51.虚ろな夢②
間を置くと何をすればいいのか忘れることはよくある。
忙しかったり、たまにしかやらない作業を急にやらなければならなくなったり。
――あとは、頭の中にどうしても無視できないモノが居座り続けているときには、考えがまとまらないのでしょう。
学業を終え家事を終え、自身の部屋で一人、ゆっくりと本を読み進める。
「―――ふぅ…」
素敵な物語だと思う。それこそ初めて読んだ時には時間も忘れて、涙を流してしまったほどに。
「……今日は、ここまでにしておきましょう」
ですが、なんだか中身が頭に入ってこない。まるで頭の中が靄でおおわれてしまったかのように、文字を認識しても文章として伝わってこないのです。
そのせいか、いつもよりも読むのに数倍以上かかってしまっています。
つい読み飛ばしてしまって同じところを何度も読み返したり、読んでいるつもりが動いているのは視界だけで文章の内容はわかっていなかったり。
胸にかかった靄を何とか晴らそうと、今日はお終いなのだと自分に言い聞かせるように、パタンと音を立てて小説を閉じる。
リア様におすすめいただいたこの本はとても面白い。それはいまも何一つ変わらない。そこに記されていた物語は一文字も変わることなく、誰かに読まれることを待ち続けていただけ。
中身は何一つ変わることなく、流麗たる物語も登場人物の幸福や苦難、未来へ向けての歩みは読み手である私の心を何度も打ち鳴らしています。
ですが、これまで数えきれないほどに揺れ動かされていた心は、以前ほどに打ち震えることが少なくなってきているのを自覚せずにはいられません。
「はぁ………」
閉じた本の表紙、簡素に題名が書かれただけのそれはシンプルでありながら、一種の美しさを醸し出していました。
絵はなく装飾もない、必要な言葉を配置しただけのもの。言葉という文字の羅列がもたらす力を最大限発揮した。素敵な一冊であることは誰もが感じるところ。きっと、普段本を読まれない方でもこの表紙はきれいだと感じるのではないでしょうか。
「私は、私の行くべき道をいきましょう。その意思は揺らいではいない」
定めた覚悟を確かめるように、胸に手を当てて自分に問いかける。その結果は問題ない。
私は主と友を守護し、敵を排する者。
そのために力をつけてきました。そのためにここにいるのです。
(わかって、いるはずなのに…)
なのになぜ私は、本を読むだけの行為に集中できないでいるのか。
「アヤネと一緒にいるときは、なんともなかったのですが…」
毎日のように行われる彩音とヨナギ様との勉強会。本日も例外ではなく、放課後にはヨナギ様のお部屋で行われました。
わからないことばかりで、ある種生まれてから今まででもっともつらい苦行と呼べるものではありますが…。そんな私に対して、アヤネは笑いながら何度も同じことを教えてくれる。
何度やっても覚えられない私自身を情けなく思いますし、アヤネだっていつ失望してもおかしくないのに。
『よしっ、いいねシエ! 今日は昨日よりできてるし、ミスもなくなってきてる。これなら明日には解けてるも同然だよっ!』
そう言って、見とれるほどの笑顔で笑いかけて励ましてくれる。
――なんて、素敵な女性だろう。私では、ああはなれない。誰かを励まそうにも、いつもずれたことを言ってしまって、ヨナギ様にはご迷惑をかけてばかり。
ヨナギ様は気にしていないと言ってくださりますが、そのお心遣いにも頭が下がるばかりで…。どうすればもっとお役に立てるのか、考えれば考えるほどにわからなくなってしまう。
その中で、アヤネがいるときは胸の靄も忘れられた。
たとえ苦行とはいえ、勉強という目の前のものに取組む中での集中だけでなく、アヤネの明るさと優しさに救われているということなのでしょうか。
ですが、その優しさに…。
「わたしは…」
『-―――』
「え?」
いま、なにか聞こえたような。
「………?」
呼ばれたのかと思い耳を澄ませてみるが、気のせいだったのでしょうか。二度目の声はなく、そもそも一度目の音さえ、気のせいだったかもしれない。
「ふぅ…いけません、疲れてしまっているのでしょうか」
そんな状態でお二人の前に立つなど、従者として失格。いけません、己の精神状態に左右されるようではまだまだ未熟。そんな様ではヨナギ様を前に…しても……。
「………」
彼への好意を、私は持ってしまっている。
そのことをリア様が気づかせてくれた。自覚させられてしまった。欠片一つも憎んでなどなく、なぜそのようなことを、などと思うこともありはしない。
ただ、自身の内側でどうしようもなく。私の心が揺れ動いてしまうのだ。
「間違っては、いません。後悔も…」
けれどその声はそこで止まってしまう。
私が、私の言葉を押しとどめるように。声が詰まってしまった。
「………っ」
どうしてだろう。どうして、言葉が出てこないのでしょう。
こうならないために、どのような事態であろうとも一振りの槍としてあるために宣言をした。リア様を前に、私の在り方を定めることで言葉として形にして、決してブレてしまわないように。
「そう…でなければならないのに…」
決意とは、覚悟とは、これほどもろく崩れてしまうものなのでしょうか。私は、自身が選んだ道を二度と戻らぬ覚悟で足を踏み出したはずなのに。
――すでに振り返りたいと、望んでしまっている。
「そんなこと――っ」
『-――――』
「な…?」
思わず立ち上がる。
否定は中断され、揺れる心は警戒体制へと移行する。
(やはり、さっきの音は間違いではなかった…?)
気のせいかと見逃した音がもう一度耳に届く。自然のものとして片づけることができない、異質なナニカ。
リア様もヨナギ様も、動き出した様子はない。
(気づいていない? いえ、私が感づけるならば少なくともヨナギ様は感じ取れるもののはず。なら可能性は――)
この音…声は私にだけ聞こえているのか?
『――ぁー、…えて………な?』
今度は聞こえる。とぎれとぎれではあるが、男の声。それだけで身の毛のよだつような邪悪さをはらんだ危険なもの。
一筋の汗が流れる。冷たく、触れた端から肌が凍り付いてしまうのではないかと思うかのような、異変を体現したような異常がこの身に表れていた。
「アナタは…何者です」
部屋の中という場所は関係なく、即座に槍を取り出すとどこからともしれぬ声へ向かって問いかける。
『…クハハハ……っ』
小さな、ただの笑い声。
その男は声だけだというのに、こちらは気を緩めるだけで闇に呑み込まれてしまうような緊張感に包まれている。
(ナイギなのか。これほど奇妙な威圧感を持つほどの存在が…、早くヨナギ様に知らせなくてはならないというのにっ)
一歩、動くことができない。動かすことができるのは視線のみであり、『神籬』の発動さえ行えてはいない。
これでは攻撃を仕掛けられれば敗北は必至。その前に、なんとかしてヨナギ様にこの事態を知らせなくては。ヨナギ様ならばこの事態を打破できる。
『本当にそうかな?』
「———ッ!?」
心を読まれた?
偶然にしてもありえない返答に動揺する。
『ああそう、驚かないでくれ。他人との距離感を測るのが苦手なんだ。しかし心配することはないぞ? なぁ、シエ・ジンリィ』
「なぜ、私の名を……」
時間を経るにつれ、男の声ははっきりと、頭蓋に響くように聞こえてくる。精神を侵食し肉体への変調をきたす歪んだ声色。
噴き出す汗は止まらず、全身をじっとりと濡らして気持ちの悪さを感じる。嘲笑するような声に反して、私自身はおびえる子供のように哀れな音を発している。
圧倒的実力差を感じることとはまた違う。存在そのものの次元が違う相手が、何かの間違いで地上に堕ちてきたような。
(これは、起こってはならないことだ…っ、きっと、これは“そういうモノ”だ…)
人智を超えたナニカ。
触れることそのものが世界の過ちであるナニカが、なぜか今私の頭の中に顕れてしまった。
しかし、こちらの様子など関係なくあっけらかんと笑う言葉は鳴りやむことなく乾いた風のように通り抜けていく。
『なぜか、どうしてか。そんなことはいいだろう? 起こった以上、その理由に、過程に意味はない。大事なことは今、シエに俺の声が届いているということだ。違うかな? ……クハハハ』
「————」
喉を鳴らした笑い声によって頭蓋に言葉が響くたびに思考力が削られていく感覚。
言葉の一音一音が脳を物理的に削り、機能を物理的に殺しつくしているかのように。自分で自覚できる速度で思考能力が失われていく。
事態を好転させるための準備さえ、思考さえ許されはしない。槍を構えてはいるものの、ただ立ち尽くしている案山子と何も変わらない。
(どう、すれば…。そして、この男は一体——)
『はぁぁ…、いやすまないなぁ。いつも見知った相手としか話すことがないからついついはしゃいでしまった。ハハハ、許せ』
嘲笑は私の脳を削り切る前に鳴りやんだ。
一通り笑って満足したのか、言葉の端に余裕のようなものがにじんでいる。とはいえ状況が好転したわけではない。
動かぬ肉体、滞った思考。
体も心も得体のしれない恐怖を前にして、為すすべもなく立ちすくむのみ。
『ふむ……』
しかし、その姿を前にした男はどことなくつまらなさそうに息をつく。そして少し考え込んだ様子を見せると…。
『よし、そうか。ああいやすまなかったなぁシエ。他人との会話は声ばかりで姿を現すなどここしばらくなかったからな。カハハすまんすまん、少し待て』
ズレた理由を基にした推理によって弾き出した結論。打って変わって楽し気になったかと思うと、……男の気配が消えた。
「………どこへ」
姿を、歪極まりない存在を消し去ったのか。少し待てといった? ならばすぐこの部屋へやってくるというのか。
「…ヨナギ様へ――っ」
一刻も早く伝えなければ――っ!
呪縛から解放された肉体を不格好に駆動させ、何もない場所でつまずきながらドアノブへ手を伸ばす。
「ふむ、やはり仮初とはいえ肉体があるというのはいいものだな。奪われて初めて知る幸福というものか」
「——っ…」
気配など、なかったはずだ。それは私自身、街に張った結界にも。
なにも、なにも感じることはできなかった、男は今こうして背後に立っている。酷く歪み、吐き気さえ催す圧迫感を発しているというのに。
そこには何もない。どこまでも虚ろな孔が空いているかのように確たる存在をつかむことができないでいる。
「うん? どうしたシエ、少し待てと言いはしたが茶の用意までする必要はないぞ。ほうら、こちらを見てくれよ。顔を合わせて話をしよう」
親しみを込めるように、表面上は優しい言葉。だがその内側は全てを呑み込む虚ろの孔。
(いけ、ない…っ、目を合わせては……。それはきっと――)
何かが終わってしまうような決定的な予感がある。
「初対面のはずだが…、俺は何かしてしまったろうか、仕方のないこととはいえ悲しいな。シエにとってもいい話なんだが」
「…っ、断る……。その気配、ナイギであることは、わかります。話すことなど、何一つありはしません――!」
「あぁ、そうか。緊張しているんだな? そうかそうか、視ていたからわかっているつもりだったが……想像よりずっと初心ということか。それはすまなかった。ならこのまま話そうじゃあないか、なぁ?」
またしてもすれ違う。この男は自分にとって都合よく解釈するのだから相互理解が不可能。どこまでも、その在り方は歪んでいる。
「えー、と。とはいえなんだったか…、ああそうだそうだ。今日はシエにいいことを伝えに来た」
「………」
男が話し始めると同時に、肉体も機能を停止する。抵抗は試みているが話を遮るどころか指一本動かすことができない。
「なぁシエ。単刀直入に聞くが、主の二人から騙されていると思ったことは?」
「…なに、を――、そのようなことただ一度もありはしないっ!」
ふざけるのもたいがいにしろ。第一声がそれとは、我らラゥルトナーに不和でも起こそうというのか。痴れ者め、なんて馬鹿げているのか。
「ハハ…っ、そうか、そうだよなぁ…。そのようなことありえないよなぁ。あの二人、ヨナギも、リアも。嘘をつくのは得意だものなぁ」
「--ッ!!」
嘲笑う、信頼を置く主への侮辱を前にして、何も動かぬことなど許しはしなかった。
動かなかったはずの肉体を怒りのみを原動力にして無理矢理に起動する。
バネ仕掛けのごとく槍が跳ね上がり男へふるう。『四方界』の発動はならないまでもその速度は尋常のものではない。この狭い室内において回避は許されない。
「――っ!?」
振り向いた先には当然男が立っている。
だが、顔を見ることはできない。それは目の錯覚か、顔があるはずの場所には黒い孔が開いているかのようにして、何も認識することができない。
槍を振るったのはその下、頭と胴をつなぐ首だった。
「―――」
傷は、与えた。
その証拠に穂先は血に濡れ、今もこうして男の首からは鮮血が溢れて床を赤く染めていく最中だというのに。人間であれば、生物であるのならば致命傷でしかないというのに。
「俺が伝えに来たのはそれだシエ。仲間外れは嫌だろう? だからあの二人がバレないよう頑張っている隠し事を教えてやろうと思ったわけだ」
変わらぬ言葉、声帯も断ち切ったはずだというのに言葉は紡がれ続けている。
(この、男…っ、どうなって――)
不死に近しい耐久性を持っていたユーリでさえ、物理的な欠損をしてしまえば一時的にとはいえ機能は停止する。
この男のように首を断ち切られさえすれば、元通りになるまで言葉を発することはできないだろう。
(次元が違う、ナイギに…これほどの存在がいるのだとすれば…それは、まさか、いえ、だとしたらなぜ、ここに…。なぜ私の前に――)
「と、いうわけで。…なんだその驚いた顔は、まだ何一つ話していないが。ん? なんだ切っていたのか。そう気にする必要はないぞシエ。俺は丈夫だからな、クハハ」
愕然とした表情の私と、愉快そうに笑う男。いや、この男は――。
「貴様、は…まさか――。ナイ…ギの…」
ありえない、封印されているはず。姿を見せることはできないはず。そしてこの『総界』に姿を現すという行為自体が死につながるはずだというのに、何も影響を受けていないかのような立ち振る舞い。
別人であればまだ説明はつく、だが男から滲み出す異様な存在感と立ち振る舞いは、どうしても一つの答えへと導かれていく。
「そういえば、自己紹介がまだだった」
ポンと手のひらをたたいて、うっかりしていたと子供のように笑う。
「身内に囲まれてばかりだと自分から名を名乗る習慣事態が消えてしまうらしい。ホロウ・ナイギというんだが、まあ名前などどうでもいいことだな」
「―――ッ」
やはり、ナイギの当主だった。
かつて『崩界』に堕とされた大罪人であり、封印されていると聞いていたが…。
「さて、くだらない話はもういいな。本題に移ろう」
しかし、当の本人は欠片も興味はないらしい。私への話以外にはつまらなそうに流してしまう。
「それでだシエ、知りたくはないか? お前が何より信じ、主と慕う二人が隠し通そうとしている秘密。その理由をだ――」
笑っている。嗤っている。
顔は見えず、私の体は五感の機能さえ低下し始めた。
それでもなお感情の細部まで分かる。滲み出す混沌が強制的に伝えてくるのだ。
閉ざした心の扉を、扉ごと侵食してくる。ダメだ、このま…までは…。
「こと、わる……っ、ナイギの…言葉など――聞きは…げほっ」
だが、それでも。このまま会話を続けることで心が壊れてしまうのだとしても。信じるという想いを捨てることなどできるはずもない。
「…そうか、残念だ。いや本当に残念だ。面白いと思ったんだが、そうか。ふぅむ…」
意気消沈する姿からは断られるとは一欠けらも考えていなかったらしい。手を顎のあたりにあて、少し考える。
「……よし、決めたぞ。ああそうだな、楽しみは長く続いたほうがいいに決まっている」
「………っぅ…、なに、を――」
「なに、答えを受け取るというのが嫌ならば手掛かりにとどめるだけだ。クハはっ、シエも良くわかっているじゃないか。ああ感服したぞ、俺も無駄に長く生きているが、まだまだだな」
ホロウの中ではすでに、私の望みによって答えとやらを先延ばしにしたと解釈したらしい。この男には他者の言葉など届いていない。どこまでも自分の世界を基準に行動している。
「――――ぁ、はぁ…っ」
削られた精神は限界を迎えようとしている。意識が朦朧とし始め、笑い声が遠くなっていく。自分が膝をついていることにさえ気づいていなかった。
「ぐ…っ――」
顔を上げることさえままならない。
嫌な笑い声が頭蓋を反響する中、ホロウの声がはっきりと耳元で発せられた。
「俺とヨナギ、あとはリア以外の人間は、誰一人として『巫女』の姿を見たことはない」
「―――え?」
なんだ、それは。
「ではな、そろそろ時間だ。また会おう」
「…ま――――」
待て、と二文字を言い切る前に私は倒れこんでいた。
おぼろげながらに残った意識は傍に立つホロウの存在を伝えてくる。
こちらに背を向けたまま徐々に消えていく存在、『崩界』に戻るというのか。今の言葉の意味は一体どういうことなのか。
『巫女』はアヤネではないということなのか。
敵の言葉だということはわかっている。わかっているというのに。無視できない何か、言葉にできない力が込められていた。
「クハハハ…、そう焦る必要はない。遠くないうちに分かる時が来る。なぜなら、俺がここまで動けるようになった。ヨナギたちは“時間をかけすぎた”。切り捨てることをしなかったのだからな」
(…ヨナギ、様が――、なにを……?)
「だが、安心しろ。俺が救ってやる。あぁ…そうだ、皆を例外なく、すべからく救済してやる。ハハ、ハハハハ――!」
(――――――)
意識が闇に堕ちる寸前まで、ホロウの笑い声だけが思考を占める。
水のように、空気のように。夜の闇のように。あって当然なものであるように、意識を埋め尽くしていく。
そして、意識が完全に消え去った瞬間――。
□ □ □
「…………ぁ」
――日の光で目が覚めた。
いつものようにベッドの上で、窓から差し込む陽光に薄く照らされる。
窓の外からは完全に活動していない街の静かな雰囲気が、夜に冷やされた空気とともに私の体を冷やそうとする。
「……ゆ、め?」
何か、大事な夢を…見ていたような気がする。
「ん……」
目覚め切らない頭でゆっくりと周囲を見渡すが、特段変わった様子はない。内容を覚えてはいないが悪夢でも見てしまったのか。
(昨日は確か、少しだけ本の続きを読んで……。そのあと、――?)
ぼーっとしたままベッドに入ってしまい、眠ってしまっただろうか。
どうやら、リア様とヨナギ様の間柄のことは、自分で思っていた以上に疲れてしまっていたらしい。自らが進むと決めた従者としての道。だというのにまだ私はブレてしまっている。
「…いけません」
そう、このままではいけない。
私が進むと決めた道ならば、せめて貫き通さねば嘘でしょう。お二人のため、友のため。今日という一日を精一杯生きることを始めましょう。
「朝食を…用意しなけれ――あぅっ……!」
机の角に足の小指をぶつけましたが、この程度では私は負けません。悪夢を見た程度のことで、お二人の朝食に影響が出るなどあってはならないことですから。
で、ですが、その――
「…ぅ、ぅぅぅ……」
もうちょっと待っていただければ、幸いです…。
――ありえもしない妄想でしかないけれど。
もしも、過去に戻りたいと、子供のような願いが叶うのなら。私はこの瞬間を選びたい。
私は、融け込んだソレを認識することはできなかった。気づくことができなかった。
あの男がまた会おうといった言葉を、その意味を、最も知らねばならなかったことこそが忘却へ葬り去られていた。
けれど――、…夢の内容を覚えていたとしても、過去に戻れたのだとしても。私は、きっとあの選択をとってしまうのでしょう。何度でも。
…そう、思わずにはいられないのです。
「シエ、どうかした…というか何かあったか?」
朝食をとるさなか、ヨナギ様が私に向かって口を開いた。リア様はぐっすり眠っていらっしゃったので、家を出る前に声をかけのもやめておいたほうがいいかもしれない。
「いえ、私には特に異常もありませんが。味付けに問題がありましたか?」
「そういうわけじゃないんだが。…いや気にしないでくれ。きっと気のせいだ」
「そう、ですか? ですが、なにか小さなことでもお気になされていることがあるのであれば、お教えください。お力にはなれるかはわかりませんが」
「そうだな。何かあれば伝えるって約束だ。ごまかしたりするつもりもないけどさ。なんというか、変な夢見たせいかな。神経質になってるらしい」
「夢、ですか。それならば私も何か見たような――」
『ヨナギも、リアも。嘘をつくのは得意だものなぁ』
「――っ…」
不意に湧きあがった声が頭蓋を震わせる。記憶にないはずの記憶が、誰かの声が脳裏をかけぬけ、めまいに似た違和感に襲われる。
「シエ、どうした具合が悪いなら――」
急に頭を押さえた私を見て、ヨナギ様が傍へ来て体を支えてくれる。
響く言葉はすぐに収まったものの、得体のしれない気分の悪さは薄ら残っている。もう少し長く続いていれば今まで口にしていた朝食を戻してしまうところだ。
「やっぱり調子が悪いんじゃないか? 今までそんなことなかったろう。皆方には俺から言っておくから今日は学校には行かないほうがいい。水持ってくるからちょっと待ってろ」
「………アヤネ…」
空いたグラスを手に台所へ向かうヨナギ様の背を追うことなく、脳裏をうごめく違和感を手繰り寄せようと得体のしれない記憶を直視しようとして。
思い出す寸前、忘れてしまっている光景の断片を拾い集めようとした時、…違和感が消え去った。
「ほら、飲めるか?」
「―――え?」
目を開けた時には、こちらを心配そうにのぞき込んでいるヨナギ様の姿。その手には水の注がれたグラスと薬箱。
「あ、れ…。いま、何か…」
「どういった具合だ? 頭痛か、吐き気か…。薬の種類はあるからどれかは役に立つと思うんだが」
多種多様な薬が詰め込まれた箱から、めぼしいものをいくつか取り出している。
(ヨナギ様の体調に何か!?)
「ヨナギ様! どこか痛むのですか?! 申し訳ありません、何一つ気づくことができず薬までヨナギ様に準備させてしまうなど…っ。すぐにお休み…に……」
そこまで口にすると、ヨナギ様の様子がおかしいことに気づく。
「シエ、頭出せ」
「え…? 私の、ですか?」
「そうだ、すぐに出せ」
「え、え…? ふぁわっ」
熱を測るように額に手を当てると少し考えこむヨナギ様。
「……何もないようには思うが…。ちょっと待ってろ」
何が何やらわからないが、ヨナギ様は部屋へ戻っていく。状況が理解できていない私は情けないですが困惑するばかり。
(具合が悪いのは、私のほう? いえ、ですが肉体的な状態としては好調です。気持ちの面ではまだかかるかもしれないものの異常に至るほどでもない)
ならば、なぜヨナギ様はあれほどに神妙な面持ちをしていたのでしょうか。
「クソ、こっちはこっちでダメか…」
不思議に思うのもつかの間、ヨナギ様が小さな声で一人しゃべりながら戻ってきた。探し物が見つからなかったのでしょうか?
「あの、それほど心配していただけるのは大変うれしいのですが、私は大丈夫です。心身ともに健康そのものですし、ヨナギ様が気を割くほどではありませんよ」
「いや、しかしな…」
「気になることがあるのならおっしゃってください。もしも心当たりがあれば包み隠さずお伝えしますから」
「……そう、か。ほかでもないお前が、そういうなら大丈夫…か」
そういわれたヨナギ様は質問の勢いを急速に失い、視線もこちらから外すようにしている。
――そのことに、何も思わなかったわけでは決してなかったけれど。
「はいっ、レギオンとの戦いが近づく瀬戸際において、体調不良などいたしはしませんっ。お二人の健康面も食事から寝具から、お任せください! シエの全力をもって絶好調にして見せます!」
なぜだか私は、そんな風に答えてしまった。
「そうか、それは頼もしいな。なら本当に休まなくていいんだな?」
息をつくように微笑みながらもう一度額に手を添えられる。
少しくすぐったかったけれど、疲れたような笑顔の前では余計な負担をかけるわけにはいかない。
(レギオン、そしてナイギ。それらと前線で戦わねばならないのはヨナギ様だ。私のせいで余分に疲労を与えてしまうわけにはいきません…っ)
強敵という言葉で片づけるには難しい存在を相手に勝利のみを求められているのだ。双肩にかかる負担はどれほどのものか。
「では学校へいきましょう。もうすぐアヤネもやってくる時間でしょうから」
「ん、そうだな…。悪い、すこし神経質になってたかもしれない。でも、本当に何かあればすぐ言ってくれよ。俺だって、シエを失いたくない」
「……―――。はいっ、ヨナギ様とは約束いたしましたから。ヨナギ様には正直に思いをぶつけます。その先で、より良い道へと進めるように」
「ああ、ありがとうな」
「ん…っ、くすぐったいです」
額にあてがっていた手でわしゃわしゃと頭を撫でられる。ヨナギ様の大きな、硬い手で名で触れられると、なんだか余計にくすぐったく感じてしまう。
「そうか? そりゃあ悪かった。…っと、皆方が来たみたいだな」
手を離すと同時にチャイムの音、窓から顔をのぞかせるとこちらに気づいたアヤネが手を振ってくれた。
「では参りましょうか。忘れ物はないですか?」
「ないよ、たぶん。それに忘れたならその時だ。気にするほどじゃない」
「い、いえいけません。私たちはアヤネの指導を受ける身、普段の授業から真面目に取り組むことで放課後の勉強会へ向けた意識を整えて――あぅ」
「まじめだなシエは。見習うにはちょっと行き過ぎてて俺には合わないけど」
力説は額を指先で押されて終了させられた。
すでに玄関へ向かうヨナギ様は背を向けていて、表情をうかがうことはできない。
けれど一瞬、勘違いするにも短すぎる時間。私には見えないはずの表情が、なぜだかひどく辛そうに見えてしまった。
「ほら、いくぞ。皆方に怒られる」
「は、はいっ。すぐ参ります。あ、リア様を起こしておいたほうが――」
「あー、いいだろ。どうせ起こしたところで二度寝が関の山だ」
「それは、確かにそうですが。やはり目覚めとともに朝日を感じることは生物として重要なことだと思うのです」
「それなら次起きてるときに言ってやれ。アイツのペースに乗せられないようにな」
「む、むむむぅ…。頑張ってみます」
「ああ、がんばれ」
さっき感じた、辛そうな雰囲気は消え去ったヨナギ様の柔らかな声。
やはり気のせいだったのでしょう、私も私で神経質になっていたのかもしれません。いつも通り、やるべきことをやり、準備を整えていけば超えられないものはありません。
少なくとも私だけは、ヨナギ様が成し遂げると信じていますから。
「おはよー」
「おはようございますアヤネ。今日もいい天気ですね」
挨拶をかわすと、足並みをそろえて学校へ向かう。今日は日が出ていて風もあまり吹いていない。寒さが目立ったここ最近に比べるととてもあたたかな一日となりそうだ。
「さって、今日も今日とてビシバシ行くからね。テストも近づいてきてるし」
「お、お任せください…っ。このシエ、何としても良い結果をお見せします」
「うんっ、がんばってねシエ、応援してる。それで、ヨナギ君の方は大丈夫なのー? なんだか難しそうな顔してるけど」
「ん、ああ…たぶん大丈夫だろ。やればなんとかなる」
「じゃ、私がやらせないとね。見てないとさぼっちゃうだろうし」
「失礼な奴だな。俺だって一人だったとしても勉強くらいできるさ」
「その頻度がもっと増えれば心配することもないんだけどねー」
「…そういうお前はお前で大丈夫……、なんだろうな。わかったよ、ちゃんと指導は受けるって。なんだその目は、信じてないな」
いぶかし気にアヤネに目をやるヨナギ様からは、さきほどまでの難しそうな表情は鳴りを潜め、いつも通りにアヤネと話している。
「まさかまさかそれならそれでヨシ、さぁってと今日も頑張っていこー」
「ほどほどにしてくれ、俺はそんなに元気にはなれない」
「えー? そんなことないよ、夜凪くんもほら、ファイトー」
「あー……、ふぁいとー? はっ、やっぱそのノリは無理そうだな」
「もうっ、笑ってないでやるのっ。はい、腕上げる!」
「なんでそこまでやらないと——」
「こういうのは一発目が——」
年相応なやり取りをかわしながら前へと進んでいく二人。
その背後を邪魔にならないよう静かについていく。
「……」
二人の姿に少しだけ、胸が締め付けられたような気がしたけれどすぐに振り払う。
なんてことはない。彼の隣に立つというのなら、それはアヤネこそが最もふさわしい。これまで、繰り返される世界でずっと隣に立ち続けていた女性。
私の、『纏界』での記憶にあるヨナギ様は、ただの一度も笑ったことはない。けれど、この世界で再会した彼は、ひどく年相応の少年のようで——。
『かわいそうに…、——くやしいのか?』
「……!?」
どこからかはわからない。だが何か、聞いてはならない声が聞こえたような気がした。
周囲を見渡すが、それらしき者は誰もいない。ここにいるのは私と、前を進むお二人だけ。
「…気のせい、でしょうか」
疲れてしまっているのか。それとも、私が私の心に折り合いがつけられていないことによる幻覚の一種とでもいうのか。
「………いえ」
私は、大丈夫だ。
疲れてはいるのだろう。折り合いもつけられてはいないのだろう。けれど、前へ進むことはできる。ヨナギ様と共にある限り、進むべき道を誤ることはあり得ない。
「シエー、どうしたのー。何かあった?」
「あ、いえすみません。靴の紐がほどけてしまっただけです」
ほら、いけない。私の未熟ゆえに心配させてしまっている。こんなことではリア様とヨナギ様の従者を名乗れませんっ。
「これで、よし…」
しゃがみこんで本当に緩みかかっていた靴ひもを締めなおす。それだけのことでも気持ちにもほんの少し整理できたような気がする。
「大丈夫か? もし不調ならすぐいえ」
「ありがとうございます。でも問題ありませんよ。嘘なんかついてはおりません」
心配してくれるヨナギ様に笑顔で返す。
立ち止まってはいられない。彼の傍にあり続けるというのなら、私も歩みを止めることは許されていないのだから。
この身も、この心臓も——。ヨナギ様のためになら使い尽くせる。
彼の勝利のためならばいくらでも邪悪を滅する光となろう。この忠義が、彼のためになるのなら、何度でも——。
・ホロウ・ナイギについて
ホロウがシエに接触しました。レギオンが動き出すとともに、今まで出番の無かった彼についても復活が近づいてきています。
立場的にも各キャラの隠し事の真実を把握している人物なので、下手に出してもそれっぽいことしか喋らせられないという問題があります。




