38.目覚める②
時計の針が九時を回りかけた時、女子会は終わりを告げた。
なんたって、待ち人が来ないのだから仕方ない。ソワソワと落ち着きの無かった彼女も今日の所は諦めがつくと言うものか。
「それじゃ、今日はお邪魔しました」
「ハイ、また明日ですねアヤネ」
「それじゃあね、でもいいのかい? あの子が来るまでいてもいいのに」
「いえいえ、あんまり遅い時間まで待っててもみんなに悪いですから。久しぶりに会いたい気持ちはありますけど、焦っちゃって勝手に気疲れしちゃいました。あはは」
「そっか、じゃあまたね。遅れてるけどそう遠くない内には来るはずさ」
「はい、じゃあ今日はありがとうございました」
ペコリと頭を下げて玄関ドアへ手を掛ける彩音を追うように、サンダルをはいたシエが一緒にドアをくぐる。
「夜も遅いですし家までお送りします」
「もう、シエったら。私の家は隣だよ? 五十メートルも離れてないのに大げさだよー」
「あ…、そうですね。失礼しました、なにやら…、勘違いをしてしまったようです」
「変なの、ちっちゃい時からずっとお隣さんなのにね」
「……はい、そうですね。アヤネ」
「ふふ、どうやらシエは心配性が過ぎて変な夢でも見ちゃったみたいだ。彩音も家に戻って安心させてあげて欲しいな」
「リア様…」
シエの背後から、誤魔化しきれない程度に落とし込んだ肩に手を置く。ピクリといった反応が手の平から伝わってくるが、彩音はそこまで気づかなかった。
「今日はお昼だけじゃなくって晩御飯までありがとうね。また今度お礼に何か奢らせて。それじゃあまた明日…——きゃっ」
こちらに手を振りながら庭先を出たところで彩音は何かにぶつかった。少したたらを踏んだみたいだけど、ぶつかった相手が支えてくれたみたいで怪我は無いだろう。
「イタタ…あ、すみません。ちゃんと前を見れてなかったみたいで——」
「そうだな。……おっちょこちょいなのは、……子供の頃から変わってないみたいだ」
「え…? もしかして…夜凪、くん?」
「…ああ、“また会えたな”、皆方」
「———うん!」
こちらから彩音の顔は隠れていて見えないけど、弾むような声からして満面の笑みなのは想像に難くない。
まるで夏の日のひまわりの様な笑顔。だけど向けられた少年の方からは鬱然たる心境が微かに漏れ出ていたように思えた。
「あ…ああ……、ヨナギ様……! お元気ですか!? どこにもお怪我は?!」
「五体満足そうで何より。遅かったね、ここに来るのが久しぶりすぎて、てっきり道にでも迷ったんじゃないかと思ってたよ」
「憶えてる、問題ないさ。この街の中なら数えきれないくらい歩き回ったんだ」
二人でヨナへと近づき、結果美少女三人に囲まれる少年という図式が出来上がった。ヨナの方はもう慣れっことでもいうように意に介していないけど、これってかなり羨ましがられる光景だよ?
「もうっ夜凪くんったら、あと十分くらい早く帰ってきてくれてたらもうちょっとお話しできたのにっ」
「なんだ、帰る所だったのか。つってもお前の家は…隣だろ、時間なんてそこまで気にしなくても問題はないと思うんだが」
ちらりと、明かりのない皆方家に目を向けているけど確かにそうだと思う。今回の彩音も実質独り暮らしだ。両親は、なんだったかな。海外出張だったっけ?
まぁそんなわけで、彩音は寝る時間さえ気を付ければ別に家に居てもいなくても問題ない。怒ってくる相手もいないし、ワタシも彩音が家に居て怒るようなことも無いし。
「それはそうかもしれないけど…、ううん今日はやっぱりやめとくね。親しき中にも礼儀あり、ってね。長居しちゃっても悪いし、せっかく夜凪くんが帰ってきたのに私ばかり話してたらシエとリアさんに申し訳ないよ」
「わかった。じゃあそのお言葉に甘える。それに俺も今日明日で荷物の整理しなきゃならないから、ちょっと忙しかったんだ」
「そっか、うん分かった。学校もその内来るんだよね」
「ああ、その制服のところだ。一週間もすれば通い始める」
「おっけー。ふふっ、また夜凪くんと同じ学校通えるだなんてなんだか夢みた——、ああいけいないけない、また長くなっちゃう。それじゃ、今度こそおやすみなさい。シエ、また遊びに来させてもらうね」
「…ハっ、はい。いつでもいらしてください。私もリア様も、いついかなる時でも歓迎いたしますので」
「そういうこと、だから今度は美味しいお菓子なんかあると嬉しいな」
「アハハ…、検討します。ではっ」
道路に出るまでもなく、家の敷地を分ける柵を乗り越えて自分の家に帰っていく。完全に家に入るまではひらひらと振られた手が覗いていた。
その後すぐ明かりが灯る。きっとお風呂にでも入って今日は寝てしまうのだろう。ま、ヨナのことで頭がいっぱいになってそれどころじゃないかもだけど。
「戻った」
「うん」
「ヨナギ様! ご無事で、…ご無事で本当に良かったです……!」
「シエのおかげだ。そっちも怪我は引き継いでなさそうで本当に良かった」
瞳に涙を浮かべながらヨナに駆け寄るシエは泣き出す寸前、ヨナが優しく頭を撫でてあげるともうダムは決壊。嬉しさのあまり、ぐすぐすと声を上げながら泣き出した。
「渡すタイミングが良かったのさ。大分ギリギリだったけど、結果としては良かったみたいだね。それとシエ、一旦家に戻ろう? ここじゃその綺麗な涙もちゃんと拭いてあげられない」
「…ひっく、ぐす…っ、はい、リアざば…」
「ふふふ、もう顔がぐしゃぐしゃだよ。こんなにも可愛い子を泣かせちゃうだなんてヨナも罪作りだね」
「言ってろ。ほら中に入るんだろ、俺も腰を落ち着けたい」
落ち着き始めたシエの肩に手を添えて玄関をくぐる。ワタシの記憶が正しければ、ヨナはこの家に足を踏み入れるのは初めてのはずだけれど、勝手知ったる我が家というようにズンズン進んで行った。
シエはシエで涙を浮かべながらも気を持ち直すと、出迎えのお茶を淹れねばならないといってキッチンで全力を振るっている。
何をするでもなくリビングに残されたワタシたちはというと、いつものようにソファに身体を預けながらヨナに質問。
「慣れてるね、ここに来るのは初めてのはずだけどワタシの記憶違いだったかな。それとも“昔の記憶”が盛り込まれてる?」
「そうだな。“今回”、俺はガキの頃ここに住んでたらしい。まあ住んでたっていう知識しかないんだが。っていうかその記憶は俺たち全員が同じはずだろ」
「ワタシとシエは初めてだから許してほしいな。ヨナのおかげで何となく把握はしていたけど、実際に身をもって体験してみるとまた違う感覚に襲われるのさ。世界が創りなおされるといつもこうなのかい?」
ワタシはヨナに世界の崩壊と創造、狭間の世界において能力を一部移譲している。おかげでこちらに来た時よりも客観的視点が揺らいでいる。
完全にワタシの『四方界』を移譲してしまっていたなら、この家に昔から住んでいたと何の疑いもなく信じていただろう。
「ふぅ、困ったね。状況としては間違いなく進んでいるのにワタシの認識能力がどんどん落ちていってるんだ。これじゃヨナの頑張りを見ても忘れちゃうよ」
「別に、お前が覚えている必要は無いだろ」
「えぇ~もったいない。ヨナが頑張ってる姿を見せてくれればいくらでも褒めてあげるのに。そうそう、前回はユーリを倒したんだ、ほら頭を撫でてあげよう。それともぎゅーってしてほしい?」
「おまえなぁ」
両手を広げて飛び込んでくるのを待ってみるけど、ヨナは呆れたような顔してやっぱり来てくれない。恥ずかしがりやなんだからもう。
でも、落ち着いた表情を目の前で見ることができたからワタシのほうもなんだか落ち着いてしまう。
「……なんだ」
「なにが?」
「顔が近い」
「そうかな、別に普通だと思うけど」
「おまえの言う普通っていうのは、身体をのけぞらせてる相手に覆いかぶさるくらいしてることを言うのか?」
ヨナはワタシの顔から避けるようにソファの上で横になっている。当然、追いかけてる側のワタシとしては覆いかぶさるような姿勢になるわけで。
流れた髪はカーテンのように、ワタシたち二人を外界から隔離して特別な世界をつくってしまったかのようだった。
鼻息さえも伝わる近さで見つめ合う。
「———」
その時、彼の右目とワタシの左目が、重なり合うように見つめ合った。ただ、それだけのことだったのだけど——。
「ま、今回はいっか」
「ん、どうした? いつもならここから何かしらからかってくるくせして」
「んー、ヨナがしてほしいって言うならそれでもいいんだけどね。なんだかそういう気分じゃなくなっちゃった」
惜しむようにすりすりとヨナの右瞼を親指でくすぐってあげると、考えが伝わったのかその手を取って優しく握ってくれた。
「なら、また今度にしとけ。偶には真面目なのも悪くないだろ」
「ん、そうする。………ぎゅー!」
「が…っ、おまえな…」
ヨナの胸に頭を押し付ける。ヨナも不意を突かれたのかダメージを受けていたけど、これくらいはさせてほしいな。ふふっ、呆れてる顔も可愛いからね。
「どうぞこちらを、熱いのでお気を付けください」
準備が整ったのか、落ち着いたシエが机に三人分のお茶を並べてくれた。
ソファから移動して三人そろって机を囲むと、ちゃんと生きている二人のことを愛おしく思う。
「ありがとう、シエが元気そうでよかった」
「それはヨナギ様もです。…最後に方陣を描いたあとのことは何も覚えていなかったので…。リア様から無事であるということはお聞きしておりましたが、この目でお姿を見るまではやはり心配で…」
「むぅ、シエったらワタシの言うことを信じてくれてないんだね…。ワタシ、悲しい」
「アワワワ…っ、違うのですリア様、そういう事では一切なくてですねっ、もちろんリア様の仰ることを疑うようなことはありません。た、ただ実際に目にすることの安心感は精神的に大きな部分を占めるので…」
「はあ…、あんまりからかうなよリア。さっきまで泣いてたくらいだぞ」
「ゴメンゴメン、じゃあ改めて。ヨナ、無事でいてくれてよかった。今日ここに来るっていう記憶はあったにせよ、ワタシだってちょっとばかり不安だったんだよ?」
「そうか、悪かったな。心配かけたみたいで。お前のおかげでもあるからな」
記憶があった。いや知識というべきかな。
不思議なことにワタシもシエも、生まれてから今日ここに至るまで、この街で生きてきた記憶らしきものが存在している。
おかしなことだ。ずっとここにいるヨナはともかく、ワタシたちはこの世界に足を踏み入れたのは“前回の世界”からなのだから。当然赤ん坊のころからここに居るわけもない。
口にすると陳腐になってしまうからあまり具体的にいうのは好ましくないのだけれど、言ってしまうと、『この世界は何度も繰り返されている』。
いいや、厳密に言うならば何度も創りなおされている。
「そのことは『纏界』にいた時から知識としても、ヨナの瞳を通してでも把握していたつもりだったけど、体験するとスゴイものだね。対策が無ければありえないはずの記憶で染め上げられる」
「ハイ、私もリア様に指摘されるまではこの街で生まれ、生きてきたと思い込んでいました。“今回の世界”が一体いつから始まっていたのか、虚構の記憶と目覚めてからの繫ぎ目さえも分からないほど自然です」
「シエは仕方ないか。むしろ指摘されただけで記憶が戻ったなら御の字だ。
一応言っておくと“今回”が始まったのは四日前だ。創りなおされた世界での初日は、昔の夢を見るから間違いない」
シエはワタシたち二人と違って、世界が創りなおされる時の対応策を持っていない。
ワタシはヨナに『四方界』の一部を移譲していて、その力によって大まかにヨナの状況を把握していたし、今も本来の記憶を失わないでいる。
ただ、それも完全じゃない。
世界が創りなおされる狭間の空間において、ヨナには元々与えていた『四方界』へとさらに上乗せして移譲してしまった。都合半分の『四方界』をヨナへと与えている。
ヨナはヨナで別の方法で記憶を失わないでいるけど、それはちょっと私にはマネできないので割愛。今はシエのことだ。
「聖槍を返しただろう? ならその効果かもしれないね。あの槍はシエを何ものからも護り続けてくれていたから」
「そうかもしれません。…アレこそヨナギ様から頂いたものの中でも最上の優しさです。あの槍があったからこそ私は死なず、今もこうして生きていられるのですから」
「とはいえ、ユーリが手を抜いてくれてたのも理由なのは大きいけどな。最初から全力出来てれば負けは無かったろうに」
「それはあり得ません。ヨナギ様が勝利します」
「いや、流石にユーリ倒すのには今の倶利伽羅だけじゃ厳しい。シエから槍を受け取らなかったら正面から打ち破ることなんて——」
「たとえそれでもヨナギ様の勝利は揺るぎません。ヨナギ様があの程度の男に負けることなどぜぇっっ…たいにありえませんから!」
「あ、そっか……。そりゃあ、ありがとう…な?」
「ハイっ!」
本心からの信頼を笑顔に変えて、華のように笑うシエは嘘偽りなくそうなっていたと思っているんだろう。
「ふふっ、どんな戦いが繰り広げられてたのか、なんとなくわかったかもしれない」
「いうなよ、シエのユーリ嫌いは筋金入りだ」
同じ男として思うところがあるのか、ヨナの顔は複雑そうだ。そもシエが他人の悪口を言うだなんてこと自体まずないのだからそれも込みかな?
「そ、そんなことじゃなくってだな。大事なのは”今回“のことだろ」
「とはいえ、戦力差的に何か変わってるわけでもないからね。レイガンに勘づかれた分、厄介な状況になったといってもいいかもだ」
「そのことならもうなってる。今日までの四日間、ナイギの連中がコソコソ動き回ってたからな。街の結界張り直すついでに潰して回ってた」
「へぇ、流石遊びのない人だ。目的があればどこまでも、だね。あーあ、ユーリが来てたからもう来ないと思ってたんだけどなぁ」
「俺もそう思ってたんだが、いつも通りってとこだよ。やっぱり二人が来たことで色々動き出したって見るべきだな。ナイギもナイギで余裕がなくなって来てる。ただ向こうは完全な“前回の記憶”を持ってないから、ほぼ直感だろうさ。それで侵攻かけられるのはどうかと思うが」
「ナイギ…やはり恐ろしい相手です。だからこそここまで戦い続けてこられているのでしょうが」
これまで様子見程度にしか仕掛けてこなかった相手が、前世の記憶的な曖昧さのみで全力を出し始めているのだ。冷静に考えればどうかしてる。
炉端の占い師が口にした些細なアドバイス、それを一分の遊びなくこなし始める人間なんてそうはいない。それも実際は夢に見た程度の予感なのだ、やけに現実味のある内容だったのだとしてもありえない。
「ま、それは追々考えよう。こちらとしても迎え撃つことしかできないのだからね。いつでも戦うことのできる準備だけはしておく、ということで。
今の最重要事項は、というか常に最重要事項なのだけど。彩音のことはどうするの?
あの子に“前回の記憶”はない。ワタシなら思い出させることはできるかもしれないけど、…やる?」
「………」
ここ数日、彩音の姿を見ていて実感したのは『彩音は何一つ前回までの記憶がない』ということ。今日ここに至るまで、彼女とワタシたちは隣の家に住む仲の良いお隣さんであり、シエとは同い年の幼馴染らしい。
「ヨナギ様は確か…」
「昔よく遊んでたけど引っ越しがあって離れ離れになった幼馴染、成長して街に帰ってきたところで再会するってとこだ。何もなければ来週からは学校に通い始めることになる」
「なるほど、確かに私たちの記憶とも合致します。それにしても話にはお聞きしていましたが、体験するとなるとにわかには信じられません。本当に——」
「この世界は巫女の為に存在するってことだね。巫女を守るため、願いを叶えるために色々と動いてる。むしろ逆だったりするのかもだけど」
この世界、『総界』なんて大層な名前が付けられていたけど確かに間違ってないかもしれない。ナイギの侵攻やラゥルトナーの接触が無ければ、いやあったとしても、この場所では巫女が総ての中心だ。
何が起ころうとも巫女の望むように回るようになっている。例え何かあったとしても、今のように世界が創りなおされて記憶から何からやり直し。
彩音も前回のことは何一つ覚えてないし、ワタシたちのように世界の再構成に巻き込まれると記憶も新しい世界に合わせて書き換えられる。
ナイギの襲来が無ければ日々平穏、何事もなく平和な世界が続いていくのだ。
「うん、よくできてる」
「言ってる場合か。ナイギを潰しきるまでは続くんだぞ」
「だからそろそろ終わらせたいねー。私としてはみんな幸せならそれでいいのにーって思うけど、ナイギ的にはそうも言ってられないよねぇ」
遠い過去、巫女により地の底に押し込められ、穢れを一身に押し付けられた彼等の怒りは計り知れない。積もり積もった分、一過性の怒りよりもタチが悪い。
話し合いなんて選択肢はとうの昔にすり切れてしまった。
「だからまず、彩音の記憶を戻すかどうか。まぁ成功するかどうかは怪しいんだけど」
そして、これまでヨナができなかったこと。ワタシなら出来るかもしれないこと。
新しい世界で平穏を生きる彩音を、再び戦火に巻き込むかどうか。
「前の場合レギオンやヌイちゃんだったっけ? 彼等のせいでバレてしまったのもあって、知っていた方が対応取れるっていうことで『四方界』含め教えたけど、その記憶も消えてしまっているからね。日々是平穏、完全なものとは言えないけど苦しみはマシになるかもしれない」
知らなければならないこと、知らずにいても何とかなること。
前回は覚悟を持つために前者を選ぶ必要があったけど、今回の普通の少女となった彩音にもう一度重責を背負わせる必要があるのかどうか。
そして、その選択をするというのなら選ぶのは彼だけだろう。
「どうする? ヨナ」
「………」
「ヨナギ様…」
誰よりも彩音の傍に居続けて、何度も世界の終わりと始まりを繰り返してきたのだから。数えるのも馬鹿らしいくらいの回数を苦しみながら、それでもここで彩音を守る為に戦い続けている彼の想いを、ワタシは何より尊重すべきだと思った。
「…俺は、——」
これまで一度も前回の記憶を戻すなんてできなかったヨナにとって、この選択は辛いものだ。仮に記憶を戻すことができたとして、彩音はその事実を受け入れられるのだろうか。
巫女なんて大仰な立場を押し付けられている一人の少女に対して、護り切れなかったという事実、死を体験したという現実を突きつけることになる。…それは覚悟を持つと決めていたとしても到底受け入れることは難しい。
そしてヨナ自身、記憶を戻すことが苦しむことに繋がる。無数に繰り返された世界において、ヨナと彩音は目覚める度に新しい関係性を構築し直してきたはずだ。
“前回の彩音”の記憶で上書きするということは、“今回の彩音”の人格を消し去ることになる。それは、護るべき相手を否定することに他ならない。
存在自体消え去ってしまった“無数の彼女達”の悲劇を、無かったことにしてしまうことと同様なのではないか?
きっと、そんな風に考えているんだ。護るべき相手は初めから変わることなくただ一人だというのに、積み重ねてきた悲劇が鎖となってヨナの心を縛り付けている。
「………」
だからヨナの言葉は詰まり、その瞳は仄かに揺らいでいる。
「ま、時間はないけど今すぐに決めるのは———」
「——いや、もう迷ってなんていられない」
だけどそれはほんの一瞬、まばたきの瞬間にはもう迷いを捨て去っていた。
「———ヨナ…」
辛いだろう、苦しいだろう。
前回の、ワタシたちが知る彩音は死んだのだと受け入れるのか。今回の普通の少女となった彩音を否定するのか。どちらにしても人格の消失は免れないのだから。
ヨナにとって、ワタシたちにとっての大事な友人であり仲間がいなくなってしまう。そのことを一番良く分かっているヨナが決めた覚悟は、あまりにも悲痛さを孕んでいた。
冷たい空気が部屋を覆う中では、口をつけていななかったティーカップから湯気は消えていた。
空気を揺らす振動は彼の口から放たれる言葉のみであり、孕んだ覚悟はあまりに冷たい。けれど、苦しみながら彼が選んだ選択なら。
「ワタシは、ヨナの選んだ道ならどこまででも付いて行ってあげるよ。だから、教えてほしいな」
「…ああ——、だからリア、それにシエ、…頼みがある」
真っすぐ、揺らぐことの無い瞳をワタシたちに向けて、ヨナが選んだ選択は———。
□ □ □
——結論から言うと、ワタシたちはヨナの選択を受け入れた。
どちらにせよ苦しい思いをするのは変わらない以上、方針を決めた後のことが重要だ。そして、決まった以上はそちらに向けて邁進するしかない。
シエに冷めきったお茶を淹れ直してもらい、今度こそ三人での一家団欒を楽しむ余裕が生まれていた。
「それにしても…、一軒家になってるのは前回の影響か?」
「? どういう事でしょうか。確かに住居の環境は変わっておりますが、ヨナギ様とより近くに住んでいたいという想いからではないのでしょうか」
「それならマンションでも隣の部屋になってることにすればいい。別に今だって、独り暮らしなのは変わらないんだ。わざわざ一軒家にこだわる理由もないだろ」
「ほら、彩音も階段を上り下りするのが大変だったんじゃない? あの部屋結構高い位置だったからねー」
「そんなもんエレベーターついてたんだから気にすることない。ただ、理由があるなら、部屋の位置っていうのは多分正解だ」
「どういう事でしょうか。上り下りでなければ…実は高いところが怖かった、ということでしょうか?」
「別にそんなことは無かったと思うよ。二人がユーリと戦ってる時もベランダから応援してたからね。高所恐怖症ならまともに立ってられない」
「ふぅむ…、アヤネが高いところを嫌がる理由、ですか……」
考え込むシエを横目にヨナがため息をつくと、お茶を一口。
「シエが分からないのは仕方ない。あの時に生きてられたのが奇跡的だったくらいだ。まあ…、十中八九リアのせいだな」
「え、ワタシ?」
「ベランダから落としただろ、皆方を。忘れてくれててよかったな」
「あぁー…。なら仕方ない、かなぁ…」
「………」
「……」
十数秒、二人してお茶を飲む音のみが静まり切った部屋に木霊し、その静寂を誤魔化そうとするかのようにワザと音を立ててお茶を飲んでいる。
「———、……? ………、ん———ッ?! あ、あの……、お…っ落とした…とは…!? アヤネを、ですか。リア様がっ!?」
もうしばらくこのままだろうかと思い始めた矢先、それまで止まっていたシエが状況を把握したのか、勢いよく立ち上がりワタシに向かって疑問を投げかけてきた。
「あーー…、ハハハ……、ちょっと…そうでもしないとマズかったものだからさぁ……」
「そうだよな、シエが知ってるはずもなかったか。話しておかなかったのか?」
「さすがに言えないよ。ただでさえ彩音に酷いことをしてしまったのに、その上シエにまで嫌われちゃったら立ち直れなくなっちゃうから、さ」
立ち上がっていたシエも数呼吸の後落ち着きを取り戻してくれたのか、ゆっくりと座り直す。
「リア様のことなら理由があったのは当然です、…ですがやはり一言おっしゃっていただけないというのは信頼して、いただけていないのではないのかと…私自身不安となってしまいます……」
「ご、ゴメンナサイ…。今後は何かあればシエにちゃんとツタエルヨウニシマス」
「よろしくお願いしますリア様。私もその信頼に応えられるよう、全身全霊期待に応えられるよう努力いたしますので」
「ありがとう、シエ。キミのような子が従者として育ってくれて本当に嬉しいよ。うん、こういうこともちゃんと伝えないとね」
「リア様…っ」
「シエ…っ!」
感極まって、さっきとはまた違う涙を浮かべるシエと真正面から抱きしめあう。全身を包む温もりを堪能していると、横から冷たい視線が飛んできた。
「……? どうしたんだいヨナ、混ざりたいならそういえばいいのに」
「ばか。ったく、お前もお前で変わらない」
「あっ、ヨナギ様どちらへ…っ」
「風呂だよ。…一応言っとくけど追いかけてくるなよ」
「それは所謂……フリ?」
「お任せください、お背中お流しします!」
「お前らな……。はぁ…、もしも入ってきたら日が昇る前に家から出て行く」
「そ、そんなっ!? いけませんリア様、ヨナギ様はどうやら本気のようですっ」
「えぇ~いいじゃないか~、昔はよく一緒に入っていたし、いまさらだろう?」
「いつの話だよ。あの頃だってお前が勝手に入って来てただけだ。俺から誘った事なんて一度もない」
「そうだよねー、ヨナが誘ってたのはシエの方だもんねー」
「それは、入れって言って放っておいたら、呼ばれるまで出てこないわ風呂底に沈んでるわで仕方なくだろう。第一、同じ女のお前が面倒見てればああはならなかった」
「だってシエったらワタシじゃなくてヨナにべったりだったもの。話しかけてもすぐヨナの背中に隠れちゃうし」
「あれはお前がいっつも変な虫とか持って近づいてたからだろ。それもわざわざ、ビクビクしてるシエの背後から近づいてだ」
「いやぁ、驚くシエの姿が可愛かったらかつい。懐かしいなぁ…」
「も、もう…っ——。も、もうおやめ下さい…、その…昔の話はとても恥ずかしく……」
シエは頭の先からつま先まで真っ赤に染まっていて、湯気が出る寸前といったところ。外に出れば涼しいからもしかしたら目視もできるかも。
「そういうことだ、俺は風呂に行くから。もう遅い時間だし続きは明日だな」
「え? ああホントだ。ヨナが戻って来てからまだ少ししか経ってないかと思ってた」
時計を見ると、経過した時間は想像よりもずっと先に進んでいた。いつもならそろそろ寝ようかと動き始めるころ。
「いや、っていうかそれなら二人もまだはいってないのか。先に入るなら譲るけど」
ヨナが戻ってくるまではワタシたちも彩音とずっと話していたから、まだはいってはない。でも、そうだなぁ。
「やっぱり一緒に入るのが一番早いんじゃ——」
「いってくる」
「ヨナギ様、あとでタオルだけ置いておきますのでお使いくださいね」
「ああ、いっちゃった」
案の定最後まで聞かずに行ってしまった。うぅん、良い案だと思っているのだけどヨナはずいぶんとお固く育っちゃったな。まぁ、もとよりはずっと柔らかくなってるけど。
「じゃ、ワタシはヨナとシエが洗い終わるまでゆっくりしてようかな。シエは明日も学校なわけだし」
「そのような、私は問題ありませんのでリア様からお入りくださいっ!」
おっと、コチラにもお固く育った子が一人。体は柔らかいのにもったいない。
さて、お固いながらに真っすぐなこの子の主として、ちゃんと説き伏せないとね。
「ふっふっふ」
「り、リア様…? そ、その手の動きは一体…? な、な、な…ひゃぁああーー!?」
夜に響くシエの声はきっと彩音にも届いているだろうけど、その説明はシエに任せておこう。今はただシエの身体に主に歯向かうことの愚かしさを教え込まなくては!
「——あハハハっ! いけ、いけまひぇんヒアしゃま…! くすぐ…っ、のおやめくだしゃい! ヒっハハハ———!!」
ただくすぐっているだけなのに非常に楽しい。これは、何かに目覚めるかもしれない。
「うーん可愛い、……ヨナが上がるまでやろうかな…」
「うぇ!? リア様それは厳し、アヒャハハ——、も、もういけま…はハハ——!」
笑い声の響く中、楽しい夜は今日もまた更けていくのであった。
□ □ □
明日も学校があるだろうからとシエを先に寝させると、なんとなく庭に出てみる。
外は風がなかったけれど残暑は過ぎ去り、上着もなしでは寒さが勝った。隣家からは電気が消え、彩音ももう眠ってしまったのだろう。
空を見上げると月に朧雲がかかっていた。綺麗な光を地上に届けているというのに、薄ら陰っていて素直に綺麗というには好みじゃなかった。
「なにしてる」
玄関の方から掛けられた声は聞き間違えるわけもなくヨナのもの。
彼にその気はないんだろうけど気配を消していたから、少しドキリとしてしまった。
「ん? ああうん、ちょっと月光浴」
「そうか、ほら」
言いながら持ってきてくれた上着を掛けてくれた。きっと、外にいるワタシの姿をみかけたから出てきてくれたのだ。
何をしてる、なんて言いながら上着を持ってきてくれたわけだ。
「ありがと、ヨナは紳士だね」
「別にそうでもない」
「ふぅ、この時間だと息も白くなっちゃうね。でももう寒いのは懲り懲りかな?」
ユーリとの戦いを思い出すと、遠くで見ていたワタシたちが寒さで凍えるかと思うくらいだったのだ。その中心地にいた二人に襲い掛かる冷気の程は想像できない。
「まあな、出来れば二度目は避けたい。強かったけど心底甘いヤツだったからな、次やり合うとなると……無意識に手加減もしてくれないだろ」
「それはそれは、頑張ったね。ご主人様として誇らしいよ。もうヨナの様子を“視る”ことも出来なくなっちゃったから、なんだかすっごく心配」
ヨナに能力を貸出してしまった関係で、これまで出来ていたヨナの状態を把握することができなくなっている。
視覚情報も共有出来ていたから、ヨナが動いてくれていればヨナの向かった先で何が起こっているのか、なんてことも大体は把握できていたのに。
「残念残念、おかげでヨナをからかうのも難しくなっちゃった。シエや彩音とデートにでも言ってくれていればからかい放題だったのに」
「だから外にいたのか?」
「……、なんのこと? 因果関係が見えないなー」
「心配しなくてもどこにも行かない。からかわれるのは御免だが、お前はいつも通りで居てくれればいい。その方が俺も気が楽だ」
「…そっか、お見通しな訳だ。ねぇヨナ、なんだか大人になった?」
「生きた年数だけならそれなりだ。ここだと年なんて取らないから実感ないけどな」
「お、いいね若さ万歳。ワタシももっと早くこっちに来ておけばよかったなぁ。そうしたら——」
そうしたら。その先の言葉は口にできなかった。
言えない言葉だったわけじゃない。言葉が思いつかなかったわけでも。
口に出す寸前まではハッキリと思い浮かべていて、いつも通りにさらっと口にするつもりだったのに。
「ねえ、ヨナ?」
「どうした、リア」
「約束、憶えてる?」
「忘れたことは無い」
「そっか」
「ああ、そうだ」
そこまで話すと、しばし静寂の時間が訪れる。
彼は夜空を見上げ、ワタシも倣って一緒に見上げてみる。
凪いだ夜、初めて出会った日と似た空だけど、月には雲が掛かっていてもったいない。
口にした言葉もその場で静止して、彼とワタシの目の前にとどまっているかのようで、次の言葉が出てくるのを堰き止めてしまっているかのよう。
「……」
でも、こんなものに二人きりの時間を邪魔されたくはないから。
瞳を閉じて、冷たい空気で深呼吸。
吐いた息は静止した空気に流れを与え、滞留していた見えない言葉もほんの少し前へ押しやってくれる。
だけどなんだか胸が一杯なんだ。
口にできてもあと一言くらいな気がしたから。伝えたいことだけ伝えてしまおう。そうすればヨナは分かってくれるから。
「約束、守ってね」
「ああ」
返事はそれだけ、でもワタシにとって一番聞きたかった言葉だったのも本当で。
「ふふ…っ」
「…ひっつくなよ」
「いいじゃないか。ヨナの身体、すっごくあったかいよ」
ヨナの腕を抱く様にして身体をぴたりとくっつける。半ば無理やり繋いだ手も暖かくて、ヨナが生きてくれているのだと感じ取れた。
「何のために上着持ってきてやったと思ってる」
「あったかいのをもっと暖かくするためでしょ。だってほら、身も心もポカポカだ」
「…ったく、他に誰もいないとこれだ」
「ほんとは嬉しいクセにー、このこの」
「……あと少しだけだぞ」
「はーい」
許しも出たからより深く身を寄せる。
風のない、朧雲の月光浴。
一人では寒すぎるくらいだったけれど、彼がいてくれるならどんな場所でも心を満たすことのできる安息の地なのだと。
——分かり切ったことだと思い上がっていたのだけれど。彼の、ヨナの傍にいるだけで満たされてしまうということを、ワタシは改めて思い知らされてしまった。
「それにしても、彩音も乙女だね。何度世界が創りなおされても、無意識とはいえそういう関係性を望んでいるってことなんだから。ヨナも隅に置けないなぁ」
「いっそ、完全に忘れてくれてた方が良かったのかもしれないって思う」
時計の針は日を跨いで二時間ほど、二人して眠れなかったから並んでホットミルクを舐めるように飲んでいる。
煖房を付けても良かったかもだけど、それじゃあ暑くなりすぎちゃうからやめておいた。それに、今でも十分あたたかいしね。
「でもそれじゃ、ヨナが一人になっちゃうよ。それはワタシからしても嫌かな」
「そうなってないのは、アイツの性格なんだろうな。…優しいやつだよ、おかげでここに存在していられる」
「そのことはワタシもシエからも、感謝してもし足りないくらいさ。それに、随分柔らかく笑うようになった。返事もちゃんと返してくれるし」
「…どうだろうな、そんなに笑ったことなかったか」
「えぇ~、自覚ないの? 出会った頃と比べたら革命でも起こったんじゃないかってくらいなのに」
「覚えてはいるさ。…ただやっぱり朧気だな、こっちに長く居過ぎたんだと思う。シエがこっちに来た時も、あの髪の色じゃなかったら気付けなかったかもしれない」
「ふふっ、そうしたらシエは泣いちゃってたかもね。こっちに来るときは凄く気合が入ってたから。『ヨナギ様の為、命を賭して挑んでまいります』ってね」
「よくもまぁ、あそこまで真っすぐ育ったもんだ。お前に育てられたのにだぞ? むしろ逆か」
「なにそれ、ワタシだって女の子一人育てるくらい訳ないさ。その過程でシエの家事能力が劇的に成長したというだけの話で」
「ハっ、大体の状況は分かった。ガキに心配されてるのはマズいだろ。その頃に人並みにでも家事ができるようになってればな。流石にあそこまで何も出来ないのは大概だぞ」
「まあねぇ。でもほら、ちっちゃなシエがワタシの為に頑張って世話してくれるんだよ? 上手くいくとか失敗するとか関係なく可愛い物さ。もちろん初めは失敗の方が多かったけど、努力家だからね。家事以外でも、ヨナがいなくなった後も鍛錬は怠らなかったし」
「ああ、筋は良かったから順当に成長すれば強くなるとは思ってたけど、想像以上だった。アイツは強いよ、身体だけじゃなくって心も」
「そうだね、胸なんかはワタシよりも大きく育ったからね」
「……何の話してる」
「分かってるくせに」
「内容じゃなくて話の変わりようを言ってるんだ。ったく…」
話してる間に温くなってきたミルクをクっと飲み干すと、机に空のコップが置かれた。
「ああでも——」
「うん?」
「茶を淹れるのだけは、昔から上手かったな」
「そうだね、それこそ死にかけてたとこ助けて目が覚めたら『お茶なら淹れられるから拾ってください』だったし、あの子なりのアピールポイント…、ううん、あの頃はそれしかなかったんだろうね」
「いつもびくびくしてたからな。アイツの成長を見続けられたことに関しては、正直…お前が羨ましいかもしれない」
「おやおや~? シエが聞いたら喜んじゃうね。写真はないことも無いけど、『纏界』に置きっぱなしだから、この戦いが終わったら一緒に見よう。それからまたゆっくり、シエの淹れてくれたお茶を飲みたいな」
「……ああ、そうだな。…よし」
「おっととと…もう、急に立ち上がらないでよ」
身体を預けていたのに、ヨナが立ち上がるものだからバランスを崩してしまった。半分くらいまで減ったコップの中身が器から飛び出そうと揺らめいている。
「俺はもう寝る。飲んだらちゃんと歯を磨けよ。サボるだろ、お前」
「むぅ、それくらい出来るよ。ヨナはヨナで私を子供扱いしすぎじゃないかい?」
「日頃の行いだな。じゃあまた明日、おやすみリア」
「おやすみ、ヨナ。いい夢を」
「ここに来てからは悪夢だけだよ。なんたってお前と会った時の夢しか見ないんだからな」
「えぇ、それはなんて贅沢な。何よりも幸せな夢だよそれは」
「どうだろうな。…なあリア」
「はいはいどうしたのヨナ。もう寝るんでしょ」
子供扱いされたことへの当てつけに、此処から動くまいとソファに寝転がる。
動きません、ヨナが動かしてくれるまでは。
「必ず約束は果たす。何があろうとも、ナイギは斃す」
「——、うん。じゃあワタシも、頑張らないといけないね。と、いうことで。ん——」
「…なんだ、その手は」
「ベッドまで運んでほしいなー」
「動け、自分で歯を磨け」
「じゃあ自分で歯磨きするから歯ブラシ持ってきてほしいな。ベッドに運ぶのはその後でいいよ? ヨナが嫌って言うならここで寝るし」
体を丸めて、此処からは動かないアピールを強める。
その姿を見たヨナは呆れたようにため息とも笑い声ともとれるように息をつくと、洗面台からワタシの分も歯ブラシを持ってきてくれた。
何のことも無い平穏。
おしゃべりで夜更かしして、眠くなったから歯を磨いて眠る。ただ今日はヨナが抱っこしてくれたからいつもより幸せに眠りにつけた、気がする。
これから先の戦いは辛いものになるから。少し甘えておきたかった。なんて言ったらまた呆れられるかな?
でも、本当のところもあるんだよ? なんたって、ヨナと再会できたことは、ワタシにとっても嬉しいことだったから。
「ん、…ヨナ——、んにゅ……」
「運ばれてる最中に寝るな、落としたらどうする」
暖かな腕の中、身を預けて眠ることのできる幸せを感じられるということ。なんだかヨナが悪態をついていたような気もしたけど、夢だったかもしれないから無かったことにしておく。
ただ、その声からは穏やかさが滲んでいたから、ヨナも悪い気はしてない、はず。
そのあと覚えてるのは冷たいベッドに降ろされたことと、立ち去ろうとするヨナに抱き着いて軽く怒られたこと。
なんでそんなことをしてしまったのか考えてみると、彼が本当にいてくれるのか不安だったから、かな。なんだワタシも彩音に劣らず結構乙女らしい。なんだか照れちゃうな。
そして何より、嬉しかったことがあるというなら——。
「……、っ、ん…んー…っ、ふぅ。よく寝た…ぁ」
シエは学校に行ってしまって誰もいないお昼ごろ。いつものようにリビングへのドアを開いた先。
「…………」
「寝すぎだぞ、…いつものことだから言っても無駄か」
「———、…うん。そうかも」
「おはよう、リア」
「おはよう、ヨナ」
目覚めた先でちゃんと彼が待っていて、気の抜けた笑顔で朝の挨拶ができたことかな。
ま、時計の針はとうにお昼を指していたわけだけど。
……なんてね。
・二章について
一章が一応シエ編だと記載した覚えがありますが、二章は一応リア編です。
・『総界』と『総界の巫女』の関係について
物語の舞台である総界ですが、本編に書かれている通りに巫女が望む通りの世界が構成されています。また死亡した場合には世界自体の崩壊を防ぐため、ある一定期間を巻き戻して巫女の記憶と共にリセットします。
この際に巫女である皆方の意識、無意識から総界が再創造され、周回ごとに設定や環境が変化します。しかし、記憶も作られるためこのことを皆方は自覚していません。
巻き込まれた夜凪たちについても同様ですが、彼等の場合はリアの能力を活用することで記憶改竄については逃れています。
もしも皆方が高校生ではなく、社会人として生きたいと思えばそうなるでしょう。もしかしたら何度も繰り返される世界の中ではそういった周回もあったかもしれません。
しかし、何度も学生を続けているということは彼女にとって学生生活が最も楽しいのかもしれません。




