殴られる。そう思い、これまで一度もなかったヨナギ様の行動に対して、反応ができず防御もせず目をつぶってしまう。

 だけど、そこから先に痛みが訪れることはなく、恐る恐る目を開けると、そこには“アヤネ”が、アヤネと同じ外見の少女が、ヨナギ様の身体にしがみついて静止しているところだった。


「っ、…、ダメだよ、よな君……。彼女はあなたの…ため、に……。ぁ——」

「あやね——っ!」

 だけど彼女の意識はそこで途切れた。

 もともと疲弊しきっていたのだろう。身にまとったボロボロの衣服は長い時間の流れを感じさせる。そしてなにより——。

「おい、大丈夫かあやね…! くそ…っ、足がやられてるのか……。まってろ、すぐ安全な場所に——」

 彼があまりにも必死に、一人の女性のためにあそこまで取り乱す姿を見たのが初めてで、私の心の中で何が起こっているのか、自分では何も分からなかった。

 ただ、様々な感受尾が渦を巻いていて呑み込まれた私は流されるばかりで。一体何がどうなっているのか理解する以前に感じ取ることさえできなくて——。


 その直後のことはよく覚えていない。

 離れたところで身を潜めていたリア様と再会した時、優しく抱きしめてもらったような気がする。

 今の状態ではヨナギ様とリア様の傍にはいられないと、ユーリの屋敷へ住ませてもらうとき。どう頼んだのかもよく覚えていない。けれどあの時の私がまともに会話できるとは思えない。おそらくユーリが察してくれたか、リア様が根回ししてくれたのだろう。


 あれから三ヵ月。

 それなりに長いはずの時間を経ても、まだ私は踏み出すことも出来ずに虚空へ向かって槍を振るっている。しかしようやく、気持ちの整理もついてきた。勇気ももらうことができた。

 だから、…そう、だから。


「わたしは——、私のいるべき場所を——」

 真実を話してくれるのか、聞くことができたときに私の心がどう受け止めるのかは分からない。それでも、一度は彼らが守り、隠し通してきた真実の前に心をさらけ出さなければ、何一つ進展しない。

 今度こそ死ぬまで、私は欠片も成長することができないまま終わりを迎えてしまう。

 そう、だからそのためにもまずは一度目を閉じよう。

 朝が来る。夜を超え、月が沈み、日が昇る。

 それまでの短い、ほんの少しの休息はきっと私に足りないあと少しの勇気をくれるはず。だから今はそう、私にできることを可能にするために。


 眠りにつくのに時間はいらない。

 眼を閉じると、いつかの懐かしい光景が眼前に広がる。

 それが夢であったのだと気づいたとき、私の意識はようやく泥の中から抜け出すことができたのだ。


  □ □ □


 ——冷たい空気が、浮かれた熱をさらってくれた。

 意識ははっきりとしていて、ずっと感じていた身体の重さも消え去った。

 手にはヨナギ様たちの朝食が入った籠を持ち、荒野となった瓦礫の真ん中を歩いていく。

「……ふぅ——」

 これまでは朝食を届け、会話も満足にすることなくすぐに立ち去っていた。

(ですが、もう…逃げてばかりはいられません…っ)

 目的地にはすぐに到着した。

「すぅ…ふぅ……」

 深呼吸を数度、気持ちを落ち着かせるとチャイムに指を伸ばし——。

  ガチャリと、まだ鳴らしてもないチャイムに呼応するようにドアが開いた。


「あ——」

「おはよう。ふふんっ、待ってたよシエ。元気そうですっごく嬉しい」

 そこには嬉しそうな笑顔を浮かべた私の主が立っている。

「リア様……」

「うん、色々話をしようと思ってたんだ。シエがよければ聞いてほしいとも思ってる」

「……はい、そのために今日は参りました」

「ならよかった。じゃあ入って入って。外は寒いからね」

 手招きされる方へ向かい、玄関ドアをくぐる。


「……」

 家の中に入ること自体、あまりにも久しぶりのような感覚に襲われる。これまではずっと玄関に朝食を置いて行っていたからだ。

「これから話そうと思ってるのは、そう。ワタシとヨナ、あと『巫女』であるあやね。そして、ホロウのことなんだけど。心の準備は出来てるかな?」

「……もちろんです。たとえどのような真実であろうと、私は受け入れなければなりません。受け入れられずとも、知らねばならないのです」

「そっか…、強くなったね。あ、そうだ」

「?」

 不意に動きを止めて振り返る。

そこには少し照れたように頬を掻くリア様がいて——。


「おかえり、シエ。帰ってきてくれてとっても嬉しいよ」

「——はい…っ、ただいま、もどりました」

 お互いに、ずっと言いたかった言葉を朝の光に包まれた中で交わすことができたのだ。


『本編について』

・マダムについて

 騎士の方を出していたので姫の方も出しておきました。

 コールの場合は魂だけの状態のため老いることもなく境界を漂っていますが、彼女の場合はコールと別れた後に『崩界』に来ているため、時間とともに年齢を重ねています。


・シエの状況

 ユーリの屋敷でほかの女の子たちに可愛がられつつ過ごしていますが、命を投げ打ったことでヨナギとの間に溝ができていました。

 リアも間に入るので次回以降で何とかなるんじゃないでしょうか。


『定期連絡』

・高評価、いいねなどいただければ、皆様には特に見返りはありませんが自分が喜びます。

・更新日の後にそのことを伝える呟きをしているので、思い出す用にツイッターフォローいただけると幸いです。

・細かい設定や反省点等々は完結後にでもおまけでまとめようとでも思っているので、質問をいただければまとめて回答します。よければどうぞお願いします。




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