71.六等星の導き①
最終章です。よろしくお願いします。
いつも彼女を見ていたはずだ。この腕の中で護っていられるように。
どこへも行かぬよう、何者の手から傷つけてしまわぬように。
だが、この腕からはとうに離れ、彼女は前へと進んでしまった。
追うことは出来ない。追いかけるための力は残されておらず、彼女は望んでいなかった。
だけど、それでもみっともなく虚闇へ足を踏み出した彼女に手を伸ばしたのだ。
重ね続けてきた罪を謝るように、決して消えぬ罰を懺悔するように。
振り返ることなく進む彼女の足、進んだ先の背から感情を読み解くことは出来ない。
これまでずっと傍にいたはずなのに。
数えきれない時間を共有してきたはずだというのに。
止められない。止めるための言葉は出てこない。
だからもう、終わったのかもしれない。いや…、始まってすらいなかったのか。
ここで足を止めてしまえば、始まりと終わりが同時に得られるかもしれない。
でもまだ、あと一つ、終わらせねばならない。そんなこと、分かっているはずなのに。
遠い昔に始めたこと、目前に迫る虚ろの夢を打ち砕かねばならないのだと——。
「…おれ、は、——なにを……」
黒より白へと移り変わる世界の創造は行われず、何もかもが虚ろの混沌へ沈んでいく。
積み重ねてきた色鮮やかな記憶は思い出すことは出来ず、色褪せた思い出と共に。
□ □ □
「すまない…」
何もかも失われた世界で、背を向けた人影に発する言葉はそれだけだ。
かつて街であった場所は人の営みを宿していたが、何もかもが崩壊し塵と化した。残されたのは荒廃し、原型が失われた瓦礫の山だ。
「……」
言葉なく立ち尽くす。
謝罪以外の言葉など自身に発する権利はなく、眼前に立つ人影はまさに影でしかない。夕焼けの光に照らされて、夜闇のように黒々と染まった。人の形をとっただけの影だ。
「……おまえのことを…」
そこに立っているはずの少女の声も姿も、これまでずっと傍にあったはずなのに。影でしかない少女を前にしてしまうと何一つ思い出すことができない。
「すまない…俺は——」
手を伸ばせば、足を踏み出せばその分だけ影が遠ざかる。茜色の光に背を向けて夜の闇へ向かって歩み始める。それは俺が近づいただけ、いいやそれ以上に離れていく。
「…待ってくれ——」
喉が渇いている。
絞り出すように声を発するのが精いっぱいで、それだけでも喉が限界を知らせてくる。
日が暮れ、空の明暗がくっきりと分かれ始めた。
「———」
少女の影は振り返ることもせず、もう立ち止まることもしない。
「まって——!」
もつれる足を駆動させて追いすがるが距離は離れていく。あちらはゆっくりと歩いているようにしか見えないのにどんどん、どんどんと離されていくのだ。
走っても、腕を伸ばしても、決して縮まらない距離はもはや物理的な領域を軽々と超えている。
夕暮れは夜へ移り変わり、茜色の光は宵闇の黒へ急速に移り変わっていく。
少女の影も同様に宵闇へと同化をはじめ、その姿を視界に収めていられなくなっている。
「頼む、待ってくれ——。俺は…っ、話を——っ!!」
乾ききった喉は痛みを発し、血の味が口内に広がっていく。
だが影は最後まで俺を見ることはなく、日も落ち切った。星の輝きさえ一つもなく、闇に包まれた世界では自分が叫んでいるのかさえ分からない。
歩いているというのに進んでいるのか分からない。
腕を伸ばしているのに掴めるものは何もなく。
声は……、誰にも届かず霧散していく。
時間の概念はとうになく、進んでいるつもりで一歩も動いてすらいないのかもしれない。
呼吸するだけで血を吐き出す。
動かしているはずの手足は芋虫のように蠢くばかり。
何もない、全てが崩壊した宵闇の中で、少女の影をどれほど追い続けたのか。
「———」
「……っ」
誰かの声が聞こえた気がした。
知っているはずの忘れてしまった少女の声が。
「どこ、から———」
見回したところで上下左右が混沌の闇だ。見つけられるはずもない。
けれど、声の聞こえた方へと進むしかない。まるで火に魅せられた虫のように。
「……て——く——」
「…はぁ……はぁ——っ」
あえぐように呼吸をして、羽根を焼かれた虫が這うように声の方へ進む。
そして宵闇のなかに一つの微かな、今にも消え入りそうな星の輝きが目に映った。
「———」
白痴のように手を伸ばし、光をこの手につかんだ瞬間。
——闇に落ちた俺の意識は、柔らかな光によって救い上げられた。
□ □ □
「みな——、ぐ…っ」
白い光が目を焼く。片目しか残っていないせいか、より強く痛みを感じるほど。
それまで暗闇の中でもがいていた瞳は急激な変化についていけず、窓から入り込む光から逃げようと顔を逸らそうとして——。
「大丈夫?」
不意に表れた人影によって光は遮られた。逸らそうとしていた顔は中途半端な位置で止まり、窺がう様に人影へ向けられる。
「起こしてごめんね、でもうなされていたから」
「………」
さっきまでいた空間が夢だったことに気が付いて。そして夢でなかったことにも気が付いた。
「…悪い、痛かったろ……」
俺の手が、力強く少女の手をつかんでいた。
夢の中で伸ばしただけのつもりが現実でも体が動いてしまっていたらしい。
無意識の中では力の加減などできるはずもなく、彼女の細い身体を傷つけていただろう。
「ちょっとまて、すぐ離す……。っ、…わるい、少し待ってくれ」
握った拳を解こうとしているのに指をほどくことができない。針金を巻き付けて固めたように力が入ったままになっている。
「…く、この……っ」
焦りからか力の抜き方さえ思い出せず、まともに動くことすらできない身体に嫌気がさす。離そうとしているのに真逆の結果しか生み出すことができないでいる。
「…なんで——っ」
「だいじょうぶ」
「………」
握りしめたままの拳の上から、柔らかな手の平が重ねられた。
痛みを発しているはずの腕のことなど眼中にすらなく、穏やかな声色と手のぬくもりだけが届けられていた。
「ほら、わたしは大丈夫だから、気にしないでいいよ。まずは落ち着いて、ゆっくり呼吸をしてみよう、ね」
「——、…すぅ……ふぅぅぅ………」
生まれて初めてかのように、ゆっくりと、丁寧に。体の隅々まで空気が行き渡るように呼吸を何度もしていく。
その様子を見た少女は少し安堵すると、いまだ力の入ったままの拳に手を重ね、指を一本ずつ、ゆっくりと外していく。
「どう? まだ落ち着かない?」
「…ああ…いや…、もう大丈夫だ。ありがとう」
「お水はいる? 必要なら持ってくるけど」
「…いや、いい…自分で行くから、おまえはあまり動かないでいい。怪我させるわけにはいかないだろ」
「もう、心配性なんだから。わたしだって、お水を運ぶくらいなら大丈夫だよ? でも、そうね…、出来ることがあったら言って、ここにいるから」
「………ああ」
背中をじっとりと濡らす汗を感じ取りながらベッドから身を起こす。
「なにか、持ってきて欲しいものあるか? それに暖房は——」
「わたしはいいよ。さっき朝食もいただいたし温度も湿度も大丈夫。気にしないでゆっくりしてきて」
みると少女の傍には空の皿が乗ったトレイが置かれていた。この様子だとずっと様子を見てくれていたらしい。
「そうか…、分かった。すぐ戻る」
「もう、気にしないでいいのに」
ほんのすこしだけ呆れ気味に微笑む彼女を横目に部屋を出ようとした時、思い出したように背後から声がかけられた。
「そうだ」
「…どうした?」
「ううん、大したことじゃないんだけど。——おはよう、“よな君”」
「ああ、おはよう。“あやね”」
夢の中で思い出すことのできなかった少女の姿も声も、今なら思い出すことができる。
なぜなら振り返った先で椅子に座っていた少女は、夢で出会った少女と寸分たがわぬ声と姿だったのだから。
□ □ □
「………」
朝の支度など大したものでもなく十分と掛からない。
形のない雲を掴むような思考を流しながら顔を洗い、歯を磨く。
行動をしている以上の思考を行っているはずだというのに、何一つ具体的な感情が現れることはない。ならばこの身は決まった行為を繰り返すだけの機械仕掛けの絡繰りか。
「…ふん」
自嘲してでも反応をしようとする自分に嫌気がさす。まるで自分が悲劇の主人公のようじゃないか。
「役立たずめ…」
鏡に映る男に残された左目は、ずいぶんと昏い目をしているようにも見えた。その顔が気に食わなくてたたき割りたくなるが、そんなことをしても何の意味もないくらいのことは分かる。
「くそ………くだらねえ…」
どれほど冷たい水を顔に浴びせようとも思考が切り替わることはなく、十分と掛からないはずの支度はその倍の時間を必要とした。
「悪い…、遅くなった」
「また謝ってる。気にしてなんかないのに」
「ごめん」
「いいよ、ほら座って。右目はもう痛まない?」
「全然だ、無くなりはしてるけどそれだけで」
「嘘はよして。わたしに見えないところで押さえてるの、知ってるから…」
「誰から聞いた」
「リア、だけど聞かなくっても分かるよ。よな君はいつも苦しんでるの隠そうとするから」
「そう、か。悪い」
「いいよ。よくはないけど、今はいい。だからほら、ご飯食べよう。よな君の分もここにあるから。温めてくる?」
「パンだろ、ならそのままでいい。…っと」
「取ろうか?」
「いいって、大丈夫だから。少し気が抜けてた」
伸ばした右手、指先はトレイの端をかすめ、朝食の乗ったトレイを掴むことができなかった。足りない距離は体を動かすことでカバーし、今度こそトレイを膝の上に持ってくる。
「やっぱりまだ慣れない?」
「まぁ…な、どうしてもズレるよ」
最近、つけ慣れてきた眼帯に指先をあてがう。
二度と光をともすことのない空洞は、最後に映した光景だけを色濃く内包している。
嗤う男と、その指先。血の色を認識する前に訪れたのは闇だった。
「ジンは、よくやってたよ。両目ともだったからな。アイツの精神力は大したもんだ」
俺が奪った光を、アイツは何とかして克服しようとして、事実乗り越えた。片目で済んだ俺とは比べ物にならない状況でありながら足を止めることはしなかった。
「そういうことは本人に言ってあげないと。きっと怒ってただろうけど、あの人は素直な人だったと思うから。伝えるだけでも違ったと思う」
「かもな…」
「うん…」
訪れる静寂。
お互いに、もう伝えることができないということは分かっていて、分かっているのに提案してしまったことを気にしている。
「リアは?」
「朝早くから出かけて行ったよ。行先はナイショだって、だけど『借りてたものを返しに行ってくる』って」
「そうか」
「気にならない?」
「しても仕方ない、それにリアなら多分大丈夫だ。そういうとこの危険は見誤らないから」
「それは、そうだね。ほかに聞きたいことはある?」
「いや…別に、……いや……、やっぱりい——」
「あの子なら朝ごはんだけ届けてくれた。今はお屋敷に戻ってるんじゃないかな」
「俺は別に……、…わるい、ありがとう。…あやねが相手したのか?」
「どういたしまして。ご飯だけおいて帰ろうとしてたみたいだったけど、偶然タイミングが合ってね、少し悪いことしちゃったかな…。挨拶もしどろもどろで、気まずくさせちゃった」
「お前は悪くない、悪いのは——」
「よな君でもないよ。きっと、誰が悪い話でもない。だからお願い、自分を責めないで。よな君はずっと一人で頑張って来たでしょう。あなたの努力をあなた自身が否定しちゃいけない」
手を握られる。
その手は小さく、衰弱した身体では弱々しいものだったが、芯の通った声は彼女自身の心の強さを表していた。
重ねられた手に視線を落とし、狭間の世界で悲痛な声を上げていた少女を回顧する。
「あやねの声も聞かずにな…」
今度こそ浮かべることができた笑みは自嘲そのものだ。
何度も何度も飽きもせず、勝利の兆しも見えぬまま勝てない戦いに挑み続けた。
そのたびにボロボロになり、死んでいないことがおかしなことも数えきれないほど。そのすべてを、何もできない彼女は見続けてきた。いいや見ていることしかできなかった。
声を上げることしか出来ない彼女にとって、俺の姿はあまりにも……。
「………ああするしか、俺に方法はなかった」
「…うん」
重ねられた手にほんの少し力が籠められる。
「戦うことしか手段は知らなかったし、足を止めたら本当にお前を失ってしまうから…。手に入らない勝利に手を伸ばし続けることでしか立っていられなかったんだ…」
武器はなく、四方界も満足に扱えない。魔眼による敵の死を確定させることもできない。
ただ繰り返し、そのたびに異なる状況を全うするしかなかった。
だが、どれ程上手く罠を張ろうが、準備を重ねようが、何もかもがうまく回ろうが、最後にはレイガン一人に圧し潰される。
どうしようもない力の差に俺は太刀打ちできず、皆方を護り切ることができない。
——その度に、ナイギに皆方を奪わせはしないように。
「俺は、この手で……」
消えない罪も重ねてきた罰も、俺は清算することは出来ず、その方法もない。
「こうなることは当然だった。…アイツが、俺の傍にいられるわけがない」
皆方は、あの日を最後に姿を消した。
ホロウと共に去り、別れを告げたあの日から。
これまで積み重ねてきた何もかもが崩壊し、だまし続けてきた俺への憎悪はどれほどのものか計り知れない。
「だから、俺は本当ならあそこで死ぬべきだったんだ。逃げているだけなのは分かってるけど、俺はきっと…アイツの前で死んでやるべきだった」
そうだ、俺の言っていることは辛い状況からの逃げでしかない。
けれどけれど他の方法が思いつかないのだ。殺し、殺される中で生きてきた俺にとって償う方法は命を以て贖うしか——。
そんな陳腐なものでしか、俺は差し出すことすらできないでいる。
「それは違うよ、よな君。それだけは——」
重ねた指はひと際力強く、けれどそこで止まった。
「よーぉ、邪魔するぜー。ヨナギ居るかー?」
聞こえてきたのはここ最近ことあるごとに入り浸ってきている男の声だ。
「あの声…」
「……待ってろ、俺が出る」
「じゃあわたしも行くね。ご飯、どうする?」
結局、一口も食べられていない朝食はトレイに乗せられていたままだった。
「…後で食うよ、いったん冷蔵庫に入れとこう」
「そう、ちゃんと食べてあげてね。そのために、あの子が作ったんだから」
「……分かってる」
込められた思いさえ、素直に受け取ることは出来ない俺にできることがあるのか。これから行うことになる戦いも、俺は。
「おっすヨナギ、今日も今日とて絶不調だな。クマがひどいぜ」
玄関で律義に待っていたのは、いつも通りの笑みを浮かべるユーリだった。その姿は薄らいではおらず、青年のありのままの姿でその場に立っている。
「おはようユーリ。毎日ありがとう」
「おっと“あやちゃん”、今日も今日とてかわいいね。昨日よりかわいさ増したんじゃない?」
「おまえな…」
「ふふっ、おせじが上手ね。入って、わたしでもティーパックでならお茶も用意できるから」
「そりゃあ感激だ、んじゃお邪魔するぜヨナギ。ってか顔色悪いぞ、ちゃんと飯を食え」
「やかましい、どうでもいいだろ…」
「お、でた旦那語録。そういうとこ似てるよな」
「追い出すぞ…」
「はは、悪ぃ悪ぃ。屋敷追い出されたのにこっちまで追い出されちゃ悲しすぎる」
カラカラ笑いながら、勝手知ったる我が家と言わんばかりに入ってくる。とはいえ、こっちも慣れたものだ。
ユーリを招きいれるのもそれなりの数になってきた。
互いに気を遣うこともせず、ユーリ専用席として持ち込んできた椅子へと座る。
時間もかからずやかんから蒸気が立ち上り、棚から引っ張り出したティーパックにお湯を注ぐ。
透明から鮮やかな緑へ色づいていく様子をなんとなく眺めていたが、それも数十秒ほどで取り出すとちびちびと口に運ぶ。
「お、今日は緑茶か。……、ふぅぅ…これだけでもやっぱあったまるな。外ときたら寒くって仕方ねえ」
「少なくともお前だけは寒さには強くないとおかしくないか」
「んー、四方界と自然法則は違うのだよヨナギ君。後寒いもんは寒い」
言いながらもカップを口に運ぶのを止めないところを見ると本当に寒いらしい。
「火傷、気を付けてね。それもすぐ治っちゃうのかもしれないけど、怪我はしないに越したことはないから」
「あやちゃんはやっさしいねえ、どっかの誰かとは大違いだ。ヨナギからオレに乗り換えてくれてもいいんだぜ?」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど遠慮しておこうかな。わたしにとってはよな君が一番だから」
「………」
「おめぇは照れてねえで愛の言葉でも言えや」
「別に照れてない、あやねにとってそうならそうなんだろうさ」
「っかぁー、お熱いこってなによりだよ。いまのはオレのミスだなっと」
「……で、今日は何の用だよ」
呆れるユーリに構うのも阿保らしいのでさっさと本題に入ってもらう。コイツだって暇なわけじゃない、ただ茶を飲みに来たわけでもないだろ。
「しっかしあれから結構経っちまったなぁ。オレの方は何とか落ち着いてきたけど、お前は落ち込みすぎだな」
「しつこいぞ…、それで、ナイギはどうなってるんだ」
「言ったとおり、落ち着いてきた。最初のころはてんやわんやだったんだけどな。ま、期せずして一族の願いも叶ったようなもんでさ。夜しかない『崩界』から日の当たる場所へ全員で出てこられたんだ。まとめ役はオレしかいないから大変のなんの」
「お前しかいないって、他に年長くらいいるだろ。そいつらに任せられないのか?」
「ヨナギだって知ってるだろ? うちって一族経営でさぁ、旦那は死んで、ご当主は行方不明。そうなると必然的に次期当主のオレが矢面に立つことになるわけ。これまでずっとそうやって来たから体制もすぐには変えられん」
「ホロウはまだ影も見つからない?」
「ああ、今の『総界』で見つからないから『境界』のどっかにいるかと思ったが、そういうわけでもないらしい。まさに影も形もだ。もう一人の“アヤちゃん”もな」
「そうか…、見つからないか」
「そ、ゴタゴタしてる上に人手不足でねぇ。ラゥルトナーが組織として残ってりゃあもちょっと楽できたかもと思わなくもない。どっかの誰かが殲滅すっからよー」
リアと出会った夜、ラゥルトナーはレイガンの指令を受けた戦士により奇襲を受けた。
結果、残されたのは魔眼だけ。脈々と受け継がれてきた血筋を引くものは誰一人としておらず、それは『纏界』における生命の消滅でもあった。
「まさか『纏界』の人間が殺しつくされてるとか思わねえじゃん? 旦那ヤバすぎだって、あんだけ動き回れるならできそうなのがなお怖え」
「実際、やってのけたからな。俺がリアと姿を眩ませなきゃ間違いなくあの日で決着はついてた」
「ラゥルトナー当主の死体は確認してたからな。旦那もそこは油断、というか終わったと思うさ。まさか『纏界』と一切関係ない女が魔眼引き継いでるとか予想も出来んわ」
そういいながらもユーリは楽しそうに話している。
「ま、おかげでこの状況での問題は一個無くなってるからオレとしちゃ結果オーライだ。ご当主っていう最大の問題が出てきた以上、内紛は勘弁だからな」
「ならそっちはどうしてるんだ。一族経営なのに全員でホロウを倒しに行くってわけでもないだろう」
勢力としてのナイギは、これまで当主であるホロウを復活させ、仮初の『巫女』であった皆方を狙っていた。事情を知らないものがほとんどである以上、ホロウを倒さねばならなくなったといわれても急にはいそうですかとなるとは思えない。
「ああ、だからご当主のことは秘密にしてる。幸いあっちもあれ以来何の行動も起こしてないからな。もしもの時の根回しとか、内政を整えることもできた。これでご当主が現れてもパニックにはならんだろ」
「へぇ」
「すごい、人をまとめるのは一つの才能ね」
あやねのいうとおり素直に感心した。器はあると感じる瞬間はあったが、実際やらせればここまでのものとは思ってはいなかった。
「はっはっは、もっと褒めてくれていいぜぇ? それなりに頑張ってんのに屋敷じゃ誰も褒めてくれねえからな。最近は皆してシエちゃんの——。あー……、とにかくだ。こっちはこっちで何とか落ち着いてきたってことだ」
「……そうか、お前の願いは叶ったわけだ」
「まあな、ご当主の力がこれほどとは思ってなかったし、思わぬ形での達成だったが…確かに叶っちまったわけだ」
ナイギが『巫女』を手に入れようとしてきたのは『崩界』という暗闇の牢獄から、日の光が当たる世界を簒奪するためだった。
だが、その必要はもはや無くなってしまっている。
ナイギにいた誰もが、日の温もりを享受している。争う必要はなく、誰もが平等に得ることができているのだ。第一、争う相手自体がいない。
ラゥルトナーは当の昔に殲滅されており、『総界』には初めから敵と呼べるものはいない。
これまで鍛えてきた事実が不要になったことによる困惑はあれ、ならば各々が人としての平穏な生活を望むのは何もおかしなことじゃない。
ユーリの尽力もあってナイギ家、一族としても安定してきた以上むやみやたらに戦いを始めることはさせないだろう。
何もかもの状況が変わってしまった。
誰もがこれまでの積み重ねをひっくり返されたのだ。
それはホロウが復活し皆方とともに姿を消した日、何もかもが崩壊し一から始めるしかなくなったあの日から。
この世界もまた、ホロウの手によって一つになったのだ。
『崩界』、『総界』、『纏界』の三つの世界がホロウの異能によって合一化した。
無理矢理の一体化のせいか、各々の住んでいたエリアをブロックごとにつなぎ合わせたような不格好なパッチワークだが、それでもいまや三つの世界を分けるものはなく、誰もが一つとなったこの、新たな『総界』で暮らしている。
だからこそ、世界からの拒絶も消え去った。
『崩界』の住人でさえ抹消されることのない、どこにでもいる普通の人のように暮らしていける世界へと変貌を遂げたのだ。
目の前にいるユーリももはや『楔』を必要とせずに、普通に行動できるようになっていた。
——そうして、この世界が新たな形になってから“三ヵ月”が経とうとしていた。
これまでの戦いが嘘であったかのように流れる時間はとても穏やかで、誰もが状況の変化に戸惑いながらも新たな生活に順応し始めている。
ユーリが話し終えるのと、お茶を飲み終わるのは同時だった。カップの底に薄く残された茶を見つめていたが、俺へ向き直ると問いかけてきた。
「今日来たのはなヨナギ、これからのことで、お前はどうするか聞きたかったんだ」
「どうするって、そんなこと——」
「お前だって、願いは叶ってるようなもんだ」
「……」
「なくしたものはあれど、取り返したかったものは取り返せた。ご当主がどう動くかは分からない以上安心して暮らすってのは出来ないが。…正直オレは、お前が戦う必要はないと思ってる。魔眼も潰されて無くなっちまったしな」
「それは…、だけど——」
「別に今答えを聞きたいってわけじゃねえさ。口では無理だって言ってたとしても、いざ戦いとなれば身体が勝手に動くかもだしな。その逆もしかりだが。まあとにかくだ、そろそろ本腰入れて考えるべきだって思ってる」
「俺が、何も考えてないとでもいうつもりか!」
「んなこと言ってねぇ、ほれ座れよ。治ってるって言っても完治してるわけじゃないだろ」
「落ち着いて、彼もあなたの事情を分かったうえで言ってくれてる」
「……っ、悪かった。…ああ分かってるよ、ただあと少しだけ……時間をくれないか…」
思わず立ち上がって声を荒げてしまうが、ユーリの声とあやねの制止によってすぐなだめられた。
分かっているんだ、何とかしないといけないことは。だけど、今の俺じゃ——。
「お茶、冷めちゃってるね。もう一度お湯沸かしてくるから少し待ってて」
「え…、あ、ああ」
「お、アリガトあやちゃん、オレの分も入れてくれると嬉しいね」
「ええもちろん、じゃあ少しあとで」
「…はーい、っとぉ」
台所へ向かうあやねへとニコニコで手を振るユーリへ向いて座り直す。だが俺の視線はユーリではなく、どこか別のところを向いてしまっている。
「そう気まずそうにすんなよ、怒ってるわけじゃないし、お前を責める奴は誰一人いないさ。こういうとまた怒らせるかもしれねえが、アヤネちゃんだってそうだと思うぜ」
「…っ、なんでそう思える……っ。皆方をどうしようもなく傷つけたのは俺だ、俺なんだ…。あの時、殺されても何もおかしくはなかった…っ」
ホロウによって世界が一つに纏められた日、立ち去る皆方の背へと力なく手を伸ばすことしか出来なかった。
「夢を見るんだ。毎日毎日、暗闇に手を伸ばして謝って、虫みたいにうずくまってるだけの夢。正直…、…、分からないんだ……。どうしたらいいのか分からない…、このままホロウと戦えば、きっと皆方と会うことになる。でも、それでどうすればいい…っ。今まで裏切り続けてきたアイツに、なんていえばいいのか…分からないんだよ……」
怖い、こんな仮定の話を口にするだけで身体に力が入り、拳は難く握りしめられている。打ちひしがれるように机に体重を預け、夢でのうずくまった虫のようになってしまう。
「かもな、でもよヨナギ。お前は、どこかには進まなくちゃいけないと思うぜ。それが後ろにだったとしても、少なくともオレはお前を否定しない」
頭に手を置かれたかと思うと、ガシガシと乱暴に撫でられた。
「ぅわ…っ、ユーリおまえ」
「別にいいんだよ、もう戦えないってなら他人に頼ってもよ。ま、そんときゃそん時でオレ一人で全部解決しといてやるから心配すんな。これでも現当主だ。っと、だったらホロウのご当主って呼び方もおかしいのか」
あっけらかんと笑うユーリの姿からは、こちらへの負担を減らそうという気づかいが伝わってくる。
「悪い…、ユーリ」
「そういう時はありがとうと言いやがれ。んじゃ、オレもそろそろ出ていこうかね。愛の巣にいつまでもいちゃあホロウとの戦いの前にやられっちまう」
そういうとさっさと帰る準備をして立ち上がる。
「急だな、おかわりはいいのか」
「あーっと、あやちゃんには謝っといてくれ。オレの分はお前にやるからさ」
「お、おい…っ、ユーリ」
「じゃあヨナギ、どっちに行くにしても進む道は決めとけよ。…オレとしちゃあ、一緒に戦ってほしいとは思うが。それもお前次第だ、じゃあな」
呼び止める間もなくユーリはさっさと行ってしまった。
「急にどうしたんだアイツ…、でも、そうだよな…。いい加減、俺も決めないと…な……、くぁ…」
最近眠れていないせいか、気を張り詰めていたせいか、急に眠気が襲ってきた。
あやねが茶のおかわりを持ってきてくれれば気もまぎれるだろう。とりあえずそれまでストレッチでもしておこうかと思ったが、それ以上の速さで睡魔が襲い掛かる。
「………ん」
落ちかかる瞼の向こうであやねが戻って来たらしい。彼女は俺の様子を少し見ると小さく微笑み、普段彼女が使っているブランケットをかけてくれた。
礼を言おうと思ったが、暖かさによって瞼は完全に落ち切り、声を上げることもなく俺の意識は静かに落ちていった。
『本編について』
・ヨナギ、カウンセリング編
二章ラストのこともあり、この辺りがメンタル的に底になります。
周囲の人々に彼を責めるものがいないことも、ヨナギにとっては逆に辛い状況なのかもしれません。
・あやね
穏やかで誰にも優しく、ヨナギへの好意を隠そうとはしない強かな少女。
今までホロウを封印していたせいで解放された今も身体の一部が不自由となっていますが、日常生活を送るくらいならば問題はありません。
色々と内情を知っている立場なので出せなかった部分が大きいです。
・三界合一化
三つの世界が一つになったと言っていますが、『崩界』と『総界』はともかく、リア達しか残っていなかった『纏界』はどうやって生活を維持していたのかなどについては、多分全体あとがきに書きます。(本編に入れるの忘れてました)
『定期連絡』
・高評価、いいねなどいただければ、皆様には特に見返りはありませんが自分が喜びます。
・更新日の後にそのことを伝える呟きをしているので、思い出す用にツイッターフォローいただけると幸いです。
・細かい設定や反省点等々は完結後にでもおまけでまとめようとでも思っているので、質問をいただければまとめて回答します。よければどうぞお願いします。




