25.病熱恋風①
起きた時、真っ先に感じたことは熱っぽくて頭痛は酷く、体はだるくて起き上がれない……、ということだった。
「ぅあー、結構熱出てるね。ほら見える? 39度2分」
「…見えてる」
「今日は寝てないとダメだね。ここで無理されて悪化したら大変だ」
「んなこと、ゴホっ、流石にしない…」
「帰ってきた時ずぶぬれだったもんね。ちょっと待っててね、お水と濡れタオル持ってくるからっ」
トタトタとキッチンへと掛けて行った皆方の背をボゥっと眺めつつ、重力に身を任せてベッドへ倒れ込む。
「おっと、ゆっくり横にならないと。頭でも打ったら大変だよ」
「…んなことしな———、いとも言えないけどさ…。けほ…っこほ」
「ほら、言ったとたんにこれだ。ヨナは風邪ひいたことなんてないから分からないのかもしれないけど、普通は風邪をひいたら横になって治るのを待つものだよ。…ふふっ、こんな弱った姿滅多にみられないね。写真撮っておこう」
リアはどこからかカメラを取り出し、パシャリパシャリと音を立てながら写真を撮ってくる。コイツ、弱みを見せた途端からかってきやがって……。
「…おい、やめろって……この——」
やめさせようと腕を伸ばすが、今の俺では奪いとる以前に倒れた体を起こすのも一苦労。
「ほらほら、そんな熱出してる状態じゃ私にもかなわないぞぅ」
「こ、の…。頭おさえるな……おい…ゴホ…ごほっ」
その上リアの腕力でさえ押さえつけられるくらいに弱ってしまっているのだから何ともならない。このままじゃ尽きかけの体力を失うばかりでどうしようもない…。
「はいはいそこまでですー。もうっ、リアさんもからかっちゃ夜凪くんが休めないじゃないですか。一時没収です」
「あぁそんなぁ、アヤネ。寝顔なんかもたっぷり撮ってあるのになー?」
「え…そ、そんなのダメですっ。没収延長ですっ」
「えー、そんなぁーざんねんだなー」
全く残念そうじゃないリアの様子からして間違いなくここまでわざとだ。あくまで合法的なラインとはいえ、皆方になんちゅうもん寄越してくれているのか。
「………」
つってももはや口を出す元気すらない。…もうなんでもいいから静かにしててくれねえかな。
「それにしても、まさか風邪薬一つもおいてないなんてビックリ。非常時には備えとかないとダメだよ。戦えるとか『しほーかい』使えるとか関係ありませんっ」
「分かった…分かったから静かにしてくれ……。頭痛いんだよ…」
「あ、ゴメンゴメン。でももうちょっと待っててね、さっき……、十分くらい前買いに出たばっかりだから」
まだかかりそうなの。という、足りない頭でもできる予測はそこまでたどり着く前に中断させられた。
「ふふっ、思いのほか早かったね」
「うん?」
「はぁ…、ゲホ…っ」
響く足音、伝わる『界燐』。
あっぱれなまでに『四方界』の使用を隠そうともしない波紋が身体を打ち付け、その勢いでせっかく起こした身体が揺さぶられて頭に響く。
次いで騒がしいことこの上ない足音が凄まじい速度で近づいてくると、ドアが壊れそうな勢いで打ち開かれた。
「お待たせしましたヨナギ様ッ!! 薬ですッ!! どれが良いのか分からないので複数見繕ってまいりました!!」
「おかえりシエ、そんなにいっぱい買ってきてくれたなら、よさげなのを飲ませてあげないとね」
袋一杯に詰まった薬の山と共に現れたのは当然この場に居なかったシエ。完全ダウン状態の俺と反比例するように元気に満ち溢れている。
まあ…、原因が俺の風邪っていうのが半ば申し訳ないが…。
「わぁー、ほんとに一杯だ…。えっと…これが頭痛薬で…こっちが漢方……えぇーとこれはせい…げほんごほんっ」
「おや彩音も風邪かな? その手の鎮痛剤でも飲めば解決するかもね」
「も、もうっ、からかわないでくださいリアさんっ! ま、まあ夜凪くんの風邪は疲れてたところで体が冷えちゃったのが原因だと思うのであったかくして寝てればすぐ直ると思いますよ」
「ほんとですがアヤネ! よよよなぎさまがこのまま永遠の眠りに着いてしまうなどということは……っ!? も、もしその様な事になれば腹を切ってでも責任を負わねば——」
「しなくていいしなくていい…っ。ホントに大丈夫だから、ね? 医者の娘を信じなさいっ、ってね。まぁ大して勉強してるわけじゃないんだけど、昔からそういう話は聞いて育ってきたから普通よりはマシだと思うの」
「だそうだヨナ、ズレてる布団を直した方が良いみたいだよ?」
「…それくらいやってくれても罰は当たらんぞ」
「ふっ、すまないヨナ……。私にできるのは抱きしめて温めてあげることくらいだ…。そんなことしかできない自分が情けなくてしようがない。けれど、その程度でも足しになるというのなら、この身体も役に立てると言うものさ……。ということで———」
「……なるほど、やはり抱きしめ合うというのは人が暖を取るうえで最上の方法…。それならば私でも可能ですね…。流石リア様です。ではヨナギ様、えっと…その、失礼して…」
「オイ…っ、やめろ馬鹿…シエも正気に戻—ごほっ」
潜り込もうとしてくる二人を押し返そうとしつつも腕を逆に掴まれて無力化。もはや打つ手は無くなった。…完。
「なにが、ということで、ですか…っ。ダメに決まってるでしょうっ。はい、布団はこれでよしっ」
「ちぇー」
「あわわ」
皆方によって引き剥がされた二人は軽く注意を受けるが反省してないのと反省する余裕がないのに別れている。
「じゃあ薬はこれ飲んでね。市販薬だから気休めだけどちゃんと寝てれば治るから、完治するまで外出禁止ですっ。夜凪くんはこんな状態でもほっといたら出てっちゃいそうだし」
「さすがにそこまでバカじゃない…、やすませてもらうよ…」
「それじゃ私たちは退散するから、頭痛いのに騒いでたら治るものも治らないしね。家の中には誰かいるようにはするから何かあれば呼んでね」
「ああ……」
「じゃあヨナ、いい子で寝てるんだよ」
「わ、私はドアの前で待機しておりますので…っ、ささいなことでも何でもお呼びくださいね!」
「げっほ…わかった、わかったから行ってくれ……」
寝返りをうって軽く手を振る。
世間話くらいなら付き合いたいのは山々だがその気力も湧き上がってこない。まずはこの頭痛が収まってくれれば余裕も出てくるんだが……。
「は、はい…。それでは…しつれいします…」
しょんぼりした様子が見ずともわかるシエの声。
「……」
絶不調だし、いつものことだと流してもいい、いいんだが…。
「…シエ」
「は、はい…」
「ありがとうな…薬。いそいでくれたみたいで、何かあれば呼ぶから…」
「は、はいっ!」
ちゃんと向き合うと言った以上、これくらいできないとそれこそダメ主というか、何というか。
「へぇー? 私たちにはないんだー?」
「ないみたいだねぇ?」
「……感謝してまーす…」
「及第点上げてもいいですかね?」
「ま、風邪に免じて今回は許そうじゃないか。お礼は治ってからということで、マッサージでもしてもらおうかなー」
「えぇ!? い、いやリアさんにマッサージとか、それはちょっと夜凪くんには刺激が強すぎたりとか——」
「で、ではしつれいしますっ」
遠ざかっていく声を追うようにゆっくりとドアが締められる。
「ふぅ…、ようやく行ったか…。せっかく買ってきてくれたわけだし、さっさと飲んで寝よう…」
シエはきっとドアの前で待機してくれているんだろうが、薬を飲むくらいなら手を借りなくてもなんとかなる。
「お、とと…っ。……ダメだな…」
…と思っていたんだが、想像以上に体はふらついていて、置いてくれていたコップをとるのにも一苦労。こんなんじゃ薬一つのむのにどれくらいかかるものか。
「ケホ…っ。すまん、シエ…いるか?」
「はいっ! ここにおります!」
「……あー、ありがと…。だからもう少し静かにげほっして、ほしゴッホ…」
「あわわ…申し訳ありませんヨナギ様。ですので一度、目と口を閉じて落ち着きましょう」
「ああ…すまん…こふっ」
背中を優しくさすられながら呼吸が落ち着くまでゆっくりと深呼吸。
数度も行えば幾分か楽になったので手を上げて大丈夫だと伝えると、心配そうにしつつも手が離れていく。
「申し訳ありません、私と一緒に雨に打たれたせいでこのようなことになってしまい…。で、ですがその分体調万全な私がしっかりとお世話しますのでっ」
「ああ、助かるよ…。だから、その…もう少し声を落としてくれ…」
「ぁぁ…、申し訳ございません…」
「ふっ、いいんだ…こほっ。んん…っ、これも久しぶり大量の『界燐』が流れ込んで体が驚いただけだろ。慣れればすぐ落ち着くって。雨に当たってたのは俺の気分だ、けほ…っ」
ユーリに使った、結界を経由しない俺本来の『四方界』。使うのがあまりにも久しぶりすぎたせいで体中が錆びついていたのだ。おかげでその反動が今日やってきた。
マトモに機能しない配管の詰まりを圧力ですべて押しのける荒療治。そりゃあどこかにはガタが生まれる。
それがこの高熱で、治し方も“水”もとい『界燐』が本来の流れ方になってくれるのをゆっくり待つしかない。
「だから、この熱もシエは悪くない。だからスマン…たのんだ…」
「はい、もちろん看病も私にお任せください、一時たりとも離れたりしません。例えあの男が再び攻めてこようとも押し返す所存ですので。
あ、ああそうでした、お呼びした理由をお聞きしておりませんでした…っ」
「そりゃ、心強いな。…呼んだ理由は、その…ちょっと情けないんだが、薬飲ませてくれ…」
「ええ、それくらいの事でしたらいくらでも。…では、アヤネが用意してくれた薬は——」
モノさえ分かっていればシエの手際は誰よりも速く、それでいて正確だ。ちょっとやる気と元気が行き過ぎるだけで…。
「ではお口を開けてください、…はい結構です。ではコップをゆっくり傾けていきますので無理はせずにお飲みください。汚してしまってもすぐに片づけますのでお気になさらないで大丈夫です」
「ん」
薬を口に入れてもらったあと、零してしまわないようゆっくり水を飲ませてもらう。この歳になってここまで丁寧に薬を飲ませてもらうことがあるなんて思いもしなかった。
「よろしいですか? はい、大丈夫そうですね。ではヨナギ様、このまま後ろに体重をかけて…はい、そのままです」
「ん、ああ……」
俺が薬を呑み込んだのを確認すると、急に倒れて怪我してしまわないようゆっくり寝かされ、布団をかぶせられる。
「それでは、私がいてはお邪魔でしょうからドアの前で待機しておりますね。何かあればお呼びください」
「……ん」
俺が眠りにつく体勢を整えるとシエはそのまま部屋を出て行こうとする。
そのまま寝ようと思っていたし、そうするべきなのはわかり切っていたけど、つい———
「ヨナギ様、どうかしましたか?」
「あ、いや…、なんでもない……んだが…」
気付いた時には、立ち去ろうと腰を上げたシエの手を取っていた。
自分でも思いがけない行動だったから何て説明すればいいのか良く分からなくて、その分らなさがなんだか気恥ずかしくて、顔の熱が少し上がってしまう。
「すまん、何でもないんだ…。大人しく寝てるからさ…はは…ごほっ」
「分かりました、それでは良い夢を——。…ヨナギ様?」
「———。ちょっと、ちょっとまってくれ…、なんでだ…?」
ゆっくりと、掴んだ腕を離そうとして、しているのに俺の手はシエをつかんで離そうとしない。頭ではわかり切っているのに、身体の方が言うことを聞いてくれない。
「え。えっと…」
理由をボケた頭で考えてはみるが、熱と共に浮かび上がっては風船のように割れて跡形もない。寸前まで何考えてたかも分からないような状況じゃ理由の説明も不可能。
だから掴んだままの手を放せもせず、開いているはずの口は開きっぱなし。
「あーー……、っと…。その、なんだ……」
「は、はい」
シエも律儀に俺の言葉を待ってはくれているが、答えが出てこないのだから膠着状態が永遠続くしかない。なら、このどうしようない状況を何とかするには。
「あのさ、シエ…。変なこと頼むんだが……」
「なんでしょうかヨナギ様っ、何でもお申し付けくださいっ!」
「理由は分からないけど、手が放せない…から、さ。放せるまで…というか寝るまで、傍にいて、欲しいというか…」
選択肢も解決法も謎なのだからこの状態で押し切ってみるしかない。というか他のこと考えていられない。正直、起きてるのも厳しくなってきた…。
「ええ、もちろんです。私としてもヨナギ様のお傍に居られるのなら、むしろ嬉しい…ですから。で、ではもう少し、その…近づきますね?」
「ん…」
ベッド脇に座り直すと、いまだ腕から離れようとしない俺の手を絡まった糸を解きほぐすように外していき、そのまま両手の平で包み込む。
「ご安心くださいヨナギ様、眠りにつくまでシエはここから離れません。いえ、お許し下さるならその後も、…このままで」
「うん……そう、だな……」
シエの手、あったかいな。
熱を持っている手だというのに、シエの温もりはハッキリと伝わってくる。
自分よりも低い体温のはずなのに伝わる暖かさはじんわりと俺の手を包み、内側から楽になっていくようにさえ感じられた。
「このままお眠りください。ヨナギ様は私の責任ではないとおっしゃってくださいましたが、やはり私の責任でもあるのです。ですが、私にできることは手を握ることくらいでしかありません…」
「いい…んだ、助かってる…から…」
「ですが私の気が済まないのです。…ですからヨナギ様、今は休息を。どうか快復なさってください。そして元気なお姿をもう一度お見せください。それこそ、私にとっての幸福なのですから」
「…ぁぁ……」
柔らかく微笑み、優しい声色で話すシエの声が子守唄のように耳に届くたびに瞼が段々と重くなっていく。傍に居てくれているシエの顔を見ることが難しくなっていく。
「ふふ…っ、なんだか昔を思い出してしまいます。覚えていらっしゃるかは分かりませんが、私がまだ幼い時分にヨナギ様が看病をなさって下さったこと。…ああ、お返事はしなくてよいのですっ。私が勝手に話しているだけの事ですから…っ」
「……ああ、憶えてる」
声になっているのかいないのか。その判断さえできていないが、ああ確かに、その時のことはなんとなく覚えている。
「あの時も大雨に打たれた事が原因でした。リア様に引き取られたばかりの私は身体も弱く、高熱を出してしまって——」
(そう、それでリアが俺に押し付けた。確か『仲良くなるにはちょうどいい』なんて言ってな。ったく、あの時から変わらないやつだ)
「その時、ヨナギ様がつきっきりで看病してくださったことは今でも私にとって大切な思い出です。あの時のことがあったからこそ、私は今もこうしてヨナギ様のお傍に居たいと思うようになったのだと思います」
(別に……、何もしてなかった…。タオルを取り換えてた、くらいで…)
「熱にうなされた時、頭を撫でてくれていたことは忘れられません。辛いばかりだった世界で初めて、心満たされたのはあの時だったのですから。…例えヨナギ様がどれほど過去を否定しようとも、私にとっては輝くばかりの思い出なのです。あっ、ですが“今のヨナギ様”を嫌う理由は何一つありませんよ。ヨナギ様自身の本質は何一つ変わることなく、お優しいままです」
(……、———)
「そして、その点についてアヤネへの感謝はどれほどしても足りません。…きっとお辛いことも数え切れなかったでしょうし、ヨナギ様の苦難を私には想像する事さえできませんが…。それでも、ヨナギ様が笑うことができるようになったこと。そのことが私にとっては何よりも嬉しいのです」
「………ん」
もう、意識はなかった。ギリギリで目を開けてはいるが、見えてる景色も自分以外のものがやけに大きく感じられて、その分自分もやけに小さく感じられる違和感。
目の前のシエは夢なのかそうでないのか。もしも夢ならなんなのか、それさえ分かっていない。
けど、握られた手の温もりと柔らかさ、伝わる声の優しさだけは確かな物で。
「おやすみなさいヨナギ様。苦しいとは思いますが、せめて夢だけは幸福なものを見れますように——」
抗えない眠りへと落とすように、優しく頬を撫ぜられ、そのまま瞼も降ろされる。
シエの笑顔を見れなくなるのは惜しかったが、一度暗闇になってしまえばもう後は眠りへ墜ちるだけ。
全身を包み込む暖かさと、握られた手の温もりを確かに感じながら、いつのまにか俺は眠りについていた。
□ □ □
寝息を立てる少年、大切な主、ヨナギ様。
『纏界』における彼との思い出はそれほど多いというわけではない。だが、幼い日々の記憶を占めるのは彼の背中ばかり。
後ろをついて歩く私のことなど気にかけることなく、ただ黙々と自身の為すべきことを為し続けるだけの背中。
幼い私にはとても大きく見えていた背中も、成長した今では小さく見えてしまうほど。きっと、それほどまでの重荷を背負い続けてきたことの証左。
彼はたった一人で戦い続けてきたはずで、それを私は知ることができない。話してもくれないのでしょう。それが少し、悲しい。
「………」
眠りについた彼の頬を撫でる指がとまる。
此方に来て再会した時、彼は私のことをどう見えたのでしょうか。
正直、憶えてくれてはいないのではないかと怖かった。もしも忘れられていたらどうすればいいのか、そんなことさえ分からなかったのです。
私も背は伸びた。顔つきも少しは変わっているはずで、別れてからの“十年近い年月”を突き付けてくるようで。
そして、一番恐れていたことがあったとすれば、そう。
従者として必要とされないこと。私という存在が彼自身の口から否定されることでした。
「ですが、ヨナギ様は違いましたね…」
記憶にあった、笑うことの無かった表情はもうありませんでした。様々に移り変わる表情と声色はかつて見ることのなかったもので、いつか見てみたいと思っていたもの。
(もしも…、あのままヨナギ様がこちらに来ることが無ければ…、私に変えることが出来たのでしょうか……)
有り得ないもしもを考える。
笑うことすらなかった彼を変えてくれたのは友達でもあるアヤネで、そのことは感謝してもし足りません。
そして同時に、私には出来たのだろうかと思ってしまう。ただ彼の背を追いかけていただけの私に、彼に変化を起こすほどの影響を与えることが出来たのだろうか、と。
「………」
だが、どれほど考えた所で分かりはしない。進んだ時間が巻き戻ることは無く、機会は永遠に失われてしまいました。
再会した彼は私にもリア様にも優しく接し、アヤネとの関係も問題は無いように見えた。そんな彼の役に立ちたくて、頑張ってはいるがから回ってしまう毎日で。
だから彼自身も気苦労はあれど、使命に向かって真っすぐ立っているのだと思っていた。私の役目はあくまで前線に立つ彼を支えることであると。
「ですが、ヨナギ様はいつも戦っておられたのですね…」
アヤネ、私の友達であり、この世界の巫女。彼女との関係性はヨナギ様にとっていつ崩れてもおかしくない天秤だ。彼女に何かあれば世界そのものが失われ、ナイギは『纏界』へ攻め入ることでしょう。
これまで、その重責をただ一人で背負い続けてきた彼の心をこそ、支える存在はいたのだろうか。
降りしきる雨の中で自身を『逃げ続けてきた男』と評した彼の姿は悲しく、寂しさに満ちていた。空虚でしかない感情でふさがった孔、その空隙を埋める存在は——。
だから、私にできることはきっとそれだ。そのためにこそ私はここに居て、これまで戦う力を培ってきたつもりです。これから先の戦いも辛いものとなり、犠牲を払う時来るのかもしれません。
だからせめて、この優しいお方が自分を責めなくてもいいように。胸を張って歩いて行けるようにすることこそ、従者である私の役目。
「覚悟を決めましたヨナギ様、シエは決してお傍を離れたりしません。辛く、苦しい時であろうとも、幸福に包まれた時であろうとも、ヨナギ様の傍に在り続けます。
辛い時も幸せである時も、ヨナギ様の心の変化を共に感じられるように。私も共に戦い続けます。決して、貴方を独りにしない」
「…ん……」
「ああ…っ、すみませんヨナギ様…っ、大丈夫、大丈夫ですからね…」
握る手に力が入ってしまって、少し苦しませてしまった。決意した途端にこれでは何も変わっていない。
「もう少し、もう少しだけお待ちください。きっと私もヨナギ様のお傍に居られるよう成長して見せます。従者として、戦士として、貴方に救われた者として。ヨナギ様が自身を卑下することないよう、戦って見せます…っ」
彼女にとっての誓いは他の誰に聞かれることは無かった。己を救い、己が救いたいと願った存在の為の固く真っすぐな誓約。
誰に宣誓するでもない、たった一人の心の中で起こった事象はしかし、彼女の歩むべき道筋を照らしているのだった——。
「そうでした、ヨナギ様が眠っておられる間に食事の準備をしなければなりませんね。いえ、ですがヨナギ様のためとはいえ一時的にでもお傍を離れるのはどうなのでしょう…。もし離れている間にヨナギ様が私の手を捜す事態となれば申し訳が立ちません…っ。私は、一体、どうすれば——?!」
——そう、…照らしは、しているのだ……。
□ □ □
「彩音はヨナとシエがくっついたらどうする?」
「ぶっ!? …い、いきなりなんですかもう…けほっ」
夜凪くんとシエを残してリビングに戻って少し、シエがいるなら私たちの出る幕は無いだろうとくつろいでいた矢先、リアさんが何気なしに口を開く。
「うん? いやね、ワタシとしても嬉しいことに彩音はヨナのことを好いてくれているようだし、シエもそろそろ一歩踏み出しそうだしね? そうなったときに彩音は二股オッケーなタイプなのかなー、と」
「そ、そんなこと急に言われても困りますよ。というかシエがその…、告白? とか? したとしても? 夜凪くんが選ぶ以上は私が口を出す問題じゃ…」
「ま、彩音がそれでいいなら私もいいけどね。ちなみに私はオッケーなタイプだよ」
「まぁそれは何となくわかります…じゃなくって、急にどうしたんですか? その、昨日からシエと夜凪くんの距離感が近くなったかなー? とは、正直思わないわけでもないです、けど…」
昨日の夜、雨に濡れて帰ってきた二人はこれまでよりも仲が良かった、わけではなくって。ボディタッチが多かった、わけでもなくって。
何となく、これまでになかったものが繋がっていたような、そんな気がした。
「それが主従の絆か、男女の愛情かまでかは分からないけどね。個人的には後者の方が面白いし、嬉しくもあるんだよ。シエは小さな頃からヨナにべったりだったから感慨深いものがある」
「……リアさんって夜凪くんは私のものだーっていう割にはその辺気にしないんですね」
「うん、ヨナはワタシのもので、そのヨナが選んだ相手もまた同様。ああ、勘違いしないでほしいのは別にシエを身内びいきしてるわけじゃないよ? 彩音のことも大好きだし、シエが身を引くのであれば仕方ないとも思ってる」
「つまり、リアさんは私に…その…、夜凪くんに告白しろ、って言ってます?」
「ふふんっ、それもいいかもね、ただそこまで言うつもりは無いよ。それこそ恋愛なんて歴史上においても自分勝手なものさ。その主導権が自分に在るかどうかは別として」
「えーっと、つまり?」
「周囲に決められた愛か、自分達だけの愛か、ということ。政略結婚か駆け落ちか。当人たちにしか分からない理由があって、利益がある。その時点で自分たちの幸福しか考えていないのだから自分勝手と言わず何といえばいいのかな」
恋愛はどこまでいっても自分勝手。それは、確かにそうなのかもしれない。
熱に浮かされた心では、相手の悪いところも素敵に見えて、良いところはもっと素敵に見える。それは恋する自分が幸福であると言えるだろうし、恋に恋するお年頃、と言うものなのかもしれない。
「じゃあ、リアさんはシエか私が夜凪くんに告白した時の幸福はあるんですか?」
「もちろん、皆が幸せなら私も嬉しいからね。ふふっ、そう勘繰らなくても本当に理由はそれくらいだよ。しいて言うなら私が幸せであることは大前提、ということかな」
カップを揺らしつつ、お茶の香りを楽しむリアさんはなんだか満足気に見えた。
最近は二人きりになることも多くなってきて、ようやく距離感みたいなものも掴めてきたんだけど…。
「むむむ…、リアさんってやっぱり良く分かんないです」
「そうかな? とっても素直な性格をしていると自負しているのだけど」
「まっさかー」
「ははは、ごめんごめん。ちょっとしたジョークさ。ああでも、さっきのはまごうことない本心だよ? ワタシもヨナもシエも彩音も、皆が幸せになれればいいと思ってる」
「とはいっても一夫多妻制は法律で認められてませんー。リアさんたちのいた…『てんかい?』っていうところでは良かったりしたんですか?」
「ううん、その辺りはこっちと一緒だよ。文化水準は少し低いけど」
「じゃあダメじゃないですかっ!」
「アッハハハ。でもね、この話は一度しておきたかったんだ。シエもそうだけど彩音には特に、ね」
「え?」
覗き込むように首を傾けたリアさんの瞳はこれまで見せていた軽さは消えて、なんだか妖しい光を秘めているように見えた。
「私には、っていうのは…。やっぱり『巫女』っていうのと関係あるん、ですか?」
「うん、ナイギに狙われてるのは分かってると思うし、もちろん私たちで守り切るつもりだよ? でもほら、万が一ということもあるっていう事は分かっていてほしい」
「……はい」
「その時に後悔してほしくないのさ。気持ちを伝えておけばよかった、もう少し一緒にいたかった、せめて最後の時は一緒に。
なーんて言い始めたらキリはないけど、特殊な状況下に置かれた彩音にはもっと楽しんでいてほしい。…これまで普通の女の子だったんだからなおさらね」
「楽しむって…、私はリアさんほど飄々と生きられそうにないですー。…でも」
確かに私は、夜凪くんに護られてることを知るまでは普通の学生だと思っていたし、今の状況が夢だったりしたら良かったなー、とも思う。
シエやリアさんに会えたのは間違いなく良い出来事だし、この出会いを失いたくはない。だから争いなんてない状況で出会いたかったけど、私は『巫女』らしいからきっと無理だったんだと思う。
それに、もう知ってしまった以上は前を向くしかないのは分かってる。
「…昨日、二人が帰ってきた時にすごく疲れてて。私には何があったのかは分からないし、分かるくらい近くにいたら危ないんですけど…。力になれないっていうのはやっぱり悔しいです」
「祈ることしかできないから? でも昨日の事なら彩音はシエの背中を押してあげたじゃないか。それはきっとシエと同じようにヨナを慕ってくれている、友達の彩音だから出来たことだよ」
「あ、アレはシエが夜凪くんの為に頑張ってる姿を放っておけなかったんですっ。…私には戦うことはできないし、狙われてる以上は足手まといにしかなりませんから。駆け付けられらるなら駆け付けたかった…。
昨日はシエに押し付けてしまったようなものです…」
「ふぅむ、やっぱり彩音はヨナと似てるね。出来ることなら一人で全部こなしたがる所とか」
「そう、ですかね? 私それなりに寂しがりやなんで一人だとダメなんですけど」
できれば仲間で集まって、何気ないお話やお茶会なんかを楽しんでいたい。一人だと張り合いも無いし寂しいと思う。
それはちょっと、私には合ってないかな。
「ふふっ、そっか。それならワタシの見立てが外れたかな。…でも、言いたいことは大したことじゃないっていう事だけは分かっていてほしいんだ。
ヨナを好いてくれているなら特にね。あの子は肝心なところで他者を受け入れるのに抵抗がある子だったから。あそこまで改善されたのも彩音のおかげさ。ありがとう」
「…っ、い、いえいえいえ、私は夜凪くんを引っ張りまわしてただけですから…っ!」
リアさんの容姿も見慣れたと思っていたけど、不意に面と向かって微笑みかけられるとドキッとしてしまう。顔が火照っていくのが自分でも分かってしまって気恥ずかしい。
「じゃ、じゃあリアさんの言うことも考えておきますっ、私も女の子なので、まあそれなりに頑張ってみます…。はい」
「うん、ならよかった。あ、もちろんシエと二人で相手をするっていうのもいいと思うけど」
「もうっ、リアさんはすぐそういう方向に話を持っていくんですからっ!」
「えぇー? だめー?」
「う…っ、だ、ダメ、です…。その、法律的にちょっと……」
「でも私達異世界人みたいなものだから法律には縛られないんじゃないかな? そもそも既に同じ屋根の下だ。何かきっかけさえあればなし崩し的に爛れた日々が——」
「ダーメーでーすー!」
「はいはい分かった分かった、顔真っ赤な彩音が可愛かったからここまでにしておこう。法律さえ気にしなくなれば大丈夫そうなのは分かったし」
「リアさんっ!」
「あはははは——」
そこからは私の真っ赤な顔を見て笑うリアさんと、その姿に怒る私という光景がしばらく続いた。
「アヤネ、いつの間にかリア様とそれほど仲良くなられていたのですね」
「うんうん、仲良きことは素晴らしきかな。ってね、よしよし」
「なんで…、こうなったんだっけ…? うぅ…思い出せない……」
それはシエが水を汲みにリビングに戻ってくるまで続いて、なぜかその時にはリアさんの膝の上に座ってお茶を飲んでいるなんていう良く分からない状況になっていたのであった…。
気が付いた時には頭を撫でられてるし、やはりリアさんは侮れないということが良く分かった一日だった——。
「あっ、まだ終わっちゃダメだ。『しほーかい』の練習しなきゃ!」
「がんばってねー、私は取っておいたアイスを、っと彩音? なんで私の手を取っているのかな?」
「教えてください! 先生二人が欠席なんですっ」
「それなら今日は休みなんじゃないかな。残念ながら私は先生には向いてな——」
「よしっ、ここでうるさくしたら二人に悪いから外にいきましょう」
「えっ、ちょっと、見るからに外暑そうだよ? ほら、あんなにも太陽が照ってる。あんなところで人間は生きられないよ…っ、だ、だから今日はお休みして…っ」
「そうですね」
「彩音ぇっ!」
「日傘を持っていきましょう、あと一応ペットボトルの水も。…よし、行きますよリアさんっ。私ったら天気操れるっぽいんで上手くいけばすぐ涼しくなりますよっ。では、ご指導お願いします!」
「えぇー…ヤダなぁ……外暑いもーん…。うぅぅ、ヨナぁ、シエぇぇ…彩音がいじめるぅー」
「病人に助けを求めないでください、ほら行きますよ」
「えぁー……」
変な声を漏らしながらソファにしがみ付くリアさんの手を取って引っ張っていく。
自分のことを最強だなんて言っているけど、特別筋トレもしていない私一人の力で連れて行けるのだから、まだまだリアさんのことは良く分からなかったり。…でもまあ。
「うーん…、こんな感じですかねー?」
「いいんじゃないかなー……、一度は使えたんだったらコツはつかめてると思うしリラックスだよー……。はぅ……」
日陰から一歩も出てこないながらもちゃんとアドバイスはしてくれてるから悪い人でないのは確かだとおもいました。まる。
帰って来た日常?回です。
シエが決意を固めていますが、少しズレているように見えるのは彼女の長所でもあるのかもしれません。




