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 大正11年 冬


 1


 (けい)と蓮二郎は三週間ぶりに西園寺邸に来ていた。

 強行軍の帰省の後、試験が待っていた。二学期ともなると試験範囲も広く問題も難しくなっていた。一夜漬けの勉強では及第点を取るのは難しく、二人は試験が終わるまで蓮二郎の実家に来ることが出来なかった。

「試験も無事終わったし、ここに来るのも久しぶりだね」

 (けい)は家の鍵を開けている蓮二郎に声を掛けた。

「京は試験出来たんだろう?僕は外国語が危うい」

 蓮二郎はそう呟くと、ドアを開けて中に入った。

「え?蓮二郎、外国語得意じゃなかった?」

「全然得意じゃないよ」

 ため息をつきながら、テーブルに鍵を置いて椅子に座った。

「そうなんだ、蓮二郎にも苦手な科目があったんだね」

 京は戸棚の横に行き重ねていた絵を調べた。

「おい蓮二郎、留守の間に誰か入ったみたいだ」

「えっ、鍵に異常はなかったぞ」

 蓮二郎は驚いて京を見た。

「僕はこの家を出るとき、ちょっとした細工をしていたんだ。この絵は置いた場所や順番は合っているけれど、誰かが動かした形跡がある」

 京は絵を持ち上げた。

「やはり、何か捜しているのかも知れない」

「何かってなんだ」

 蓮二郎は訳が分らないといった様子で京を見た。

「僕の考えでは、調子(ちょうこ)さんの銀行の証書だと思う」

「銀行の証書?」

「以前生馬さんが征一郎さんの友人の銀行員の話をしたときに、銀行の人は証書を征一郎さんに渡したと言っていた。もし一条正(いちじょうせい)が銀行に行ってそれを聞いていたとしたら、調子さんが証書を持って銀行に行くことが条件と言われたのかも知れない。留守の間に入るくらいだからその証書がまだ見つかってないんじゃないか」

「そうだろうか」

 蓮二郎は半信半疑だった。

「今日から他の部屋を片付けるだろう。僕たちも注意して捜してみよう。この絵は額に入れたいので、後でムールに持って行って額屋を教えてもらおう」

 京はそう言って、絵を纏めると紐でくくった。

「絵を持って行くのか」

「僕たちじゃどんな額に入れたら良いかわからないだろう。専門の人に見て貰って合う額に入れた方が良いんじゃないか」

「それもそうだな」

 蓮二郎も賛成した。

 西園寺邸は二階建てで、東向きの玄関を入ると左が応接室で、右に祖母が使っていたという和室があった。和室の奥に厠と風呂があり、風呂の隣に厨房があった。厨房の横が食堂兼居間で、居間の暖炉と応接室の暖炉は背中合わせになっていた。暖炉は別々だったが、上の方で一つの煙突に繋がっていた。

 二階は蓮二郎の父の部屋と蓮二郎の部屋、そして客間の三部屋だった。

 二人は一部屋ずつ片付けることにした。

 応接室は調度品など何も無く天井と壁の埃を払い床を掃いて拭けば片づいた。祖母の和室も何も無かった。畳を上げて床に風が通るように壁に立てかけた。

 一階の掃除が終わる頃に昼になった。

 二人は絵を抱えてムールに向かった。

 土産屋に入ると珍しく生馬(いくま)が店番をしていた。

「生馬さんこんにちは。先日はお世話になりました」

 京は笑顔で生馬に挨拶をした。

「おう、(よろず)の倅と蓮二郎君、先日は世話になったな」

 生馬は相変わらずひょうひょうとした態度で二人を迎えた。蓮二郎は生馬が苦手なのか「どうも」と言ったっきり黙った。

「今日は店番ですか?」

「ああ、婆さんが東京に遊びに行ったので、俺が店番頼まれた」

 生馬は京の持っている絵に目を止めた。

「なんだそれは」

「調子さんの伯父さんが描いた絵なんだけど、額が無いので何処か額を売っているところを教えてもらおうと思って持って来ました」

「額か、そういったのは婆さんが詳しいけれど、今日は出掛けていないからな。俺が預かっても良いなら、婆さんが帰ってきたら聞いておくが」

 生馬がそう言ったので、京は蓮二郎と相談して預けることにした。

 生馬に絵を預けて、奥の喫茶ムールに行った。

 二人が席に着くと、生馬もやってきて一緒に座った。

「生馬さん何か有りました?」

 京が尋ねた。

「いや、特にないが、こっちに帰る前に旅館に寄ったら、(よろず)が妙に元気がなかったから、先日俺が帰った後に何か有ったのかと思って」

 京には心当たリがあったが、今はまだ言えないことなので、

「さあ、僕は何も気づきませんでしたが」と言った。

「そうか、何かわかったら教えてくれ」

 生馬はそう言うと席を立って土産屋の店先に戻った。

 店員が注文を聞きに来たので、おにぎりのセットを頼んだ。

「萬さん、そういえば、僕が調子さんと婚約の継続の話しをしたときも元気なかった気がする」

 蓮二郎が心配そうに言った。

 京は自分とセンのこれからのことを、蓮二郎に話すのはまだ早いと思っていた。

「たぶん子離れの時期が近づいているのが寂しいんだよ」

「子離れ?」

「僕たちはもう自分で自分の未来を考える年になっているだろう。親離れの時期だよね。父さんから見たら子離れになるんだけど、まだそれは先の話しだと思っていたら、知らない間に子供は大きくなっていた。その時期がもう近づいていると感じたんだと思う。だから蓮二郎が調子さんとの婚約の継続を聞いて、嬉しい反面、もう親の手を借りずに自分たちで未来に進む道を決めている。父さんとしては子離れの時期が近づいていると感じて寂しいのだと思う」

 店員がおにぎりのセットを持って来たので京は話しを中断した。

「そうか、僕の父さんも生きていたらそう思っているのだろうか」

 蓮二郎はしみじみと言った。

「蓮二郎のお父さんは、予定外の子離れをしなければならなかったから、蓮二郎に未来を残したんだろう」

「未来?」

「そうさ、なぜお父さんが調子さんのお金に手を付けなかったと思う?」

 京には思うところがあった。

「これは僕の憶測だけど、君に負い目を感じさせないためだと思うよ」

「僕に負い目?」

「親の失敗を子供に押しつけないために。手を付けなかったんだと思う。もし君のお父さんが調子さんのお金に手を付けていたら、調子さんが気にしないと言っても、君は調子さんと結婚できただろうか。君の性格だとどんなに好きでも絶対出来ないだろう。お父さんはわかっていたんだ。だから最後に書いてあっただろう、蓮二郎と調子さんが一緒になって幸せになることを願っていると」

「それじゃあ、父さんは僕のために・・・」

「君のためだけじゃ無いと思う。お父さん自身のためだったと思う。君のお父さんは母親の自殺で滅入っていた心を友達に助けてもらった。友達の本当の優しさを知った。その大事な友達が自分の伯父である正の企みで自殺した。だからその友達のためにも誠実に生きたかったんだと思う。それを曲げてまで生きようと思わなかったんじゃないかな」

「だから逃げなかったと・・・」

「そうだよ、方法はどうあれ、蓮二郎のお父さんは、君がお父さんのことで不幸になることは望まなかった。君が自分の力で幸せな未来を築いていけるように考えていたんだと思う。本当に良いお父さんだったんだね」

 京の言葉に蓮二郎は涙を流した。

「泣くなよ、蓮二郎」

 京は周りを見渡して誰も自分たちを見ていないことにホッとした。

 蓮二郎は慌てる京を見て、涙を拭い笑顔を見せた。

「ありがとう、京。僕は君と友達になれて良かった」

 そう京に言うと、蓮二郎はスッキリした顔をして、おにぎりを食べ始めた。

 京は自分の考えがあっているかわからなかったが、それで蓮二郎が納得してくれたのなら良かったと思った。

 その後二人は額の件を再度生馬に頼んでムールを後にした。


 西園寺邸に戻ると再び二階の掃除を始めたが、蓮二郎を二階に残し京は地下室に行った。地下室の秘密のトンネルの細工は動いていない。まだ気付かれていないみたいだった。

 京は調子の人形がトンネルの中にあった箱の中にあると思っていた。しかし、この家から何かを持ち出すのは危険だった。気付かれずに外に運び出す方法を考えなければならなかった。人形を開けて中身だけを持ち出しても良かったが、出来れば調子の手で開けて欲しいと思っていた。

 京は地下室を出て厨房に行った。竈に火を入れてやかんをかけてお茶を入れる準備をしていると蓮二郎が降りてきた。

「京、何をしているんだ?」

「この家から荷物を持ち出す方法を考えていた」

「荷物を持ち出す方法?」

 お湯が沸いたので、用意していた急須にお茶葉をいれお湯を注ぐ。

「推測だけど、調子さんの人形はトンネルの倉庫側の梯子の下にある箱に入っていると思う。そして例の証書はその人形の中にあると思う」

「その箱をトンネルから出して開けてみたらどうだろう」

「僕はその箱を調子さんに開けてもらいたいと思っている」

 京は湯飲みを二つ用意してお茶入れた。

 一つを蓮二郎に渡しながら、

「僕たちはいつも見張られている」と言った。

「それはわかっている」

 蓮二郎は湯飲みを受け取って、京について居間に向かった。

「さっき絵を持って行っただろう。あの絵は調べた後だから持ち出しても大丈夫と思って持って行ったけれど、それでも何処へ持って行くのか見ていたよ。たぶん僕らが帰った後店に入って持ち込んだ理由を聞いているかもしれない」

「生馬さんも見張られているんだろう。大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ。生馬さんはプロだよ。僕らに見せるのとは違う顔があるのだと思う」

 京の説明は蓮二郎の理解を超えていたが、京が大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろうと思えた。

「もし僕らがこの屋敷から何かを持ち出したら、それも調べていない物だったら、絶対奪って調べられると考えた方がいい」

「そうだな、どうやって持ち出すか」

「たとえ持ち出せたとしても、何処に隠すかを考えると今のまま動かさない方が良かったりする」

「そうだな、変に持ち出して気付かせることはないよね」

 二人はいまはまだ動かさないと決めた。



 2


 師走に入り人々のざわめきに年の瀬が近づいたことが感じられた。

「センちゃん、人通りが増えたわね」

 調子(ちょうこ)は人波をよけてセンとキャサリンの後ろを歩いていた。

 女学校の帰り、キャサリンがクリスマスのプレゼントを買いたいと言ったので三人は久しぶりに街中に来ていた。

「師走だから仕方ないよ。伊助も朝から忙しくしてた」

 センは人混みから庇うように調子に近寄った。

「アインシュタイン博士が来られるのはまだ先なのに?」

 キャサリンは不思議そうに首をかしげた。

「年の瀬が近づくと毎年こんなものだよ。でも今年はアインシュタイン博士の影響もあるのかも。日本各地で歓迎がすごいみたいだよ。ここは日本最後の日を過ごされるから、最後に一目でもと考える人が今から来ているみたいだよ。でもそのおかげで旅館も忙しくなったから、(けい)兄達が早く帰って来てくれそうなので僕は嬉しいけど」

 センは笑顔になった。

 京達は薫子と百合子を連れて来週帰ってくる予定になっていた。

 話しながら歩いていたので、通りすがりの人にぶつかった。

「すみません」

 センが謝ると

「あら、センちゃん?」

 センは自分の名前を呼んだ人物を見た。そこには春まで家庭教師をしていた瞳子(とうこ)がいた。

「瞳子さん!」

「やっぱりセンちゃん、女の子の格好しているからびっくりしたわ」

 センは普段は短い髪で過ごしているが、学校に行くときは付け毛を付けて長い髪にして女学生らしくしていた。

 瞳子は久しぶりの再会に嬉しそうだった。

「イズミが女学校に行きたがっていたから、イズミの代わりに行っているんだ」

 センは瞳子にそう説明した。

「イズミちゃんの代わり・・・。そうだったの。センちゃんは中学に行くと言ってたものね・・・」

 イズミの話しに瞳子はすこし悲しそうな顔をした。

「瞳子さんは気にすることないよ。ほら来年地元に中学が出来るだろう。僕も伊助と一緒に来年から通う予定にしてたけど・・・」

 途中でセンが言葉を濁したので、瞳子は聞き返した。

「してたけど・・・?」

「母様が女学校に行って欲しいと書いたノートがあった」

「そうか・・・母親としてはそう考えるのが正解かも、センちゃんもこれから変わってくるからね」

 瞳子は思案深げな顔をした。

「あ、それは大丈夫。調子さんが教えてくれる」

 センは調子を瞳子に紹介した。

「大原調子です。この春から羽瀬川旅館でお世話になっています」

 調子は丁寧にお辞儀をした。横にいたキャサリンも

「キャサリンです」と言って頭を下げた。

「私は秋山瞳子、センちゃんの家庭教師をしていました。でも良かったわ、センちゃんに女性のお友達ができて、これから先のことを考えたらと少し気になっていたの」

 瞳子は嬉しそうに調子とキャサリンを見た。

「センちゃんのこと宜しくお願いしますね」

「はい、こちらこそ宜しくお願いします」

 三人は見合って笑った。

 瞳子は笑っている調子を見てイズミに似ていると思った。

「調子さんはイズミさんに似ていますね」

 瞳子はイズミが亡くなったと聞いたときはとてもショックを受けた。仕事を辞めてしばらく何もする気になれなかった。教師になると早くから自分の目標を決めて頑張っていたイズミを教えることは、瞳子にとってもやりがいのある仕事だった。それがあんなことになるなんて・・・。思い出すと涙が出そうになった。

 今にも泣き出しそうな瞳子を見ていたセンは、突然背筋がゾクッとするような視線を感じた。

 視線の先に目を向けると、通りの向こうに立っている男がセン達をじっと見ていた。

「瞳子さん、あの人を知ってる?」

 センの問いかけに、瞳子はセンの見ている方に目を向けた。

「あっ!」

 小さな声を上げて驚いた瞳子は、急にそわそわして帰ろうとした。

「ごめんなさい。忙しいのに呼び止めてしまって」

 センは立ち去ろうとする瞳子を引き止めて聞いた。

「あの人は誰?」

「父よ、別荘の支配人をしているの。今日は来週からお見えになるお客様のために買い物に来たのよ」

 センは瞳子の耳に口を寄せて囁いた。

「お客様って一条正(いちじょうせい)?」

「知ってるの!」瞳子は驚いてセンを見た。

「イズミの敵なんだ」

 センの言葉に瞳子は一瞬固まった。

「ごめん驚いただろう。僕たちは一条正が許せない。瞳子さんには関係ないと思うけれど知っておいて欲しかった」

 センはそう言った。

 瞳子は驚きの表情をなんとか納めて、

「イズミちゃんが亡くなったのはあの人のせいなのね」と聞いた。

 センは頷いた。

 瞳子は顔を上げると落ち着いた表情に戻り、センに別れを告げて父親の元へ向かった。

「瞳子さん、僕たちYMCAのクリスマス会行く予定にしているんだ。また会えるかな」

 センは立ち去る瞳子にそう声を掛けた。

 瞳子は振り向いて手を振った。

 センは瞳子を嫌いではなかった。女の子でも自立して行動することに反対しなかったので、躾は厳しかったが、センの弟生活も容認してくれていた。

 あのイズミの事件の後、萬は正の別荘で瞳子を見たことには触れずに、イズミが師範学校に行くまでの家庭教師として雇っていた瞳子を、イズミが亡くなったため、雇う必要がなくなったからと理由を付けて辞めてもらった。



「あの子は誰だ?」

 瞳子が父親のところへ着くと、父親が聞いた。

 瞳子はセンのことを言っているのだと思った。センはしばらく見ない間に街行く人が振り返るくらい綺麗になっていた。

「あの子はダメよ、お父さん」

 瞳子は父親の目を見て言った。

「どうしてだ、あれほど綺麗な子はいないぞ。あの子ならあの方も喜ばれるだろう」

 瞳子の父は瞳子が恐れていることを考えていた。瞳子は内心焦りながら、

「だってあの子は男の子だもの」と言った。

 瞳子の返事に父親は驚いた。

「女学生の格好をしていたぞ」

「あの子は春に亡くなった私の教え子の弟なの。来年中学が出来るまで、お姉さんの夢だった女学校に代わりに行っていると言ってたわ」

 瞳子の説明に、春に西園寺蓮二郎が連れてきた二人の男の子のことを思い出した。熱を出していた子が女の子みたいな綺麗な顔立ちをしていたが、医者は男の子だと言った。風呂に入れた従業員も男の子だと言っていた。

「・・・あの時の子か・・・そうか」

 瞳子の父は納得したように、そして少し残念そうに呟いた。



 一条正は議員会館から出たところだった。

 正面から黒服の男が正に近づいた。

「なんだ」

 前を向いたまま周囲に気づかれないように聞いた。正は公の場で黒服達と会うのを嫌っていた。

「例の置屋の娘、大原調子でした」

 すれ違うときに黒服の男が正にそう囁くと、正は一瞬驚いた顔をしたが、すぐ元の顔に戻り「わかった」と言った。

 黒服の男は何事もなかったように正の横を通り過ぎた。



 3


 帰省を翌日に控え、(けい)と蓮二郎は横浜に来ていた。

 西園寺邸はすべての部屋の掃除が終わって、家具や調度品は無かったが住める状態になった。

 冬至の午後の日差しが部屋の中まで入って明るかった。しかし何も無い部屋はひしひしと寒さが増して感じた。

「やっと住めるようになったね」

 京は日の当る窓際に立ち、部屋の中を見渡して言った。

「住めなくはないけれど、こう寒いと厳しいものがある」

 蓮二郎は寒さに肩をすぼめた。

「そうだね。引っ越すのは春になってからの方が良いと思うけど」

 京は蓮二郎が一条の屋敷を一日も早く出たがっているのを知っているので、複雑な気持ちだった。

「とりあえずここにカーペットを敷いて窓にカーテンを掛けたら少しは良くならないかな」

 蓮二郎が暖炉の前に立って言った。

「暖炉の火が消えたら寒いよ。ここに寝るのなら、自分の部屋にベッドを入れて使うようにした方が良いと思う」

「それはそうなんだけど・・・」

 資金の乏しい蓮二郎は言葉を濁した。

「ベッドは無理として、ムールのお婆さんが使ってない布団をくれると言っていたからもらいに行こう」

 先のことを考えると暗くなりそうなので、とりあえず布団を取りに行くことにした。

 京は泊まるためには布団が必要だと思い、安い布団屋を紹介してもらうため生馬に相談した。それを聞いていた土産屋のお婆さんが古い布団だけど使っていない物が有るからあげるよと言ってくれたのだった。

 その布団を今日もらいに行く約束をしていた。

 二人は早速土産屋に向かった。

 土産屋ではリヤカーに布団を積んで生馬が待っていた。

「すみません、遅くなって」

 京は生馬を待たせたことを謝った。

「これくらいならいつでも良いよ」

「僕たちこの後、明日の帰省の準備があるので東京に戻るのですが、このリヤカーはお借りしたままで良いですか?」

 京はリヤカーを借りたままでいいものか心配になって聞いた。

「後で取りに行くから庭にでも置いててくれる?」

「わかりました。申し訳ないですが宜しくお願いします。それとお婆さんはいらっしゃいますか?」

 京は生馬に礼を言ったあと、店の中を覗き込んだ。

「婆さんは、以前お前から預かった絵に額が付いたと連絡をもらって、それを引き取りに行っている」

「そうですか。布団のお礼を言いたかったのですが、額の件も合わせて、年が明けて戻ってからあらためてご挨拶に伺います。申し訳ないですが生馬さんからそうお伝え願えますか」

「ああ、わかった。気をつけて帰れよ」

 忙しく立ち去る二人に生馬は手を振った。

 京と蓮二郎はリヤカーを引いて西園寺邸に戻った。

 リヤカーから布団を下ろしてみると、布団は二組あった。お婆さんは気を利かせて二人分用意してくれたようだった。

 京と蓮二郎はお婆さんの優しさに触れて少し暖かい気持ちになった。

 二人は布団を和室に運びいれると、リヤカーを門柱の脇において、西園寺邸を後にした。



 一条の屋敷に戻ると、薫子と百合子が玄関の前で二人を待っていた。

 二人の様子がおかしいので、京は何かあったのかと尋ねた。

「京さん、正さんが若い娘さんを連れて来たのよ」

 薫子が憤慨した顔をして言った。

 百合子も怒っていた。

「私たちが明日から出掛けるというのに、わざわざ留守になる前に連れてくるなんて、どういう神経をしているのかしら」

 どうやら正が女性を屋敷に連れて来たらしい。

 京と蓮二郎が、薫子と百合子から話しを聞いていると、正が玄関から出てきた。

「帰ってきたか」

 正はみんなに応接室に来るようにと言った。

 応接室の中には、薫子の言っていた若い娘が椅子に座っていた。

 正は若い娘を立たせて言った。

「みんなに紹介しよう、この子は大原調子さんだ」

 大原調子と紹介された娘は、

「大原調子と申します。宜しくお願いします」と深々と頭を下げた。

 薫子と百合子は、本当の調子を知らないので、

「まあ!あの行方不明だった方!」と驚いた。

 蓮二郎は、「くそっ!」と一言呟いて部屋を飛び出した。

 京は正と調子と名乗った娘に頭を下げて「すみません、失礼します」と無礼を詫びて蓮二郎の後を追った。

 蓮二郎は二階の自分の部屋にいた。

「蓮二郎大丈夫か」

「くそっ!なんだあの娘は!」

 蓮二郎は拳を振り上げて机にぶつけた。

「蓮二郎落ち着けよ」

 京は蓮二郎に落ち着くように言った。

 正が仕掛けてきたと言うことは、調子さんのことがバレたと思って間違いなかった。

「僕はここを出る」

 帰省のために纏めていた荷物を持つと蓮二郎は京が止めるのも聞かず部屋を出て行った。

 京は蓮二郎を追いかけた階段の途中で百合子に会った。

「京さん!」

 百合子は京を呼び止めて尋ねた。

「蓮二郎さんはどうして出て行ったの?大原調子さんは蓮二郎さんの婚約者でしょう?」

「正さんと薫子さんは?」

 京は百合子に聞いた。

「下で話しているわ」

 京は百合子を自分の部屋に呼んで言った。

「百合子さん、あの調子さんは偽物なんです」

「えっ!」

 京の話しに百合子は驚いた。

「詳しいことは話せませんが、本物の調子さんは僕の実家にいます」

 京の短い説明で、勘のいい百合子は納得したようだった。

「わかったわ。正さんがまた何かを企んでいるのね。私は今の話しは聞かなかったことにする」

「ええ、お願いします」

「蓮二郎さんは飛び出して行かれたけど、行き先はわかるの」

 百合子は心配そうに聞いた。

「たぶん横浜の家に行ったんだと思います。僕もこれから行きます」

 京は纏めていた荷物を持って部屋を出ようとした。

「ちょっと待って」

 百合子はそう言って、京の部屋から出て行った。

 しばらくして戻ってくると、京に封筒を渡し、

「この封筒にお金が入っているわ、もし明日の船に乗れなかった場合に使って」と言った。

 京は驚きつつも、ありがたく受け取ることにした。

「ありがとうございます。帰ったらお返ししますので」

 京は百合子に感謝して部屋を出た。そして、下の部屋に行き、

「急に飛び出して申し訳ございません、突然、調子さんが現れて、蓮二郎君は少しパニックになったみたいです。それで落ち着くためにも、蓮二郎君と僕は今日は横浜に泊まることにします。明日になれば蓮二郎君も落ち着くと思います。船には横浜から乗ることにしますので、今日はこのまま失礼いたします。ご心配をおかけして申し訳ございません」

 と正と薫子に挨拶をした。

「まあ、せっかく調子さんが見えたのに、蓮二郎さんどうしたのかしらね」

 何も知らない薫子は心配していた。

「突然だったので、戸惑っているのだと思います」

 京はそう言って薫子を安心させた。

 薫子は「まあ」と驚いていたが、

「正さんと調子さんも明日の船で一緒に行くことになったのよ。船で会いましょうね」と言った。

 京は笑顔で「では、明日」と言って部屋を出た。


 京は自転車に荷物を積むと夕暮れの中を横浜に向けて走った。

 なんだか嫌な予感がした。

 京は西園寺邸に行く前に土産屋に寄った。店の外から中を覗くと生馬はまだ店番をしていた。

 京は自転車を止めて店に入った。

「生馬さん」

「京、どうした」

 入ってきた京を見て、生馬は驚いた。

「正が動き出しました。さっき偽の調子さんを連れてきました。明日の船で一緒に行くと言っています」

「なんだって!」

「蓮二郎が怒って家を飛び出したんです。たぶん実家に戻っていると思います。何があるかわからないので知らせておこうと思って。それから僕の荷物を預かってください。僕はこれから蓮二郎のところに行きます。もし今日僕が荷物を取りに戻ってこなかったら、たぶん明日の船には乗れないと思うので、必ず帰りますと父さんに連絡してください」

「わかった。気をつけろよ」

 京は生馬に自分の荷物を預けると、自転車で蓮二郎の家に向かった。

 西園寺邸に近づくと、京は近くの家の脇に自転車を隠し、家の前まで歩いて行った。

 家の周りはひっそりしていた。少し離れたところに見張りの気配を感じたので、蓮二郎は中にいると思った。

 京は用心しながら玄関のドアに手をかけた。後ろに誰か近づいた気配がしたので、振り向こうとしたが殴られて意識を失った。


「いたっ」

 京は後頭部に鈍い痛みを感じながら目を覚ました。

 殴られる瞬間無意識に受け身を取ったみたいで、致命傷にはならなかったようだ。それでも少しの間気を失っていたようだ。

 京は玄関に倒れていた。

 相手は急いでいたのか、手足は拘束されていなかった。

 火と煙の匂いが屋敷中を包んでいた。

 京は起き上がると居間に向かった。

 居間のドアを開けると炎が襲ってきた。京はドアを閉めて厨房に回った。厨房にも煙りが充満していた、火が回るのは時間の問題のようだった。それでも京は水道の栓を捻ってみた。水は出た。バケツに水を溜めて被り、再度バケツに水を溜めそれを持って厨房側から居間に入った。

 居間の中は火の海だった。

 京は炎を避けて蓮二郎を捜した。蓮二郎は暖炉の前に倒れていた。

「蓮二郎!」

 京は蓮二郎に賭けよって、バケツの水を掛けて呼びかけた。

 蓮二郎は動かなかった。京は頸動脈をさわった。弱い脈が感じられた。生きている。

 京は蓮二郎を担いで居間から出ようとしたが、厨房の方も火の手が回って来ていた。とっさに厨房横の地下室のドアを開けて中に入った。地下室には煙も炎もまだ来ていなかった。

 京は地下室のドアを閉めて奥に進み秘密のトンネルの入り口に蓮二郎を寝かせると隠し扉を開けた。トンネルは一人が這って行ける広さしかなかった。先に中に入り蓮二郎を引きずり込んだ。後ろ向きに這って意識を失った蓮二郎を引きずりながらトンネルを進んで梯子の下まで来た。

 京は梯子を登りそっと床板を持ち上げた。倉庫の中には誰もいなかった。京は周りの気配を探りながら慎重に動いた。まず梯子の下にあった箱を倉庫の床の上に出した。そして梯子を下りて、今度は蓮二郎を引っ張って梯子に寄りかからせた。梯子のところは一人しか通れないほど狭く、蓮二郎を抱えて上ることは出来なかった。京は肩車をするように蓮二郎を上に押し上げた。意識のない蓮二郎は重く、上半身を出すまでかなりの時間がかかった。上半身が出ると力を入れて倉庫に押し出した。京は蓮二郎に気をつけながらトンネルから出た。

 トンネルの中から煙が流れてきた。

 京は煙が漏れないように倉庫側の蓋を閉めて机の前の窓を開けた。

 蓮二郎を背負い箱を持って机に登り外に出ようとしたとき、屋敷の屋根の一部が崩れて倉庫に落ちてきた。

「!!」



 4


 (よろず)はいつになく緊張していた。

 萬が一条を出てかれこれ17年になる。

 百合子には時折手紙で連絡を入れていたが、百合が亡くなってからは、ほとんど連絡をとっていなかった。どちらかというと避けていたと言った方が当っている。

 萬は薫子からどのように思われているか気になっていた。

 京の話しだと昔と変わっていないように思えるが、薫子の大切な姪の百合を早くに逝かせてしまい、非情な男と思われているのではないかと気になった。

「父様、少し落ち着いたら」

 冬休みに入ってから旅館の手伝いをしているセンは、朝から廊下の掃除を八重から頼まれていた。その廊下を行ったり来たりしている萬は掃除の邪魔でしか無かった。

「いくら初恋の人に久しぶりに会うからといっても緊張しすぎだよ」

 萬はセンの的外れな指摘に「そこかー!」と突っ込みをいれるゆとりもなく、行ったり来たりを繰り返していた。センの声は聞こえていないようだった。

「だめだこりゃ」

 センは萬に何を言っても無駄だと思った。

 薫子達が来るのは明日なのに、今日からこの調子で明日は大丈夫だろうかと真剣に思った。

 ウロウロと一人思い悩んで歩いている萬を成治が呼んだ。

「萬さん、生馬さんから電話が入ってます」

「生馬から?」

 成治の声は聞こえたようである。

 萬は成治と電話のある帳場に向かった。

 センも気になったので、二人の後について行った。

 電話を取った萬の顔が緊張した。声のトーンが落ちた。

「それで」

「そうか、わかった」

「宜しく頼む」

 それだけ話すと電話を切った。

 萬はセンに、

「明日着く船に京と西園寺君は乗っていない、その船には薫子さんと百合子さんの他に一条正と偽の調子さんが乗っているらしい」と言った。

 京と西園寺が船に乗っていない。センは京のことが気になった。

「京兄と西園寺に何か有ったの?」

「わからない」

 萬が重苦しい顔で言った。

「でも、必ず帰ると京が言っていたそうだ」

「何か有ったんだね。わかった」

 センは頷くと帳場を出て調子(ちょうこ)を捜しに行った。

 調子もセンと同様で旅館の手伝いをしていた。

 二階に上がり、朝に客が出て空いた客室を覗くと、調子は八重から宿泊客が帰った後の客室の片付けを教わっていた。

「八重さん、調子さん借りてもいい?」

 センは八重に声を掛けた。

「あら、セン、廊下の掃除は終わったの?」

 八重はセンの朝の仕事を聞いた。

「父様がウロウロするから、仕事にならなかった」

 センはまだ終わってないと八重に言った。

「珍しいよね。萬さんがあれほど緊張するなんて、どんな人が来るのか楽しみだね」

 八重はセンが掃除できなかった様子を想像して笑った。

「京兄の話しだと優しい人みたいなんだけど・・・」センは困った顔をした。

 八重は笑いながら、

「ちょっと萬さんの様子を見てくるよ」と言って出て行った。

 どうやら八重は、センに気を遣ってくれたようだった。

「センちゃんどうしたの?」

 調子はセンの様子が気になっていたようで、八重が出て行くとすぐに聞いた。

「明日の船に、京兄と西園寺は乗ってないって」

「えっ!」

「何か有ったみたいだ。京兄達の代わりに、一条正と偽の調子さんが一緒に乗ってるらしい。もっとも、一条正が来るのは瞳子さんに聞いたから予定通りなんだけど、偽の調子さんも一緒に来るとは思わなかった」

 センは調子に話しながら少し考えて、

「僕ちょっと出掛けてくる」と言って、萬のいる帳場に向かった。

 帳場では萬が成治と何やら深刻な顔をして話していた。

「父様」

 センは萬に声を掛けた。

「セン、お前は心配しなくても大丈夫だ」

 萬が妙に真面目な顔でセンを見て言った。

「やはり京兄達に何か有ったんだね」

 センの問いに、

「何でも無い、京達の帰省が遅れたので、彼らに頼んでいた旅館の仕事について成治と打合せをしていたんだよ。それより、調子さんには伝えたのか?」

 萬は言葉を濁し話題を変えてきた。

「西園寺が明日帰らないこと?伝えたよ」

「そうか」

 センは萬の様子をおかしいと思ったが、それ以上は追求しなかった。

「それより父様、僕は今から婆様のところに行こうと思うけど、出掛けても大丈夫かな?」

「婆様のところ?」

「京兄の戻ってくるのが遅れたら、僕も旅館の手伝いで忙しくなるでしょう。今のうちに年末の挨拶に行こうと思って」

「そうだな、忙しくなる前に行った方がいいな。分かった気をつけて行っておいで」

 センは萬から出掛ける許可をもらい婆様のところに出掛けて行った。

 センは細心の注意を払い裏道を通って婆様のところに行った。



 5


 翌日、(よろず)は薫子と百合子を迎えに港に来ていた。

 京と蓮二郎が一緒であれば、二人が薫子と百合子を連れて旅館まで案内して来ることになっていた。しかし、彼らは船に乗ることが出来なかったので、萬が迎えに行くことになった。

 生馬の電話の後、萬の注意は(せい)に向き、薫子に対しての変な緊張感は無くなっていた。

 船が港に着き、乗客が降りてきた。

 萬は客の中に一条正(いちじょうせい)を見つけた。見つけたと言うより、視線を感じたので、その方向を見たら一条正がいたと言った方が当っている。正の後ろに若い娘が立っていた。この娘が調子の偽物だろう、少し調子に似ていた。

 薫子はその娘の少し後ろに百合子と一緒にいた。萬に気がついて手を振った。

 船を下りた正は萬に目もくれず、迎えに来た車に娘と一緒に乗り込んで去って行った。

 萬は港に残された薫子と百合子のところに行った。

「久しぶり!萬さん!」

 薫子が嬉しそうに萬を見た。

「ご無沙汰して申し訳ございません」

 深々と頭を下げる萬に、薫子は同じように頭を下げた。

「こちらこそ、突然来てしまってごめんなさい」

「いえ、慣れない船旅でお疲れでしょう。人力車を用意していますので、街を見ながら旅館まで案内いたします」

 萬は待たせていた佐の助の人力車に二人を乗せて旅館に向かった。



 一条正は別荘に着いた。

 出迎えた従業員の中に見知らぬ女性がいた。

 支配人に確認すると、支配人は自分の娘の瞳子(とうこ)だと紹介した。

 今まで他で働いていたが、この春から別荘を手伝うようになったと説明した。

 正は瞳子を呼んで、自分が連れている少女の面倒を見るように言った。

 少女は大原調子と名乗った。

 瞳子は先日あったセンの友達と同じ名前だと思った。そして、少女の顔がどことなくあの時の少女と重なった。

「お願いできるかな」

 一条正は改めて瞳子に聞いた。

 瞳子は動揺を隠しながら「はい」と答えた。



 センと伊助と調子は仲居に雑じって萬が戻ってくるのを待っていた。

 萬が薫子と百合子を案内して旅館に入ってくると、みんな一斉に、

「いらっしゃいませ」と二人を迎えた。

「まあ!」

 薫子と百合子は驚いて萬を見た。

 萬は苦笑しながら「いらっしゃいませ」と改めて挨拶をした。

「どうぞ上がってください。薫子様達のお泊まりになる旅館とは違って、庶民向けの旅館でたいしたことも出来ませんが、精一杯のおもてなしをさせて頂きます」

 センと伊助は佐の助から二人の荷物を預かり、部屋に運ぶ役目をしていた。目立たないように二人が部屋に入る前に荷物を運び入れた。

「父様の顔見た?」

 センは笑いながら言った。伊助も笑いながら頷いた。二人は客と会わないように裏階段から降りた。

 萬は薫子と百合子を二階の部屋に案内した。

「夕食は部屋に運ばせますので、それまでゆっくりしていて下さい」

 萬はそう言うと、部屋を出て行った。


 部屋の窓から海が見えた。さっき船で通ったところだ。海と言うより川のように見えた。

「お母様、まだ船に乗っているみたいだわ」

 百合子が海を見ながら言った。

「そうね、私もまだ揺れているみたい」

 薫子も久しぶりの遠出に疲れたようだった。

「お母様、お茶をもらってきましょうか?」

 百合子が薫子に話しかけたとき、部屋の外から声がかかった。

「失礼いたします。入っても宜しいですか?」

「どうぞ」

 百合子が返事をすると、襖が開いて若い仲居が入ってきた。

「お茶のご用意を致しました」

 仲居はお茶の入ったお盆を持って入ってきた。

 お盆を部屋の小卓に置くと出て行った。

「今の子が京さんの彼女かしら?」

 百合子が薫子に聞いた。

「違うわ」

 薫子はきっぱりと否定した。

「どうして?」

「塔子さんにも東郷さんにも似ていないもの」

「そうね、言われてみれば・・・どちらかというと、昨日あの人が連れてきた調子さんに似ているかも・・・」

 百合子は自分で言って驚いた。京は本物の調子は実家にいると言っていた。では今の仲居がそうなのかも知れないと思った。

「どうしたの?百合子」

 百合子の様子をおかしく思ったのだろう。

「何でも無いわ。私ちょっと散歩してきます」

 百合子は薫子を残して部屋を出た。

 部屋を出てすぐに、お茶を運んで来た仲居を捜した。

 階段を降りた廊下の隅で捜していた若い仲居と少年がなにやら話しているのを見つけた。

 百合子はそっと近づいて声を掛けた。

「あの・・・」

「なに?」

 少年が振り向いた。

 百合子は少年の少女のような面差しを見て、この子が京の好きな子だと瞬間的に思った。そして少年の顔を何処かで見たような気がした。

「あ、お茶が合いませんでしたか?」

 若い仲居が心配そうに尋ねた。

「いえ、そうじゃなくて。あなたを捜していたの」

「わたしを?」

「あなたもしかして、大原調子さん?」

 百合子から意外な名前が飛び出したので、二人は警戒するように百合子を見た。

「大丈夫よ、誰にも言わないから」

「誰からそれを聞いた」

 少年が顔に似合わない鋭い目をして聞いた。

「京さんから」

 百合子がそう答えると。

「京兄から!」

 少年は驚いた。

「ええ」

「その時の話しを教えて」

 少年と調子は百合子を空いている部屋に連れて入った。

 部屋に入ると、少年は京から聞いた経緯を詳しく話すように百合子を促した。百合子は問われるまま、正が偽の調子を連れてきたときの話しをした。

「そうか、それで同じ船に乗れなかったんだね」

 少年と調子は百合子の話を聞いて納得をしたようだった。

 話しが終わったので、百合子は少年に名前を聞いた。

「僕の名前はセンだよ」

 疑いが晴れたせいか、百合子がドキッとするくらい爽やかな笑顔で教えてくれた。

「そして、こっちが本物の調子さん」

 調子をあらためて紹介してくれた。

「わたしは、」

 百合子が名乗ろうとすると、センは、

「百合子さんでしょう?父様の初恋の人」と言った。

「は?」

 百合子は一瞬何を言っているのか分からなかった。

「あ、ごめんね。驚いた。でも父様の初恋の人は本当の話しだよ」とセンは百合子に思わせぶりなウインクを送った。

 そこへセンと調子を捜していた萬が部屋の襖を開けた。

「こら、セン。そこで何をしている。八重さんが捜していたぞ」

 センと調子は「ごめんなさい」と言って、慌ててその場を後にした。

 萬は百合子に気付かずに、襖を閉めようとした。

「あの、萬さん」

 百合子が萬に声を掛けたので、初めて百合子が部屋の中にいることに気がついた。

「百合子さん、こんな所でどうしたんです」

 萬は少し慌てて百合子を見た。

「ごめんなさい。私が二人を呼び止めて話しを聞いていたの」

「話し?」

「ええ、この辺を散歩するには何処がいいか教えてもらっていたの」

 百合子の話に萬は納得したようだった。

「ところで、萬さんにお願いがあるのだけれど、夕食をあの二人に持って来てもらうことは出来ませんか」

「センと調子さんに?」

「ええ、お願いします」

 萬は訝リながらも、センも調子も薫子に紹介しなければならないと思っていたので、百合子の申し出を受けることにした。


 百合子は萬と別れると部屋に戻った。

 薫子は窓辺の椅子に座ってうたた寝をしていた。百合子は荷物の中からストールを出して、薫子に掛けた。

 そして薫子の横の椅子に座り暮れゆく海を見つめて、センが言った「父様の初恋の人」について考えた。

 百合子は萬より三つ年上だ。子供の頃は萬をかわいがってはいたけれど、いくら考えても萬が自分のことを初恋の対象と見ていたなんて思えなかった。

 自分はどうだったろう。百合子は昔のことを思い出していた。

 女学校を終えた私に、母は結婚を勧め見合いを北条の実家に頼んでいた。それを正が無断で断って、私はここにいたら結婚もできないと諦めて泣いていた時があった。

 その頃萬は中学生で、百合子に「姉さんが結婚できなかったら、僕が大きくなったら面倒を見てあげるから泣かないで」と慰めてくれたことがあった。

 その時百合子はその言葉に救われた。姉を思って精一杯の気遣いをしてくれた萬に感謝した。

 感謝だけだったろうか?私はその後、萬のその言葉に甘えて結婚を考えなくなったような、というより、私は男の人を好きになったことが無かったような気がする。いつも心の何処かで、私には萬がいるからと思っていたのではないだろうか。

 私の初恋は、そこまで考えて百合子は頭を振った。

「それは、ありえない」

 思わず声に出して否定した。

 そうしないと百合子は自分の初恋が萬だと認めたような気がしたからだ。



 夕食の支度が出来たので部屋に持って来ても良いかと仲居が聞いてきた。

 薫子はまだ窓辺でうたた寝をしていた。

 百合子は夕食を運んでもらうようお願いして、窓辺に行き薫子に声を掛けた。

「お母様、お夕食の時間ですよ」

 薫子がかすかに目を開けた。

「あら、もうそんな時間なの」

 薫子を起こしている間に、仲居が三人、食事の膳を持って入ってきた。

 一人は調子だったが、他の仲居はあの少年ではなく、若い仲居とベテランらしい仲居だった。

「こちらに置いても宜しいですか?」

 調子が百合子に声を掛けた。

「ありがとう、そこに置いてちょうだい」

 年上の仲居は二人が置いた膳にご飯と汁物を置いた。そして二人に後をよろしくと言って部屋を出て行った。

 百合子は薫子を起こして、膳の前に連れて行こうとした。

 まだ少しふらつく薫子を若い仲居が支えた。

「ありがとう」

 百合子は薫子を支えてくれた若い仲居の顔を見て驚いた。

「あなた、さっきの」

「父様が百合子様のご要望で僕たちに夕食を運ぶように言われたそうなので」

「あなた女の子だったの!」

 センは女学生用の付け毛を着けて、仲居の着物を着ていた。

 その時薫子がセンの顔を見て、突然抱きついた。

(ひろ)!」

 抱きつかれたセンは、驚いて思わずよろけそうになった。

「お母様、その子は尋さんじゃないわよ」

 百合子はセンが転けないよう薫子を後ろから抱き留めた。

「え?でも尋に似てるわ」

 薫子はセンの顔をじっと見て言った。

「尋って、誰です?」

 センは尋ねた。

「萬のお母様よ」

 膳の前に座りながら薫子が言った。

「父様の?」

 センは萬から聞いたことがなかったので首を傾げた。

「とてもよく似てるわ」

 薫子は懐かしむようにセンを見た。

「もしかして、あなたが京さんの言っていた、塔子さんの子供なのね」

 薫子は目を細めて嬉しそうにセンを見た。

「京兄が僕のことを話してた?」

 センは京から薫子のイヤリングを貰って、まだお礼を言ってなかったことを思い出した。

「あ、あの、センと申します。お礼が遅くなってすみません。京兄から薫子様に頂いたとても綺麗な耳飾りを貰いました。ありがとうございました」

「やはり、あなたが京さんの決めた人なのね」

 薫子は嬉しそうにポンと手を合わせた。

「嬉しいわ、私の孫と尋の孫が一緒になるなんて、こんなに嬉しいことはないわ」

 まだまだいろいろ話したいことがあるような薫子を百合子が止めた。

「お母様、彼女たちはお仕事中なのよ、早くお夕食を頂きましょう」

「ああそうね、ごめんなさい。また後でゆっくりお話ししましょう。そちらの方もごめんなさいね・・・?」

 薫子は調子を見て不思議そうな顔をした。

「あなた、絢子(あやこ)さんの・・・?」

「絢子は母です」

 調子が答えた。

「え?でも昨日、正さんが連れてらした・・・」

 薫子は訳が分からなくなったみたいだった。

「お母様、そのお話も後でゆっくり聞きましょう」

 百合子が言ったので、薫子は仕方なく食事を取ることにした。

「それでは、お食事が終わられた頃また伺います」

 センと調子は部屋を後にした。


 センは薫子の部屋を出ると、仲居の着物からいつもの袴姿に着替えて、伊助の手伝いに回った。京の手を当てにしていたので、その分センの仕事も増えていた。

 手伝いの途中で萬とすれ違ったので、センは尋について聞いてみた。

「父様、僕、尋さんという人に似ているらしいけど、父様は一度も言ったこと無いよね」

 萬は驚いて、まじまじとセンの顔を見て言った。

「薫子さんがそう言ったのか?」

「うん」

「少し似てるかも知れないが、父さんから見たら、センはセンにしか見えない」

 萬はそう言って、少し考え込んだ。

「しかし、薫子様がそう言うのならそうなんだろう。そうだとしたら、セン、一条正が見てもそう思うかも知れないから、これまで以上に外に出るときは気をつけた方がいい」

 萬はセンに注意するように言った。

「うん、分かった」

 センも正がこっちにいる間は気を付けようと思った。

 慌ただしく一日が終わり、結局、センと調子はその日は薫子の部屋に行けなかった。



 6


 クリスマスになっても(けい)と西園寺は帰ってこなかった。

 誰もが心配して帰りを待っていたが、なんの音沙汰も無かった。

 センは早くからYMCAのクリスマス会に行く予定にしていた。

 萬は心配して、行くのを止めるように言ったが、前からの約束だからと中止しなかった。

 昼過ぎにキャサリンとカイリが迎えに来た。

 カイリからアインシュタイン博士がYMCAのクリスマス会に来ると聞いたので、その時間に会わせて出掛けることになっていた。

 センは一条正(いちじょうせい)から(ひろ)の孫と気付かれないよう、カイリと入れ替ることにしていた。カイリに着物と袴を着てもらい、センは京の中学の制服で行くことにした。そして二人ともに中学の帽子を被り、顔が分からないようにした。

 カイリは体型がセンと似ていたので、後ろから見ると見分けが付かなかった。

 今日は伊助も旅館の仕事を早めに切り上げて一緒に行くことになった。

 伊助はセンと同じように中学の制服と帽子を着けていた。

「僕はキャサリンと一緒にいるから、カイリは調子さんをしっかり守ってくれよ。伊助も僕がキャサリンから離れたらキャサリンを頼む」

 センはカイリが着て来たコートを学生服の上から羽織り、入れ替ったのがバレないようにして、五人はクリスマス会に出掛けて行った。


 YMCAの前は思ったより多くの人が集まっていた。

 五人は離れないよう近くに固まっていたが、人波に押されて調子とカイリは三人から少し離れたところに行ってしまった。

 クリスマス会が始まった。

 アインシュタイン博士はまだ来場していなかったが、人々はざわめきクリスマスを祝い始めた。

 人が動いたので、センは流れに飲まれて、一瞬調子達から目を離した。視線を戻した時には二人の姿は見えなくなっていた。



 秋山瞳子は一条正が利用する別荘の三階の自室の窓から外を眺めていた。

 センがYMCAのクリスマス会に行くと言っていたのを思い出しながら、出掛けるべきか迷っていた。

 別荘の表玄関でなく、脇の道に自動車が止まるのが見えた。

 その場所には地下室に入るドアがあるのを瞳子は知っていた。

 車から黒い服を着た男が二人出てきた。

 瞳子はこの黒服の男達が父の命令で動いているのを知っていた。

 男達は車の中から少女を抱いて出していた。少女はあらがうこと無くダラリとして、意識が無いように見えた。少し顔が上を向いて少女の顔が見えた。瞳子はその顔に見覚えがあった。センと一緒にいた大原調子と名乗った少女だった。

 先日、同じ名前の少女を一条正が連れていた。

 瞳子の頭の中に警報音が響いた。

 少女に続いて車から袴姿の少年が調子と同じような状態で担ぎ出された。

「セン!」

 思わず瞳子は叫んでいた。

 瞳子は慌てて部屋を飛び出したが、直接地下室に乗り込む勇気はなかった。

 センはYMCAのクリスマス会に行くと言っていた。そこへ行けば京がいるかもしれないと瞳子は考えた。

 階段を降り二階に差し掛かったところで、一条正ともう一人の大原調子と出会った。

 瞳子は二人が階段を降りるまで、立ち止まり頭を下げて待った。

 二人が一階の玄関前に進んだのを見て、瞳子は別の階段から下に降りた。

「おや、瞳子さん、何処へ行かれるのかな?」

 階段を降りたところで、一条正に声を掛けられた。

 従業員用の階段にいると思わなかったので、瞳子は驚いた。

「はい、YMCAのクリスマス会にあのノーベル賞を取られたアインシュタインさんが来られると聞いたので、これから行こうと思っています」

 瞳子は動揺を抑えてそう答えた。

「ほう、私たちも今から行こうと思っていたところだよ。瞳子さんが案内してくれると助かるのだが」

 有無を言わせない威圧感があった。

 瞳子は仕方なく一緒に行くことにした。


 YMCAではアインシュタイン博士が到着したらしく、人垣が出来ていた。

 一条正は人垣を見て、

「私は遠慮するので、二人で見ておいで」と言って帰って行った。

 瞳子は一条正がいなくなって助かったが、今度は攫われた調子達のことが心配になった。急いで京を捜さないと間に合わないと思った。

 瞳子は人垣の中を偽の調子に気付かれないよう京を捜した。

「あ、ごめんなさい」

 誰かにぶつかって、持っていた物を落としてしまった。

 拾おうとして腰をかがめたとき、横から「何処にいる?」と小さく囁くように声が聞こえた。

 瞳子は横を見て驚いた。そこには学生服を着たセンがいた。

 薫子は「地下室。入って左手奥のドア」と小さく言った。するとセンは「分かった」と言って去って行った。


 センは佐の助と合流して、別荘を目指して走った。

 だいたいの状況は瞳子に聞くまでもなく分かっていたが、別荘の何処にいるかを知りたかった。

 別荘に着くと、使用人が止めるのも聞かず、センは玄関から左手のドアをめがけて走った。

 ドアを開けて階段を降り、廊下を進んだところに、別荘の下の道から直接地下に入れるドアがあった。ドアの前で黒服の男が一人倒れていた。センはその男を飛び越えて廊下を進んだ。

 廊下の突き当たりにドアがあった。

 センは思いっきりドアを開いた。

 部屋の中にはベッドが二つあり、一つに調子、もう一つにカイリが寝ていた。

 調子の側に一条正が立っていた。

 正は驚いたようにセンを見た。

「調子さんに何をしている!」

 センは正に向かって叫んだ。

「おまえは誰だ!何故ここに来た!」

「僕は調子さんの友達だ、お前こそ調子さんを放せ!」

 正はまじまじとセンの顔を見た。

「お前の顔は何処かで見たような気がする。そうだ尋に似ている。そうかお前が萬の子か。じゃあこっちの子は替え玉だな」

 落ち着いた口調で正が言った。

「それがどうした」

「何故お前が来た?京や蓮二郎はどうした?」

 正はセンが一人で乗り込んできたのが意外という顔をした。

「何を言っている、お前が京兄達に何かしたんだろう」

「京はまだ戻っていないのか?」

 正は少し驚いた顔をしたがすぐにセンを見下したような顔に戻った。

「とぼけるな、お前が何かしたんだろう!」

 間合いを伺うセンに、正はセンを見据えたまま、正は調子の側から少しずつ離れた。

「逃げるな!何故イズミを殺した!」

 センは正と一定の距離を取りながら調子に近づく。

「私は殺してはいない。指一本触れるなと言ってあった。あれは事故だ」

「何故イズミを攫った」

「珍しく蓮二郎があの少女に興味を持ったから調べてみたら、大原の血縁だったからだ」

「攫ってどうする気だった」

「話しをしようと思っただけだ」

「うそだ!調子さんを妹の奏子(かなこ)さんと同じように殺そうと思ったんだろう」

「はて?なんのことかな?私は子供を殺す趣味は無い」

 センの話しに答えながら正は部屋の隅に移動していた。

「大原に強盗に入ったときに殺しただろう」

「大原の強盗?あれは私ではない」

「じゃあ何故調子さんを攫った」

「この女が蓮二郎のことをどう思っているか知りたかっただけだ」

「調子さんと西園寺は婚約を継続すると決めた。お前が心配する必要は無い」

「そうか婚約を継続すると決めたのか」

 正はそれを聞くと何処かホッとしたような顔になった。

「京と蓮二郎に言っておけ、二藤(にとう)に気をつけろとな」

「二藤って誰だ?」

 正はセンを見ながら今度は冷たく笑った。

「一つだけ教えておこう。お前の顔は二藤の好みだ。あれは男でも女でも子供であれば良いという奴だから、せいぜい気をつけるんだな」

 正は壁に手を当てると、壁がクルリと回った。

 去り際に「萬に、一条の家に戻れと伝えろ」と言って消えた。

 センは急いで壁のところに行き、押してみたがピクリともしなかった。

「くそっ!」

 拳を振り上げて叩いてみたが、壁は動かなかった。

 センは調子とカイリを起こした。

 幸い二人はすぐに目を覚ました。

 センはこんな所に長居は無用と二人を連れて廊下に出た。

 黒服が倒れていたドアの側に佐の助が待っていた。

「やはり佐の助が倒してくれたんだね」 

 センは佐の助に礼を言った。

「一条正はどうしました?」

 センは悔しそうな顔をして「壁が回って、逃げられた」と言った。

「そうですか。この別荘は隠し扉もあるのですね」

 佐の助は思案顔になった。

「ところで佐の助はどうしてこの扉に気がついたの」

「別荘を見張っていた時に、偶然車が止まり、このドアから二人を運び入れていました」

「そうか、それで僕を呼びに来た佐の助と別荘に向かう僕が合流したんだ」

「センが正面から突破したので、ここを見張っていた二人がそちらに向かい、手薄になったドアを開けたら中に一人残っていました。男を外に出す前に二人が戻ってきたので相手をしてたら遅くなってしました」

「ありがとう。ところで、奴らは婆様が連れて行ったの」

「いえ、警察が来て連れて行きました」

「警察が?」

 センはいつもと違う手順に首を傾げた。

「こちらの扉から出ますか?」

「うん、なんだか様子がおかしい、こっそり抜け出した方が良いみたいだ」

 センと佐の助を含む四人は別荘の地下出口から誰にも気付かれないように出て行った。


 家に戻ると、キャサリンと伊助が待っていた。

 二人はセン達が無事に帰って来たので喜んだ。

 センと伊助は旅館の仕事が残っているので、詳しい話しは後日にすることにして、佐の助にキャサリンとカイリを送るように頼んだ。

 センは二人を見送って、調子に今日は休むようにと良い、萬を捜しに旅館の建物に行った。



 7


 旅館へ行くと、玄関前で「泊めろ」「泊められない」と誰かと(よろず)が言い争いをしていた。

 こっそり覗いてみると外国人が二人立っていた。

 二人と萬は何故か日本語で言い合っていた。

 センはそのうちの一人になんとなく見覚えがあった。年を取っているけれど、数ヶ月前に来たセバスチャンに似ていた。

 センはその外国人に近づいて聞いた。

「もしかして、セバスチャンさんのお父さんですか?」

 老セバスチャンが驚いてセンを見た。そしてセンの顔を見て、

「ソフィア様!そうですセバスチャンです」

 と言って抱きついてきた。

「いや、僕はソフィア様じゃないから」

 センはセバスチャンを引き剥がした。

 すると今度は横にいた少し小太りの男性が手を広げて抱きついて来ようとしたので、センは萬の後ろに逃げた。

「私のかわいい孫よ、何故逃げる?」

 小太りの男性は寂しそうな顔をした。

「セン、この人達を知っているのか」

 萬が驚いて聞いた。

「僕のことを孫って言ったから、爺様の関係の人じゃない?」

「ああ、あの・・・」

 萬が受け入れたくないような顔をして天を仰いだ。

「ユーリーお爺さまですよね」

 センがユーリーに向かって確認すると、小太りの男性は満面の笑顔でうんうんと頷いた。

「すみません、ユーリーお爺さまとセバスチャンさんのお父さん、京兄はまだ戻っておりません」

 センは二人に京が戻っていないと伝えた。

「ケイ様はいらっしゃらないのですか?」

 老セバスチャンが言った。

「では、ケイが帰るまで待たせて貰おう。帰ってくるまで孫と一緒に居るのも良いだろう。この旅館には泊まれないのか」

 ユーリーが旅館を見渡して言った。

「どうする父様」

「他の旅館は全部空いてなかったそうだ」

 萬が困った顔で言った。

「ああ、それで、泊めてくれと言っていたんだね」

 センは理解した。

「しかし、うちも満室だからなあ」

「仕方ない、薫子さん達を家の方に泊めて、あの部屋を開けて貰ったら?」

 センがそう提案したが、萬はいい顔をしなかった。

「じゃあ、この二人を家の方に泊めるしか無いね」

「しかし外国の王族の方を普通の家に泊める訳にはいかないだろう」

 萬はまだ悩んでいる。

「良いんじゃない、爺様が使っていた部屋が空いてるし、そこに案内しよう」

 センはそう言うと、ユーリーと老セバスチャンに自分についてくるように言った。

 二人は旅館を出るとセンについて別の通りから家に入った。

 靴のまま上がりそうになったので、日本では玄関で靴を脱ぐのだと教えた。そして、むかし爺様が使っていた部屋に案内した。

 部屋は14畳くらいの洋室で、ベッドと文机と本棚と揺り椅子があった。

 爺様が亡くなって10年になるが、部屋は当時のままで、掃除以外に入ることは無かった。

「この部屋は、左衛門爺様が使っていた部屋です」と説明すると、

「左衛門爺様とは誰ですか?」老セバスチャンが聞いたので、

「左衛門爺様はハリス爺様のことです」とセンは答えた。

 二人はハリスの名前を聞くと感慨深げに部屋を見渡した。

「こちらは旅館と違って、丁重なおもてなしは出来ませんが、ゆっくりして下さい」

 二人は壁に掛けてあった一枚の絵を見ていた。

 それは優しく微笑む女性の肖像画だった。爺様の妻を友人の画家が爺様の話を聞きながら描いてくれた絵だと爺様から聞いたと、昔母様が言っていた。

「ソフィア様の絵がある。ここはハリス兄様のいた部屋に間違いない」

 ユーリーはそう呟いた。老セバスチャンも頷いていた。

 二人を残して部屋を出ようとしたセンを、老セバスチャンが呼び止めた。

「私たちの荷物が後で届くと思います。大きなトランクが三つあります。とても大事な荷物なので、丁寧に扱って貰えますか」

 センは「分かりました、荷物が届いたらお持ちします」と言って部屋を出て行った。

 内廊下から旅館に戻ると、帳場にいた萬に爺様の部屋に案内したことを伝えた。そして、クリスマス会であった出来事を話した。

「一条正の話が本当だとすると、西園寺のことを心配して調子さんを攫ったみたいなんだ。それから京兄と西園寺が戻っていないのはおかしいと思っているみたいだった。それにね、大原奏子さんの件は二藤という人の犯行らしいよ」

「二藤?」

「この二藤って人は、子供なら男も女も関係ないって言ってた。僕の顔はその人の好みらしいから気をつけろと言われた」

 気持ち悪そうにセンが言った。

「そうか、それが本当なら今まで以上に気をつけた方がいいな」

 萬は世の中にはそんな人間がいることは知っていたが、身近に現れるとは思っていなかった。センに気をつけるよう言ったけれど、薄ら寒さを覚えた。

「うん、あ、それから、最後に父さんに伝えてと伝言を頼まれた」

「伝言?」

「うん、一条家に戻れって言ってたよ」

「一条家に戻れって、どういうことだ」

 萬は首を捻った。

「知らない、もしかしたら、一条正って僕たちが思っているほど悪じゃ無かったりするんじゃない。西園寺を心配するのを見てたらそんな気がしてきた」



「ごめん下さい」

 萬とセンが話していると、新たな人物が旅館を訪れた。

「はい」

 玄関に出ていた成治が対応しているようだった。

 しばらくその人物と話していた成治が萬のところに来て言った。

「さっき外国人が来たでしょう。不法入国の疑いがあるから調べたいと言う方が来ました」

「さっきの外国人は、左衛門爺さんの弟だったんだ。家の方に泊めることにした」と萬が言ったので成治は驚いた。

 萬は直接話しを聞くために、玄関に出て行った。

 センは柱の陰からこっそり覗き見することにした。

 玄関に立っていた人物は、黒服を着た痩せたカマキリのような男だった。

「どのようなご用件でしょうか?」」

 萬は黒服の男に聞いた。

「私は外務省の者ですが、先ほど外国人がこの旅館の前で騒いでいたと聞きました。最近不法入国者が増えているので、何か有ったのではないかと確認にきました」

「失礼ですが、外務省のどなたですか?お名前を教えて頂けますか?」

 萬は注意深く男を観察した。

「失礼いたしました。私は外務大臣の秘書をしている二藤(にとう)と申します」

 萬は少し驚いた顔をした。

「外務大臣の秘書の方ですか、どなたがそのようなことを申したが存じませんが、先ほどの外国人はもう帰られましたので、特に何か有ったと言うことはございません」

 萬の答えに、二藤と名乗る男は、

「隠されるとあなたも同罪になりますよ」とジロリと萬を睨んで言った。

「いえ、隠すことは何もございません」

「そうですか、では家捜しをさせて頂いてもよろしいですか?」

 二藤はしつこく萬に食い下がってきた。

 萬は少し腹が立った。この二藤という男は明らかにおかしかった。

「では、外務大臣直々に来て頂けますか」と萬が言ったとき、

「まあ、東郷様がいらしているの」

 萬と二藤の間に、突然薫子が入ってきた。

「あら、東郷様は何処?」

 薫子はキョロキョロ見回して二藤を見て言った。

「あなた、貴族院議員の三邊(みなべ)様の秘書の、たしか、二藤様」

 薫子が現れたことで、二藤は顔色を変えた。

「申し訳ございませんが、お帰り願いますか」

 萬が言うよりも先に二藤は旅館を出て行った。

「薫子様、ありがとうございます」

「いいえ、ちょっと下の話し声が聞こえたので、余計なお世話かも知れないと思ったけれど、あの男が嘘を言っているのが許せなくて、思わず飛び出してしまいました」

 薫子はスッキリした顔をして言った。

「あの男は、三邊(みなべ)議員と一緒に(せい)さんを訪ねて来たことがあったので知っていましたのよ。東郷様の秘書を語るなんて許せないわ」

「ほんとに助かりました」

「政治家の方だったらたいていの人は存じているから、いつでも言ってちょうだい」

 薫子はそう言って二階に戻って行った。



「ごめん下さい」

 萬が玄関にいる間に、また誰かが訪れた。

「すみません、少し大きな荷物なんですが、玄関に運んでも良いでしょうか」

 今度は運搬屋だった。

 扱い注意の大きなトランクが三つあると言った。

 萬が受け取りをすると、運搬屋は玄関にトランクを三つ置いて帰って行った。

「これは誰の荷物だろう」

 宛名は旅館宛で、ユーリー・サエモンナールと書いてあった。

「ユーリー?」

 萬は宛名を読んだ。それを聞いたセンが出てきた。

「老セバスチャンさんが荷物が来るので丁寧に扱ってくれと言っていたよ」

「そうか、じゃあ裏に運ばないといけないな。センは手伝えるか」

 萬がセンと話していると、トランクの一つがゴトゴト動いた。

 驚いて見ていると蓋が開いて中から京が覗いていた。

「京!」

 萬が思わず声を出しそうになるのを京が止めた。

「シッ、父さん静かに」

 京は小さな声で萬に言った。

「とりあえずこのトランクを家の方に運んで欲しいんだけど」

 京は玄関に誰もいないことを確認するとトランクから出てきた。

 成治と萬が重い方を、京が出て空になったのをセンが、そして残った一つを京が持って家に運んだ。

 家の居間にトランクを置くと、京はトランクの一つを静かに開けた。中には蓮二郎が入っていた。

 蓮二郎は全身を包帯でぐるぐるに巻かれていた。

「どうしたんだ、これは・・・」

 萬は驚いて、それ以上言葉が出なかった。

 センは調子を呼びに行った。

「蓮二郎、やっと帰ってきたよ。動けるか?」

 蓮二郎は京の手を借りてトランクから出てきた。見るからに痛々しい状態だった。

「蓮二郎は、手と足を骨折していて一人では動けないんだ。声も枯れていて、医者の話だともうしばらくは声を出さない方がいいと言っていた」

 センが調子を連れてきた。

 調子は蓮二郎を見るなり駆け寄った。

「蓮二郎さん、大丈夫?」

 調子は涙声で肩を震わせていた。そんな調子を見て、大丈夫と言うように蓮二郎は少し笑ったように見えた。

「ところで、ユーリーさん達はもう着いた?」

 京が尋ねたので、センは「来てるよ」と言った。そしてユーリー達を呼びに行った。

 センに呼ばれて、ユーリーと老セバスチャンが部屋から出てきた。

「おお、京、無事に届いたか」

 ユーリーは腕を広げて京を歓迎した。

 京はユーリーにお礼を言った。

「この度は大変お世話になりました」

「いやいや、たまたまタイミングがあって良かった」

「ありがとうございます、ユーリー様のおかげで僕も蓮二郎も無事に帰ることが出来ました」

 京と蓮二郎はユーリーに頭を下げた。

「セン、調子さんを手伝って、蓮二郎の部屋に布団を敷いてくれないか」

 京は萬と二人で蓮二郎を抱えると部屋に連れて行った。そして、調子を蓮二郎の看護に付けた。



 8


 慌ただしかったクリスマスの夜は更けて、(よろず)とセンは旅館の仕事が落ち着いた時間を見計らって、京と一緒に、ユーリーと老セバスチャンのいる左衛門爺さんの部屋に集まった。

「話しを聞く前に、セン誕生日おめでとう」

 萬はセンに小さな箱を渡した。

「ありがとう、父様。今日はいろんなことがありすぎて、僕、自分の誕生日を忘れていた」

 センは萬からの贈り物を満面の笑みで受け取った。

「僕も、これを」

 京も小さな箱をセンに渡した。

「セン、私たちからも贈り物があるんだ」

 ユーリーと老セバスチャンが大きなトランクの中から箱を取り出した」

「わあ、ありがとう」

 センはそれぞれの贈り物を受け取った。

「開けてみてもいい?」

 センがみんなの顔を見て尋ねると、みんな笑顔で頷いた。

 萬は柘植(つげ)の髪留め、ユーリーと老セバスチャンからは淡いブルーのドレスと白い靴、京の箱には小さなサファイアの指輪が入っていた。

「ありがとう」

 センは髪留めを髪に付け、指輪を人差し指に入れて、ドレスを胸に当てて、笑顔でみんなを見た。

 萬が京に聞いた。

「何故指輪にしたんだ?」

「蓮二郎が、調子さんに婚約の証に指輪を買うと言ったので、僕もセンの誕生日の贈り物を捜すため二人で買いに行ったんだ。いまはまだ高いものは買えないので安ものだけど」

 京は話しながらセンの指輪を人差し指から薬指に移した。

 それを見ていたユーリーが笑顔になった。

「おお、契約の指輪ね」

「契約の指輪?」

 京とセンがユーリーを見た。

「そうだよ、“契約の儀式”のあとに宝石を贈るんだよ」

 ユーリーは満面の笑で言った。

「そうなんだ、ありがとう京兄」

 センは頬を赤く染めて、少し照れたような表情で嬉しそうに指輪を見た。

 京は見たことのないセンの仕草に目を見張り、感じたことの無い動揺を覚えた。


 萬が「コホン」と咳払いをして京に聞いた。

「京、今日までの経緯を話して貰えるかな」

 京はザワついた気持ちを静めて話し出した。

「帰省する前の日、僕と蓮二郎が横浜の蓮二郎の実家から一条の家に戻ると、正さんが偽の調子さんを連れてきていました。蓮二郎は怒ってそのまま一条を飛び出し、横浜の実家に行きました。

 僕は薫子さんが不審に思わないようにその場を繕って、蓮二郎の後を追って横浜に向かいました。

 蓮二郎の実家に行く前に、生馬さんのところに寄って、予定通り帰れないかも知れないと父さんに連絡を入れて貰うよう頼んでから蓮二郎の家に行きました。

 蓮二郎の家に着いて玄関を開けようとドアに手をかけたとき、誰かの気配を感じたのですが、よけきれずに頭に衝撃を受けて気を失ってしまいました。

 幸いよけたことで衝撃が軽くなったのか、わりと早く気がついたようです。気が付いたとき、僕は玄関に倒れていて、家の中は煙が充満していました。僕は急いで蓮二郎を捜しました。蓮二郎は居間の床に倒れていて意識がありませんでした。

 僕は地下室に母屋から裏の倉庫に行ける秘密の抜け穴があるのを知っていたので、蓮二郎を引きずって抜け穴に入りました。倉庫に着いたときはまだ火は来ていなかったので安心したのですが、いざ倉庫を出ようとした時に、母屋の屋根が焼けて落ちてきました。僕は蓮二郎を抱えて窓から飛び出しました。間一髪でした。

 飛び出したところに生馬さんが立っていました。

 生馬さんは僕らのことを心配して様子を見に来たそうです。そうしたら蓮二郎の家が燃えていて、野次馬に雑じって黒服の男が数名いたので、見つからないように裏手に回り、倉庫の影から家に入れないかと探っていたら、僕と蓮二郎が倉庫から出てきたので驚いたそうです。

 意識のない蓮二郎を生馬さんが背負ってくれて、黒服に見つからないようその場を離れ、生馬さんの家まで行きました。

 蓮二郎は意識を失ったまま目を覚まさないので、医者を呼んで診て貰ったら、火傷の他に手と足を骨折していて痛みで気を失っていると言われました。骨折と火傷が治ったら元気になる、命に別状は無いと聞いてホッとしました。

 しかし、助け出せたから死なずにすんだけれど、これはもう殺人と同じです。僕は生馬さんと相談をして、生馬さんの依頼主に連絡を取って貰いました。生馬さんの依頼主は直接手は貸せないが、外務省の東郷大臣を訪ねるようにと言ったそうです。

 翌日、蓮二郎を家に残して、東郷大臣を訪ねました。そうしたら、受付のところにユーリー様達がいらしていて、僕は老セバスチャンさんの顔が数ヶ月前会ったセバスチャンさんに似ていたので、セバスチャンのお父様ですかと尋ねました。そうしたら、そうだと言われました。

 ユーリーさんは孫に会う前に、大臣に息子の行状を詫びに来たと言ってました。

 今回のことは、センと調子さんも関係していることなので、一緒に面会をして貰うようお願いしました。生馬さんは何のことか分からないみたいでしたが・・・。

 東郷大臣は僕らとユーリーさんが一緒に居るのを不思議に思われたみたいでしたが、僕がセンの母親が東郷塔子さんで父親がユーリーの息子のヨハンさんだと話すととても驚いた様子でした。そして、僕たちが関係している事件が、センにも影響するかも知れないと話すととても心配されました。

 僕たちはどうにかして家に帰りたいので、何とか出来ないかと東郷大臣に尋ねました。大臣はクリスマスに行く予定はあるが、警備員を装うのは年齢的に難しいし、怪我人を連れて行くわけにはいかないと言われました。

 そしたら、ユーリーさんが「私のトランクを使うといい」と言ってくれました。ユーリーさんの旅行用トランクは大きいので人一人くらい簡単に隠すことが出来ると言われました。大きなトランクを三つ持ってきているので、トランクの中に入って船に乗り、トランクは客室に運んで貰うので、乗ったらトランクから出て、下船の時にまたトランクに入れば良いと言ってくれました。

 僕たちはその提案を受けることにしました」

 ユーリーは京の話しを聞きながらうんうんと頷いた。

「東郷大臣も一緒だったのか?」

 萬が聞いた。

「いえ、大臣は明日着く汽車で来るみたいです。生馬さんも同じ汽車に乗ると言ってました」

 と京が答えた。

「だいたいの話は分かった。ユーリーさん達もお疲れだろう。続きは明日にして、今日はこれまでにしよう」

 萬はみんなを見てそう言った。

「そうだね、僕、ユーリー爺様の布団を取ってくる」

 センはそう言って部屋を出て行った。京も手伝うために一緒に出て行った。

「ユーリーさん、セバスチャンさん、京のためにありがとうございました」

 萬は二人に改めて礼を言った。

「いやいや、困ったときはお互い様ですよ」

 ユーリーはニコニコして萬に立つように言った。

 センと京が布団を持って来て、ベッドと床にそれぞれ敷いた。寝るための支度が整ったので、三人は部屋を後にした。


 京とセンも萬におやすみを言って二階に上がった。

 センは昼間のできごとを話したかったので、京の部屋に寄った。

「一条正は京兄と西園寺が帰ってないことを知らないみたいだったけれど、殺せと命令していたら、知らないはずないよね」

 センは話しながら首を傾げた。

「一条正に会ったのか?」

 京が驚いた。

「うん、今日YMCAのクリスマス会があって、その最中に調子さんとカイリが攫われたんだ」

「攫われたのか!」

「僕は佐の助と別荘に乗り込んで助けたんだけど、その時一条正と会ったんだ。一条正は調子さんが西園寺のことをどう思っているか聞きたかったと言っていた。僕が婚約を続けると言ったら、なんだかホッとしたように見えた。それに、大原さんの強盗事件は自分ではないと言っていた」

「一条正がやったのではないと?」

「うん、それに子供は趣味じゃないとも言っていた。子供が趣味なのは二藤という男で、そいつは子供なら男も女も関係ないと言っていた」

 京は二藤という男に嫌悪感を感じた。

「その二藤が今日旅館に来たよ」

 旅館に二藤が来たと聞いて、京は驚いた。

「二藤が来たのか?」

「うん、父さんが相手してた。僕は影から覗いていたんだけど、黒服を着た痩せたカマキリみたいな男だった。そいつ外務大臣の秘書だと言って、不法入国者がいるかもしれないから家捜しさせろとか言ってた。そこに薫子さんが来て、貴族議員の三邊と言う人の秘書だと言ったら慌てて帰って行った」

 センは思い出したのかおかしそうに笑った。

「一条正が言っていたけど、僕の顔は二藤の好みだから気をつけろって」

「正が・・・」

「それから、父さんに、一条に戻れと伝えろと言っていた」

「そうか」

 京はますます不可解な顔をして考え込んだ。

「ね、おかしいだろう。ずっと一条正が悪い奴だと思っていたのに、今日直接話したら、なんか少し違う感じがするんだ」

 センも考えていた。

「イズミのことを聞いたら、西園寺が興味を持ったからと言ってた」

「蓮二郎が興味を持ったから?」

「うん、だからイズミを攫ったけれど、傷は付けるなと言っていたらしい。あれは事故だと言っていた」

「それを信じろと・・・」

「信じろとは言わなかった」

「僕たちは間違っていたのだろうか」

 京は一条正に初めて会った時からのことを考えていた。

 駅前で蓮二郎がイズミを見て調子さんの妹に似てると思って興味を持った。それを一条正が見てイズミのことを調べた。そして攫った。蓮二郎のためといっても何故攫わなければいけなかったのだろう。僕や父さんに聞けば良かったのに。

 事故とはいえそれでイズミは亡くなった。

 また、調子さんのことはどうなんだろう。

 ことの始まりは、生馬さんがカイリを使って萬に調子さんを捜して欲しいと言ってきた時からだ。そして松方さんの事件で一条正の名が出てきた。松方さんの事件で徳をしたのは一条正だけなのだろうか?

 銀座の土地をめぐる一連の事件、巧妙に仕組まれていたと言っていたが、一条正の建設関係の会社が絡んでいるとわかったのはどうしてだろう。隠すなら孫請け曽孫請けまでして隠すことも出来たのではないだろうか。

 僕たちは初めから一条正に標的を絞りすぎていたのかも知れない。もう少し状況を見るべきだったのかもしれない。

「ねえ、京兄」

 真剣に考えていた京をセンが呼んだ。

「あ、ごめん。考え事をしていた」

「今日、佐の助が黒服を三人捕まえたんだけど、いつもだったら婆様を経由して警察に引き渡すだろう。それが今日は直接警察が引き取りに来たと言っていた。おかしいと思うんだ。この街の警察関係者は婆様に一目置いているから、婆様の手の者が捕まえた者は婆様から警察に引き渡すようになっていたはず。だから引き取りに来たのはここの警察ではない違う警察じゃないかと思う」

「違う警察?」

「うん、別の警察じゃないかな」

「別の警察?」

「よく分からないけど、そんな気がする」

「今日の件は婆様に話していたの?」

 京はセンに尋ねた。

「うん、偶然会った瞳子さんから一条正が来ることを聞いていたから、事前に情報を入れて警備して貰っていた」

「そうか、それで大事にならなかったんだね。良かった」

 京はセンの話しを聞いて少し安心した。

「じゃあ、婆様は一条正がこっちにいる間は、注意してくれているんだね」

「うん、明日また婆様の所に行って三邊と言う人と二藤という人のことを調べて貰おうと思っている」

「そうか、婆様のところは僕が行ってくる。センはなるべく旅館から出ないように気をつけるんだ」

「わかった。西園寺のこともあるので、京兄も気をつけてね」

「ああ、気をつけるよ。それじゃあ続きは明日にして僕らもそろそろ休もう」

 京はセンに部屋に帰って寝るように言った。

 センは「おやすみなさい」と言って部屋を出て行った。

 京は布団に横になったが眠れずに、これまでのことを繰り返し考えていた。



 9


 翌朝、(けい)もセンも早く起きて旅館の手伝いをしていた。京は表向きまだ帰ってないことになっているので、裏方の伊助の手伝いやユーリー達の相手をして過ごしていた。

 昼過ぎに京は婆様のところに出掛けて行った。

 センとユーリー達が遅い昼食を取っているとき、家の玄関に誰かが尋ねてきた。

 センが出て行くと、そこには一条正が立っていた。

「!?」

 センは大声を出すのをかろうじて飲み込んだ。

「何をしに来た」

 センは用心深く正を見て、周りに聞こえないように小声で聞いた。

「ふん、相変わらずの警戒心だな」

 正は見下したような目でセンを見た。

「だから、何をしに来たと聞いている」

 今にも正につかみかかりそうなセンの後ろからユーリーが顔を出した。

「セン、お客様か?」

「ユーリー爺様には関係のない方だよ」

 センはユーリーに居間に戻るように言った。

「ユーリー爺様?お前の身内か?」

 正は興味深そうにユーリーを見た。

「そうだけど、それがどうした」

「萬の子かと思ったら、違うのか?」

「ああ、センの父は私の息子なんですよ」

 ユーリーが笑顔で言った。正は少し考えていたが、

「そうか塔子(とうこ)の子か」と言った。

「そんなことどうでも良いだろう」

「そうだな、ところで、お前が昨日言ってたことの確認に来た」

「僕が言ってたことの確認?」

「そうだ、京と蓮二郎はまだ戻っていないのか?」

 正の口調は落ち着いていたが、少し焦りが感じられた。

「それを確認してどうする?」

「帰っていないとしたら、調べに戻らないといけない」

「もしかして、あなた、ケイのお爺さん?」

 またユーリーが口を挟んだ。

「京は萬の息子だ。私は京の爺さんではない」

 正がユーリーを見て言った。

「ノンノン、ケイのお父さんは京一郎さんと聞いています」

 正は驚き、センは慌ててユーリーを止めた。

「京の父親が京一郎だと」

 ユーリーは正を見て、

「そうです、京一郎さんと百合さんの子供だとケイが言っていました」と言った。

「京一郎はそんな話しはしていなかった・・・」

 正は予想外の話しに動揺したようだった。

「言うとあんたが反対すると思ったんだろうよ」

 正の後ろから婆様の声がした。

 いつの間にか婆様と京が正の後ろに立っていた。

「京、戻っていたのか」

 正は京の姿を見て少し安心したように言った。

「わざわざ確認しに来たのかい」

 婆様が探るように聞いた。

「秘書から横浜の家が火事で焼けたと言って来た。昨日京と蓮二郎がまだ戻ってないと言っていたので、まだ戻ってなければ東京に確認に戻るつもりでいた」

 と正は答えた。

「京、やはり初めから考えてみる必要があるね」

 婆様は正を見ながらそう言った。

 その時、玄関に男が入ってきた。以前汽車で会った男だった。男は正の耳元で何か囁いた。

「東郷と三邊が来たと?」

 正が声に出して言った。

「ここで会うとまずいな」

「あんたにはまだ聞きたいことがあるんだ、裏道を教えるので一度別荘に戻りなよ。そして東京に帰るふりをして、またここに戻って来なよ」

 婆様は正にそう言った。

「また、ここに戻る?」

 正は怪訝な顔をした。

「ああ、どうするかは道々話すとして、セン、左衛門爺さんの部屋の縁側から入れるようにしておいておくれ。それから萬に話すと話しがややこしくなるから、なるべくなら言わない方がいいと思うよ」

 婆様はそう言うと、正と男を連れて出て行った。

「婆様、あんなこと言って大丈夫なのかな?」

 センが心配顔で呟いた。

「婆様に考えがあるんだろう。いまはそれに従ってみよう」

 京は婆様に会って、夕べ疑問に思ったことと、春からの一連の出来事について話していた。

 婆様は京の話しを聞いて、まず一条正に会ってみたいと言った。それで京と一緒に来たのだった。家に戻ったら、当の一条正がいたので婆様はしめたと思ったようだ。



 その頃旅館の玄関には、東郷大臣と三邊貴族院議員と二藤が尋ねてきていた。

 萬が対応に出ると、二藤が言った。

「主、東郷外務大臣をお連れしたので、家捜しをさせて貰おう」

「先日もお話ししたように、外国人のお客様は当旅館にはおりません。家捜しと言われても、他にお客様もいらっしゃるのでお断りします」

 萬が丁寧に断ると。

「貴様、東郷大臣を愚弄するのか!」

 と大声で三邊議員が怒鳴った。

「愚弄?いえそうではありません」

 萬が困っていると、また薫子が来てくれた。

「あら、東郷様、お久しぶりです」

 東郷大臣は薫子の顔を見て驚いた。

「薫子様、どうしてこちらに?」

「息子に会いに来ましたの。この旅館の主人は私の息子ですのよ」

「息子さん?では萬さんの旅館なのですか」

「ええ、そうですわ」

 薫子は萬の隣に立った。

「せっかく来たのに、先日から不法入国者だのとそこの二藤さんが言われて、騒がしくて困っていますの」

「では、外国の方は来ていないと?」

 東郷が思案顔で聞いた。

「ええ、他の客室の方とも時々お会いしますが、外国の方にはお目にかかったことはありませんわ」

「そうですか」

「それに帰ってくるはずだった孫もまだ帰ってなくて心配していますのよ」

「お孫さんも戻られていないのですか?」

「ええ、昨日は旅館の子供達も誘拐されそうになって、それで怖がってしまって部屋から出てこないんですよ。楽しみにしていた街の案内もお願いできなくて」

 薫子は東郷にそう言って、

「あら、ごめんなさい。勝手にお喋りしてしまって」

 急に喋りすぎたことに気がついて謝った。

「いえ、薫子様が外国の方が泊まられていないと仰るならそうなのでしょう。私どもの勘違いと思われます。主、お騒がせして申し訳ない」

 東郷大臣はそう言うと他の二人を残し旅館を出て行った。三邊と二藤は慌てて東郷の後を追いかけた。

 三人が出て行くのを見送って、

「東郷様あんな人達とお付き合いしているのかしら」

 と薫子が心配そうに呟いた。

「薫子様、ありがとうございます」

 萬は薫子の礼を言った。

「いいのよ、本当のことだもの。でも京さんも蓮二郎さんもどうしたのかしら」

 萬は帰って来たとは言えないので、「そうですね」と答えた。



 10


 萬は旅館から戻ってくると、東郷大臣が来て、薫子がまだ京は戻ってないと言ったら、何も言わずに帰って行ったと言った。

 京は、婆様には止められていたが、一条正が来ていたことを萬に伝えた。そして今晩また来ることになっていると言った。

 萬は一条正が来たことに驚いた。

「なんのために来たんだ?」

「父さん、昨日センが一条正と会った話しは聞いたよね」

「ああ」

「正さんは、センから僕が戻っていないと聞いて、僕と蓮二郎が戻っているか確かめに来たんだ」

「あいつが…確かめに?」

「昨日センが一条正はもしかしたら僕たちが思っているほど悪くないと言ったのを僕も考えてみたんだ。僕たちは初めから一条正を疑っていた。そして疑ったまま事件を一条正に当てはめて考えた。センの話しを聞いて、僕が半年間一緒に過ごした一条正と初めに聞いた大原さんと松方さんの事件が会わない気がしてきた」

「合わない?」

「確かに一条正は冷淡ではあるけれど、冷酷な人物ではない気がする。今日来たのだって、僕と蓮二郎を心配して来たみたいだった」

「あれは最低の男だ、京は騙されているんだ」

 萬が吐き捨てるように言った。

「僕と蓮二郎が心配じゃなかったら、ここまで尋ねて来ないと思うんだ。今夜一条正が何を話してくれるかわからないが、僕は婆様に任せてみようと思っている。父さんが会いたくないなら、一緒にいなくても良いけれど、内緒で会うのは嫌なので父さんには知らせておきたかったんだ」

 京は真剣な顔で萬を見た。

「わかった。私はあの顔を見たら余計なことを言ってしまいそうだから遠慮しておくよ」

 萬は一条正に会わないが、後で報告をするようにと京に言って、旅館に戻っていった。



 日が落ちて暗くなった頃、みんなで夕食を取っていると、ふらりと生馬が尋ねてきた。

「萬、東郷大臣から聞いたが、京達まだ戻ってないんだって」

 萬に言いながら靴を脱いで上がってきた。そして夕食を食べている京を見つけると、

「なんだ、戻っているじゃないか」と言った。

 萬は昨日二藤が旅館を尋ねて来たときの話しをして、東郷大臣と一緒に彼が来ていたので、大臣には申し訳なかったが、まだ帰ってないことにしたと話した。

「そうか、そんなことが有ったのか」

 生馬は少し驚いたようだった。

「ところで生馬、久しぶりに飲みに出掛けないか。知り合いの店から飲みに来いと誘われているんだが、ここのところ忙しくて行けないでいたんだ。今日は久しぶりに手が空いている、一人で行くのもつまらないと思っていたところだ。いろいろ聞きたいこともあるので一緒に行かないか?」

 萬は生馬に外に飲みに行かないかと誘った。生馬は京たちに聞かれたくない話があるのだろうと思ったので、二人で飲みに行くことにした。

「戸締まりを忘れるなよ」

 萬は京にそう言って、生馬と出掛けて行った。

 京は萬が一条正に会うのを避けるために出掛けたのだと思った。



 萬は生馬を近くの小料理屋「花」に連れて行った。

「おや、萬さん来てくれたんだね」

 女将が嬉しそうに萬を見た。萬の後ろから生馬が現れたのを見て、

「お連れさんがいるのかい」

 少し残念そうな顔をした。

「女将、座敷は空いてるか?」

「二階の奥なら空いてるよ」

 萬は女将に酒とつまみを頼むと生馬を連れて二階に上がった。

 二階は小さな座敷が三つ並んでいた。萬と生馬は一番奥の座敷に入った。

 テーブルがあるだけの小さな部屋だった。

 座るとすぐに仲居が酒を持って来た。

「あとで女将が顔を出すと言っていました」

 仲居はそう言って出て行った。

 仲居が階段を降りるのを確認して、

「お前の家の周りは前に来たときより賑やかになっているな」と生馬が言った。

「昨日、二藤という男が来て小一時間もしないうちに二人ほど増えたみたいだ」

「二藤か、私も胡散臭い奴と思っていたが、京達は見つからなかったのか」囁くような声で生馬が聞いた。

「タイミングが良かったんだ。もう少し遅れていたら危なかった」

「そうか」

「ところで生馬、昨日調子さんが攫われて、助けに行ったセンが正と会ったらしい」

「一条正と会ったのか」生馬が驚いた。

「ああ、そして直接正と話したらそんなに悪い奴じゃないと思うと言ったんだ。この話を初めに持って来たのはお前だ。どうして一条正と思ったんだ」

「依頼主が初めに言ったんだ。一番怪しいのは一条正だと」

「依頼主が?」

 萬の話しに生馬は考えていた。

「俺も少し気になってることがある。調べ直してみるよ」

「ありがとう、助かるよ」

「ところで、そんな話しで俺を酒に誘ったわけじゃ無いよな」

 徳利を持って萬に酒を注ぎながら生馬が聞いた。

「ああ…」

 萬はなかなか話し出そうとしないので、

「女か?」

 と生馬が聞いた。

「まあ、そうだな」

「どんな女だ」

「初恋の…」

「初恋の女か?」

 生馬がニヤリと笑った。

「十数年ぶりに初恋の人に会ったらお前はどうする?」

「どうするって?」

「確かおまえの初恋は、恵比女(えびじょ)道明寺(どうみょうじ)だったよな」

「よく覚えているな」

 少し引き気味に生馬が答えた。

「毎日、道明寺、道明寺と聞かされたら覚えるだろう」

「そんなに言ってたかなあ」

 生馬は自分のお猪口に酒を注いだ。

「恵比女の道明寺に手を出したら、俺が許さねぇ。と息巻いていたけどな」

 萬が生馬をからかった。

「そうだったかな」生馬の目線が昔を懐かしむように彷徨った。

「その、道明寺が独り身で目の前に現れたらどうする」

 その時、入り口のところで音がした。

「失礼します」と襖が開いて、女将が入ってきた。

「お話が盛り上がっているところ、ごめんなさいね」そう言って、後ろにいた仲居を先に中に入れた。仲居は刺身などのつまみをテーブルに並べると出て行った。

 女将は萬に酒を注ぎながら聞いた。

「恵比女の道明寺がどうかしたのですか?」

 客の話に女将が入ってくると思わなかったので、萬と生馬が驚いた。

「すみませんねぇ、ちょっと聞こえちゃったので」

 女将は悪びれること無く言った。

「知っているのか、女将」

 萬が聞いた。

「道明寺は同級生ですよ」と女将が言ったので、また二人は驚いた。

「女将も恵比女だったのか?」

「いまはしがない小料理屋の女将をやっていますけどね、昔は商家のお嬢様で東京生まれの東京育ちなんですよ」

「それで恵比女に通っていたと…」

「まあ、昔の話しは置いといて、どちらが道明寺に恋をしていたんです」

 女将は二人を見た。

「あ、こいつだけど」萬が生馬を指した。

「まあ、あなたが…」

 女将は生馬を上から下まで見て言った。

「もしかしてあなた、服部さん?」

 驚く二人に女将が続けた。

「あなた、道明寺に恋文を送ったでしょう」

 生馬は飲んでいたお酒を吹き出しそうになった。

「どうしてそれを知っている」

「あら、私その恋文見せて貰ったのよ」

 女将は意味ありげに横目で生馬を見て笑った。

 女将の言葉に生馬が慌てた。

「あの頃は若かったんだ」

 慌てる生馬を見て女将は、

「でも、あなたなら道明寺を救えるかもしれないわね」と言った。

「どういうことだ?」

 萬は女将に聞いた。

「じつはね、道明寺の旦那は先のヨーロッパの戦争で戦死したのよ。長いこと落ち込んでいたけれど、昨年から旦那の遺品を整理し始めたの。そしたら銀座の土地に関する古い書類が出てきたの。それでその土地がどうなっているか調べたらしいわ。そしたら、旦那が亡くなった後、元の土地よりも広い土地を道明寺が売ったことになっていたの。身に覚えのない契約だったので、姉の嫁ぎ先の伯父である貴族院の松方という人に相談したらしいの。そしたら今年の初めにその伯父さんが亡くなったらしくて、その亡くなり方が変だったらしいわ。それ以来、道明寺は誰にも相談できなくなったと言っていたわ」

 女将の意外な話しに、萬も生馬も驚いた。

「彼女昔から綺麗だったでしょう。最近、三邊という議員が彼女に言い寄ってるらしいんだけど、なんか胡散臭いらしくて」

「三邊ですか?」

「あら、ご存じ?」

「いや…」

 萬は言葉を濁した。

「で、服部さんに道明寺を元気づけて貰いたいのよ」

「俺に?」

「道明寺が誰かと付き合えば、その三邊という男も寄ってこないかもしれないじゃないか。服部さんなら、初恋の道明寺に偶然会ったと近づける気がするのよ」

「いや、そう言われても」

 生馬が女将の押しに慌て始めた。

「あ、もしかして結婚している?」

 女将が聞いたので、

「いや、前はいたけど、いまは独身だよ」と萬が答えた。

「だったらお願いできませんか?」

「生馬、初恋の人が困っているんだ、助けてやれよ」

 女将と萬から言われて、

「いや、急に言われても。偶然会ったと言っても、会ってどうすれば良いのかわからないじゃないか」

 生馬は妙に照れたように煮え切らない返事をした。

「段取りは私がしてあげるよ。あとは服部さん次第だよ。お願いしますよ」

 女将は生馬の返事を待たずに、詳しいことは後でと言って部屋を出て行った。

「変なことになったな」

 萬は女将が閉めていった襖を見ながら言った。

「松方さんや三邊の名前が出てくるとは思わなかった」

「松方さんの事件を調べるチャンスじゃないか」

「いや、その前に、道明寺とどうやって会えば良いか」

 生馬は妙に言葉を濁した。

「段取りは女将がしてくれると言っていたじゃないか」

「いや、そうじゃなくて…、初恋の相手だぞ。嫌われたくないじゃないか」

 そう言って、生馬は顔を赤くした。

「おい、おまえ…」

「俺、道明寺のこと本当に好きで、彼女が結婚したから諦めたんだ」

 生馬はそう言ってお猪口に残っていた酒をあおって呟いた。

「こんな形で出会いたくなかった」

「意外とロマンチストなんだな」

 萬は生馬の気持ちがわかるような気がした。

「おい、萬、おまえ女将が来る前初恋の話しをしていたな」

「ああ、久しぶりに会った初恋の相手に自分の気持ちをどう伝えたらいいか悩んでいたんだ」

「相手はお前の気持ちを知っているのか」

「いや、一度も言ったことがない。わたしは初恋は胸に秘めておくものでそれでいいと思っていた。でも、京やセンが告白した方が良いと言うんだ」

 萬は迷っている気持ちを生馬に話した。

「女将の話を聞く前の俺だったら、告白しろよと言えたかもしれないが、いざ俺自身が初恋の人に会うとなると恐い気がして、簡単に告れよとは言えなくなった」

 生馬が悩ましげに言った。

「しかし、生馬は女将の手前、会わないといけなくなってしまったな」

「ああ」

「生馬、私も頑張って話してみるから、お前も頑張れ」

 萬は生馬を励ましながら、百合子に話す決心をした。


 二人が帰るときに女将が声を掛けた。

「明後日道明寺が来ることになったよ。萬さんの旅館に泊めて貰えるかい」

 まだ先の話と思っていた生馬は固まり、萬は苦笑いをした。

 28日の夜に生馬と道明寺の仕組まれた偶然の再会が決まった。



 11


 萬と生馬が出掛けて一時ほどして婆様が一条正を連れて戻ってきた。

「旅館の周りに変なのがウロウロしているね」

 婆様が部屋に入るなりそう言った。

「変なのですか?」

 京がすっと目を細めて外の様子を探った。

「確かにいつもより多いですね。婆様どうします?」

「旅館には客がいるから襲っては来ないと思うが、一応こっちも何名か配備したから、大丈夫だろう。萬はどうした?」

 婆様が聞いたので、

「先ほど生馬さんと出かけました」と京が答えた。

「そうか、京にセン、奴らには一条正が東京に戻ったと思わせているから、今はまだ動かないと思う。それにアインシュタインさんの出発が29日になったと聞いた。今は警備が多いから、動くとしたら29日遅くなってからだろう」

 京もセンも婆様の話に頷いた。

 そんな婆様の様子を見ていた一条正が

「まるで隠密の師弟関係だな」と言った。

「そうですよ。婆様は僕たちの師匠です。左衛門爺様が自分の身は自分で守れるよう婆様に弟子入りさせました」

 京とセンは一条正を見た。

「そうさ、この二人は私の弟子の中でも特に優秀だから、そんじょそこらの者には負けないよ」

「え?京もセンも強いの?」

 側で聞いていたユーリーが婆様に聞いた。

「ユーリーさんや、左衛門、いやハリスが二人を心配して私に頼んだんだよ」

「そうかハリス兄さんが・・・」

 ユーリーは納得したようだった。

「さて、待たせたね」

 婆様はそう言って一条正を見た。

「私は特に話すことはないが」

「私は聞きたいことがあるんだよ」

 婆様は正の言葉を無視して言った。

「百合の話しだと、あんたは悪い人ではないと言っていたからね」

「ふん、どうしてそこに百合が出てくる」

「京一郎さんが百合に言っていたそうだよ『父さんは表し方が下手なだけで、とても優しい人だよ』ってさ」

「京一郎が・・・?」

「そうさ、あんたの息子はちゃんとあんたを見ていたようだね」

 婆様は正がどんな反応をするか見ていた。

「そういえば、京が京一郎の子と言っていたが・・・」

 思い出したように正が言った。

「あんたは知らなかったみたいだけれど、京一郎さんと百合は結婚していたんだ」

「まさか、京一郎は何も言わなかったぞ」

 正は本当に何も知らなかったらしい。

「知っていたら、萬に渡さなかったのに・・・」

「どういうことだい?」

 正はしばらく考えていたが、ゆっくり話し始めた。

「私には学生時代からの悪い仲間がいる。学生時代はいろいろやったが、大人になってまだ続けていると思わなかった。その仲間が一度遊びに来て百合に目を付けた。初めは呉服屋の手伝いに行かせるよう私に言ってきたので、私は変だと思って尋に百合の代わりに行って貰うよう頼んだ。ところがその呉服屋に強盗が入って尋が死んだ。尋が死んだ後、百合が呉服屋にいなかったとその仲間が言ってきた。それで呉服屋の件は奴らの仕業だと気がついた。私は百合を家に置いておくのは危ないと思って百合と塔子を里に帰そうと思った。塔子は幸い東郷が引き取ってくれたが、百合を薫子が離したがらなかったので、京一郎に百合が悪い仲間から狙われているから、萬に言って遠くに連れて行くように説得してくれと頼んだ」

 京もセンも初めて聞く話に驚いた。

「私は父様から、京一郎さんから、あなたが百合母様と京一郎さんが付き合っているのを知ってとても怒っているので、百合母様をどんな目に遭わせるからわからないので連れて逃げてくれと頼まれたと聞きました」とセンが言うと、

「薫子様は、あなたが萬を殺すかも知れない、母様のお腹に子供がいるのでそれを知られたら何をするかわからないので、萬さんに母様を連れて逃げるように説得するつもりだと京一郎さんが言ったと聞きました」と京も言った。

「京一郎はそんなふうに萬と薫子を説得したのか」

 正は少し悔しさを交えて呟いた。

「百合の話しだと、京一郎さんは百合子さんから労咳にかかっていると言われていたそうだ」婆様が言った。

「それは京一郎から聞いていた。だから萬に頼むしかないと思った」

「京一郎さんも自分が連れて逃げても百合が苦労するのがわかっていたから、あんたの言うとおり萬に頼んだと思うよ。しっかりあんたは悪者にされてしまったがね」

 婆様は京一郎の判断は間違っていなかったと正に言った。

「ところで、センの話しだと、あんたは子供に興味が無いらしいね」

 婆様が話題を変えた。

「子供も女も興味は無い」

 正は吐き捨てるように言った。

「へぇー、女にも興味ないのかい」

 婆様が驚いたように言った。

「じゃあ、今連れている女はなんだい」

「あれは昔の仲間が攫ってきた娘だ。少し大原の娘に似ていたので、蓮二郎に会わせてみようと引き取った」

「蓮二郎に?」

「蓮二郎が、ここのイズミという娘に興味を持ったので、大原の娘を忘れていないと思った」

「あんたは手を出していないのか」

 婆様が探るように聞いた。

「私は女に興味は無い」

「そうだったな」

「じゃあ、西園寺に調子さんがいるとわかったら、あの子はどうするんだ?」

 センが聞いた。

 正はジロリとセンを見て言った。

「女郎屋に売ると思ったか?」

「売るのか?」

 正はフンを鼻で笑うと、

「あの娘は親から売られたんだ、親がしっかりしていたら親元に戻して、それなりの縁談を調えることも出来るが、売られた娘は難しい」と言った。

「あんたが囲うのかい」

 婆様が聞いた。

「いや、私にその趣味は無い。本物の調子が置屋にいたように、何処かの置屋に預けるのも手なのだが、私が関わるとやっかいなのでどうしようか考えている」

「そうかい、そしたら私に預けてくれるかい」

 正が驚いた。

「悪いようにはしないよ」

 正は少し考えて、

「お願いできるか」と言った。

 婆様と正の間で偽調子の話しが付いた。

「しかし、あんたその性格でかなり損をしているね」

 婆様が気の毒だと言うように正を見た。

「フン、私は生まれたときから嫌われている」

 正は吐き捨てるように言った。

「それはどういうことだい?」

「父は母がまだ幼女の頃に見初めて、母の両親に多額の金を払い買ったんだ。そして屋敷の奥に囲った」

 正の声には嫌悪感があった。

「何歳の時か知らないが、母は姉を産んだ。そして三年後に私を産んだ。私を産んだあと死んだらしい。父は私さえ生まれなければ母は死ななかったと私を憎んだ。

 父は母が死んですぐ別の女を家に入れた。それが垓、弟の母だ。この女もかわいそうな女で、父は母に似ていた姉をとても溺愛していた。父にとって大切なのは死んだ母と姉だった。だからこの女はただの女で妻ではなかった。その鬱憤からこの女は父のいないところで私を虐めて喜んでいた。姉は垓をかわいがっていたので、父も姉のお気に入りの垓には私のように悪く言うことは無かった。だから女は勘違いをして私がいなくなれば垓がこの家を継げると思ったのだろう、私を殺そうとした。食事に毒を盛ったんだ。味がおかしいのに気がついて食べたふりをした。後で犬に食べさせたら死んだ。それから私はこの女が作るものを食べなくなった。

 垓が五歳になった頃、この女はまた身籠もった。

 ある日、姉が垓に死ぬかも知れないような悪戯をした。怒った女は姉に手を上げた。誰からも叱られたことの無い姉は父に泣きながら女に虐められたと言った。父は女を呼び二階の階段から突き落とした。お腹の大きな女を突き落としたんだ。女はそれで死んだ。私はそれを見ていた。父は私を一瞥すると何事も無かったように女を放置したまま部屋に戻った。私はその時悟ったんだ、この家に信じるものは何も無いと」

 正はフッと息を吐いた。

「ひどい親だね」

 さすがの婆様も驚いていた。

「私は顔も性格も父に似てるらしい。私が大人になると、父はいつか私に殺されると思っていたらしい」

「殺したのかい」

「まさか、あんな男殺したら手が腐る」

「でも殺されたんだろう」

 正の顔に薄笑いが浮かんだ。

「そうだ殺された。でも私じゃない」

「下手人を知っているのかい?」

 正はまた鼻で笑った。

「私は父と違って、高校生になっても女に興味がなかった。でも私の家柄を狙った女が寄ってきた。そんな女を悪友の三邊と八頭が狙った。あの二人に捕まった女がどうなるか知っていたが、そんなことはどうでも良いと思っていた」

「三邊って、あの二藤という男の雇い主?」

 センが尋ねた。

「ああ、その三邊だ」

 正はセンを見て、

「本当にお前は奴らの好みの顔だな」と言った。

 センは慌てて京の後ろに隠れた。ユーリーと老セバスチャンもセンを守るように囲った。

「その頃西園寺と結婚をした姉が三年目にして子供を授かった。父は姉の結婚には反対していたが、姉がどうしても西園寺でないとイヤだと言ったから、姉に弱い父親が折れたらしい。父は西園寺の悪癖を知っていたから嫁にやりたくなかったのだが・・・ククク」

 正は思わず笑った。

「悪癖?」

「西園寺は三邊と八頭のお得意様だった。二人が連れてきた女の中に気に入ったのがいれば買っていた。私はそれを知っていた。父も知っていたけれど姉には言わなかった。言ったら父も同じだと姉にバラすと脅されたんだろう」

「結婚して八年目に、姉はやっと西園寺の様子がおかしいのに気がついた。僕に相談してきたので、その頃西園寺は女の子を奥座敷に囲っていた。そのことを教えたら、姉は驚いて父に相談した。翌日父と垓が真相を確かめに西園寺のところに行った。西園寺は誤解だと言い訳したらしいが、父は怒って離婚させると言ったらしい。その頃西園寺家の財政状態は壊滅的で一条の援助がないと何も出来ない状態だった。姉と離婚させられたら支援が受けられなくなるのを恐れた西園寺は、三邊と八頭に父達を襲わせた」

「何故二人の犯行だとわかったのですか」

 京が聞いた。

「フン、前の日に三邊が、もうすぐ一条はお前の自由になると予言めいたことを言ったから、何かするとは思っていたが、まさか殺すとは思わなかった」

「警察に届けなかったのか」とセンが聞いた。

「三邊も八頭も私の友人で通っていたから、下手に警察に言ったら私が疑われる。私は父の死を聞いて、夜に西園寺のところに行った。窓の外から覗いていると、奴は女を連れ込んでいたので、窓をコツコツ叩いて振り向かせたら、驚いた顔をして胸を押さえて苦しみだした。私の顔は父に似ているから亡霊でも見たと思ったんだろう。翌日、心臓発作を起こして死んだと聞いた。父を殺した罰だ」

「三邊に八頭は根っからの悪党だね」

 婆様は呆れたように言った。

「そうだな、そんな奴らに私は何も言わなかった」

「あんたはいつから人攫いに関係している」

 正がジロリと婆様を睨んだ。

「私は女子供には興味はないと言っただろう。だがある日八頭が攫った中に知人の娘がいた。親が捜しているのを知っていた。私はその娘を私にくれと三邊に言ったら、私も同じ趣味だと思ったらしい」

「貰った子はどうしたんだい」

「貰ったと言うより買った。そして私は三邊にわからないように、娘の親に連絡を取った。攫われた子は世間体も悪いから、こっそり持参金を付けて嫁がせるように手配した」

「他の子達はどうしたんだい」

「どういう仕組みになっているか知らないが、綺麗な子は金持ちに売って、後は自分たちが遊んで女郎屋へ売っていたみたいだ」

「イズミを攫ったのはどうしてだい」

「あの子は八頭の手下が攫ったのを私の部下が見て知らせてきた」

「あんたが攫ったのではないと」

「ああ、私は蓮二郎が興味を持ったので見晴らせていた。そしたら八頭の手下が攫ったので、八頭に私が先に目を付けた娘だから手を出したら殺すと言ってやった。あの娘が死んだのは八頭の手下が謝って刺したからだ。私は事故だときいた」

「そうかい、じゃあ昨日の誘拐はなんだい?」

「あれは三邊の仕業だろう」

「どうしてそう思う?」

 婆様は探るような目で正を見た。

「最近三邊は大物とつるんでいるみたいだ。私が邪魔になったのだろう。萬達が私の周りでいろいろ動いているから、今までの悪事を全部私に被せるつもりなのだろう」

 正はどうでも良いことのようにさらりと言った。

「その大物って東郷大臣かい」

「いや、違う。東郷は駒だ」

「駒?」

「東郷は私のことをよく思っていない。だから使いやすいのだろう」

「あんたはその人物を知っているのかい」

「確証はないが、松方を殺してその調査を服部生馬に依頼した人物だと思っている」

 {!!}

 その場にいる全員が驚いた。

「それは誰だ!」

 センが言った。

「憶測では言えない。政治家は難しいのだ」

「そうだね、余計な一言が害になることもある。私も内々に探るとして、話題を変えよう」

「大抵のことは話したが」

 正がまだあるのかという表情をした。

「西園寺征一郎の借金の件を聞きたい」

 婆様がそう聞くと、正はしばらく目をつむって考えていた。

「さっきも話したが、西園寺家の財政は破綻していた。西園寺が死んで財産処理をしたら、かなりの借金があった。姉には家を売って横浜に移り質素な暮らしをして貰うしかなかった。姉は征一郎だけが生きがいだったから、征一郎が成人するまで一条から援助をするからと納得させた。征一郎は建築に興味を持っていたので、設計の勉強をさせた。姉が死んで一人になったが、征一郎には良い友達がいたので心配はしてなかった。征一郎が友人と旅行したこの街が好きだと言ったので、征一郎の初めての仕事に別荘の設計を任せた。あれは抜け道とか隠し扉とかそういうのが好きだったから、自由に設計させた」

「あの隠し扉」

 センが言った。

「そうだ。あの部屋には隠し扉が2つある。1つはこの間使った私の部屋と繋がっている扉、そして反対の角に屋根裏に抜ける扉がある。隠し扉のことは私と征一郎しか知らない」

「じゃあ昨日部屋にいたのは・・・」

「別荘を出る前に自動車が停まり、二人が運び込まれるのが見えた。不思議に思った私は先に帰って隠し扉から地下室に入ったところでお前が入ってきた」

「隠し扉のことはわかったけれど、征一郎さんの借金の話しをしてくれ」

 婆様の先を促す言葉に、

「そう急かすものではない婆さん」と言った。

「私はあんたに婆さんと呼ばれたくないね。私には菊という名前があるんだよ」

 センと京は今まで婆様の名前を聞いたことがなかったので驚いた。

「婆様、菊という名前だったんだ」

 センは思わず口に出していた。

 婆様は複雑な顔をしたが、

「話しを続けて貰おう」と正に続きを促した。

「蓮二郎が生まれたとき、私は征一郎に友人の金持ちの大原の娘を蓮二郎と婚約するように薦めた」

「正さんが薦めたのですか?」と京が聞いた。

「そうだ、西園寺家はお金が無いから、蓮二郎が大きくなって困らないよう、金持ちの友人の娘と今のうちに婚約させた方がいいと薦めた。征一郎は私が言ったことをそのまま大原に話したらしい、征一郎の息子なら1つ年上だが長女の調子と婚約をさせようと言って貰えたと喜んでいた」

「それが蓮二郎と調子さんの婚約の理由だったのですね」

「そうだ。私はなるべく表に出ないで征一郎の援助をしていた。ある日薫子から大原が銀座に店を出すために土地を買った話しを聞いた。征一郎に確認したら店の設計を任されたと喜んでいた。その頃その土地の売買に関して良からぬ噂が流れていたので、私は征一郎に設計を一条の建設会社名で受けるように言った。何も知らない征一郎はそれでも良いと言っていた。しばらくして秘書から大原の事件を聞いた。そして大原の土地と隣の土地が不可解な手続きで他人に渡ったことを知った。隣の土地は大原の友人で自殺したと聞いた。そして、その保証人に征一郎がなっていることを知った」

「その時点で征一郎さんにお金を貸すことは出来なかったのかい」

 婆様が聞いた。

「その土地にある大物政治家が絡んでいるのを知っていたから、私は手が出せなかった。私とその政治家とは敵対関係にある。その男は私を陥れるために征一郎を利用したのだと考えられた。だから大原調子を引き取る手続きを征一郎がしていたので、大原の金を使ってでも自分で解決して欲しかった」

「それで大原の金を使えと言ったんだね」

「そうだ、まさか自殺するほど悩んでいると思わなかった」

 正は悔恨を込めて言った。

「征一郎さんは自殺じゃ無いよ」

 京が言葉を挟んだ。そして征一郎の手紙の件を話した。

 正は驚愕の表情を浮かべた。

「それは本当か?」

「ああ、僕らも殺されそうになった」

 妙に落ち着いた声で京が言った。

「そうか、すべてを私に負わせるということだな」

 正は悟ったように言った。

「あんたはこのままで終わらせるつもりかい」

 婆様が聞いた。

「あの銀座に建っている建物の設計と施工は私の会社がやった」

「土地の詐欺を知ってたのに?」

 京は驚いて聞いた。

「それが自分の首を絞めるかも知れないと思わなかったのかい」

「あの建物は征一郎の設計だった。彼の作品を残したかった。それだけだ」

 しばらく誰も何も言わなかった。

「今年の初め、銀座の土地取引に不正があると松方が言ってきた。松方は私を疑っていたようだ。私は征一郎と土地にまつわる一連の話しをした。松方は調べてみると言った。そして殺された。次は私の番だと思った」

「その大物って誰ですか」

「知らない方が良い」

「逃げるのか!」センが言った。

「逃げるわけではない。私も潮時を悟っただけだ」

「潮時?」

「萬に一条家に戻るように言ったか?」

「言ったけど、どうして?」

「萬でも京でもいい、私の後を継いで、一条家を守って欲しい」

「あんた、差し違えて死ぬつもりかい」

「差し違えられたらいいが…な」

 正は感情の見えない声で言った。

 ずっと黙っていたユーリーが声を出した。

「ケイのお爺さん、死んではいけないよ。ケイの戴冠式に京一郎に変わって出席して貰わないといけないからね」

「戴冠式?」

 正は怪訝な顔をした。

「そう、ケイは私の兄の後継者としてわが国の次期国王となることが決まっているね」

「どういうことだ?」

 正が驚いて京を見た。

「ユーリーさん、その話しは事件が片付いてからにしましょう」

 京が困った顔をした。

「話しが脱線してしまったね。ユーリーさん、その話は当面の問題を片づけてからだよ。時間も遅くなったことだし、そろそろお開きにしようか」

 婆様がその場を締めて言った。

 正は東京に行っていることになっているので、二日ほど空き部屋にいて貰うことにして、しばらく様子を見ることにした。



 12


 萬が生馬と別れて戻ってくると、京とセンが待っていた。

 一条正を二階の部屋に泊めたと聞いて、萬は少し腹を立てた。

 しかし、二人から一条正が話した内容を聞き、今まで思っていた正と違うことに驚き、正について自分なりにもう一度考えることにした。

 萬は、京とセンに小料理屋の出来事を話し、生馬にも動いて貰うことになったと伝えた。



 翌朝、京は蓮二郎の部屋を訪れた。

 蓮二郎の部屋は、内廊下で繋がっているが、伊助の両親が住んでいる別棟にあった。部屋には看病に付いている調子もいた。

 京は一条正が自分たちを心配してここに来たこと、そして昨夜聞いた話を伝えた。蓮二郎は驚いていたが、正が泊まっているのなら調子さんに会って貰いたいと言った。

 京は一条正の部屋に行き、蓮二郎が会いたいと言っていると伝えた。正も会いたいと言ったので、蓮二郎の部屋に案内した。


 襖を開けて、包帯で巻かれた身体を、座椅子に厚めの敷物を置いた上に寄りかかって、正を迎えている蓮二郎の姿を見た一条正は目を見張り、入り口に立ったまま動かなかった。

 京が促すと、冷静さが戻ったようで、蓮二郎に近づいた。

「蓮二郎、大丈夫か」

「はい、伯父さん」

 掠れた声で蓮二郎が答えた。

「手と足の骨が折れていて、火傷が少しあります。骨が付くまで固定していて動けませんが、命に別状はないそうです」

 京は一条正に座布団を勧めて座るように促した。

「一条の伯父様ご無沙汰しております」

 正が座ると、蓮二郎の側に座っていた調子が挨拶をした。

 正は調子を見て言った。

「蓮二郎のことで迷惑を掛けるが、宜しく頼む」

「いえ、迷惑だなんてそんな…」

「伯父さん、僕は調子さんと…」

 蓮二郎が話しかけるのを途中で止めて正が言った。

「婚約を続けるというのだろう。センという子から聞いた」

 そして続けて言った。

「蓮二郎、来年17歳になったら調子さんと結婚しなさい」

 予想外の正の言葉にその場の三人は驚いた。

「僕はまだ学生です」蓮二郎は躊躇した。

「声が出ないんだろう、無理して話すことはない」と正は言って、話しを続けた。

「まだ萬の返事は聞いてないが、いずれ萬に一条に戻ってもらう。私の跡を継いで貰うつもりだ。旅館を経営する能力があれば私の跡を継ぐことは可能だろう。そしていずれ蓮二郎か蓮二郎の子供が萬の養子になって一条を継いでくれたらと思っている」

 意外な方向に話しは進んで三人はまた驚いた。

「京は?」

 蓮二郎が聞いた。

「京は、センという子と外国に行くことになっているらしい」

 正がそう答えたので、蓮二郎と調子は驚いた。

 正は昨日のユーリーとの短いやりとりの中で、京の将来を的確に理解したらしい。

「京!」

 蓮二郎が京を見た。

「蓮二郎、正さんの言うとおりだ。僕はセンの父親がいる国に行く」

「センちゃんの父親の国?」

 調子が聞いた。

「ヨーロッパにある、サエモンナール王国という国だ」

「ヨーロッパ…」

 調子は遠すぎると思ったのだろう言葉が続かなかった。

「いつ頃行くんだ」

 蓮二郎が聞いた。

「来年三月、一学年が終わった時点で休学して、留学の形を取って行くつもりだ」

 京は答えてから、

「学校のこともあるので、時々帰るつもりでいる」と明るく言った。

 蓮二郎が正を見て言った。

「伯父さん、僕も京と一緒に、調子さんを連れてその国に行っても良いですか」

 今度は正が驚いた。

「僕は京に沢山助けて貰いました。今度は僕が京の力になりたい」

「蓮二郎、気持ちはありがたいけど」

 と京が言った時、

「良いだろう、行きなさい」と正は蓮二郎が京と行くことに賛成した。

「正さん!」

 京が驚いて正を見た。

「京、お前は何でもそつなくこなす。だが私の孫だ、心配していないわけではない。蓮二郎が一緒に行ってくれるなら、それはそれで安心する」

 正がそう言ったので、「ありがとうございます」と蓮二郎は喜んだ。そして、喋りすぎたらしく、喉が痛いと言った。

蓮二郎に休むように勧めて正と京は部屋を出た。

 正は部屋に戻る前にユーリーと話したいと言ったので、ユーリーの部屋を訪ねた。ユーリーは正を歓迎して中に入れた。

 京も一緒にと言われたが、旅館の仕事を手伝うことを理由に断った。


 ユーリーや正と別れセンを捜していると、センは庭で洗濯物を干していた。

 京はセンに来年の渡欧に蓮二郎と調子さんが一緒に行くことになったと伝えると、センは喜んだ。

「あ、そうだ、京兄」

 何か思い出したようにセンは問いかけた。

「トランクを運んだ時に、中に汚い箱が入っていたけど、あれは誰の物だろう?」

「汚い箱?」

「うん、これくらいの木箱」

 センは両手で箱の大きさを表現した。

 京は火事の時に持ち出した木箱をトランクに入れて持って来たと思っていたが、捜しても見つからなかったので、船に忘れたかもしれないと思っていた。

「何処にある?」

「僕の部屋」

「よかった。船に忘れたかと心配していたんだ」

 安堵の表情で京は言った。

「大切なものだったの?」

「ああ、調子さんの銀行の調書が入っていると思うんだ」

「そうなんだ、じゃあ僕取ってくる」

 センは干し終えた洗濯かごを持って家の中に入っていった。

 しばらくして、汚い箱を抱えて戻って来た。

 改めて見るとほんとに汚い箱だった。

 火事の時に燃える倉庫から外に転げ落ちて、すぐに生馬に会って蓮二郎を連れて逃げたため、その箱は現場に置いたままだった。翌日、こっそり現場に戻って溝の中に落ちていた箱を持ち帰ったのだが、煤が付いて汚れたままだった。

「蓮二郎のところに行こう」

 京は箱を持って別れたばかりの蓮二郎の部屋に、センと一緒に行った。

 部屋に着くと、調子が迎えてくれた。

「蓮二郎さん疲れて寝ちゃったみたいなのよ」

 調子は申し訳なさそうに言った。

「今度は調子さんに用事があって来たから、蓮二郎は寝てても大丈夫だよ」

 京は調子に箱を差し出した。

「たぶんこの中に調子さんの人形が入っていると思うんだ」

「私の人形?」

 調子は箱を受け取りながら首を傾げた。

「そう、五紀さんのご主人が作った人形」

「あれは、西園寺の家に置いてきたはず…」

「たぶん、征一郎さんがこの箱に人形を入れて、調子さんの銀行の調書を隠したと思うんだ」

「銀行の調書?」

 不思議がる調子に京とセンは箱を開けるように促した。

 しかし木箱は簡単に開かなかった。

「なにか仕掛けがあるみたい」

 センは箱の裏を覗いた。裏には何も無かった。

 箱をじっと見ていた京は、短い辺に蓋と本体を貫く棒が二本通っているのに気がついた。棒を引いてみたが動かなかった。今度は短い面を見た。するとそこにも長い辺に棒が通っているように見えた。

 昨日の正の話だと、征一郎はからくりが好きみたいだったので、この箱は組木細工のようになっていると考えた京は、引き抜ける棒を捜して抜いていった。すべての鍵になる木を抜くと蓋が開いた。

 中には京の予想通り人形が入っていた。

 人形の上に封書と銀行の証書が載っていた。

 封筒の表は"調子さんへ"となっていて、中には財産目録が入っていた。

「人形の仕掛けに入っているかと思ったけれど、上に置いてあったね」

 京が予想外な感じで言った。

「人形の仕掛けって?」

 調子が不思議そうに京を見たので、センが人形を取り出して胴体部分を捻った。

「ほら、こうすると中に物が入れられるようになっているんだ」

 上下二つになった人形を見せた。

「あれ、何か入っている」

 センは人形から紙を取り出した。

 三人は紙を開いて覗き込んだ。

 それは銀座の土地の売買契約書と委任状だった。

「これは…」

 調子が思い出したように言った。

「そういえば、五紀叔母様が、人形を頂いたときに二つに分かれて物を入れられるようになっていると説明して下さったわ。その時お父様とお母様は側にいてとても驚いていたわ。そして、お父様が人形を貸して欲しいと言ったの。翌朝お父様が私に返してくれたわ」

 京は捜し物は調子の銀行の証書ではなくこの売買契約書だと思った。

 契約書の売主の欄に、明日生馬が会う予定の女性の名前と代理人の名前が書いてあった。

 九重重文(ここのえしげふみ)、この人物がすべての事件の重要人物と思われた。

九重(ここのえ)…聞いたことがあるわ」

 調子が呟いた。

「夏頃だったと思うけど、父にお客様が来ていたの。聞くつもりはなかったけれど、窓が開いていて聞こえたの」

「どんな話し」

 センが先を促した。

「銀座の土地の話しをしていたわ。そのうち父が大きな声を出したの『九重さん、この土地はいろいろ噂がある、あなたが代理人をしているなら、この契約書にあなたの名前を書いて下さい。その委任状も頂きます』と言っていたわ。家から出て行くその九重という人をこっそり覗いてみたら、とても怒っているらしく、父のことを『あの若造が』と言って苦虫を潰したような顔をして出て行ったのを覚えてるわ」

 調子は普段は温厚な父が大きな声を出していたのがとても印象的だったので、その時の様子を鮮明に覚えていた。

 京は調子に断りをいれて、売買契約書を正に見せて調子の話しを伝えた。

 正はそれですべてを察したようだった。

 契約書と委任状は裁判の証拠として無くさないよう京に保管の指示をした。そして婆様に連絡を取りたいと言った。

 京の連絡で婆様が来た。

 正と婆様は小一時間話しをして別れた。

 何かが動き始めたらしいが、京は教えて貰えなかった。



 百合子は旅館に宿泊している間、毎朝散歩することにしていた。散歩と言っても、旅館近くの脇道から八幡様の境内に入り、お参りして、参道の階段を降りて海まで行き旅館に戻る、短い時間の散歩だった。

 萬は朝の散歩に出掛ける百合子に声を掛けた。

「百合子姉さん」

「あら、萬さん。どうしたの?」

「たまには一緒に行くのも良いかと思って」

 百合子は緊張気味で話しかけてくる萬を不思議に思ったが、

「そうね、久しぶりに話すのもいいわね」と一緒に散歩することにした。

 八幡様に参拝して、階段の上に立ち二人で海と対岸の風景をしばらく見ていた。

 萬が何も喋らないので、百合子はセンの話しを思い出して、萬にそれとなく聞くことにした。

「この間、センちゃんが私を見て、萬の初恋の人と言ったのよ。おかしいでしょう、萬さんの初恋が私であるはずがないのに」

 海を見ながらそう言って百合子は笑った。

 萬は百合子の話に驚きながらも、

「本当です、私の初恋は百合子姉さんでした」と萬は百合子を見て言った。

 萬の言葉に百合子は驚いて萬を見た。

「でも、あなたは百合さんを好きだったから一緒に逃げたんじゃないの?」

「百合は好きでした。妹だから助けたかった」

 萬はあの状況で百合を置いて行けなかった。だから連れて逃げるしかなかったと言った。

「私も京一郎から聞いて、それが一番良いと思っていたわ」

 百合子はわかっていると頷いた。

「私は本当の姉弟である姉に恋心を持ってはいけないと思っていました。今でもそう思っています。でも、京から姉さんの父親が正さんではないと聞いて安心したんです」

「どうして?」

「ずっと、本当の姉を恋愛対象として見てしまう私は異常だと思ってました」

「・・・」

「でも、私は異常ではなかった。姉さんを好きになっても良かった。そう思ったら…」

「そう思ったら?」

「姉さん、私と一緒になってくれませんか」

 萬の突然のプロポーズに、それまでゆとりを持って聞いていた百合子は慌てた。

「一緒にって、私はお母様を一人に出来ないわ」

「私が一条家に戻ります」

「えっ?」

「センが聞いたのです。正さんが、私に一条家に戻れと言ったそうです。百合子姉さんが私と一緒になっても良いと思ってくださったら、私は一条家に戻ります」

「旅館はどうするの?」

「旅館は成治親子に任せます。京もセンも二人の未来を決めています、だから私も決めました」

「萬さんの気持ちはわかったわ。少し考えさせてくださる」

 百合子はそう言って、赤い顔をして階段をかけ降りていった。

 萬は妙に清々しい気持ちで、走り去る百合子を見送って旅館に戻った。



 13


 28日は餅つきの準備から始まった。

 旅館からは見えない家の裏庭に臼と杵を用意し、餅米を蒸籠で蒸すための即席の竈が作られた。

 庭にはユーリーとセバスチャン、カイリとキャサリンが興味津々の顔で待っていた。

 今日の餅つきは、旅館を表立って手伝えない、京とセンが伊助と八重の手を借りてすることになっていた。

 竈に火を点けて、といだ餅米を蒸籠に入れて蒸すところから始まった。蒸し上がった餅米を臼に入れて杵でつく段階になると、カイリとユーリーが参加した。餅を付く人と臼の中の餅をこねる兼ね合いが面白かったらしい。

 餅がつき上がると、今度は小さく丸めていく。調子も来て全員でやった。

 餅を丸めながらカイリはつまみ食いをして八重から叱られていた。

 この作業を繰り返して、お正月の鏡餅と旅館のお雑煮用など沢山の餅を作った。

 久しぶりに和気藹々とした楽しい一日だった。



 夕方近くに正が駅の近くの旅館に移ると出て行った。

 センは別荘に戻らないことを不思議に思ったが、京が婆様と正が話し合って決めたらしいと言ったので、そういう作戦なんだと思った。

 それより、センの興味は今日会うという生馬の初恋の人にあった。

 夕方になって帰りかけたカイリを呼び止めて、その話しをすると、カイリは喜んでどんな人か見るまで帰らないと言った。


 冬は暮れるのが早い。駅舎の明かりと街灯の灯りが駅前の広場を照らしていた。

 着いたばかりの連絡船の客が駅から出てきた。

 一条正は闇に紛れて影武者と入れ替った。

 道明寺櫻こと七瀬櫻は改札口を出て駅前の広場を見渡した。友人の小料理屋の女将を捜していた。

「おや、七瀬櫻さんではないですか」

 突然名前を呼ばれたので驚いて振り向くと、三邊が立っていた。

「あら、三邊さん」

 いやな人物に会ったと思ったが、櫻は笑顔を作って挨拶をした。

「こんな所でお会いするなんて、なんという偶然でしょう」

 三邊が嬉しそうに言った。

 その三邊の後ろから、一条正が声を掛けた。

「三邊君、こんな所まで来て、ご婦人を口説いているのかい」

 三邊は一条正が現れたことに驚いた。

「一条さん、帰ってこられたのですか」

「ああ、横浜で面白いものを見つけたよ」

 意味ありげに三邊に向かって笑うと、

「別荘は他の客が来るので、私はそこの旅館に泊まることにしたよ」

 と言って去って行った。

 三邊は慌てて、櫻に「では、また」と言うと、駅舎に入っていった。

「道明寺!」

 女将が櫻に声を掛けた。

「今のはだれ?」

「三邊さん」

「あれが…」

 女将は一目見て嫌な人物だと思った。

「行きましょうか」

「ええ」

 七瀬櫻は女将と羽瀬川旅館に向かった。



「ごめん下さい」

 旅館に東郷が尋ねてきた。

「今日はなんのご用でしょう?」

 用心しながら萬が聞いた。

「明日東京に戻りますので、薫子さんにご挨拶に伺いました」

 東郷は萬に薫子を呼んで貰いたいと言った。

 萬は二階に上がり、薫子に東郷が挨拶に来たと声を掛けた。

 薫子は萬と一緒に玄関に行った。

「まあ、東郷さん、わざわざご挨拶に来て下さったの」

「ええ、明日はお寄りできそうもないので、今日ご挨拶に来ました」

 そこへ、女将が七瀬櫻を連れて来た。

「あら、東郷様」

 櫻が東郷に気付いた。

 東郷は、声の方を見て驚いた。

「七瀬さん」

「その節は主人のことでいろいろお世話になりました」

「いえ、もうお身体の方はよろしいのですか?」

 櫻が七瀬の戦死を聞いてしばらく伏せていたのを思い出した東郷は労りの言葉を掛けた。

「まあ、それは何年前のお話でしょう」

 櫻はコロコロと笑った。

 そこへ生馬が入ってきた。

「あ、東郷さん」

 生馬が間の抜けたような声を出した。

「服部さん、萬さんに用事でも?」

 東郷が生馬に話しかけたのを聞いた櫻は生馬を見た。

「服部さん…?」

「七瀬さんは服部さんを知っているのですか?」

 東郷が櫻の微妙な表情を見て尋ねた。

 帳場の影で様子を見ていたセンは、玄関に出て女将と櫻に言った。

「七瀬様お待ちしていました。どうぞ上がって下さい」

 突然横から出てきた子供に東郷は驚いた。そしてその子供の顔を見てまた驚いた。

「尋?」

 センはチラッと東郷を見て、女将と櫻を案内して奥に入った。

「薫子さん、今の・・・」

 東郷はセンの後を目で追いながら薫子に聞いた。

「そうよ、センと言うの。尋に似てるでしょう」

 東郷は頷いた。しばらく奥の方を見ていたが、センが再び出てくることはなかった。

 東郷は改めて、薫子と萬、そして生馬に挨拶をして出て行った。

 東郷が帰ると薫子は二階に戻っていった。

 玄関には萬と生馬が残された。

 そこへ、女将が二人を呼びに来た。

 萬は用事があると逃げたので、生馬一人が女将と一緒に櫻の部屋に行った。

 部屋に入ると、女将が言った。

「道明寺、服部さん覚えているでしょう。先日偶然会ったのよ。あなたが来たら会わせようと思っていたの。私はお店があるから、終わったらまた来るわ。その間、服部さんと話しでもして待っていて」

 櫻が返事をする間も与えずに女将は出て行った。

 部屋には生馬と櫻が残された。

「あの、ご無沙汰してます」

 部屋に沈黙が漂った。

「いえ、こちらこそ…」

 話しは続かない。

「あの…」

 櫻が言いかけたとき、

「失礼いたします」と襖が開いて、少年がお茶を持って来た。

 その顔を見た生馬が叫んだ。

「カイリこんな所で何をしている!」

「何をって、気になるじゃないですか。お父さん」

 すました顔でカイリが言った。

「お父さん?」

 櫻がカイリを見て生馬を見た。

「初めまして、生馬の息子のカイリです。あなたのことは父から伺っておりました」

 櫻に挨拶をしてカイリが話し出した。

「あら、私のことを?なんて?」

「道明寺さんですよね」

「ええ」

「父はあなたにずっと恋をしていたんです」

 生馬は慌ててカイリの口を塞ごうとした。

「こら、カイリ止めろ」

 カイリは生馬からスルリと逃げると、櫻の横に座り、

「もしかしたら、僕のお母さんになるかもしれない人ですよ。お話しぐらいさせて下さいよ」と言った。

「まあ!」

 櫻はカイリの言葉に驚いた。

「だって、父はあなたが結婚してしまったから、やけになって僕の母にプロポーズしたんですよ。そんな結婚が続くわけないですよね」

「カイリそれ以上は言うな」

 疲れたように生馬が言った。

「あ、すみません。少しおしゃべりが過ぎました。こんな父ですが宜しくお願いします。では、ごゆっくり」

 言いたいことだけ言ってカイリは出て行った。

 また沈黙が訪れた。

「あの・・・すみません、息子が勝手なことを言って」

 生馬はカイリのことを詫びた。

「いえ、元気な息子さんですね」

「元気だけが取り柄で」

「元気な方が良いですわ。私も海里という名前の息子がいました」

「えっ!」

「生きていれば、カイリ君とおなじ年頃ですわ」

「亡くなったのですか」

「ええ、主人も亡くなって、いま私は一人です…」

 櫻は涙声になっていた。

「泣かないで下さい、俺で良ければいつでも話しを聞きますので」

「まあ、ありがとうございます」

 櫻は涙を拭きながら生馬を見た。潤んだ瞳が生馬をザワつかせた。

「ごめんなさい、でも服部さんにそう言って頂けると嬉しいわ」

 櫻はカイリが持って来たお茶を飲んだ。

「俺はいま横浜に住んでいるので、いつでも声を掛けて下さい」

「あら、横浜にいらっしゃるの?」

「ええ、横浜で探偵をしています」

「探偵?」

「以前は警察官だったのですが、上と喧嘩をして辞めました」

「まあ、そういえば、学生時代の服部さんは正義感の強い方でしたわね」

 櫻はコロコロと笑った。

「そうでしたか?」

「そうですよ。私が他校の生徒に声を掛けられて困っていたら、いつも助けて下さったわ」

 生馬は道明寺に悪い虫が付かないよう目を光らせていただけなのだが、それを正義感が強いと思ってくれていたことに感激した。

「やはり、道明寺はいいな」

「は?」

「あ、すみません、七瀬さんでした」

「まあ」と櫻はまたコロコロと笑った。

 生馬は道明寺は昔と変わらず綺麗でかわいい性格のままだと思った。そしてそんな道明寺

 をまだ好きでいる自分に驚いた。


 お茶を出して戻ってきたカイリにセンが聞いた。

「どうだった?」

「あれは、すぐに落とされるね」

 カイリは確信があった。

「父さんの、ど真ん中ストライクだよ。あの人が父さんに惚れてくれたら、本当にお母さんになるかもしれない」

「カイリは嬉しいのか」

「嬉しいよ。僕もど真ん中のタイプだもの」

 カイリが嬉しそうにニヤリと笑ったので、センとキャサリンからポカリと殴られた。



 14


 年の瀬も迫った29日、緊張した空気が漂っていた。

 生馬と正の秘書が七瀬櫻を迎えに来た。

 驚いた櫻に、生馬が事情を説明した。櫻は説明を聞いて出掛けて行った。

 京とセンも調子を連れて付いていった。

 駅前の正が泊まっている旅館に集まった。

 正は櫻に銀座の土地の話しを聞いた。

「七瀬櫻さんは九重に土地の売買の依頼をしたことはないと」

「はい、一度もありません。あの土地はおかしいんです。初めは祖父名義でその後は主人の名義で売買が行われているんです。売買のたびに土地が広くなっていました。私が調べたときは、知らない方から私が買って売ったようになっていました」

 櫻の話しを聞いて、正は「わかった」と言った。

「あなたは大切な証人だから気をつけないといけない。私は罠を仕掛けた。七瀬さんに危険な思いをさせるかもしれないが、あなたの周りは我々が守っています」

 そう言って簡単な打合せをすると、みんなで駅前に出掛けた。

 アインシュタイン博士を見送る人で駅前はザワついていた。

 博士一行が駅前に現れた。博士は人々に挨拶をして船に乗った。

 大勢の人に見送られ、船は出て行った。

 船を見送った人達が帰ろうと動いたとき、女の悲鳴がした。

「キャーッ」

 声のした方を見ると、櫻が二藤に捕まっていた。

 櫻は薬を嗅がされたらしく、ぐったりとしていた。

 大勢の視線が二藤に集まった。焦った二藤は、

「すみませんね、少し酔ったみたいで」と言い訳をして、その場から櫻を連れ出そうとした。

「まて、櫻さんは酔ってはいない。こいつは私の連れを攫おうとしている」

 生馬が二藤の前に立った。

「服部何をする」

 二藤は生馬が妨害すると思わなかったのだろう。思わぬ裏切りに慌てた。

 その時三邊の乗っている車が横に来て、二藤を呼んだ。

「二藤何をしている。早く連れてこい」

 櫻を抱えて車に向かった二藤を、生馬が引き止めた。

 二藤の周りを、博士の警護に来ていた警官が囲み、三邊の車も動けないようにした。

 そこに一条正が出てきて言った。

「お前達はもう終わりだ」

 三邊は驚いて、

「一条なんの真似だ?」と聞いた。

「七瀬さんを離しなさい」

 正は二藤を見て言った。

 三邊は二藤に櫻を離すように指示をすると、

「一条!貴様何をしているかわかっているだろうな」と凄んだ。

 正は三邊を冷めた目で見た。

「あのお方に助けを求めても無駄だ。昨日言っただろう、面白いものを見つけたと」

 一瞬三邊は躊躇したが、気を取り直して言った。

「俺たちが捕まったら、お前も同罪だからな」

「はて、何のことですか」

 正はとぼけて、冷ややかに三邊達を見放した。

 三邊と二藤は櫻の誘拐未遂で警察に連行された。

 三邊の手下も婆様の手の者によって捕らえられた。

 三邊と二藤は貴族院の九重に泣きついたらしいが、九重は銀座の土地疑惑と松方氏殺害疑惑で検察に目を付けられ、それどころではなくなった。長いこと貴族院の妖怪と言われた九重も検察の狂気の圧力に消されるのは時間の問題だった。


 櫻は事前の打ち合わせで、危害があるかもしれないと用心していたため、深く薬を吸い込まなかったみたいで、すぐに目が覚めた。少しふらついたが、生馬が手を貸して旅館まで連れて帰った。

 後にセンはカイリに言った。

「あの二人、昨日は『服部さん』『道明寺さん』だったけど、しっかり『生馬さん』『櫻さん』に変わってたぞ」

 知らない間に進展したみたいだった。



 一連の事件が終わり、正が羽瀬川旅館に薫子を迎えに来た。正が別荘に移るように言ったので、正月前に別荘に移った。

 百合子は、萬のプロポーズを受けることにしたと、薫子に話し旅館に残った。

 薫子は驚いたが、二人を祝福した。

 正は萬の戸籍の母の欄は空白になっているので、百合子と結婚したいのなら、一条家に戻り自分の跡を継ぐように言った。

 正自身は、ユーリーに誘われているので、京達と一緒にサエモンナール王国に行くと言った。

 薫子は「正さんばかり行って狡い」と一緒に行くことにしたらしい。

 来年のサエモンナール王国は賑やかになりそうだとユーリーは笑った。



 大正12年 正月


 除夜の鐘が鳴り終わると、みんなで八幡様に初詣に行った。

 蓮二郎も調子と伊助に支えられて歩いて来た。

「今年も良い年になりますように」

 センはお参りして横を見た。そこには京がいた。

「京兄、僕は京兄にずっとついて行くからね」

 京は笑ってセンの手を取った。

「僕もセンとずっと一緒にいるよ」

 センの頬が染まったのを篝火が見ていた。


 正月明けの船でユーリー達が帰って行った。

 ユーリーは京とセンに「待っている」と笑顔で言った。




 15,


 サエモンナール王国では、ヨハンが父の帰りを待っていた。

「ヨハン、日本は楽しかったぞ」と満足げな表情でユーリーが言った。

「父上、お待ちしておりました。で、どうでした?」

「うん、お前の娘はソフィアに似ていてかわいかったぞ」

 ユーリーはニコニコして言った後、思い出したように

「おお、そうだ、カトリーヌとの再婚の話しがあったな」とヨハンを見た。

 ヨハンはユーリーが忘れていなかったことにホッとした。

「私とカトリーヌのことはどのようになりました?」

「日本の菊という婆さんと話して決めたのだが…」


 ユーリーは菊との話しを思い出していた。

「私の国では王族の再婚は認めていないのだが、ヨハンが、息子が初恋の相手と結婚したがっているのだ。センの母親とは一夜限りの夫婦だったから気の毒とは思うが、どうしたものかと迷っている」

「なんだい、簡単じゃないか。ヨハンを王族から解放してやれば良いだろう」

「ヨハンを王族から解放したら王がいなくなる」

「いずれ京が継ぐのだろう?それまでの間、ユーリーさんが王様に戻りゃあ良いじゃないか」

 ユーリーは婆様の話を聞いてもっともだと思った。


「ヨハン、王位を降りて貰う」

 ユーリーの言葉にヨハンが驚いた。

「新しく来るケイを王にするのですか?」

「ケイはいずれ王にする。だがすぐではない、その間私が王に戻る」

 ユーリーの話しにまた驚いたヨハンは、

「父上が王に戻るのですか?」と聞いた。

「そうだ、お前が王位を捨てるなら、カトリーヌと一緒になることを許そう」

 ヨハンは一瞬躊躇したように見えた。

「わかりました。カトリーヌと相談してみます。少し時間を下さい」

「おお、時間はたっぷりあるから、じっくり考えて良いぞ」

 ユーリーは満面の笑顔でそう言った。


 おわり


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