41.幾度目かの日常①
「忘れ物は?」
「ない、あっても別にいいだろ」
「そっか、じゃあいってらっしゃい二人とも。楽しい学園生活を、ってね」
「いってくる」
「行ってまいりますリア様。お食事はいつも通り冷蔵庫に」
「はーい、アヤネによろしく」
「ああ」
あれから一週間、俺も改めて学校に通うこととなった。
正直転校生なんて設定は無視できないことも無かったが、皆方との関係性のことを考えると問題は避けたかったし、俺たちの知らない所で手続きは完了している。
手続したのはリアであり、憶えはないが記憶はあるとのこと。
「別にシエまで付き合う必要ないんだぞ。早くから来いって言われてるのは俺だけだ」
通学路の道中、隣を歩くシエに向かって口を開く。
転校初日、俺は教師と共にクラスに案内されるから早めに学校へ来るよう伝えられていた。とはいえ、シエは関係ないのでわざわざ一緒に行く必要なんてない。
「いえ、ヨナギ様の登校初日です。共に向かわず何と致しましょうか!」
「そうかい、そりゃあなんともありがたいことだよ」
「はいっ、おまかせください」
胸を張り、いつも通りに燃え上がる決意と共に拳を握るシエは元気いっぱいだ。ユーリとの戦いを経て、シエなりに決意を新たにしたってところか。
(やっぱりちゃんと覚えていられるってのは力になるな。これまでは朧気だったから助かってきた部分もあるが、それでも貴重な経験には代えられない)
完全ではないにせよ、リアの異能を引き継いでいることによって“前回”の記憶を保っていられたのは戦いにおいては重要だ。
もう一度ユーリと戦うことになったらアイツの裏をかきやすくなる。それ以上に戦いに勝利した経験と言うものの重さは計り知れない。
これまで繰り返されてきた世界の中で、アイツと戦ったことがあったのだとしても、覚えていない以上何に生かすこともできなかった。もしもその経験を蓄積できていたのだとしたらシエが“聖槍”を創りだす必要も無かったかもしれない。
「………」
「どうかいたしましたかヨナギ様? 随分思いつめたような表情をされておりますが…」
「…ん? いや、何でもないさ。気にするな」
「……ヨナギ様、差し出がましいこととは承知しておりますが、もしお悩みがあるのでしたら包み隠さずにお伝えいただきたいのです。その苦しみの全てを理解することはできないとしても、分かち合うことが出来るのならばそう致したいのです」
「約束、だからか?」
「そうです、が…。どちらかと言いますと、そのぅ……、私の我儘のようなものでして…」
そしてこれも、記憶があることの恩恵か。
かけがえのない約束が世界と共に消え去らないということは、なにより心に安心感というものを感じさせてくれる。
「けど、そこまで重く考えるほどじゃないだろ。ま、シエの真面目なところは長所な訳だが」
「よ、ヨナギ様、誤魔化さないでくださいっ。私は心の底からヨナギ様のお力になりたいのです…。以前のように、私自身の忠心が揺らいでヨナギ様を危険にさらすようなことがあれば、私はもう…っ」
カバンを持った手をわなわなと震わせるシエの姿は精神状態に不安を覚える。
…互いに信頼が増したとは思っていたし、事実増していたわけだが、ここまで来ると付き合い方を考えていく必要が出てきたように思わないでもない。
(一緒に居過ぎると逆に心配しすぎるようになるみたいだし、ちょっと距離置く様にしようかな…)
過ぎたるは及ばざるがごとしというのか、シエには甘いと言われていたが甘やかしすぎてしまっていたのだろうか?
「……」
「あ、あのヨナギ様っ。やはりそのお悩みは私にはお伝え出来ない内容なのでしょうか…。それともまた別のお悩みが…!?」
「あー、そうだな。当たらずとも遠からず、だ。でも、まあおまえの言うとおりか。ユーリと戦った時の事を、考えてたんだ」
「“前回”の、ですか」
「そうだ、俺がもっとしっかりしてればシエを死なせずに済んだのに、ってな」
「そのようなことっ、あの場ではあの方法が最善でした。例えまた同様に必要とされる時が来たならば、私はまた同じ行動をとるでしょう。…ヨナギ様は、怒られるかもしれませんが」
「ああ、確かに怒るかもな。そうならないように頑張るつもりだけど」
「はい、私もです。またあの男が来た際には完膚なきまでに叩きのめします。一言も口を開かせません、その前に決着をつける所存ですハイ」
そういうシエの目は座り、嫌な思い出を掘り返したことによる不機嫌さが隠しきれていない。どんだけキライなんだアイツの事。
「あー…、その時はまぁ、期待することにしとく。“前回”で殺しきれなかったのが悔やむな」
「ですが、そのおかげで私は今こうしてヨナギ様の隣に立つことができています。確かにあの男を倒しきることはできませんでしたが、一度倒した相手なのです。ヨナギ様でしたら次はもうけちょんけちょんですっ!」
「ああ、そうできるようにしないとな」
“前回”、ユーリを倒し、回復できないよう倶利伽羅を胸に突き刺すことで地面に縫い留めた。もしもアレが聖槍であったなら殺しきることはできたかもしれないが、生憎『倶利伽羅』では為し得なかった。
聖槍を使っていればユーリを殺すことができたとして、シエを救うことはできなかった。なんとしても世界が創り直される前に生きている必要があったのだ。
でなければシエは存在しない魂として、”今回“の世界では初めから消え去っていただろう。
「リアが『瞳』を移譲してくれてるから記憶の保持が鮮明にできるようになったけど、出来るのはそれだけ。それまでの経験はあってないようなもんだ。皆方も護れず、シエが死んじまうような記憶に限って鮮明に憶えていたくはない」
「ヨナギ様…、そのように思っていただいているとは…。そのお言葉だけで心から嬉しいです。…今ならどのような敵が来ようとも槍の一振りで対処できるかもしれませんっ!」
「そういう元気は本当にナイギが来た時の為に取っといてくれよ」
「そ、そうですね、つい昂ってしまいました…。深呼吸を少々…」
朝日を受けて深呼吸するシエは朝の体操をしているように見えなくもない。両手を広げて、お手本のような深呼吸を何度か済ませると落ち着いたみたいで、再び並んで歩き始める。
学校までは十分もかからずにつく。
その間、少しずれた世間話をしながら誰もいない道を二人で進んで行った。
「さて、今回はどうだろうな」
「どう、とは?」
職員室の前、ドアにはまだ手を掛けることなく腕を組んで、中にいるであろう人物の行動を予想する。
「この前は極度の男嫌いだったからな。変化があるかと思ったんだが…行ってみない事には分からないな」
「男嫌い……、ああ先生ですね」
「そういうことだ、じゃあここから先は俺だけでいいから。シエは教室に行ってろ。皆方もすぐに来るだろうから、世話を焼きに来る前に引き留めといてくれ」
「分かりました。ではヨナギ様が座るであろう席の清掃はお任せください。校内で一番きれいにして見せますっ!」
「いや、そこまでしなくても——」
「そうと決まれば行動あるのみ、ですね。ではっ!」
「いいんだけど……、行っちまった。じゃあ、行くか」
ドアに手を掛け、特に迷うことも無くスライドさせる。建付けの悪さからガラガラと音を立てつつも問題なく開いたドアの先、目当ての人物はそこに居た。
「おはようございます、金谷先生。今日からお世話になります」
「びょあおぅ!? あぁぁ……、天名君。おぉおはようございましゅ——! 私なんかのおにゃまえなんてもう覚えてくれていたのですねぇ!?」
記憶にある通り、金谷加奈という名の教師は大の男性恐怖症らしい。
視界外から声をかけたせいもあってか椅子に座った状態から、その場で大きく飛び上がっていた。
当然着地は失敗し、大きな音を立てて床に転がっている。スラックスだったから良かったものの、もしスカートをはいていたとしたら下着が丸見えになっていたのは間違いない。
「大丈夫ですか? まぁ、挨拶はしてきてくれたんで名前くらいは。それで、俺はホームルームが始まるまではここに居ればいいですか?」
「っしょうね!? そこがいいんじゃないひら!?」
「じゃあ、座ってるんで何かあったら声かけてください。こっちから声はかけないようにしますから」
「…あ、ひぁい……。もうちょっとまっててちょだいね! せんせい、がががんばって落ち着くから…!」
ぜーぜーと呼吸だけで苦しそうな様子を横目に、指定された椅子に座る。
彼女は彼女なりに仕方ない部分があるので改善させようなど考えた所で意味はない。こちらもこちらで大人しく、学校では生徒として生活するのが関の山だ。
なんにせよ、学校という場所は俺たちの行動を制限する空間でしかないのだから——。
「でででで、では…、彼が今日からみんなの新しいクラスメイトの天名夜凪くんれひゅ! けんかとかいじめとかないようにね!? 先生泣いちゃうかりゃね?!」
「それじゃ加奈ちゃーん、席はここでいいですかー?」
「いいですぅっ! 天名くん、席アソコ、あそこだから!!」
「………」
こちらを見ずに席を指し示した教師の姿からは、常軌を逸した怪物に襲われる寸前の被害者の姿しか見ることができない。
自分の席で苦笑いしている皆方がいなければ、あと三十分はかかっていたのではないだろうか。しかもあまりの恐怖からか、指差した席自体おかしな方向へ向かっている。そっちには廊下しかない。
「あはは…、えーっと、夜凪くんの席はココだから」
「ああ」
正解は当然皆方の差した席なのは疑いようもない。なぜなら窓から入り込んできた光の反射がすさまじい。鏡かの如く反射した光が天井を照らしている。
シエめ、ここまでやったらノート取るだけでも目がやられるぞ。
「ゴメンね、加奈ちゃんは男の子相手だといつもあんな感じだから。気分悪くしないであげてね。先生としてはすっごくいい人だから」
「らしいな」
「そうなの、…というか知ってたりする? なんだか加奈ちゃんの様子に慣れてたみたい」
「この前、挨拶しに家まで来てな、玄関であの調子だった。そのままじゃ話せないし、仕方ないからリアとシエに任せた」
「あははは……、そういうこと。おっと、あんまり話してたらまた加奈ちゃん困らせちゃう。お話はまた後で、だね」
「そうだな。少なくともホームルームは終わらせた方が良い」
「ふふっ、これからよろしくね夜凪くん」
「ああ、頼むよ。…皆方」
「うんっ」
開いた花のように笑う少女、彼女の笑顔は飽きるほどに見慣れたもののはずなのに。
俺はその笑顔が、——初めて出会った人間のように感じてしまった。
□ □ □
「でね、シエと一緒にファミレス寄ったら店員さんが目を丸くしちゃって——」
「アヤネ…、そのお話はヨナギ様に話すのは少々……」
問題一つなく退屈に過ぎる授業を終えた学校からの帰り道。
皆方が話しているのは俺がここに越してくるまでの出来事だった。とはいえ、その記憶もあくまで皆方の人生に矛盾を生じないよう作られた偽の記憶だ。
シエもリアも俺も、新たに創られた世界で目覚めてから二週間と経っていない。
「相変わらずよく食ってるみたいだな。家では俺たちよりも量食ってるとはいえ驚かれるほどじゃないだろうに」
「そ、その、お二人の分も含めて作るとなると栄養を考えておるのですが、自分だけで食べる分となると色々と食してみたくなってしまい…」
恥ずかしそうに顔を伏せるシエにはその時の記憶がある。もしも俺が転校生なんて設定でもなければ同じような記憶を持っていただろう。
とはいっても、シエが恥ずかしがっているのは素に思えるが。大食い気にしてたのか?
「食べ終わる度に味の感想言ってくれるからスッゴク参考になるよ。夜凪くんもまた一緒に行こうよ」
「そうだな、付き合うよ。俺もこの街に来たの久しぶりで、憶えてる風景と大分変ってる」
「そうだね、昔は一緒に近所の公園で遊んだりしてたけど、今見るとすごく小さく感じるんじゃないかな。お家とかもどうだった?」
「ん、そうだな。…机は小さく感じた、昔は三人が横並びになって絵を描いたりしてたけど、今やったら並べるのは二人が限界だな」
「小学生の大きさに合った学習机だもんね。私のもそうだけど、言われてみると確かに子供の時と比べたら大分小さくなっちゃってるんだろうなぁ」
体が大きくなれば相対的に周りのものは小さく感じる。かつてできなかったことがふとした拍子に大したことがないものなのだと気づく様に、そこにあるのは自覚の有無だ。
「そうだ、また今度みんなで集まって勉強会しようよ。夜凪くんがどうかは分からないけど、…その、シエは結構ギリギリ……」
「い、いえっ、その様な事は。ただ、数学と歴史と物理化学、英語があまりよろしくないだけで…。そうですっ、体育、美術は及第点以上をいただいております!」
「…それは勉強できない小学生と同じような状況だよ。ううん…、やっぱりシエはやれば出来る子なんだから。今回のテストこそいい点数を取ってもらいます」
「あのぅ、ですがアヤネの勉強のお邪魔をするわけにもいきませんし——」
「じゃあ決まりだな」
「ヨナギ様っ!?」
「そういうことなら教えてもらった方が良いだろ。出来ないよりは出来た方がずっといい」
「ですが私は部活動の助っ人等の依頼をされることもあり、そちらとの兼ね合いも——」
「シエはいつも断ってるでしょ。リアさんを待たせるわけにはいかないーって、それに定期テストの頃は部活やってるところもほとんどないよ」
「ええと、ですが、その…ですがぁ…」
「ハイ決まり。勉強の邪魔になっちゃうって心配なら大丈夫。わたくし皆方彩音、予習復習の効果によって勉強無しでも平均点は取れますので。それに教えると見直しにもなるだろうし」
「そういう事らしいぞ。諦めて頭を働かせてみろ、皆方相手ならおまえも分からない所があっても聞きやすいだろ」
「……はい、努力いたします…」
大きく肩を落とすシエは今まで見たことないくらいに落ち込んでいる。そりゃあシエがやってきたことを鑑みれば槍と料理と掃除がほとんどか。
リアが勉強なんて教えるわけもないし、赤点ギリギリまでは取れてるだけシエなりに努力してる、ってところか。
(けど、そこまで記憶が創られるってのはなんというか流石の一言だな。思い出そうとすればいくらでも出てくるし、矛盾になるようなことも無い。もしもそうなったら書き換えられでもするんだろうな)
周囲をまばらに歩く他の生徒や買い物帰りの主婦、スーツ姿の会社員たちも同じようなモノだ。この世界で皆方が問題なく生きていけるような記憶を持ち、行動をとっている。
皆方が望まない限りは接触することも無いし、まず会話自体起こらない。
ただ穏やかに、『巫女』が安全に生きていける世界、それが『総界』と呼ばれる場所の正体だ。
(よくできてるというべきか、悪趣味とでもいえばいいのか…)
『巫女』を守る為に幸福を与え続けるというのは、平和だが一種の牢獄だろう。そして、その本人は—―。
「——なぎ、くん。よーなーぎーくーんー?」
「…ん、ああどうした」
「それはこっちのセリフ。ぼーっとしてたみたいだけど、どうかした? 大丈夫?」
「大丈夫だよ、ちょっと昔を思い出してただけだ。だから手を額に当てようとしなくていい」
「そっかそっか、それじゃあよかった。引っ越してきてから一週間あったとはいえ環境が変わると疲れるって聞くから。今日から学校だったし」
ほっとしたように笑いながら伸ばしてきていた手をヒラヒラと振っている。
「そこまでやわじゃない。それにそんな素振り見せたらシエが黙っちゃいないさ。すぐさまベッドに放り込まれて重病人みたいな扱いだ」
「あはは、確かに。想像ついちゃうな。なんていうか、心配だけど邪魔になりたくないからって、ドアの前でずっと待機してそう」
「う…」
「ああ、そうかもな」
事実、一度起きたことが無意識化に残っているのか。皆方の的確な状況再現にシエが呻きを上げ頬を染める。うつむきっぱなしの顔はまだ上がりそうにない。
「それにしても勉強会かー、夏休みの宿題やってた時が最後かな?」
「そう、だったか。まぁなんにせよ皆方が頼りだな。後は任せた」
「えー、夜凪くんも一緒に教えるんだよ。サボっちゃいけませんっ」
「逆だ」
「ぎゃく?」
何が逆なのか、きょとんとして首をかしげる皆方はしかし、持ち前の聡明さですぐ仮定に到達したらしい。傾げた首は途中で止まり、グギギと音を立てながらこちらへとぎこちなく向けられる。
「あの…夜凪くん?」
「どうした皆方」
「あんまり覚えてないんだけどね…。小学生の時、勉強できてたっけ?」
「さぁな、そんなガキの頃のこと憶えてないな」
「じゃあ…いまは勉強できるという自信はおありだったり?」
「ない」
「ない?」
「ないな」
「それは自信が?」
「学力が」
「………」
「じゃあシエともども頼むぞ先生、俺は予習復習なんてのはしないし担任はあんな調子だ。頼れるのはお前だけってな。ま、別に赤点とったところでどうでもいいんだが」
「…あ、あはは……。ふふふふ——」
「ああ、アヤネっ。お気を確かに——っ」
両手を頭に当てて悶絶する皆方と元凶その1たるシエ。その2の俺は知らぬ顔して足を進める。正直言えば勉強の事なんてどうでもいいというのもあるが、皆方の性格からしてこんなこと言ってる相手を見れば、そう。
「こ、こうなったらもう仕方ない…っ。テスト前から始めれば何とかなんて言ってられないよっ! 明日から放課後は勉強会を始めます。異論ある人」
「あ、明日からですかっ!? アヤネ、落ち着いてください、一度落ち着けばもっといい時期と言うものが見つかるはずです」
「シエッ!」
「は、ひゃい!!」
「時間は戻らないの、勉強だってそう。今頑張らないでいつ頑張るの? 大丈夫、どうしても外せない用事があれば考慮するから」
「で、ではリア様のマッサージの時間が——!」
「甘やかしすぎちゃダメだからテスト終わるまでは我慢してもらいましょう。もし文句を言われても私が話すから安心して。シエと夜凪くんの勉強時間は守って見せるから」
「……、…よなぎさま、よなぎさまぁ…」
「そんなことで泣くな…、袖を引っ張るな。諦めて受けろ」
「うぅぅ…」
ようやく上げた顔からは涙を流し、本気で嫌そうにするシエの姿。そんなになるのによく今まで学校通ってられたなコイツ。
「夜凪くんもだからね、逃げちゃダメだからね!」
「分かってるよ、仕方ないからちゃんと受けるさ。逆に言うなら皆方が来ない内は手を出するつもり一切ないけど」
「く…っ、この二人手強い…。で、でもいいわ、ええ任せて。立派に平均点を取るくらいに育てあげて見せるから!」
「ぅぅ……べん、きょう……、すうがく……」
メラメラと心を燃やす皆方と、何をも鎮火させる土砂降り模様のシエ。
「ま、そうなるな」
「ん、何か言った夜凪くん」
「いいや何も。あんまりやる気出されると困ったもんだと思っただけだよ」
「ふっふっふ、焚き付けたこと後悔…させちゃダメか。やるからには苦手意識をなくせるようにしないとだし」
「その調子だセンセ、こりゃあ俺も教えがいのある生徒らしく頭空っぽにしとかないとな」
「…その理論で行くなら教えたことをちゃんと覚えるようにしてね、もうっ」
「その割には嬉しそうに見えるけどな」
「え? そうかなぁー?」
「隠すつもりあるなら口元戻せよ、にやけてる」
「しょんなことありましぇーん、これはちょっと寒さでかじかんでるんでーす」
「はっ、そうか。ならさらに寒くなる前に早く帰らないとな。シエ、いつまでも落ち込んでないで帰るぞ」
肩にかけた鞄を担ぎ直して背後でブツブツ言ってるシエに目を向けると、適当に取り出した教科書とにらめっこを始めていた。
「……水兵利伊部…とは…? 原子記号を発見した歴史上の偉人でしょうか……?」
「道のりは険しそうだぞ」
「頑張ります…はい」
事の重大さを目の前で見せつけられた皆方は決心を新たにしつつも不安さが増していた。具体的に言うとこめかみのあたりがピクピクしている。
「ちなみに聞くんだが」
「うん? どうしたの?」
「その水兵ってやつは何をしたヤツなんだ?」
「——————」
「皆方? どうした」
気を取り直した笑顔は凍り付き、こっちを向いたまま固まっている。なるほど、水兵とやらが人間じゃないことは俺でも分かった。
「………しで行きます」
「アヤネ? 今なんと?」
「…手加減なしで、行きます」
「え?!」
「もう余裕なんてないよ!? 高校生になってここまでとはみんなが予想外だよ! 今のままじゃ平均点とか夢のまた夢だからね!?」
わなわなと手を震わせた皆方は勢いよく俺たちに向き直ると現状戦力を力説、曰く壊滅寸前。手遅れになって数か年。
「…でも何とかしてみせるね。私じゃ赤点脱出が限界かもしれないけど、頑張るからねっ!」
「はいぃぃ……」
ガシっと両手を掴まれたシエはもう涙を拭うこともできずただただ自然に任せている。見方によってはいじめ現場だな。
「ぜったい、ずぇえぇぇったいに赤点は脱出させるからね! もう手は選んでられないからね!」
さっきまで苦手意識がどうのと言っていた優しい先生の面影は何処にいったのか。教育ママとでもいうような熱情を放出している。
「…うん、こうなったら私も時間無いかな。ゴメン二人とも、もっとお話ししてたいけど今日はここでお別れするね」
「どっか行くのか?」
「うん、ちょっと図書館行って、二人に教えるのにちょうどいい本とか探してみる。早く行かないと閉まっちゃうし。明日までに準備しとかないとねっ!」
「ああ、気を付けろよ。何かあれば家まで連絡しろ。すぐ向かうから」
「ありがと夜凪くん、それじゃあシエも心の準備をしておくよーに」
「は、はい…っ、全霊を尽くして…心を落ち着かせておきます。はい…」
諦観という意味では既に落ち着いているような気もするが、今日はシエにとって眠れない日となるのは間違いない。
「あはは、それじゃあ二人とも、また明日!」
別れの挨拶をして、皆方は図書館へ向かって走っていった。その背は文句を言いつつも楽しそうで、駆ける姿は弾むようだった。
「シエ」
「…はい」
「護衛頼む、俺は結界でも仕込んでくる」
「…はっ!? そうでした、お任せください!」
「見つかるなよ」
「決して!」
そうしてシエは一跳びで姿を消した。今頃屋根伝いに皆方を追ってくれている。
大物が侵入してこようものなら俺にも分るし、それ以下の雑魚相手ならシエ一人で事足りる。俺は俺でこれからの準備を済ませておかないといけない。
「……これでいいか、なんて。誰にも分からないか」
「そうだ、吾にも分らぬ。何故伝えない?」
「…神出鬼没だな、話すなら歩きながらでいいな。晩飯までには終わらせたい」
「好きにせよ。逃がしはせん」
「誰がどこに逃げられるって? まあいいさ、勝手にしてろ」
あの女のことだ。今も俺の心臓か頭を撃ち抜こうと狙ってるんだろうさ。その腕前も、やらない理由が無ければ迷いなく実行する胆力も間違いない。
「それでだ、なにゆえ『巫女』の記憶を戻さない。リアであれば可能であろうに」
「俺が止めさせた、今回は必要ない。わざわざ記憶を戻しても混乱するだけだ。それに——」
「知られたくないか?」
「……、ああそうだよ。アイツに隠しておきたいことなんていくらでもある。そんなことを言いに来たのか? わざわざごくろうなこった」
「なに、守護者殿は腹を決めかねておるように見えたのでな。老婆心というやつに過ぎぬ。お主の決めたことに常文句を言っておってはそれだけで吾の寿命が無駄となる」
「ぬかしてろ。…『四方展開』」
路地を抜け、街の外縁部へ。”前回“はシエが手伝ってくれていたが、今は『倶利伽羅』がある。シエの領域条件もユーリとの戦いで学んだ。似たような術式を刻むことは問題ない。
それに、今回は数をつくっておく時間も無ければ必要もない。必要最低限、数より質で、ナイギに消されたりしないよう強力なものをだ。
「のうヨナギよ、巫女に危害が及ばねば何も言いはせぬ。何度も口にしたことで、何度も裏切られてきた言葉よ。だがもはや時間はない、機会も数えるほど。これより起こる全ての事柄を完璧に乗り越えねば勝利はない。だというのに——」
「危険分子を残してるのは分かってる。何かの拍子に皆方が記憶を戻す可能性だってあるわけだからな。けどそんなことは今までだって抱え続けてた問題だ。状況が特別だからって全部を全部特別扱いしてたらキリがない」
少なくとも、俺に残った朧気な記憶の中で、皆方が過去の記憶を取り戻したことはただの一度も無い。
「ならば問題なしと? 笑わせる。奇跡でも起こさねばナイギの打倒など叶わぬというのに。手の内では奇跡が起こるはずがないという。これはまた希望的観測というのではないのか?」
「だろうな、だがお前の口車には乗らん。“巫女”だからじゃなく“皆方”を守ってるんだ」
「ふん、いつまでそのようなことを口にするのか。自覚がないわけではあるまいに。哀れよの、ヨナギ。見ておれぬとはまさにこのこと。この場で引き金を引くことこそがお主への礼儀に思えてならん」
「そうなれば交渉決裂だな」
「ふんっ、お主に契約を蹴ることはできぬであろうに。どう足掻いたところで”皆方彩音“を守ることがお主の目的への最大の近道なのだから」
何を馬鹿なことを、そう笑う女の声。
だが、忘れることは許されない。
俺とお前の契約は、対等の条件であったからこそ結ぶに至ったのだということを。
「それはお前もだろう、ナイギの犬」
「——その名を、口にしたか?」
「どうした、誰に聞かれてるわけでもない、随分な反応じゃないか?」
「貴様——っ!」
「忘れるな『イユラ』、俺とお前は一蓮托生だ。どうやってもこれは変えられない現実である以上、やり遂げるしかないんだよ…。……その中に、皆方を巻き込みたくないんだ。例え、最期に全て知ることになるのだとしても。それまでは——」
「幸福であってほしい、と? だがそれは大きなお世話と言うものであろう。皆方彩音が望んだ接し方ではない。ヨナギ、お主はあの子に背を向け、目を合わせることも無く護ると口にするのか」
「そうだ…ッ、それが、アイツを護ることに繋げられるのなら、俺はいくらでも裏切ってみせる。いくらでも傷ついてやる。そうやって、これまでやってきたんだ。嘘にはしない、アイツの涙を、叫びを、苦しむ姿を、無かったことにはしない——ッ!」
数多の世界を超えても鮮明に思い出すことのできる、血に塗れた彼女の姿。
その悲劇を、終わらせるためならば。俺は——。
「お主は…。実に哀れだ、吾の知る何よりも、何者よりも」
此方に向けられていた殺意が霧散する。鏃の狙いは外されたらしい。
ただ話しをするたびに命を狙われていてはそれこそ話にならない。それにイユラの姿を最後に見たのはいつだったか。思い出そうにも既に忘却の彼方だ。
「お前も、人のことは言えないだろう。いや、お互い様か」
「吾をお主と同じにするな。すべきことは決めておる。そしてヨナギ、此度は別に用があったわけではない。お主等の姿が目に入ったから話に来た程度のことだ。……だが、今の話で一つ聞いておきたいことができた」
「なんだ」
「“アイツ”、とは、どちらのことだ?」
「——、…お前が知る必要はない。やるべきことは、分かってる」
「………そうか。なら、よい。お主が敵に回らないように、思うくらいはしておこう。頭の片隅でな」
イユラの気配が消える。
残されたのは冬の匂いが混じり始めた秋風と、夜に沈み始めた俺だけ。
言いたいことだけ言って姿を消すのはいつものことだが、今回は気を使ってくれたと考えるべきか。口調は偉そうなクセして中身はどうだろうな。
「…いや、アイツにそうさせてる時点で俺がどうしようもない」
イユラの質問に答えられなかった時点で、俺に問題があるのは一目瞭然だ。アイツと話すたび、自分が見ないようにしている部分から逃げていることを自覚させられる。
そのつもりで話しているわけじゃないんだろうが、自覚した以上向き合わなきゃいけない。逃げているような奴が、誰かを護るなんて出来るわけないだろうから。
「まずは、…これを終わらせないとな」
残りは二つ。日が落ちるまでには終わらなかったが、そう時間もかからない。
やるべきことは目の前に置いておけ。
為すべきことから逃げてしまわないように立ち続けて、歩き続けていなければ倒れてしまいそうだから。
「いや——、俺は負けない。倒れたりしない。ナイギは…必ず斃してみせる」
そして“アイツ”を——。
「………っ」
……皆方を、巫女を護ってみせる。
その言葉は決意か呪いか。
いつかは分かっていたのかもしれないが、もう判別できないほどに擦り切れてしまったかのようで。ゆえに進むしかなくなっている。
もう、彼女に失わせたりしないよう、悲しませてしまわぬように。
夕焼け空が夜に染まる中、少年は前を見据え、上り始めた月に向かって一歩を踏み出した。
・学力について
皆方:優等生
夜凪:赤点一歩手前(学生を繰り返す中で何度も授業を受けてきたので、必要最低限だけは覚えた)
シエ:非常に苦手(幼少期から家事くらいしかしてこなかったため。簡単な計算や読み書きはリアが教えていた。理数科目が特に苦手)
リア:なんとなく大体できる。(専門的な分野は分からない)
・イユラ
これまで謎の女性でしかなかった彼女ですが、二章からは出番も増えます。
過去より今まで夜凪を影から助けたり助けなかったりしてきた仲なので、お互い腐れ縁に近い関係です。また、以前も記載したかもしれませんが、イユラは夜凪が嫌いです。




