59.境界無き蒼穹③
「…リア」
レギオンの腕がリアの胸を貫いた瞬間に停止する。
おそらく内包されていたすべての魂がリアの四方界内へ取り込まれたのだ。
俺もそういったことができるとしか知らないから、リアがどういった状況に置かれているのか把握できているわけじゃない。
時が止まったかのように、貫かれた状態で制止した二人は微動だにしない。このまま時が流れ続けてしまうのではないかと錯覚する。
「ヨナギ、どういう状態だ。あれはレギオンを封印したとでもいうのか?」
「…違う。レギオンが取り込んでた魂、数百万人分ごとリアが取り込んだ。袋の上からさらに大きい袋で包むみたいに」
レギオンの停止によって周囲から迫っていた災害も鳴りを潜めていた。街としての形はとうに成り立ってはいないが、それでも時間を掛ければ元通りにはなるだろう。
「ならばそう遠くないうちにまた動き出す。その女がラゥルトナーであったというのならここで切り捨てるが——。レギオンとの繋がりを断てばどうなるか分からないからな。今は様子を見てやる」
「そうしとけ、下手したら辺り一帯が飛び出した魂に圧し潰される」
どうなっているのかは分からない。リアの四方界自体、『纏界』に居た時に一度だけ聞いたことがあるだけだ。きっとリア自身感覚でしか把握していないから説明するのも難しいんだろうが。
「………」
永遠にレギオンをとどめておくつもりなのか。
それは、無いと思う。だが、リアの状況が分からないという現状が行動に枷をはめている。もしもこのまま、膠着状態が永遠に続くというのならその時は目覚めるまで待つしかない。
「———」
だが、膠着はすぐ解かれた。
「———ぎ」
「ッ!」
洩れだした声はレギオンから発せられた。その刹那、解いていた構えをすっ飛ばし、実現可能な限り最大速でレギオンの腕をたたき切る。
「チ…ィ!」
振り下ろした刃は空いていた方の腕で防がれた。
型も何もない。力任せの一振りはレギオンの左腕の半ばまでを断ってはいるが、そこまでだ。リアを貫いた手はゆっくりと引き抜かれ、その痕には無視することなどできない孔が空けられていた。
「ヨナ、ギ…っ、ここが、最…後なんだ…! 僕の邪魔を…するなぁああああ!!」
「ぐ…っ!」
獣であったレギオンは人としての理性を取り戻している。そして、それができるのはただ一人、カイルだろう。
(一人だけで、戻ってきたのか——!)
軍勢の支配者であった青年だけであれば、リアの世界から抜け出せたということか。
——だが、それはきっと止められたはずだ。その気になりさえすればリアは永遠に閉じ込めておくこともできただろうに、あえて見逃した。
なら、それこそがアイツの願いだ。
地に倒れたリアの姿、そこから生気は感じられない。胸より流れ出る血はどうやって求めようがないのは一目でわかる。
「レギオンッ!! いい加減、此処で諦めろ! お前の間違った望みなんてものは此処で終いだ!」
「決めるのは僕自身だ。これまでのことも自己の意志で決意し、実行してきた。その達成を目前にして足を止めることを許容しろというのか!! 止められるものなら、止めて見せろぉ!!」
「ヨナギ! 瓦礫が動き始めているぞ。引き受けてやるから早くソイツを始末しろ!」
走り去るレギオンは残された力を使い、瓦礫の波を再度揺り動かす。
自分が助かろうなどという考えは欠片もない。皆方を殺すことができるのならばその後のことなどどうでもいいという断崖への疾走。
絶対的な個の意志で形作られた行動は、言葉を交わすことで止められはしない。
レギオンの左腕は今にもちぎれそうな状態で、ギリギリ繋がっている。もうアイツに傷を修復する力は残されていない。
正真正銘、ただ一人の青年の魂を燃やしつくすことで己の定めた使命を成し遂げようとしている。その強き意思、曲がることのない想いは尊敬に足るものだろう。
『…“彼”を、……『カイル』を殺してあげてほしい』
「——、分かってるよ、リア。おまえはしばらくそこで寝てればいい。後のことは俺がやっておく」
彼女と交わした約束の一つ。己に誓った使命はまだ熱を帯び、この身を、意志を、剣を、駆動させる。
「———」
これまでの目を見張る速度が嘘であったかのように走るレギオンは、存在そのものが今にも掻き消えそうでありながら、決してそうはならない。
吹けば消えるような命の灯を燃やし尽くしているはずだというのに、燭台ごと燃やしてでも、ただ一人の人間の意志だけで世界にあり続けているのだ。
「お前は、確かにすごい奴だ」
構えを取る。
「『巫女』や、レギオンに会うことがなかったら普通に生きて、死んでいけたんだろうな。俺にはできない、羨ましいとさえ思う人生だ」
界燐を剣へと流し込む、四方界の術式は時間を掛ける必要もなく組み上げられ、その機能を達成すべく異能となって現世に発揮される。
「本来、俺にお前を非難する謂れはない。同じ穴の狢だからな、お前を否定したときは俺自身を否定することになる。…だが、俺はお前を斬るぞ。カイル」
ギチギチと、鋭い牙が噛み合うかのような音を鳴らしながら、哀れな男に引導を渡すための一撃が完成しようとしていた。
「おい、ジンッ!」
「話す暇があるならレギオンを仕留めろ!」
「感謝する!」
「——なっ、…なにを馬鹿なことを抜かすか! さっさとやれ、バカなことで時間を潰すな!!」
言い捨てるとすぐさま津波に向き合うジンはもう口を開くことはしない。
「分かってる」
気に食わないがジンには助けられた。一人だけではレギオンを追い詰めることはできず、今この場で剣を突き立てることもできなかった。
「リアとの約束は果たさせてもらう。そのために、此処で死んでくれ」
——軋む顎が生み出す焔を、整列させて一方向へ。
爆発力を生み出すための乱杭歯は獲物を突き穿つ強大な爪と化す。
□ □ □
「——ヨナギ、間に合いはしないぞ……ッ!」
遁走と呼ぶことさえはばかられる、全身を活用した醜い疾走はしかし、速さだけは持ち得ている。ヨナギが全力で追いかけようともその前に従者の護りを破り、そのまま『総界の巫女』の心臓を貫ける。
背後より僕の心臓一点のみを捉えて離そうとしない殺意の爪牙。だが届きはしまい、すでに周囲の地形は原形をとどめていない。
例え、前回僕を追い出した光による武器を召喚する術式を用意できていたとしても、発動の予兆はなく、その方陣の起動には間に合わない。
(殺される前に殺せる! いや殺して見せる!)
リア、君はサヨウナラといったが、その言葉の意味までは決められるつもりはない。
「僕は——ッ、此処ですべてを終わらせて見せる!!」
獣ではない、人としての咆哮。何者にも歪めさせはしない意思の結晶。
——見えている。ただ一区画のみが原型を残した住宅。屋根に立っているのは従者の少女か。そして少女が立つその下には、『巫女』がいる。
これで永遠に終わることのなかった狩りが幕を下ろす。ただ一人になろうとも、定めた使命を遂げるのだ。
「——ッ、ゥゥオォオオオオオオオオオオオオオオオオ———!!」
次元震をも起こしかねない怒りの叫びは空気を、大地を揺らし、音が空気を引き裂くように空間そのものを破り砕く。
その叫びには青年の持つすべてが籠められていた。
人として生まれ、理不尽に死んだ。
軍勢として生き、過去に殺された。
そして今、ただ一人の人間として戦う彼にとって…、目前に迫った獲物は何よりも優先すべき怨敵だった。
——ゆえにこそ、青年であったモノは判断を誤った。
獲物を狙う狩人、その事実は間違いではない。
だが…、狩人は一人ではない。命ある世界の絶対条件、弱肉強食を絶対値とした食物連鎖。
ならば灰色の魔人であったもの、飢えた狩人。お前を獲物とする狩人もまた存在するのだということを理解しなければならなかった。
その殺意もまた、遥か永い時をかけて研ぎ澄まされてきた刃なのだということを、忘れるべきではなかったのだ。
「四方…ッ、展開——!」
「—————————」
白き核熱に至った思考が凍結する。
リアの傍から一歩も動くことのなかったヨナギ。
この距離では届かないはずの攻撃が——、とうの昔に失ったはずの”心臓を貫いていた”。
理解ができない。
追いつけるはずのない速度、不完全であるものの異能による防御は可能だ。どれほどの威力を持とうとも、この拳で受け止めれば空間ごとに破壊する。
傷を受けようとも、致命傷に至るようなものは決して受けるはずがないというのに。
(なにが、起きた)
理解不能。まるでヨナギの放った一振りが、心臓の位置にそのまま現出したかのような突飛さだった。予兆も何もあったものではない。
「…が、ふっ——、ぎぃ、ぁぁ…!」
あまりの痛みに膝をつく、失われた肉体の制御は疾走の勢いのままに地面を削り、無様に転がっていく。
ひび割れた空を仰ぐと、ひび割れた空が徐々に修復されていく。レギオンの力よりも『巫女』と世界が持つ修正力が勝っているのだ。
「———グ…ぁ…」
だが、だが、だが——!
「止まりは…しない……諦めはしないぞ…ッ!」
そうだ、もう少しなのだ。手を伸ばせば届きそうな場所に、望み続けた命が居るのだ。この手が、『巫女』の肉体にさえ届きさえすれば——、この狂った世界、宇宙の機構が終わりを迎える。
多くの世界が失われるだろう。
数えきれない命の輝きが消失するだろう。
そんなこと、リアだけじゃなく、誰にも認められるはずのないことだというのは分かっていたはずなのに。
地面を這う虫のように、重たい体で遅々と進む。
「はァ……。ハァ——、ハ…ァァ……!」
だが、それでも認められなかったのだ。
そのような欠陥を見せられて、故郷を滅ぼされて、受け入れられるわけがないじゃないか。
ならばもう、正す者がないのなら僕がやらねばならない。
どれほどの罪を背負おうとも、間違った世界をそのままにしておくなどできなかった。
「ぐ、ぅぅぅぅぁぁぁ———」
ああ、だけど——、いつからだっただろう。
圧倒的な力を手にしてからの僕は、他者の命の重さを天秤に乗せることが下手くそになっていた。自分自身が重すぎて、どうあがいても対岸に乗せた質量が超えてくることはない。
ならばそれは…、誰のための戦いだったのか。
罪を背負うと口にしながら振り返ることもせず、拾い上げた魂を怒りによって誑かし利用した。更なる力を手に入れて、新たな世界を破壊する。
間違いじゃない。
世界によっては『巫女』の存在を認知し、その世界の住人が総力を挙げて護っていた場所もあった。ならば力が必要になるのは当然だ。
力を求め、強くなり続けることは間違いじゃない。
「そ、うだ……。僕、は間違ってなんか——いない…!」
此処に在ることがその証明。
レギオンとしての戦いが間違いだったというのなら、どこかで是正され駆逐されていたはずだ。だがそうじゃない。
どれほど無様に地を這おうとも、命が尽きる寸前であろうとも僕はまだ生きている。ここで燃え尽き、灰になる運命であろうとも——。
その先に生まれる新世界では狂った化け物が生まれることのない平穏があると信じているからこそ…!
「止まるわけに、いかない——!」
伸ばした手が、ヨナギの従者の張った結界に触れられるところまで進むことができた。
彼女は屋根の上からこちらを見ているが、攻撃を仕掛けてくることはない。しかし結界範囲内に侵入した瞬間、この身へと猛攻撃が繰り出される。
この朽ちかけた身で耐えきれるだろうか。
「——————は…、バカなことを考えるものだな…僕も」
しかし、止まるという選択肢が与えられてすらいないことにすぐ気が付いた。レギオンとなった時に捨てたものを、今更拾えるわけがないというのに。
(いいや、リアに見惚れたあの瞬間から、僕は愚か者だったんだろう)
過去に戻りたいと、やりなおしたいと思うわけじゃない。
だから進もう。この結界の守護を超え、最奥に眠る『巫女』にこの手を振り下ろす。そうすれば長い旅も終わりを告げる。
「——、グゥ、ぉおオオ…ッ」
感覚のない手足を駆動する。孔の空いた胸より流れ落ちるものは魂の残滓、などではなく人間の血だ。地面を濡らす赤い血は、止めることなど間に合わない。
獲物を狙う獣のように姿勢を低く、最短で最速に至るための構えへと移行する。従者の攻撃にさいなまれようと、ただ一直線に『巫女』の元へ到達して見せる。
「シ、ィィィィ——————」
漏れる呼吸、熱を帯びた最後の生命活動。
これより先、この身はただ一つの兵器と化す。痛みも苦しみもなく、ただ目標を消し去るがために——!
「ユ…クゾ……!」
「……っ!」
こちらの意図を察してか、従者の顔が険しくなる。込める界燐の総量が増加し、飛翔する兵器を打ち落とす準備を固め始める。
この一矢を以って、これまでの長き戦いに終止符を打つ!
「———」
だが、従者は全力の構えへと完全に移行することはなかった。
この状況では考えられない行動に虚を突かれた瞬間、……目の前にあったはずの過去が追い付いてきた。
「ああ、お前は間違っていないカイル。だが、俺は認めない」
「———ガ!?」
ヨナギが、その身をもって追い付いていた。そして、声が聞こえた瞬間には右腕が斬り飛ばされている。
自重に耐えきれずバランスを崩し、頭から地に伏してしまう。
「お前以外に、一人でも自我をもつ中身が残っていれば注意でもしてくれたのか? それとも、意見を聞くことはなかったか?」
次いで、右足が斬り飛ばされた。修復できない現状、もはや立ち上がることさえ自力ではできない。
「正直、その愚直さ、曲がることのない意志の強さは尊敬に値する。だが、過去を見ることから逃げているお前を、認めるわけにはいかない」
「ぐぁっ! ぐ、グゥォ…!」
窮地であろうともあきらめはしない。だが伸ばした左手は剣によって貫かれ、地面に縫い付けられた。
「過去に何があったのかはリアから聞いてる。そして、お前はお前自身としてリアと話したはずだ。その結果がこれだ。俺はお前を殺す。リアとの約束だからな」
言葉は冷たく、そして静かな怒りに満ちていた。
己を律し、必要でなければ表面にさえ出さないであろう意志力。レギオンとして軍勢という名の一個体が掲げ率いる怒りとは正反対の性質。
殺気はなく、攻撃されるまで気が付かなかった。
遠距離からの一撃を想定はしていたが、次撃が放たれる前に決着をつけさえすれば問題はないと、そう思っていたが…。
「カイル、俺はお前が嫌いだ」
「グっ、…なに、を——、この状況で」
突き立てられた剣が引き抜かれ、血を払う。
「お前を見てると自分の嫌いなところばかりを思い出す。胸をかきむしって剣を突き立てたくなる。過去を見ない、見ようとしない様があまりにも癪に障る」
気づけば、纏っていたはずの鎧は消え、異能を発動する力も残されてはいなかった。
唯一残されていたレギオンとしての残滓さえついぞ失ったのだ。
「間に…合わなかったか……」
力を失い、穴の開いた手を伸ばすと、どこにでもある民家を手中に収める。あと少し、この手の平に収まるところにまで近づけたというのに。
最後の最後、何かが足りなかった。いいや違うか、足りなかったのではなくて初めから欠けていたのだ。
「まったく……。諦めきれないな…このけっか、は——」
「…そうか。なら、俺が終わりにしてやる。二度と、立ち上がることができないように」
「そう…か、そうだな……。敗者の末路には、ぴったりか」
伸ばした手は地面へと落ち、前だけを見つめ続けた瞳は暗闇に呑み込まれようとしている。唯一感じ取れる感覚は首に添えられた刃の気配だけ。
終わりを告げる、白銀の剣だ。
———ああ、なんてあっけない。
「言い残すことはあるか」
「——————、いや、ない」
「後悔は?」
「……なにも、…ないさ。ずっと昔に、置いてきてしまった…。置き去りにして、目につかないようにしてしまった…」
「そうか。さよならだカイル、これで死んでくれ」
振り下ろされる瞬間を待ち望む断頭台。
先延ばしし続けてきた終わりが、終幕を前にして追い付いてしまった。それとも、初めから終わっていたということか。これまでの戦いは、僕のものではなく、どこかの誰かのものだった。
「ふ…っ、ぁぁ——、惜しかったなぁ……」
自身の行動を否定するようなものだが…そうだな、それなら納得できる。
舞台装置でしかなかったのだろう。ここにたどり着くまでの物語に色を付けるための。
そうして、踊らされていたのだとしたら、きっとそれは喜劇だ。もしもこれを見て喜ぶような存在が居れば、その相手は悪趣味な連中なのだろう。
「もう少しで…、自分で幕を引けたのだけど…」
だから、最後は自分の手で終演としたかったけど、そうはならなかった。リアも僕がヨナギに勝てると思っていなかった。いや、ヨナギが負けると思っていないのか。
どちらにせよ——
「君こそ、羨ましい限りだ…。ああそうだ、後悔があるというの…なら、初めて対峙したときに、君だけは殺しておくべきだったよ——」
「二度と来るなって言ったろう。ならこれは、無視した罰だ」
「そうか——」
人の言うことを聞かないのは、僕も同じかな、リア。
「終いだ、カイル」
ずっと昔、与えられるはずだったものがようやく追いついてきて、ただ静かに……命を完全に断ち切るための刃が、振り下ろされた。
□ □ □
『———』
最後に生まれた後悔を胸に、疲れ切った肉体が自然に目を閉じて——。
『—————————』
そこに、”彼女“が立っていた。
『やあ、ずいぶんと…久しぶりだ』
『そうね。アナタに見捨てられて以来だから』
『……ずっと、傍にいたのかい? レギオンに紛れこんで』
『そう、こちらに気づくことはついぞ無かったけど…なぜだか私はアナタの近くにあり続けられた』
かつて、短い間だけだったけどともに過ごした旅の少女。僕の生きた世界の『巫女』であり、僕が最初に捨ててしまった存在、“ウェンディアナ”。
『ウェンディ、謝って済む問題じゃないが…すまなかった』
『よして、許してほしいわけじゃないでしょう。私はただ一言、伝えたかっただけなんだから…』
こちらに近づいてきた彼女は互いの手が届く距離まで傍によると、己の手をじっと見つめる。
『うん、…何をか——っ!?』
言い切る前に、思い切り頬をはたかれた。
覚悟はしていたが完全な不意打ち、力任せの一撃は顎にも入ったのか頭もふらつく。
『——っ……ぅぅぅ…』
尻もちをついた僕からはウェンディの姿は見上げる形となる。
『弱虫』
ビンタによって振り切った腕はまたしても元の位置に構えられ、二撃目が放たれるのは明らかだった。そして、その予想とも言えない予測は実現し、あとはただ頬をはたく乾いた音と、肉を打つ音が木霊した。
『———』
『ハァ……ふぅ…はぁ…、ひとまずはこれでいい。それじゃ言うわね』
『っ、あ、ああ…』
息を整えながら赤くなった手をさするウェンディ。
何度かの咳払いをすませ、声の調子を確かめると真っ直ぐ僕へ向き直り、言い放つ。
『アナタのこと、好きだったけど人生最大の間違いだった。もっと早くくたばりなさいよ、この…最低のクソ野郎!!』
『——』
『ふぅ……、まったくもう、とりあえずはこれでいいかな。死んじゃってるから今更だし』
『まさか、そんなことを…いうためにずっと隠れて…?』
『そう、ただ“そんなこと”だなんて言われると無性に腹が立ってくる。次言ったらもう一度はたくから、グーで』
それは叩くとは言わない、そんな考えが一瞬よぎったけど、反論する元気もなくなっている。なんだか、どっと疲れてしまった。
『それじゃあ、いくらでも殴ってくれていい。その前に場所を変えようか。…あの光の方に進めばいいのかな』
『たぶん、あの先がどうなってるかは分からないけど。“お嬢様”があっちに行けって』
『お嬢様、ね』
何もない空間、差し込む光からは何の印象も得られないけど、その先に終わりがあることだけは伝わってくる。
あの世というものがあるのなら、それはどうなっているのだろう。
いろいろな世界があるというのだから別々なのだろうか。それとも、何もない無が広がるだけなのか。
『なら、自分で行って確かめるしかないか』
『そうね。アナタを一人にすると何をしでかすか分からないから私も付いて行ってあげる。どうせここにいても何もできないし』
『君は……、いや、なんでもない。——ありがとう、ウェンディ』
『そんなのじゃない、勘違いしないで。次言ったら——』
『今度はキックかな。今の僕は軟弱ものだから、そこまで行くと避けちゃいそうだ』
『……先読みやめて、ほら行きましょう。リアはこっちには来ないみたいだから待ってても仕方ないし』
『——ああ、そうだね』
先に進むウェンディの背を追って、光に向かって歩き始める。
終幕を自分の力で引くことはできなかったが、ここでなら終わりを選ぶことはできる。後悔は生まれてしまったけど、僕にとってはこれも罰だ。
『謝るつもりはないけど、認めるよ。君の勝ちだ、…完膚なきまでに』
最後の最後、死を迎えてようやく僕は後ろへと振り返ることができた。きっとこれから先は、過去に圧し潰され続けるのだ。
この敗北は最初の一歩としては、重く、何より心に、そして魂に刻み付けねばならないものなのだろう——。
『なにしてるの、早く来て』
『ああ、すぐに行くよ』
怒ったように早足で進む彼女の背を追いかける。途中で何度も何度も振り返りながら、彼女に怒られてまた進む。
けど、振り返ってまで過去を見つめようとする必要なんてなかったのだと思う。
——僕はもう、過去から逃げることはできないのだから。
□ □ □
「終わったぞ、リア」
倒れた際にぼさぼさになった髪の毛を手櫛で梳かす。血で濡れてしまっていてすでに固まっている部分もあるが、これは仕方ない。
「はぁ…、普段しないくせに体を張るからこんなことになる。約束ったって守る相手がいなくなったら意味ないだろうに」
「———」
返事はない。当然か。
「いったん帰ろう、皆方の様子も気になるし、シエが心配してる。そら、持ち上げるぞ」
軽かったはずのリアの体がひどく重たく感じられる。せっかくとかした髪も重力に従って、毛先が地面を擦っている。
「っと、悪いな。やっぱ背負った方がいいか」
全身から力が抜けているのだ、背負った方が幾分かマシか。
それはそれで背負うときが大変なんだが…。
「ヨナギ、死体が何を語るという」
「うるさい、黙ってろ。お前の相手する気分じゃないんだ」
家路は青年の声によってさえぎられる。
刀を納めてはいるが、今のジンにとってはなんの支障もない。刀を抜き放ちさえすれば背負ったリアごと両断される。
そして俺自身、まともに相手をしてやる気分には到底なれなかった。
「レギオンは無力化した。お前に助けられたことに感謝はしてるし、助力がなかったらこの結果はなかっただろうな。だが、今は相手をしてやれない。そういう気分じゃないんだ」
「っ、貴様…何をふざけたことを——っ」
刀に手がかけられる。
次に抜き放たれた刃を目にしたとき、すでに俺は死んでいるかもしれないな。
(どうにも、やる気が出ないってのはこういうことか。ここまで命がどうでもよく感じるのも…、初めてかもな)
表に出すほどの気力もないが、心の中では静かに驚愕が巻き起こっていた。
まさか、リアが死んだことでここまでショックを受けるとは欠片も思っていなかった。俺は俺なりに傷ついて、それでも変わらずに戦い続けられると思っていた。
そんな空想の産物、妄想の結果が、これだ。
背負ったリアの冷たさが俺の熱を奪い去る。そのまま熱を宿してくれたならどれほどの奇跡かと願ってしまっているほどに。
(リア…悪いな……)
戦いは終わっていない。第一ナイギを潰すという約束が残っているのにもかかわらず、俺は気力を失っている。
「どうした、斬らないのか? それなら俺は帰らせてもらうぞ」
「四方…展開……っ」
怒りに震え、術式を起動するジンは手をかけていた刀を鋭く抜き放ち、その刃の煌めく眩しさに俺は知らず、目を閉じていた——。
『本編について』
・レギオン戦終了
レギオンとの戦いも勝利し、どうしようもないなりに彼らなりに納得して終わりを迎えた形です。
次話からは遅ればせながらあの爺様がやってきます。
・ウェンディアナについて
元の世界でレギオンに殺された後、彼女も魂の残滓としてレギオンの一部と化していました。しかし巫女であったために意識までは取り込まれなかったものの、特別な力を持っていたわけではないことから彼等の行動を見ていることしか出来ていませんでした。
今回の決着によりようやく表に出てこられたので、今後は魂だけの状態で世界をさまよい続けることになります。
(執筆当時、カイルは完全消滅させるつもりだったのですが、気が付いたらなんか生きて?いました。まあウェンディアナを再登場させられたのでいいか、とおもっています)
『定期連絡』
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