秋
大正11年 秋
1
九月に入り二学期が始まった。
夏の間にセバスチャンは来なかった。
センは学校では相変わらず先生から注意を受けていたが、一学期よりおとなしくなっていた。調子やキャサリンが側にいないと、ぼんやりすることが多くなった。
センは京が東京に戻り、なんだかわからない胸の詰まりのような感じを紛らわすのに苦労していた。今までこんなことは一度もなかった。センは初めて感じる気持ちに、これが恋なのだろうかと思った。
休みの日、出掛けるのを止めて自室に寝転がって、この胸の詰まりを無くす方法はないものかと考えていた。ぼんやり天井を見上げていた視線が棚の上に置いたイズミの人形の目と合った。センは起き上がって人形を棚から下ろして話しかけた。
「イズミはこんな気持ちになったことある?」
センは人形に問いかけてふと思い出した。
イズミはいつも京を見ていた。京が気づいて笑うと頬を染めてはにかんだ顔で笑い返した。センには見せたことのない顔だった。センはイズミのそんな様子が不思議だった。
「イズミは子供の頃から京兄のお嫁さんになるのが夢だったね。ずっと京兄に恋をしていたんだね」
人形の黒い瞳がキラリと光ったように見えた。
センには人形が「そうだよ」と言ってる気がした。
京が東京の高等学校に行くと決まったとき、イズミが告白しようと言った意味がやっと分かったきがする。イズミはずっと京兄に恋をしていたんだ。
「僕はイズミが告白しようと言ったとき、何も考えていたかった。でも今ならイズミの気持ちが分かる。僕も京兄が僕の知らない人を好きになるのは嫌だ」
人形が笑った気がした。
「今頃わかったのと思ってる?バカみたいだろう。僕は京兄に恋をしているみたいなんだ。あの時僕は何もわからずイズミが一番と言ったけど、もし今の僕があの時の僕と入れ替っても、京兄がイズミを選んだら僕は嬉しかったと思う。イズミもそうだったんだろう。だから一緒に告白しようと言ったんだろう?そうだ、僕はイズミの分も京兄に恋をする。決めた僕は二人分の恋を京兄とするんだ」
センはイズミの分も恋をする。そう考えたら気持ちが軽くなった気がした。
センのこんな気持ちを母様はなんと言うだろう。そう思うと今度は無性に母様、百合に会いたくなった。
押し入れに目を向ける。
押し入れの中に百合の行李が入っている。百合が亡くなってから一度も開けたことが無い。センは行李の中にイズミの人形と同じように母様が話しかけてくれる何かがあるような気がした。
百合の行李を押し入れから出して蓋を開けた。樟脳の匂いがした。
上の方に百合が来ていた着物が入っている。いつも母が来ていた着物だ。センは懐かしくなり着物を取り出して百合の匂いを探した。樟脳の匂いに混ざってかすかに母様の匂いがしたような気がした。
センは着物の下に丁寧に風呂敷に包まれた物を見つけた。風呂敷を取り出して開くと、白いレースの襟の付いた藍色のワンピースが入っていた。百合はいつも着物を着ていたので洋装の記憶は無かった。でもこの襟のレースを最近見た記憶があった。どこで見たのか思い出せなかった。
センはワンピースを風呂敷に包んで行李に戻そうと中を覗いた。帯や紐の下に隠れてノートが見えた。センは風呂敷を入れるのを止めて行李の中からノートを取り出した。ノートの表紙には“センへ”と書かれていた。
開くと百合の字でセンの成長の記録が書いてあった。誕生日ごとに書かれていた。一歳のセン、二歳のセンと続いている。百合はセンが八歳の時に病気で亡くなっていた。最後の頁が気になりパラパラとめくっていたらノートの間から封筒が二通落ちた。
封筒の宛名は外国語で書かれていて、明らかに百合が書いたものではなかった。センはその文字がフランス語だと思った。覚えたばかりの単語を頭の中に並べて、一通は京で、もう一通はユーリー・サエモンナールと読めた。差出人はハリス・サエモンナールとなっていた。ハリス・サエモンナールは爺様の本当の名前かもしれないと思った。
この手紙を爺様が書いたのなら、爺様はセンが二歳の時に亡くなったので、ずっと母様が預かっていたことになる。京宛の手紙が外国語で書かれていることを考えると、京が読めるようになって渡して欲しいと爺様が百合に頼んだと思われた。
センは今度京が帰ってきたときに渡そうと、手紙を棚の引き出しにしまった。もう一通のユーリー宛の手紙はセバスチャンに会ったら聞いてみようと思った。センは手紙を紙入れに挟み学校用の袋に入れた。
センは百合のノートを開いた。ノートの最後の頁は16歳になっていた。百合は死ぬ前にセンにメッセージを残していた。
センは12歳の頁を開いた。
『セン、12歳おめでとう。来年は小学校を卒業しますね。小学校を卒業したらセンは女学校に進学しますか。京さんと同じ中学校に行きたいと思っているのではないですか。
母様はセンには女学校に行って貰いたいです。
12歳から数年間は子供から大人になるときです。行動範囲も広くなり、いろいろな人と出会い、そして知らない世界が見えてきます。子供時代のように楽しいことばかりではありません。理不尽なことも増えてきます。そういったことを理解して乗り越える知識を身につけて下さい。
ところで、センはもう初恋をしましたか?
私が京一郎様に恋をしたのは9歳の時です。京一郎様は萬兄様と一緒に夏休みや学校の長い休みに里に来ていました。京一郎様はいつも本を読んでいて、私の知らないことを沢山知っていて、私の些細な質問にも丁寧に答えてくれました。私は幼心に京一郎様をとても尊敬していました。
でも9歳になった頃、自分でも不思議なのですが京一郎様への思いが変わったのです。いつの間にか京一郎様のことばかり考えるようになっていました。母様に聞いたら恋だと教えてくれました。京一郎様が百合の特別な人になったから、京一郎様のことが心から離れなくなってしまったのだと教えてくれました。
京一郎様は高校生になると里に来なくなりました。
母様が薫子様のために一条のお屋敷に行くとき、私は京一郎様に会いたくて母様について行くことにしました。どんな形でも良いから京一郎様の側にいたかったのです。
センがまだ恋をしていないなら、特別な人が現れる時の為に少しアドバイスしましょう。恋は特別な人に感じる思いです。家族や友達に感じるものとは少し違います。その人のことを思うと胸がドキドキしたり、苦しかったりします。会えると楽しくて、離れると寂しい。とても複雑な気持ちになります。好きという気持ちと相手を思いやる気持ち。
お互いが好きになると良いのですが、時にはそうならないこともあります。その時は一人で考えずに誰かに相談して下さい。あなたの側にはイズミちゃんや五紀伯母さんもいるので悩んだ時は必ず相談してください。
それから、センは京の弟として男の子のように過ごしていますが、そろそろ女の子として身体が変化して来る頃です。胸が膨らんできたり、いろいろ女の子特有の変化が身体に現れます。それはセンが大人になって愛する人と結ばれるために必要なことです。イズミちゃんがいるのですでに教えてもらっているかも知れませんが、なるべく早く五紀伯母さんに聞いてください。あなたがステキな初恋をすることを願っています』
母様は僕のことを忘れていなかった。そう思うと涙が出てきた。
イズミも母様も姿は消えてしまったけれど、僕が会いたいと思うと僕の側に現れてくれる。それに今は調子さんもいる。センは一人じゃないと思った。
センは早速、母様の言う女の子特有の変化について調子に聞くために部屋を出た。
センの話しを聞いて調子は驚きながらも教えてくれた。
調子は置屋にいたので、先輩の芸子達からいろいろ聞いていた。男と女の違い、身体の変化、閨のことなど大抵のことは聞いて知っていた。
調子はセンが何も知らないまま無防備に男の子に雑じって行動しているのは良くないと常々感じていたので良いチャンスと思い、自分が聞いて知っていることをセンに教えた。
センは調子から男の子と女の子の成長の違いなど、置屋の芸子から聞いた話を赤面しつつ教えてもらった。
一通りの話しを聞いて、センは女は大変だと思いながら部屋に戻った。
部屋の中は出掛けるときに片付けてなかったので、百合の行李は開いたまま、中の着物も出したままだった。センは行李の中に風呂敷包みと着物をしまい、押し入れの中に戻した。
そして、イズミの人形を棚に戻そうと抱き上げたとき違和感を感じた。人形の上半身と下半身が少しずれているような気がした。センは人形を畳に寝かせてみた。ほんの少し左を向いていた。人形を抱き上げて腰の辺りを持ち右に捻ってみた。カチリと音がして人形のズレが直った。不思議に思ったセンは今度は左に捻ってみた。人形の腰が回った。そのまま左に捻ると人形は上下に分かれた。人形の中は筒のような入れ物になっていた。おはしょりと帯で分からなかったが、捻ると開くようになっていた。
中に折りたたんだ紙が入っていたので開いた。
紙は文字で埋まっていた。
文字は『萬さんへ』で始まっていた。
センは驚いて萬を呼びに行った。
「父様、父様」
萬は庭で伊助と薪を割って束ねていた。
「どうしたセン」
「仕事中にごめんなさい。急用なんだけどいい?」
萬はセンのただならぬ様子に気づいて、その場を伊助に任せた。
センの部屋に行くと、畳の上にイズミの人形が二つに分かれて置いてあった。
「壊したのか」
萬が聞いた。
「違うよ。この人形上下ではずれるようになっていた。そして中からこれが出てきた」
センは人形の中から出てきた紙を萬に渡した。
萬は受け取ると読み始めた。
『萬さんへ
イズミがこの手紙に気がついてくれることを願って書いています。
夫敬がこの人形を作っているとき私は近くで見ていました。人形の胴を筒状にして物を入れることが出来るように細工していたのを知っていました。
この人形を遺品として渡されたとき、敬が何か入れているのではないかと開けてみましたが、中には何も入っていませんでした。
ほんとうは何かを入れて私に送るつもりだったのでしょう。でも入れる前に事故で亡くなってしまいました。
いま私は大原さんの屋敷に滞在しています。何かが起きるかも知れないとても不穏な空気を感じています。私の取り越し苦労だと良いのですが・・・
この感じは13年前尋伯母さんが手伝いに行っていた呉服商ふく屋で感じたものと同じ気がします。
ふく屋は敬の人形の着物生地を買うためによく行っていました。13年前私はそこで尋伯母さんに会ったのです。伯母さんは身重の女将さんの面倒を見るために手伝いに来ていると言っていました。お店の人は私が知る限りみんな優しく良い方ばかりなので伯母さんも働きやすいと思いました。でも店を少し出たところで店を見張っている人を見つけました。一人ではなく数人いました。
萬さんは私の異常を敏感に感じる力を知っていますよね。その時私は感じたのです。ふく屋は狙われていると、私は店に引き返し尋伯母さんに逃げるように言いました。でも伯母さんは笑って言ったのです。
「最近変な人達が家の周りにいるのはわかっています。でも私の勘だけで店の人に逃げろと言えない。でも用心した方が良いと思ったので、旦那様には伝えているのよ。旦那様からもしものことがあったら困るので、女将さんを連れて逃げて欲しいと頼まれているの。明日、女将さんを連れて女将さんの実家に行くようにしているから大丈夫よ」と。
数日後、尋伯母さんと話しをした日の夜にふく屋に強盗が入って伯母さんが亡くなったことを知りました。
あの時と同じです。大原には展示会用の宝石を屋敷内の倉庫に保管しています。それを狙っているのかもしれません。
今は夜なので大原が雇った警備員が大勢います。狙うとしたら昼間に荷物の出し入れのため警備を緩めているときだと思います。
私は今日の昼間、大原の従業員と男が会っているところを偶然見てしまいました。私が見ていたことを彼らは気づいています。私をこのまま逃がすとは思えません。
驚いたことにその男は私が呉服商ふく屋の外で見た男と同一人物でした。ふく屋を見張っていた一人です。ふく屋の時は全員殺されました。もしかしたらこの家の人達もあの従業員も全員殺されるかも知れません。
この家には女の子が二人います。二人ともイズミにとてもよく似ています。私はどうにかしてこの子達を助けたいと思っています。
萬さん、もし私が戻らなければ、イズミを宜しくお願いします。 五紀』
五紀の最後の手紙だった。五紀が調子達を助けようとしていたことが分かった。そして呉服商ふく屋と大原邸の侵入者が同じことも分かった。
五紀の手紙を見つけて一週間ほど過ぎたある日。
センと調子が女学校から帰って、旅館の前を通りがかったとき、身なりの良い外国人の紳士が玄関の前に立って建物を見上げていた。センはセバスチャンかも知れないと思い、調子を先に帰して立っている人物に声を掛けた。
「お泊まりのお客様ですか?」
紳士は驚いて振り向いた。そして、ゆっくりとセンを見た。
「いえ、違います」
紳士は日本語で答えた。
「この旅館に、ケイ・ハセガワさんはいらっしゃいますか?」
「兄ですが、あなたは?」
「失礼致しました、私はセバスチャンと申します」
「セバスチャン・・・」
センは相手がセバスチャンと知り少し緊張した。
「ケイ様に用があってお訪ねしました。お会いしたいのですが」
「兄は東京の学校に行っています」
「東京ですか」
「はい」
「東京のお住まいを教えて戴けますか」
「・・・」
センは京兄にセバスチャンが訪ねてきたときに東京の住所を教えても良いか事前に相談していた。二人は一条邸にセバスチャンが行くことは避けた方がいいと考えて、あらかじめ佐の助にセバスチャンが来たときの協力をお願いしていた。
佐の助がセバスチャンを見かけていたら、近くにいると思った。
センは視線を通りに向けて佐の助の姿を捜した。通りの角に佐の助を見つけたので手を振って佐の助を呼んだ。そしてセバスチャンに向き直って言った。
「今は教えられません」
「なんと!」
セバスチャンが驚いた。
「いまはです。詳しいことは言えません。京兄の連絡場所はあの車屋に聞いて下さい。それとセバスチャンさん、ユーリーという方をご存じですか?」
「ユーリー・サエモンナールのことですか」
セバスチャンは探るように聞いた。
「そうです。ご存じですか?」
「隠居されましたが、今の国王の父君になります」
「ご健在ですか?」
「はい、それが何か?」
セバスチャンは怪訝な顔で問いかけた。
センは手提げ袋から紙入れを取りだすと、それをセバスチャンに渡した。
セバスチャンは紙入れを受け取り中の手紙を見た。手紙の差出人を見て驚いた。
「これは・・・」
「10年ほど前、爺様が亡くなる前に書かれた手紙です。最近見つけました。渡して戴けますか」
セバスチャンは手紙を大事そうに紙入れに戻すと内ポケットに入れた。
「確かに預かりました」
佐の助が近くまで来ていた。
「佐の助、セバスチャンさんを旅館まで送ってくれないか」
「はい、わかりました」
セバスチャンはセンに挨拶をして人力車に乗った。
佐の助の人力車が羽瀬川旅館から離れていった。
センが家に帰ると、萬と調子が待っていた。
「セン、何かあったのか」
調子から旅館前にいる外国人の話を聞いたらしく、萬は心配顔で聞いてきた。
「何にも無いよ。外国語の練習に話しかけたら日本語が話せる人だった。旅館を捜していたらうちの前に着いたらしい。旅館の名前を教えてもらったら方向違いだった。ちょうど佐の助が近くを通ったので捜してる旅館に連れて行いくように頼んだ」
センはセバスチャンを旅館を間違えた外国人にした。
センからセバスチャンを引き受けた佐の助は、港近くの旅館に車を止めた。そして紙を渡した。
「今は訳があって東京の住所を教えることが出来ません。そこに書いている日時にその場所に行って頂ければ会えます」
セバスチャンは何かあると感じたようで、理由も聞かずに紙を受け取り旅館に入っていった。
2
京と蓮二郎は、横浜の蓮二郎の実家である西園寺邸の片付けをしていた。
西園寺邸は横浜市街の山手にあるこじんまりした二階建ての洋館だった。
以前は東京に住んでいたらしいが、祖父が亡くなってから祖母が横浜に住みたいと言って、蓮二郎の父征一郎と移って来たと聞いた。
東京に戻ってから、蓮二郎の家に行ってみたいと京が言ったので、蓮二郎は3年ぶりに実家に戻った。父の葬式のあと、家を出て以来だった。
蓮二郎は夏休みに京から一条正の話を聞いた後、正が調子のお金を狙っているとは思えなかったが、正とは距離を取った方がいいと思うようになっていた。そのためには一条邸を出て実家に戻ろうと考えていた。
京から蓮二郎の家に行ってみたいと言われたときは、実家に戻る良い機会だと思った。
3年で家の様子が変わると思っていなかった蓮二郎は実家に行って驚いた。
3年ぶりの実家はひどいことになっていた。長いこと留守だったこともあり庭は雑草で荒れ果て、外観もツタが這い、扉や窓が壊されて廃墟のように見えた。家の中も泥棒に入られたようで各部屋の金目の調度品は無くなっていた。
蓮二郎はあまりの酷さにショックで何も考えることが出来なくなった。
呆然としている蓮二郎に、片付けたら案外何か残っているかも知れないと京は元気づけた。
絶望的になったしまった蓮二郎は「こんな状況じゃあ片付けたって元のようにならないよ」と力なくその場に座り込んだ。
そんな蓮二郎に、京は家を修理しようと言った。
蓮二郎は正から小遣いを貰う生活をしているため、家を修理するお金は持っていなかった。正にお金を出して貰うのは難しいと思うし、たとえ出して貰えても正に借りをつくるのは嫌だった。
蓮二郎は学校を卒業して働くまで家の修理は出来ないと言った。
京は蓮二郎が働くようになったら返す条件で萬からお金を借りようと言った。そしてその日のうちに萬に電話をして修理代の借入れの依頼をし、生馬に館の修理を安く頼める大工を紹介して貰った。
こうして二人は学校の休みに蓮二郎の実家を片付けることにしたのである。
それが先週の話しで、今日は壊れた外壁や窓、扉などの修理のために職人が入って作業していた。
「蓮二郎、修理代は貸しだからな」
作業をしている職人を見ながら京が言った
「わかってる。働くようになったら必ず返す」
蓮二郎がボソッと言ったので、京は笑って蓮二郎に釜を渡しながら今日の作業を伝えた。
「家は大工さんに任せるとして、僕らは庭の草刈りをしょう」
背の高い木はいずれ植木屋にお願いするとして、伸び放題の雑草は自分たちで刈らないといけなかった。
昼近くまで草刈りをした。
「蓮二郎、休憩しないか」
京が汗を拭きながら言った。
「そうだな、そろそろお腹もすいてきた」
ずっと休みなく草を刈っていた蓮二郎は立ち上がると大きく伸びをした。
「少し歩くけれど、良さそうな喫茶店を見つけたよ。そこへ行く?」
「喫茶店?」
「うん、『ムール』と言う喫茶店なんだけど、土産屋の奥にあってちょっと分りづらい
けれど、何度かその土産屋に洋菓子を買いに行くことがあって、一度入ってみたいと思っていたんだ」
「いいよ」
「良かった。じゃあそこに行こう」
二人は作業を止めて、職人にお昼を食べに行くと伝えて出掛けた。
西園寺邸から歩いて20分ほどの所にムールはあった。
ムールは土産屋の奥にあり、生馬の探偵事務所のあるビルに繋がっている。
土産屋の看板の出ている店に入り、奥の喫茶店に行った。
昼時だからだろうか、思ったより客がいた。二人は空いた席を見つけて座った。
京も蓮二郎も喫茶店に入るのは初めてだった。
店員がメニューを持って来た。メニューを見てもよくわからなかったので、オムライスという物を頼んだ。
「こんな店があったんだ」
蓮二郎がキョロキョロと店内を見回した。
「初めて東京に来て帰る時に横浜から船に乗っただろう。僕は君より先に家を出たから、横浜に着いて妹達の土産を買うために歩いて土産物屋を捜すことにしたんだ。ブラブラ歩いてここの看板を見つけて中に入ったら美味しそうな洋菓子が並んでいたので買って帰った。その時に買った洋菓子がおいしかったので、時々ここへ来て薫子さんにも買って帰ったりしてる」
「ああ、君が時々買ってくるあのお菓子?」
蓮二郎が思い出したように言った。
東京に来てから、京は学校の休みに東京探索と言って自転車で出掛けることがあった。出掛けるとたまに洋菓子を買って帰ってきた。東京だけでなく横浜まで来ていたらしい。
京は蓮二郎に内緒で生馬と土産屋の客と店員として時々会っていた。
「それにね、ここのお婆さんがハイカラな人で、東京に出掛けては新しい物を吸収してくるみたいなんだ」
「へえ、よく知っているね」
「何度か来ているからね、お菓子を買いながらいろいろ話しをするようになったんだ。ほらあそこに座っている人だよ」
京は喫茶店の奥にある席に座っている白髪交じりの小柄な婦人を蓮二郎に教えた。
二人がこそこそと話していると、オムライスが運ばれてきた。
「はい、オムライス二つお待ちどう」
喫茶店には似つかわしくない男の声がして、テーブルにオムライスが置かれた。京は店員を見た。長身のひょろっとした男が立っていた。
「生馬さん、今日はどうしたんですか?」
「見ての通り、ここの手伝い」
生馬はかるくウインクをした。
「あ、蓮二郎君。この人はカイリのお父さんで服部生馬さん」
あわてて京が生馬を蓮二郎に紹介した。
「西園寺蓮二郎です」
蓮二郎は無表情で生馬に挨拶した。
京は生馬がわざわざ料理を運んで自分に声を掛けたのは何か用事があるからだと思った。
「君が西園寺君。カイリから聞いているよ」
「そうですか」
相変わらず無表情だ。
「西園寺君、君に聞いて貰いたい話しがある」
「僕にですか?」
蓮二郎の表情が少し動いた。
「私は私立探偵をしている。先日カイリを通して、萬の下の子から頼まれた件を調べていたんだが、少し話しをして良いかな」
生馬は店の中を見回して、京の横に座った。
「萬の下の子?あれが何か言ったのか」
蓮二郎は明らかに不機嫌になった。
「君のお父さんの自殺の真相を調べて欲しいと言ってきた」
蓮二郎も驚いたが京も驚いた。
「何かあったのですか?」
蓮二郎が黙ったので、京が聞いた。
「もしかしたら、自殺じゃ無いかも知れない」
「なっ!」
蓮二郎は生馬を見た。
「君のお父さんの保証人の件、巧妙に仕組まれた詐欺の可能性がある」
「どういうことですか?」京が先を促した。
生馬は周りに聞こえないよう小声で話しを始めた。
「川崎五郎さん、君のお父さんが保証人になった人だ。川崎さんは銀座で小さな時計屋をしていた。親は飾り職人で江戸の頃からそこに店を構えていた。店は一等地ではないけれど、開発が進む場所にあった。古い家なので周りの新しく建った商店と比べると見劣りしてた。そこを狙われたんだろう。ある日不動産関係の人が店にきて、近代的な建物に変えませんかと言ったそうだ。この不動産屋が来る半年ほど前に川崎さんは大原さんと店の建替えの話しをしていたらしい。二人で銀座に店を出せたらと話をしていたそうだ。でも大原さんが亡くなって建替えの話しが立ち消えになってしまった。川崎さんはその不動産屋の話しを聞いたそうだ。話しを聞いた後、その不動産屋はどんどん話しを進め、川崎さんは言われるまま西洋風の外観に建替える契約を結んだ。建築費の借入れは不動産屋指定の銀行で手続きをした。借入金額は壱萬五阡円、土地を担保に借りたが、保証人を西園寺征一郎さんにして欲しいと言われたそうだ」
「指名されたのですか?」
京は意外に思った。
「そうだ、不動産屋が指名したんだ。川崎さんと西園寺征一郎さんは学生時代からの友人で仲が良かった。川崎さんは不動産屋がお金を持っている友達関係を先に調べていたと思ったそうだ。疑うこと無く西園寺征一郎さんに保証人をお願いした。西園寺征一郎さんは川崎さんの頼みならばと保証人を快く引き受けたそうだ。契約から一ヶ月後に工事に入るので、それまでに店を閉めるように言われ、川崎さんは上野に小さな家を買ってそこに引っ越した。ところが、一ヶ月経っても工事は始まらなかった。不思議に思って不動産屋に連絡を取ろうとしたけれど連絡が取れなくなっていた。そして突然銀行の者という男達が川崎さんの所にきて、返済が滞ったので店を差し押さえたと言ったそうだ。工事も何も始まっていないのに建築工事費として借りた壱萬五阡円の利息を一度も払いに来ていないので、一ヶ月と10日で弐萬弐阡円になったと言って返済を迫られたらしい。不動産屋は初めから銀座の土地を取るつもりでいたらしい」
「生馬さん、その話は何処から」
「大原さんの件を調べに銀行に行ったとき、たまたまそこの行員が川崎さんや西園寺さんの友人で、川崎さんが自殺する前に手紙を貰ったそうだ。その手紙にそう書いてあったと教えてくれた。川崎さんは手紙の最後に征一郎さんに保証人になって貰っているので心配だと書いていたそうだ。その銀行員は心配になり、征一郎さんに連絡を取ろうと思っていたら、彼が銀行に来たそうだ。そして調子さんに代わって手続きしていた大原さんの財産を大原調子さん本人以外は出せないようにして欲しいと言ったそうだ。その銀行員は子供の頃から調子さんを知っていたので、本人で無ければ引き出しできないように手続きをすると約束した。そう約束して証書を作り征一郎さんに渡したら安心して帰ろうとしたので、銀行員は征一郎さんを呼び止めて、川崎さんからの手紙を見せたそうだ。そうしたら借金は二ヶ月半で参萬円になっていると言ったそうだ」
「二ヶ月半で壱五阡円が参萬円に!何ですかそれ!」
京は怒りが沸いてきた。
「今その銀座の土地どうなっていると思う?」
生馬が意味深顔で聞いた。
「どうなっているのですか?」
「立派な商業施設が建っているよ」
「壱円も出さずに手に入れて、他に売ったのですね」
「そう、そのビルを建てたのが、一条正が関係している建設会社と聞いたらどう思う?」
「!!」
「西園寺征一郎は銀行員と別れるときにこう言ったそうだ。『僕は自殺は選ばない。もし僕が死んだら殺されたと思ってくれ』と」
「じゃあ・・・」
「そうだ、西園寺征一郎が自殺するはずないんだ」
生馬はそれだけ言うと席を立って土産屋のお婆さんのところに行った。
京と蓮二郎は出されたオムライスを一口も食べることが出来なかった。そんな二人にお婆さんが近づいて言った。
「持ち帰れるようお包みしましょうか?」
二人はその申し出をありがたく受けることにした。
西園寺邸に戻っても、二人は黙ったままで何も話さなかった。生馬の話しが衝撃的すぎて思考が止まっていた。
蓮二郎は正が調子を殺すかも知れないと言う京の話しが妙に真実味を帯びて感じられた。
京は考え込む蓮二郎を部屋に残し、草刈りの続きをしながら考えていた。
いつの間にか日が暮れかけていた。
修理に来ていた大工の頭領が作業の終了を告げにきた。
「屋根や外壁、窓と扉、一応痛んでいた所はすべて直しておきました」
「ありがとうございます」
「それから、電気と水道も使えるようにしています」
「そこまでしていただけたのですか、助かります、ありがとうございました」
京は頭領に礼を言って手間賃を払った。
大工が帰ったので、家の中に入った。蓮二郎は帰ったままの状態から動いていないみたいで、京が作業前に見た姿勢で椅子に座っていた。
「蓮二郎、もう日が暮れる。そろそろ帰ろう」
蓮二郎が沈黙したままだったので、京は肩を掴んだ。
「!?」
蓮二郎はビクッとした。考えに没頭していたようだった。
「蓮二郎、帰るぞ。大丈夫か?」
「ああ・・・もうそんな時間・・・」
「大丈夫か?正さんの前で平気でいられるか?」
「ああ、大丈夫だ」
「なら、いい。しかし腹が減ったな」
「そうだな」
「あのオムライス食べるか?」
「ああ、食べよう」
二人は冷たくなったオムライスを食べた。
「来週は、部屋の中を片付けよう。何か見つかるかも知れない」
元気づけるように京が言った。
「何かって?何が?」
「お父さんが銀行から貰った証書とか」
「これだけ荒らされているんだ。有るわけ無いだろう」
「分らないさ、何かを探してるからこれだけ荒らしたのかも知れない」
京は泥棒はここで捜し物をしていたと思った。絨毯を剥がしてまで捜している所を見ると、捜し物は見つかっていないと思われた。
二人は修理が終わった窓と玄関に鍵を掛けて一条邸に戻った。
次の休みは各部屋の掃除をすることにした。
まず一階の居間から始めた。散乱した本や家具の埃を払い、椅子とテーブルと一緒に角に動かし、絨毯の剥がされた床をホウキで掃き水拭きする。床が綺麗になったら家具を元の位置に置く。
家具を戻した後、京は蓮二郎に言った。
「僕は約束が有るので、少し早くムールに行くけれど君はどうする?」
蓮二郎は棚に本を入れていた手を止めて、
「僕はもう少し片付けてから行くよ」と言った。
この一週間、蓮二郎は平静を保っていた。調子の為に我慢しているようにも感じられた。
京は蓮二郎を残して出掛けることにした。
ムールの中は空いていた。京は店内を見回してセバスチャンを捜した。角の席にセバスチャンと思われる外国の紳士が座って京を見ていた。
京は紳士に近づいて問いかけた。
「セバスチャンさんですか?」
セバスチャンは椅子から立ち上がると丁寧にお辞儀をした。
「ケイ様でいらっしゃいますか?」
「はい、羽瀬川京です」
「私はハリス・サエモンナール公爵の執事のセバスチャンと申します」
二人は挨拶を済まして椅子に座った。
店員が注文を取りに来た。京はセバスチャンが紅茶を飲んでいたので、同じ物を注文した。
店員が去ると京はセバスチャンに謝った。
「こんな形でお呼び立てして申し訳ございません」
「いえ、こちらこそお忙しいところをすみません」
店員が紅茶をテーブルに置いて、別の客の注文を聞きに行った。
「僕は爺様に騎士にして頂きましたが、詳しいことは聞いていません」
「そうなのですか。私どもは、10年前にハリス様からお手紙を頂き、ケイ様を後継者と決めたので、ケイ様が16歳になったならば、サエモンナール王国にお連れして、公爵家の後継者としての宣誓の儀式を執り行うよう指示を頂いています。宣誓の儀式を終えられた後、ケイ様が日本に帰りたいと言われたら帰すようにとの事です。ただし学校を終えたらわが国に戻られて、サエモンナール公爵としての公務を行って欲しいとのことです」
「そうですか。この件は爺様が誰にも言ってはいけないと言っていたので、私はまだ父に何も話していません。少しお時間を頂けますか」
「先日、私があなたの家をお訪ねしたとき、一人の少女に声を掛けられました。ご家族でしょうかあなたのことを兄と呼んでいました」
「センに会われたのですか?」
「はい、その方からこれを預かりました」
そう言ってセバスチャンは内ポケットから紙入れを出し、中から手紙を取り出した。
「それは・・・」
「ハリス様から弟君のユーリー様に当てたお手紙です」
「これをセンが・・・」
京は手紙についてセンから聞いたことがなかったので、自分が東京に戻った後見つけたのだと思った。
「最近見つけたと言っていました」
「そうですか。それはユーリー様に渡して頂けるのですね」
「はい、必ずユーリー様にお渡し致します」
セバスチャンは手紙を丁寧に紙入れに戻し内ポケットにしまった。
「綺麗な方ですね。妹さんですか?」
セバスチャンがふいに問いかけた。
京はにっこり笑って
「僕の大切な人です」と答えた。
セバスチャンはその笑顔に既視感を覚えた。同じ言葉を同じように笑顔で誰かが言っていた。それが誰だったのかセバスチャンは思い出せなかった。でも京の笑顔に魅力を感じた。人を引きつける爽やかな笑顔。セバスチャンは京に公爵としての資質を感じた。
「それでは、私は一度国に戻ります。12月になりましたら改めてお迎えに上がりますので、それまでご家族様にお話下さいますようお願い致します」
「分かりました、わざわざありがとうございました。お気を付けてお帰り下さい」
「ありがとうございます」
セバスチャンは席を立ち店を出て行った。
「京は外国の人とも知り合いなのかい?」
生馬が声を掛けてきた。
セバスチャンと話している途中で生馬が店に入ってきたのは気がついていた。京の邪魔にならないよう、離れた席で話が終わるのを待っていたようだ。
「生馬さん、こんにちは。ちょっとした知り合いです」
「そうか」
生馬は詮索することはしなかった。
「ところで、10月の半ばに萬に会いに行こうと思っている」
「何か分かったのですか?」
「いや、一度みんなで集まって情報の整理をしたいと思っている」
「蓮二郎も含めてと言うことですか」
「そうだ」
「理由もなく二人一緒に出掛けるのは難しいですね」
「そうなんだよな」
「もうそろそろ蓮二郎も来る頃だと思うので、来たら三人で相談しましょう」
京と生馬は蓮二郎の来るのを待っていたが、30分待ってもくる気配が無かった。
京は喫茶店の人に持ち帰り出来る料理を作って貰い、西園寺邸に戻ることにした。
3
セバスチャンは外務省を訪れていた。
「ティティですか?」
受付の女性が言った。
「はい、13・4年前にこちらにいらした方なのですが」
「私は5年前に受付に配属になりましたので、それ以前のことはわかりません」
受付の女性が困ったように言った。
セバスチャンの身なりが良いので、邪険に扱えないと思い、近くの席の女性に声を掛けた。
「ねえ、13・4年前に受付をされていた方をご存じ?」
聞かれた女性はしばらく考えていたが、
「総務室の遠藤様は知っているかも」と言った。
受付の女性はセバスチャンに少々待つように言って席を立った。
しばらくして受付の女性が、一人の女性を連れて戻ってきた。
「セバスチャン様、この者が知っていると申しておりますので、あちらのお部屋でお話し下さい」
セバスチャンはもう一人の女性と連れだって受付横の部屋に入った。
部屋は小さな応接室だった。
「すみません、お手数をとらせてしまいまして」
セバスチャンは申し訳なさそうに言った。
「いいえ、かまいませんわ。私遠藤由貴と申します」
「私はセバスチャンと申します」
遠藤由貴はセバスチャンに座るように勧め、セバスチャンが座ると自分も座った。
「ティティをお探しと伺いましたが」
「はい、私の主が以前日本を訪れた際に大変お世話になりまして、お礼を申したいと言われまして、ご存じの方がいらっしゃらないかと思い伺いました」
「確かにティティは当省にいました」
「昔こちらにいらしたのですね」
「はい」
「では、今は何処にいらっしゃるかご存じでしょうか」
「いえ、ティティは途中でいなくなりました」
「いなくなったとは?すみません、もし宜しければもう少し詳しく教えて頂けますか?」
「あの当時、ティティは女学校を卒業したばかりで、当省に見習いで入っていました。当時お父様がこちらで少し教育して欲しいと仰って連れてこられました。名前は東郷塔子。頭文字を取って私たちはティティと呼んでいました。ティティは通訳を目指していて、当省にいらした外国の方に積極的に話しかけていました。頼まれた仕事はきちんと出来て余計なことは言わないので、とても人気がありました。あなたのご主人もその時にお会いしたのだと思います。余談になりますけれど、外国の方で毎日彼女にプロポーズに訪れた人もいました。あまり毎日言われるのでどうしたらよいかと相談されました。あなたにその気が無いのなら、会ってきちんとお断りをしなさいと言いました。ティティは少し考えてお断りすることにしますと言っていました。
毎日元気に出勤していたのですが、ある日突然ティティは省に来なくなりました。その毎日プロポーズされていた方も彼女が居なくなったと聞き一緒に探して下さいました。初めは具合でも悪く休んでいるのかと思っていましたら、海外出張から戻ったティティのお父様から娘が行方不明になったと聞きました」
「すみません、そのティティ様のお父様は今どちらにいらっしゃいますか?」
「東郷様ですか?」
「はい」
「現在わが国の外務大臣になります」
「外務大臣!」
国王の話だと一般の女性だと聞いていたので、セバスチャンは驚いた。
「はい、東郷大臣です」
「宜しければ、お会いしたいのですが?」
「大臣にでしょうか?」
「はい」
「確認して参ります。少しお待ち下さい」
遠藤は席を立つと部屋を出て行った。
しばらくして戻ってくると、
「大臣は省内にいらっしゃいました。お会いしても良いとのことなので、私の後に付いて来て下さい」と言った。
セバスチャンは遠藤の後に付いて大臣室に行った。
遠藤がドアをノックして扉を開け、セバスチャンと部屋の中に入った。
「大臣、先ほど面会の申し入れがありました、セバスチャンさんです」
東郷大臣は50過ぎの細面の口髭の似合う男だった。
東郷が遠藤に目配せをすると、遠藤は出て行った。
「どうぞ」東郷がセバスチャンに椅子を勧めた。
「私はサエモンナール王国の元国王ハリス・サエモンナールの執事のセバスチャンと申します。わが国の現国王が以前日本を訪れたとき、東郷様のお嬢様に大変お世話になりました。もし宜しければお嬢様にお会いしてお礼を申し上げたいのですが」
セバスチャンは恐縮しながら東郷に尋ねた。
東郷はしばらくセバスチャンを見ていたが、
「塔子は死んだよ」とボソリと言った。
「亡くなられたのですか?」
「もう12年になる。私が出張中に行方不明になって、一年後に骨になって帰ってきた。病気になって熊本の湯治場に長いこといたらしい。塔子は今母親の隣で眠っている」
「そうでしたか。悲しいことを思い出させて申し訳ございません。私も国に戻りましたら国王にお亡くなりになったとお伝えします。お時間を取って戴きありがとうございました」
セバスチャンは席を立って東郷に挨拶をして部屋を出ようとした。
「塔子は何をしたのかな?」
唐突に東郷が聞いた。
「はい、国王がある日本の書籍について知りたいと尋ねた時、とても丁寧に教えて下さったそうです。日本にいる間、わからないことは彼女に尋ねると親切に教えてもらって、とても助かったと申しておりました」
セバスチャンは当たり障りのないことを言ってごまかした。
「そうか、あの子は通訳になるのが夢だった。少しは役に立っていたのだな。わざわざ訪ねて頂いてありがとう。あの子も喜んでいるだろう」
「いえいえ、こちらこそお時間を取って頂きありがとうございました。それでは失礼致します」
大臣に挨拶をして、セバスチャンは部屋を出て行った。
東郷は窓辺に立ち、先ほど会ったセバスチャンと名乗る男が建物を出て行くのを見ていた。東郷は先日垓の墓参りに行ったとき偶然薫子に会った。そこで薫子から塔子に子供がいたことを聞いた。
東郷は塔子に子供がいたとは信じられなかったが、13年前に塔子が行方不明になったことと、今のセバスチャンという男は何か関係しているかも知れないと思った。
4
京が西園寺邸に戻ると、蓮二郎は居間の椅子に腰を掛けてぼんやりしていた。出掛けるときに片付けていた棚には床にあった本や飾り物が入って綺麗に片付いていた。
京は竹の皮に包んだおにぎりと天ぷらをテーブルに置いた。そして、
「蓮二郎、お腹空かないか?ムールでおにぎりと天ぷらを作って貰ったから食べよう」と声を掛けた。
「なあ京、僕はこれからどうすれば良いだろう」
ぼんやりと壁を見つめて蓮二郎は京に聞いた。
「どうした、蓮二郎」
「僕は一条の伯父さんの言うままにこの数年を過ごしてきた。指示されるままだったといった方がいい。何も考えなくて良いそれが楽だったからだ。でも、父が自殺では無いと聞いてから僕は今のままではいけないと考えるようになった。父の死に一条の伯父さんが関係していると考えると、この数年僕は都合良く利用されていた気もする。今のままではいけないと思う、けれど何をしたら良いのか分からなくなった」
「蓮二郎深刻に考えるな」
「そうは言っても、毎日伯父さんの顔を見ていると、いつまで自分を抑えていられるか分からなくなる」
「お腹が空くと余計なことを考えるものだよ。とにかく食べてから話し合おう」
蓮二郎は京の言葉にうながされ昼食を取ることにした。
京は厨房から湯飲みを2つ持ってきてお茶を注いだ。
「なあ蓮二郎、さっきムールで生馬さんに会った。来月半ばくらいに羽瀬川旅館に集まりたいと言っていた」
「僕も?」
「ああ君も一緒にと言っていた。たぶん調子さんに関することだと思う」
「あの人は何故調子さんのことを調べているんだ?」
「生馬さんが調査してる事件が大原さんの事件と関係しているらしい」
「事件って?」
「僕も詳しいことは知らない。でも生馬さんが調べている事件と大原さんの事件は類似点があると言っていた」
「類似点・・・」
「僕らは生馬さんからの依頼で調子さんを捜した」
「何故君の所に依頼したんだ?」
「調子さんが事件の前に大原五紀さんに頼まれて送った荷物の送り先が家の旅館の住所だったんだ」
「それだけで・・・」
「何処にも行き場が無くなった調子さんが行く所として思いつくのが、最後に自分が送った荷物の住所かも知れないと生馬さんは考えた。そして見つけた」
「・・・」
「君は調子さんの婚約者だろう?彼女のことが心配じゃ無いのかい」
「心配はしてるけれど、婚約は昔の話しだ」
「昔の話し?今の君は彼女のことをどう思っているんだ?」
「僕は・・・分からない」
「好きなんだろう?」
「僕はたぶんまだ好きなんだと思う」
「多分まだって、自分の気持ちが分からないのかい」
「子供の頃から彼女を見ていた。僕は調子さんといると安心できた。ずっと一緒にいたいと思ってた。今でも彼女の側にいるとそう思う」
「それは好きってことじゃないの?」
「でも調子さんが僕を好きなのか分からない」
「調子さんに聞いてみようとは思わないのか」
「僕は彼女から返事を聞くのが恐い。今のままで良いと思っている」
「君たち二人を見ていると、君も調子さんも大切なものを無くすのが恐いと思っている。君は調子さんが強い人に見えるかい?」
「僕が知ってる調子さんは昔も今もニコニコ笑っている。笑って側にいてくれるけど僕を好きなのかどうか分からない」
「どうしてそう思う?」
「僕が調子さんを見てると、調子さんの目はいつもあいつを追いかけている」
「あいつ?」
「お前のあれだよ」
「セン?」
「そうだ、そしてあいつはお前を見てる」
「蓮二郎、君はセンに焼き餅をやいているの」
「違う!」
蓮二郎はテーブルを叩いて立ち上がった。
京は蓮二郎が落ち着くのを待った。
「君は調子さんが最初に家の旅館に来たとき死のうとしていたことを知っている?」
京はゆっくりとした口調で聞いた。
「いや・・・」
「君はぽっかり空いてしまった心を一条正に従うことで穴埋めしようとした。でも調子さんは、西園寺征一郎さんが亡くなって寂しさを受け止めてくれる人がいなくなってしまった。父親を亡くして悲しんでいる蓮二郎にも頼れなくて、だから一人になって死のうとした」
「でも死ねなかったんだろう」
「違うよ。彼女は本当に死ぬ気で2月の海に飛び込んだ。センが助けなかったら死んでいた」京は感情を抑え静かな声で蓮二郎に言った。
「!!」
「彼女を預かった人が、調子さんは抜け殻のようでいつまた海に飛び込むか心配だったと言っていた。そんな時僕がたまたまその人の家を訪ねたんだけど、彼女は僕が笑うのを見て少し微笑んだそうだ。誰か知っている人を思い出したみたいだったと言っていた。僕を見て思い出したのは君のことだったと思うんだ。彼女を預かった人が言っていた。思い出せる人がいてその人のために笑えるなら、彼女はもう大丈夫だろうって。だから君は彼女の生きる力なんだと思う」
「僕が・・・生きる力」
「そうだよ。だからここで調子さんをまた一人にしたらダメだよ」
「彼女はもう一人じゃ無い。君の家族に囲まれた幸せそうだ」
「なあ蓮二郎、君も今は僕の家族の一員なんだよ」
「僕も・・・」
「そうだよ。だから悩むときはみんなで考えるんだ。僕たちは家族なんだから」
「家族・・・」
蓮二郎の目から涙がこぼれた。
京は蓮二郎の肩を軽く叩いた。
長めの昼休憩を終えると、次の作業にかかることにした。
「さっき湯飲みを取りに厨房に行ったとき、そこの階段の横に扉を見つけたけど、地下室でも有るの?」
京は居間から2階に上がる階段を指さした。
「ああ、米だとか乾物と一緒に厨房や暖炉に使う薪を入れている」
「じゃあ今から地下室に行ってみよう」
「地下室に行ったって何も無いと思うけど」
「何も無くても良いんだ、地下室って聞くとワクワクしないか」
「京、ワクワクって、子供じゃあるまいし」
京と蓮二郎は地下室に行くために階段脇の扉を開けた。もわっと埃っぽい匂いがした。明り取りの窓は無く真っ暗だった。蓮二郎は電気を点けようとしたが電球が割れていた。京は蝋燭をつけた。地下室は思ったより広く、湿気も感じなかった。床一面にいろいろな物が散乱していた。
「地下室も荒されてるな」
「食料を盗んでいったのかな」
二人は米や小麦粉などが入っていた袋を拾って片付けた。
地下室の中は、手前左が食料を保存する棚で、右手は薪を積んでおく棚のようだった。棚の上には数本の薪が置かれて、残りは床に散らばっていた。
「何か捜していたのかな?」
京が呟いた。
「捜すって?」
「蓮二郎、変だと思わないか。上もそうだけど、地下室まで物が散乱している」
「そうだな、薪まで棚から下ろしているのはおかしいな」
二人は片付けながら地下室の端まで来た。地下室の中は棚がコの字型に作られていて、奥の上の棚には額のないキャンバス張りの絵が数点置いてあった。
蝋燭をかざして絵を見ると、“K.Ohara”のサインが見えた。
「これって、大原さんの絵じゃないか?」
蝋燭の明かりで見た絵は、川を挟んで手前に屋根が重なるように並び川向こうに山が描かれていた。
「そうだ、そうだよ」
蓮二郎が懐かしそうに言った。
「居間の壁に掛けていた絵だ」
「また居間に飾ろう」
京は棚に置いてあった絵をすべて取り出し蓮二郎に渡した。
絵は上の棚に有ったので、下の棚にも何か有るかも知れないと蝋燭をかざして見た。下の棚には何も置いてなかったが、蝋燭を奥に近づけると炎が揺れた。
「蓮二郎ちょっと」
京は蓮二郎に声を掛けながら、蝋燭を棚に沿って動かした。
「風が入ってきてる」
蓮二郎も蝋燭の炎が揺れるのを見た。
下の棚の奥を見ていた京は、板が少しずれている部分を見つけた。そしてゆっくり押した。ギシギシしていたが、奥の下壁がゆっくり開いた。
「抜け道がある」
大人一人が這って通れるようなトンネルがあった。トンネルは周りを木で囲い土が落ちてこないようになっていた。京はトンネルの出口が何処か知りたかった。
「何処に出るかわかる?」
「この方角だと、裏庭の倉庫かもしれない」
「よし、倉庫に行ってみよう」
京の言葉に蓮二郎は一瞬躊躇した。
「どうした?」
「倉庫は父が首を吊ってた所だ」
「!」
「家の使用人が見つけたんだ。それで大騒ぎになった。僕は倉庫に行けなかった」
京は渋る蓮二郎を連れて倉庫に行った。屋敷から7メートルほど離れた場所に倉庫はあった。
「君は外にいて良いよ。僕が中に入る」
倉庫に鍵はかかっていなかった。京は扉を開けて中に入った。倉庫の中は6畳くらいの広さだった。屋敷と反対側の壁に窓があり中は明るかった。窓の所に作り付けの広めの作業机が有ったが椅子はなかった。入り口と窓以外は棚で囲われていた。
倉庫の中は何も無かった。京は屋敷に近い棚の床を叩いて空間がないか調べたが、床は地面に直接板を張っていて、空間や穴は見つけられなかった。念のために作業机の下を探ってみた。すると床に窪みを見つけた。気をつけて見ないと分からないような窪みだった。窪みを持ち上げると床が山形に盛り上がり、その下にぽっかり穴が開いていた。穴の中に向かって梯子が伸びていた。穴の周りは地下室のトンネルと同じように木で補強されていた。
「蓮二郎あったぞ。僕はこのトンネルと通って地下室に行くから、君は地下室で待っていてくれ」
京は蓮二郎にそう言って穴に入った。山形に開いた床をゆっくり閉めていると床板の裏に封筒が挟まっているのを見つけた。手紙のようだった。京は封筒をゆっくり引き抜くとポケットにしまい床板を閉めた。床板が閉まると真っ暗になった。京は梯子を下りた。降りたところに木箱が置いてあったので、危うく踏み外すところだった。手探りでトンネルを進んだ。先の方に蝋燭の明かりが見えた。蓮二郎が地下室に戻って蝋燭を点けたのだろう。何の支障もなく京は地下室にたどり着いた。
「蓮二郎、このトンネルは君のお父さんが作ったのか」
「たぶん・・・あの倉庫を作ったのは父さんだと聞いている」
「すごいな!いざというときは抜け道になるよ」
京が珍しく楽しそうなので蓮二郎はおかしかった。
「京、子供みたいだな」
「そうか、でも面白かった」
京は地下室の隠し扉を元のように閉めた。二人は絵を抱えて居間に戻った。
明るいところで改めて絵を見ていた京は、
「蓮二郎、この絵は僕の街だよ」と言った。
「まさか」
「ほら、見てごらんよ。この絵はたぶん山の上から描いたと思う」
京は屋根が並ぶ町並み、港に見える船そして対岸の山を指さして言った。他の絵も同じ街と海の風景で、神社の輪くぐりの絵もあった。
大原五紀の夫の敬は羽瀬川左衛門を知っていたと思った。二人が知り合いであれば、五紀伯母さんが萬と百合が駆け落ちしたときに羽瀬川旅館を教えた謎が解けた。
京は人の縁の不思議を見たような気がした。
京は絵を重ねて戸棚の横に置いた。
「そうだ蓮二郎、床板の裏に封筒があったよ」
京はポケットから封筒を出して蓮二郎に渡した。
封筒の表裏には何も書いてなかった。
二人は並んで椅子に座り、中身を取り出して読んだ。
『蓮二郎へ
私はどうやら死ぬらしい。
私は奴らに見つからないように注意してこれを書いている。見つかったら自殺に見せかけて殺されるだろう。
私の母は『ごめんなさい征一郎、私はもうあなたを愛せない』という遺書を残して死んだ。服毒自殺だった。私はとてもショックを受けてなかなか立ち直れなかった。だから残される者のつらさは身をもって知っている。蓮二郎には同じ思いをさせたくない。私には助けてくれる友人がいた。大原や川崎にはとても世話になった。でも二人とももういない。いま私を助けてくれる人はいない。いや一人いるが私が頼ると彼も同じ目に遭うかも知れない。彼には先々のことを頼んでいるのでこれ以上迷惑を掛けられない。
蓮二郎、一条の伯父さんに気をつけろ。あの人は恐い人だ。いまの自分の状況を考えると母の自殺も自殺じゃなかったような気がする。母も死ぬ前に一条の伯父さんに気をつけろと私に言っていた。母は私を愛せなくなったと書いていたが、私は蓮二郎お前が愛しい。こんなに愛しているのに、もうお前を愛してあげられない。
蓮二郎、調子さんを守ってくれ。奴らは調子さんを狙っている。大原が死んで調子さんが相続した莫大な財産を狙っている。私が一条の伯父さんに西園寺家に調子さんを引き取る相談をしたとき、調子さんの相続した財産を教えてしまった。まさか資産家の一条正が大原の財産を狙って、友人の川崎に詐欺まがいのことをするとは思わなかった。母からあれほど気をつけろと言われていたのに。
友人の川崎が騙されて私を保証人にした借金を作ってしまったのは一条正の差し金だ。
私は調子さんの財産が調子さん以外の人に渡らないよう銀行に頼んだ。だから蓮二郎、調子さんが一条正に利用されないよう守って欲しい。
奴らが屋敷に入ってきたようだ、余り時間が無い。私はここを抜け出して倉庫に奴らを誘導する。家捜ししてお前達に危害が加えられるのが恐い。
さようなら蓮二郎、強く生きろ。一条正に騙されてはいけない。
私はおまえと調子さんが一緒になって幸せになることを願っている。
父より』
征一郎の遺書だった。
征一郎は自殺ではなかった。
「蓮二郎、するべき目標が出来たね」
「目標?」
「そうだよ。調子さんを守って一緒になること。お父さんの遺言だよ」
「父さんは自分のことより、僕や調子さんのことを考えてくれたのに、僕は自分の事しか見ていなかった」
「誰だって自分のことを一番に考えてしまう。僕もそうだ。でも少し下がって周りを見ることも大事だって気がついたならそれでいいんだ」
「そうだね、来月羽瀬川旅館に集まる話し僕も参加するよ」
「わかった、正さんに不信感を持たれないよう、父さんに帰る理由を作って貰うよ」
蓮二郎が目的意識を持って京たちの作戦に参加すると決めたことに京は安心した。
5
10月に入ってすぐに萬から手紙が届いた。中には鉄道の切符が二人分入っていた。
配達員が手紙を届けに来たとき、京は正と薫子と一緒にいた。京は差出人を見ながら萬からだと言った。
「萬さんから手紙なんて珍しいですね」
薫子は何か有ったのではないかと心配して尋ねた。
京は「すみません」と言って二人から離れ手紙を読んだ。読み終えて二人の元に戻り、手紙の内容を薫子に話した。
「手紙が来るなんて珍しいから僕も何か有ったのではないかと心配したのですが、何でもアインシュタイン博士が来日された際に、私の育った街が最終宿泊地になるみたいです。家のような旅館には、海外の方がお泊まりになることはないと思いますが、あのアインシュタイン博士が来ると言うので、近隣県のお客様が増えると考えているみたいです。今のうちに準備をすればお客様が増えても対処できると考えているみたいです。予定では12月の終わり頃なので、冬休みの帰省と重なるから僕と蓮二郎を従業員として休みの間働いて貰いたいみたいです。打合せをしたいから15日と17日の休みを利用して戻ってきて欲しいと書いています。働いて貰った期間の賃金は払うとも書いてあります。蓮二郎君も一緒にと二人分の切符が入っていました」
京は封筒から切符を二枚取り出して見せた。
「まあ、アインシュタインさんって有名な方なの!」
薫子が聞いた。
「はい世界的に有名な方です」京が答えると、
「アインシュタイン博士か、そういえば日本各地で講演をすると聞いた」
珍しく正が話しに入ってきた。
「ええ、学校でも噂になっています」
「私も行ってみようかしら」
と薫子が言ったので京は驚いた。
「ずいぶん萬さんとも会ってないし、久しぶりに会ってみたいわ。百合子と二人で行ってもいいかしら」
薫子は正を見た。
「そうだな、お前はいつも家の中ばかりいるから、たまには遠出するのも良いかもな」
正が薫子の提案に賛成したのでまた驚いた。
「まあ、良いんですか?」
薫子も驚いて正を見た。
「良いよ、行ってきたらいい」
薫子は本当に嬉しいらしくとても喜んだ。
「父も喜ぶと思います」
京は正があっさり許可したのには何か裏が有るような気もしたが、薫子が百合子を連れて羽瀬川旅館に来ることは萬にとっても良いことだと思った。
「では打合せに帰ったときに奥様と百合子様が12月にいらっしゃると伝えます」
京は正と薫子に挨拶をしてその場を離れた。
階段を上り一条の屋敷で自室として使っている2階の部屋に向かった。京の部屋の隣は蓮二郎の部屋だった。京はノックをして蓮二郎の部屋に入った。
「蓮二郎、タイミング良く正さんのいるときに父さんから手紙が届いた。帰省の話しを正さんにしたが、何も言われなかったから帰ってもいいらしい。それから12月に薫子様が百合子様と家の旅館に来ることになった」
京は手短に先ほど下で交わされた会話を蓮二郎に伝えた。
「薫子さんが萬さんに会いに行くのを勧めた?」
京の話しを聞いた蓮二郎は怪訝な顔をした。いつもの正ならそんなにあっさり勧めるはずはないと思った。
「おかしいと思わないか?」
京は蓮二郎に聞いた。
「そうだな、僕の実家の修理についても何も言ってこないし・・・」
「僕らに張り付いている者から彼女のことがバレたのかもしれない。バレていなくても探りを入れてきているのかも、どちらにしてもこれからは慎重に動いた方がいいな」
二人は正に対して今まで以上に気をつけることにした。
一条正は夏休みが終わって帰ってきた蓮二郎の微妙な変化に気付いていた。
京が誘ったとはいえ、近づくこともしなかった実家に行き、修理まで始めた。
夏休み中に何か有ったのではないかと考えた。
正は彼らに付けていた男達に変わったことはなかったか尋ねた。
男達は旅館で働いていた家庭教師の女が辞めた後に萬は置屋から17,8歳くらいの若い娘を一人引き取ったと言った。その娘は夏休みの間、京や蓮二郎そして旅館の子達といつも一緒に過ごしていたと男達は答えた。
正はその娘に蓮二郎が好意を持ったのではないかと考えた。どんな娘か気になったが、置屋の女であれば学生を本気で相手にすることはない、何か有っても金で解決できると思った。若い蓮二郎が女に関心を持つことは悪いことではないと思いしばらく様子を見ることにした。
また正は薫子の変化にも驚いていた。たまに外出することはあっても、たいてい屋敷にいて百合子と二人で過ごしている。正と顔を合わせても最小限の会話を交わすだけで笑うことはなかった。
しかし、京が一緒に住むようになって変わった。正の前では無表情に近かった顔が、最近では柔らかい表情になり、多くはないが会話も交わすようになった。
今日は突然、萬の旅館に行ってみたいと言った。薫子が何かをしたいと自分から言うことはなかったので正は驚いた。
外見が垓に似ているだけではない、京のおおらかで爽やかな性格が薫子を明るくしている。
京には周りの者を引きつける独特な何かがあるように思えた。
正も時々その何かに引き込まれそうになる。今日の薫子の旅行を許可したこともそうだ。普段の自分だったら絶対許可しないことを、その場の雰囲気で勧めてしまった。若い京のペースに飲まれている、気をつけなければすべてが失われてしまうような気がした。
6
10月14日の土曜日、16時半過ぎに東京駅を出発する汽車に乗るため、京と蓮二郎は学校から直接東京駅に行った。
三等車の座席に座り発車のベルが鳴るのを待った。
定刻通りに汽車は夕日を追いかけて走り出した。
京も蓮二郎も車窓から見える夕暮れの景色に見入った。品川駅を過ぎる頃には外は薄暗くなった。
「暗くなってきたね。明日夜が明けるまで窓からの景色は見れないね」
京は夕食用に用意したおにぎりの包みを蓮二郎に渡した。
「明日の朝は駅弁を買ってみよう」
「もう明日の弁当の話し、京は汽車の旅を楽しんでいるね」
蓮二郎はおにぎりを出して頬張りながら言った。
「汽車の旅は初めてなんだ。だから楽しまなくちゃ」
京は時刻表の駅名をチェックしながら、おにぎりを食べた。
「僕は何度か乗ってるけれど、座って外を見る以外何もすることがないので疲れた記憶しかない」
「ごめん僕ばかり楽しんでしまって」
「いいよ、初めての時は僕も楽しかったから」
「しかし蓮二郎の言うことももっともだな。丸一日乗っているんだから。それに明日の夜着いたら、翌日の夜には帰りの汽車に乗らないといけないからな」
「とんぼ返りはさすがに強行軍だな。僕も初めてだよ」
「すまない、18日からの試験を考えていなかったんだ」
京は手を合わせて蓮二郎に詫びた。
狭い車内の何処かに正に雇われた者がいるかもしれないので、二人は周りに気をつけながら差し障りの無い話をした。
横浜駅に着いた。
横浜から乗ってきた男が前の席に座った。京はこの男に見覚えがあった。三年前に何度か旅館の近くで見かけた男だった。
京は軽く蓮二郎の肘を突いて注意を促した。蓮二郎は一瞬京の顔を見た。
「横浜は夜でも明るいね」
京は窓の外を見ながら言った。
「そうだね」
二人はもし怪しい人物を見かけたら、肘を突いて合図を送ることにしていた。その合図を京が送ってきた。蓮二郎は了解の意味を込めて頷いた。
しばらく学校の話しをしながら時間を潰していたが、眠くなってきたので寝ることにした。
京は夜明けまでに何度か目が覚めた。
前の席の男は眠っているのか目を閉じたまま座っていた。
大阪駅に着く頃に夜が開けた。
神戸駅で駅弁を買った。
下関駅に着くまで、京と蓮二郎は外の景色を見ながら、鉄道と地形の話しをして過ごした。
夕方五時前に下関駅に着いた。
下関駅で汽車から降りて九州に行く人は連絡船に乗る。京たちと一緒に男も降りたが、連絡船乗り場には行かず改札を出ていった。
京たちは下関から連絡船に乗って夕闇の迫る頃旅館に着いた。
自宅の玄関を開けると、ただいまを言う前にセンが京に飛びついた。
「お帰り!京兄!」
突然のことで、後ろの蓮二郎に止めて貰えなかったら、二人で転ぶところだった。
「セン!危ないだろう」
「ごめん、京兄に会いたかったから」
センは体中で嬉しさを表しているようだった。
京の後ろで蓮二郎が「こほん」と咳をした。
「こらセン、二人とも疲れているのに、ダメだろう」
萬が呆れた顔をしてセンをたしなめた。
「おかえり、京、蓮二郎君も」
「ただいま戻りました」京はセンを横に連れたまま中に入り萬に挨拶をした。
「お世話になります」蓮二郎も挨拶をした。いつの間にか調子が蓮二郎の横に来て荷物を受け取っていた。
「とにかく上がりなさい。三等席で長時間疲れただろう。お風呂も沸いてるから入ってくると良い。それから夕飯にしよう」
萬は二人を上がらせた。
センは京の荷物を受け取ると2階の京の部屋に持って行った。
京と蓮二郎は夕食の前にお風呂に行った。
夕食はいつものように伊助家族も一緒だった。
食事の時にアインシュタイン博士来日の話になった。
「人は増えると思うけれど、家の旅館に泊まる客がいるかな?」
伊助が疑問符を付けて懐疑的な発言をした。
「そこなんだよ。客が増える良い案はないか?」
萬が何かないかとみんなを見渡した。
「二人分の予約は取ってきたけど・・・お客と言えるか・・・」
京が考えながら言った。
「二人分の予約?」
「うん、薫子さんと百合子さんが来ると言っていた」
京の言葉に萬が驚いた。
「本当に?」
「うん、本当だよ。正さんも行って良いと言っていたから、たぶん来るよ」
「家は高級旅館じゃないぞ」
「久しぶりに萬さんに会いたいと言っていたから、お客さんになるかどうか」
萬には驚くべき事態の発生だったみたいで、食事の途中から食べ物が喉に通らなくなったようだ。旅館の増客の話は何処かへ行ってしまった。
成治と八重も初めて見る萬の慌てぶりに驚いていた。
そんなバタバタした夕食時に生馬が訪ねてきた。昨日から近くの旅館に泊まり、夜の闇に紛れて来たと言った。
「まったく、うちのハエのしつこいこと。どこまでも付いてくる」
生馬がぼやいた。
「生馬さんもハエを連れてきたのですか。僕たちもいましたよ。それもわざわざ前の席に止まっていました」
京がそう言うと、蓮二郎が驚いた。
「前の席の男!」
「そうだよ、だから言うに言われなくて、変な汗をかいてしまった」
京は蓮二郎を見て苦笑いをした。
「俺は別の仕事で来ていることになっているから、ここで会っているのを見つかるとヤバいんだけどな」生馬がそう言ったので、
「何言っているんですか!生馬さんが集まりたいと言ったのでしょう」
と京に突っ込まれた。
「はい、そうでした」
生馬はみんなを見渡して「食事が終わったら話したいんだが」と言った。
萬は伊助親子を残して別の部屋に生馬とみんなを案内した。
調子は蓮二郎に誘われて「私も?」と不思議に思いながら付いて来た。
「さて、俺は松方氏の強盗殺害事件で依頼を受けた。事件を調べるうちに大原氏の強盗殺人事件との類似点を見つけた。大原氏の事件には偶然とはいえ生存者がいた。俺はその生存者、大原調子さんを捜すことでこの事件の真相に近づけるのではないかと考えた」
生馬は事件のあらましを話し始めた。
「俺が一条正に目を付けたのは、松方氏がいなくなったら誰が一番徳をするかを考えたからだ。一条正の関係する会社が銀座界隈の開発に関して不正を行っているのではないかと松方氏は疑っていた。ことあるごとに対立していたと言っても良い。その松方氏がいなくなれば一条氏の不正をただす者の声は小さくなる。松方氏の事件の依頼を受けた俺は、調べるうちに三年前の大原氏の事件との類似点を見つけた。大原氏の事件では少女が一人残されていた。俺はこの少女、大原調子さんを捜せば何か事件の欠片が見つかるのではないかと思った。調子さんを捜したが、行方不明になっていた。俺は事件の調査で彼女が助かった要因、大原五紀さんが調子さんに頼んだ荷物の送り先に目を止めた。羽瀬川旅館、調べてみると萬の旅館だった。そういえば三年前、横浜で偶然萬と会ったことを思い出した。それで萬は大原五紀さんの遺族だと思った。萬に調子さん捜しを依頼するのは賭けだった。正直、三年も経っているので見つからないと思っていた」
「私は五紀叔母様が送って欲しいと言った荷物の住所を覚えていました」
調子が話しに入ってきた。
「横浜から誰も知らない所に行きたいと思ったとき、ふと思い出したのです、五紀叔母様が書いた住所を。行ってみたいと思いました。この街に着いて、旅館の前に立って気がついたのです。ここに来ても五紀叔母様はいない、私にはもう誰もいなくなってしまったのだと。私は死のうと思いました。汐の匂いにひかれて海に出ました。私は海が呼んでいるような気がして飛び込みました。センが助けてくれなかったら今こうして生きていないと思います」
調子はセンを見た。センも調子を見ていた。
「そうでしたか、それでこんなに早くあなたにたどり着けたのですね」
生馬がいたわるように言った。
「でも、私は事件のことは何も知りません。ただ宝石の展示会をするのに多くの宝石を倉庫に保管していたと聞いています」
「そこなんです。事件は昼間に起こりました。宝石は取られていないのです。でも」
「でも?」
「銀座に店を出す予定があったのでしょう?」
生馬は調子に聞いた。
「ええ、横浜の展示会を開いたあと銀座に店を出すような話しをしていました」
「銀座のお店はどの辺りですか?」
「詳しいことは知りません」
調子は困った顔で答えた。
「銀座の店がどうかしたのですか?」
蓮二郎は調子を気遣って聞いた。
「大原さんの土地を調べたら、横浜の住居と店は登録簿に残っていました。でも銀座の土地は巧妙に別の名義に書き換えられていた」
生馬は訳あり顔で言った。
「それって、川崎さんが土地を取られたことと関係あるのですか?」
京がまさかという顔をした。
「そう、初め川崎さんは大原さんと共同で銀座に店を開く計画をしていた。しかし大原さんが亡くなってその話が無くなった」
「じゃあ、大原さんが購入していた土地は川崎さんの隣の土地」
「そうだ、大原さんは川崎さんの隣の土地を川崎さんと共同名義で購入していた。川崎さんには保証人という形で言っていたらしいが、二人の名義にしていたと友人の銀行員が言っていた」
「それじゃあ、川崎さんの土地と合わせてその土地も取られたと言うことですか?」
「そういうことだ」
萬が川崎さんの話に何も言わないのは事前に生馬から聞いていたからだろう。
「大原さんと川崎さんの共同名義の土地は、大原さんが亡くなって川崎さん名義に変わっていた。ここまでは大原さんが川崎さんのために自分に何か有ったら揉めないようにそういう契約にしていたらしい。その契約に気がついた一条正が一連の事件と川崎さんを陥れる計画を立てたと私は考えている」
「では、父が死んだのは」
蓮二郎は倉庫で見つけた手紙を生馬に渡した。
生馬、萬、そしてセンと調子も手紙を読んだ。
征一郎の手紙を見て調子は泣いていた。センは蓮二郎を見て慰めろと言ったが、蓮二郎が動かないので、センは調子の肩にそっと手をかけた。
「そうか、初めは銀座の土地だけだったのが、征一郎さんから調子さんの財産を知った一条正がその財産も狙って征一郎さんを巻き込んだんだな」
手紙を読んだ生馬はそう結論づけた。
「何処までも卑劣な奴なんだ」
萬が苦虫を潰したような顔をした。
「この銀座の土地の絡繰りを松方さんが調べていたみたいなんだ」
生馬は悔しそうに言った。
「それで二つの事件は重なったのですね」
京が言った。
「そうなんだが、確実な物証が無い」
「銀座の土地の名義に一条は絡んでないのですか」
「巧妙に隠されていて分からないんだ」
「じゃあイズミはどうして狙われたの?」
センが聞いた。
「たぶん憶測だが、イズミちゃんは大原さんと親戚になる。調子さんに似ていたのではないだろうか」
センはハッとした。五紀伯母さんの手紙に大原さんの姉妹がイズミに似ていると書いてあった。実際調子さんも西園寺も妹の奏子さんに似てると言っていた。
「何処かでイズミちゃんのことを知った一条正が、イズミちゃんを攫って懐柔し調子さんの代わりにするつもりだったと思う。調子さんの財産は調子さんでないと出せないから調子さんの代わりを捜していたんだろう」
生馬の言葉に調子は衝撃を受けた。
「私のせい?」
「違う!調子さんのせいじゃない。あの時一条正はイズミを見てたんだ」
センは駅前で感じたあの視線はイズミを見ていたのだと確信した。
そして京も正が言った「面白いものが見れた」の意味がいま分かった。
「僕たちがこの事に早く気付いていれば」
センは悔しかった。涙が出そうになった。でも泣けないまだ終わってない。
センは京を見た。目が合った。京もセンと同じ気持ちだと思った。
「僕がイズミちゃんをジッと見なかったら気付かなかったのかも知れない」
「違う!西園寺のせいでも、調子さんのせいでもない。悪いのは一条正だ!」
「そうそう悪いのは一条正だ。君たちが自分自身を責めることはない」
生馬はそう言って四人を宥めた。
萬が五紀の手紙を出して見せた。
「一条正は、ずいぶん前から同じようなことを繰り返していたみたいだ。先日イズミの人形の中からセンが見つけた五紀の手紙に書いてある」
五紀の手紙を読んだ生馬は悔しそうに言った。
「京から頼まれていた呉服商“ふく屋”の事件は調べてみたが書類が残っていなかった。そうか大原五紀さんは大原氏の事件と同じ人物を“ふく屋”の事件で目撃していたのか」
「五紀叔母様は私たちを助けるために郵便局に行かせたかった・・・」
調子がまた涙を流した。蓮二郎は調子の横に行ってハンカチを差し出した。調子は驚いて蓮二郎を見て、ハンカチを受け取り涙を拭いた。
「京からもう二つ頼まれていたな」
少し時間を空けて生馬が話し始めた。
「何か分かったのですか?」
「亡くなった一条氏と垓さんの事件のことは、こちらもかなり古いので書類自体が見つからなかった。でも」
「でも・・・?」
「西園寺征一郎氏の乳母に会って話しを聞いた」
「征一郎さんの乳母?」
「乳母はこう言っていた。
『旦那様は征一郎坊ちゃまをとてもかわいがっておいででした。奥様にも優しく毎日が笑いで溢れていました。それが坊ちゃまが5歳になる頃、突然旦那様の態度が変わり、坊ちゃまを近寄らせなくなり、他人を見るような目で坊ちゃまを見るようになりました。旦那様は奥様に対してもとても冷たくなりました。しばらくして、奥様のお父様がいらして、奥様と話された後とても興奮して帰られました。その翌日、奥様のお父様と息子さんがいらっしゃって奥様を交え旦那様とお話しされていました。私は坊ちゃまの部屋から出ないように言われたので、坊ちゃまと一緒に待っていました。そしたら奥様の泣き声と旦那様の「離婚」という言葉が聞こえてきました。私は驚いて坊ちゃまに聞こえないよう耳を塞いで抱きしめていました。
奥様は旦那様と結婚されて一年以上も子宝に恵まれませんでした。奥様は旦那様をとても愛していらしたので、そんなことはないと思うのですが、奥様が子供を生まれて私が乳母としてお屋敷に呼ばれた頃、奥様は変な宗教に入っていて、その宗教家と浮気をしたのではないかと屋敷の使用人達の間で噂になっていました。もちろん旦那様は知らないことです。
しばらくして奥様が坊ちゃまの部屋に来ました。奥様はとても疲れたように見えました。何も言わず坊ちゃまを抱きしめて泣いていました。かなり長い時間そうしていたと思います。夕闇が迫る頃、警察の方が屋敷を訪れ、奥様のお父様と弟様が盗賊に襲われて亡くなったと知らせに来ました。奥様は驚いて坊ちゃまを私に預けて警察の方と出掛けて行きました。旦那様もとても驚かれて、奥様がお出かけになるのを見送られました。不幸は続くのですね。その晩、旦那様が心臓の発作を起こされてお亡くなりになりました。旦那様は心臓が悪く、奥様が側にいたらすぐ対応できていたと思うのですが、あいにくお父様と弟様の件で出かけて戻ってこられませんでした。
私はその日聞いた離婚の話しは誰にも言いませんでした。坊ちゃまがかわいそうでしたからね。それに奥様もその件は何も言われませんでした。
そうですよね、奥様は旦那様とお父様と家族を同じ日に亡くされて呆然としておられましたから、その日の記憶が飛んでしまってもおかしくはないですよね。
私はその後一年間、奥様と坊ちゃまの側にいましたが、坊ちゃまが小学校に上がる前に奥様は横浜に小さな洋館を買われて引っ越して行かれました』とさ」
生馬は話し終わると、
「結局何も分からなかったと言うことだ」と言った。
「すみませんお手数かけました」
京は生馬に礼を言った。
「いやいや、一条正に関することなら何でも知りたいから気にしないでくれ」
生馬は気にしないようにと手を振った。
「あ、そうだ、忘れるところだった。一条正は八王子に女を囲っているぞ」
「女ですか?」
「年の頃17,8歳の若い娘だ。調子さんの替え玉かも知れない」
みんなが一斉に驚いた。
「先月まで武蔵野の外れに別宅があったみたいで、数人の若い女が住んでいたらしい。俺は一条正が女の子を攫ってきてそこに匿い、調子さんに似た子を捜していたと思っている。そしてちょうど良い娘が見つかったので、そこを引き払ったみたいだ」
「そこにいた他の子達はどうなったの?」
センが聞いた。
「うちのスタッフが行ったときは誰もいなかった。たぶん売られたんだろうな」
「ひどい・・・」調子が呟いた。
生馬はその部屋に血の匂いがしていたことは黙っていた。売られた子と、殺された子がいたと考えられた。
「さて、そろそろ帰らないと・・・」
生馬が腰を上げたので、話し合いは終わりになった。
生馬は来た時と同じように闇に紛れて帰って行った。
京は蓮二郎に調子と話すように言った。
蓮二郎は京に後押しされ調子の側に行き「話したいことがある」と言った。調子は少し驚いたようだったが、蓮二郎についていった。
センは蓮二郎と調子が出て行くのを見て京に言った。
「僕も京兄に話したいことがある」
「僕も聞きたいことがある」
二人は2階にあがり、京の部屋に行った。
萬は一人残された。
7
2階の京の部屋に入るとセンが言った。
「セバスチャンさんと会った?」
「会ったよ。12月にまた来ると言っていた」
「やっぱり・・・」
シュンとなったセンの目を見て京が聞いた。
「セバスチャンは手紙を持っていた。あれはどうしたの?」
「母様のノートに挟まれていたんだ」
「母様のノート?」
京が不思議な顔をしたので、センは百合の行李を開けたらノートが出てきたと話した。そして襖を開けて自分の部屋に行き、棚の引き出しを開けて封筒を持って来た。
「母様のノートの間に、ユーリー様宛とこの京兄宛の手紙が挟んであった」
京は手紙を受け取った。
「フランス語かな?」
京は封筒の文字を見ながら呟いた。
「開けて読んでくれる。爺様が何を書いているか僕も知りたい」
センが早く開けるよう催促した。
京は封筒を開いて手紙を取り出した。
黙読で数行読んでセンに聞かせるか迷った。
「京兄、どうしたの?フランス語読めないの?」
「いや、センは読まない方がいいと思う」
京は言葉を濁していった。
「何が書いてあるの?僕が知ったらいけないこと?」
「いや・・・」
「僕に関することだったら、なおさら教えて欲しい」
センは京に詰め寄った。
「わかった。セン、とてもつらいことでも聞ける?」
センの顔が急に不安になった。
京はセンの肩を抱いた。
「どんなことが書いてあっても、僕がセンを大好きなことに変わりはないからね」
京はセンにそう念押しをして手紙を読み始めた。
『愛すべき私の後継者、京へ
君がセンを守るために後継者になってくれたことに感謝する。
私はセンがかわいい。それはセンが私の血族だからだ。
センがなぜ私の血族だと確信しているのか君は不思議に思うだろう。私は君にセンの出生のすべてを知っておいて貰いたい。
フランス語にしたのは、君がこの文字が読める年齢になってから読んで欲しいと思ったからだ。
私は君に母親に望まれずに生まれてきたセンを守り愛して欲しいと願っている。そして私の甥ヨハンの罪を許して欲しい。
センの父親は私の甥ヨハンだ。
私は塔子から断片的に聞いた話を纏めて一つの結論を出した。
外務省にいた塔子は毎日のように言ってくるヨハンの求婚に迷惑をしていた。ヨハンは当時私を捜すために日本に来ていた私の甥だ。塔子は断るつもりでヨハンの食事の誘いを受けた。しかし何を勘違いしたのかヨハンはそれを承諾と取ったようだ。
塔子は食事の席で初めてお酒を口にしたらしい。ジュースを飲んでいた後の記憶がないと言っていた。あくまでも想像だが、ヨハンは意識の定かでない塔子と“契約の儀式”を行ったらしい。
塔子は“契約の儀式”の後子供を授かった。でもそれは塔子の望むことではなかった。
塔子は通訳になって父親について世界を回るのが夢だった。その夢が子供を持つことで叶えられないと思ったらしい。
塔子は精神的に追い詰められ、百合を頼って羽瀬川旅館にやってきた。
私と百合は塔子の精神を落ち着かせるため、なるべく人里離れた静かな所で静養することにした。私の知人を頼り熊本の湯治場に小さな小屋を借り、子供が生まれるまで過ごすことにした。君も一緒に行ったのを覚えているだろうか。
しばらく平穏な日々が続いたが、お腹が少しずつ大きくなり、中の子供が動くようになると、塔子は「気持ち悪い」と言って、お腹を叩いたりして子供を拒絶する気持ちが強くなった。
この頃から塔子の精神はどんどん悪くなっていった。
ただ救いだったのは、塔子が京の言うことは聞いてくれたことだ。君はいつも塔子とお腹の子に話しかけていた。塔子も君といると安心するようだった。
私は大原五紀に連絡を取ってきて貰うことにした。五紀は夫が亡くなって一人で子供を産んだばかりだった。五紀も塔子の状態を心配して生まれて間もないイズミを連れて来てくれた。
塔子は姉妹に囲まれて落ち着いたように見えた。
湯治場に来てから半年が過ぎたクリスマスに悲劇が起きた。
外は雪が積もっていた。
夜明け前、塔子は一人起き出して外に出た。みんな寝入っていた。その時塔子に気がついたのは3歳になったばかり京だけだった。君は塔子の後について行った。
塔子は雪の中をフラフラと歩き、そして土手の斜面で滑った。滑った時にお腹を圧迫したのだろう、その衝撃で塔子の子供が生まれた。
塔子の絶叫で私たちは目が覚めた。慌てて外に飛び出した。
土手に行くと、生まれたばかりの子供に被さったまま気を失っている京と、出血で意識を失って倒れている塔子がいた。
京、その時何が起きたのか君は覚えているかい?
君はセンが生まれたとき、一番近くで見ていた。君が何を見たのか私たちは知らない。
私たちが君を見つけたとき、君は気を失っていた、そして目覚めたとき君の中から塔子の記憶が消えていた。
私たちは塔子と塔子が生んだ子供を抱いて急いで小屋に戻った。
私は生まれた子の白い髪を見て、この子の父親はヨハンだと確信した。
数日後、塔子は目覚めることなく亡くなった。
私の罪深き甥のせいで一人の少女が命を閉じた。謝っても、謝ってもこの罪は重いと思う。
好きでもない男の子供を産むことがどれほどつらいことだったかと思うと、本当に申し訳ないことをしたと思っている。
しかし、私はこの子は母に望まれなかったが、偶然とはいえ異国のこの地で私の血を継ぐこの子を授かったことに感謝している。この子を愛し育てることは神が私に与えた使命のように思えた。センが生まれて喜んでいる私も罪深き男の一人なのだ。
京、私はお前が「騎士になってこの子を守りたい」と言ってくれてとても嬉しかった。自分勝手だが、私も若くはない、いつ神の元に召されてもおかしくない。私の大切な血族のこの子を守ってくれる者が必要だった。
私は君を私の後継者にすると決めた。私の後継者ということは私の生まれた国の王になる資格を持つということだ。
私の本当の名前はハリス・サエモンナール、サエモンナール王国の元国王で今は公爵になる。私の後継者になった君は、ケイ・サエモンナール公爵になる。
私はセンのことは伏せて、京を私の後継者にする旨の手紙を国元に送った。
私の国では16歳で成人になる。京が16歳になったら迎えが来るだろう。
この手紙を読んでいる京は、いまもセンを守りたいと思っているだろうか?
京が“契約”の相手にセン以外の人を選んでいても私はそれを認める。君は良い子だ、君の選ぶ相手は君と同じようにセンを愛してくれる人だと思う。
京が私の祖国に行くときセンも一緒に連れて行って欲しい。
私の生まれた国、アルプスの麓にある小さな美しい国だ。センに私の祖国を見せて欲しい。
私は君とセンに出会えて幸せだった。ありがとう。愛している。
1912年 3月 ハリス・サエモンナール
追伸 この手紙と一緒に、我が弟ユーリー宛の手紙を預ける。ユーリーに渡してセンのことを知らせて欲しい。 』
センは京の腕の中で、声を出さずに泣いていた。
「セン、大丈夫か?」
センは黙ったままだった。
「泣きたいなら声を出して泣いていいよ」
京はセンの正面に向かい両肩を掴んで目を見て言った。
「ぼ、僕は望まれない子だった・・・」
センの目がうつろに宙を泳ぐ。
「違うよ、センはみんなが望んだから生まれたんだよ」
「僕の本当の母様は僕を望んでいなかった!」
センはそう言って、今度は声を上げて泣き出した。
京はセンを抱きしめて言った。
「セン、僕は君が生まれてきてくれてうれしいと思っている」
センは京を涙で濡れた目で見上げた。
「ほんとうに?」
「ああ、僕はセンが好きだよ。愛している。センは僕じゃダメなの?」
センの目を見て京は優しく問いかけた。
センは京に抱きついた。そして京の胸の中でセンは泣きながら呟いた。
「僕は京兄が好きだ、京兄でなきゃ嫌だ」
京の後ろで「コホン」と咳払いが聞こえた。
センを抱いたまま振り返ると、萬が立っていた。
「京、私は二人が一緒になるのを認めたけれど、まだそういう関係は早いと思うんだが」
萬が少し怒ったように言った。
「違うんだ父さん。爺様の手紙が出てきたんだ」
京は萬に手紙を渡して、
「父さん、フランス語は読める?」
「一応習った」
萬は手紙を読んだ。
「所々わからないところがあったが、だいたいのことはわかった」
京に手紙を返しながら、まだ京にしがみついて泣いているセンの後ろから肩をだいた。
「セン、ショックだったね。私は何も知らなかった。私も百合もセンを愛しているよ。生まれてきてくれて嬉しいと思っている」
「父様・・・」
「セン、親に望まれなかったのは私も同じだよ。母は父を憎んでいたから、憎んでいた父の子を生みたくなかったと思う。だけど生まれてきた僕を愛して育ててくれた。塔子は母が僕を生んだ経緯を聞いていたので、好きでもない男の子供を産むのが嫌だったのだろう。昔から男性が嫌いで、結婚はしないと言っていたから、子供を産むことにも抵抗があったんだろう。でも塔子は優しい子だから、きっと生きていたら母さんが僕を愛してくれたのと同じようにセンを愛したと思う」
センは萬を見上げて
「ほんとうに?」と聞いた。
「ほんとうだよ」
萬の説得にセンは少し落ち着いた。
京は萬に感謝した。自分一人だったらセンを慰めることが出来なかったと思った。
「ところで京、この後継者というのは何だ」
萬は京が左衛門爺さんの後継者について聞いてきた。
京はセバスチャンとの約束もあり、萬に話す良い機会だと思った。
「昔、母様にセンを好きだと言ったら、センは騎士様でないとダメなのよと言われて、僕は不思議に思って爺様に『僕でもなれる?』と聞いたら、センを守ってくれたら騎士様にしてあげると言われたんだ」
「騎士様?」
「その時は何の意味かわからなかったけれど、この手紙を読んでわかった。センは爺様の国の王女になるからそれなりの身分が必要という意味だったんだと思う」
「王女!」
「このヨハンという人は現在はサエモンナール王国の王様だから、その人の子供のセンは王女様になる。爺様は僕を後継者にしてセンを守って欲しかったんだと思う。僕は爺様の後継者として王位を継げる身分になったらしいです」
「そんな勝手なことを、いままで黙っていたのか!」
萬は驚いて思わず叫んだ。
「ごめん父さん、爺様が誰にも言うなと僕に言って約束したから黙っていた」
京は素直に謝った。実際サエモンナールのことを知ったのは最近のことだったので、京も事態の重さに戸惑っていた。
「で、12月になったら、この何とかという国に行くのか?」
「いや、学年の途中で抜けたくないので、来年4月に留学という形で行きたいと思っている」
京は12月にセバスチャンが迎えに来たら、すぐには行けないと言おうと思っていた。
「そうか、センも一緒なんだな」
「一緒に行こうと思っている」
「わかった」
萬は子供達がいつの間にか親の手元を飛び立ち、未来へ歩き始めたことに少し寂しさを感じていた。
萬は部屋から出て行った。
センは萬と京の話を聞いて、来年4月に京が自分を連れてサエモンナール王国に行くことを知った。センは塔子を苦しめた実の父親に会うのは恐いと思った。でも京が一緒なら行ってもいいと思った。
「セン、落ち着いた?」
京が心配顔でセンの顔を見た。
「ん、ありがとう、もう大丈夫」
ほんとうに大丈夫なのか自信はなかったけれど、京に心配はかけたくなかった。
「もう一つ知りたいことがあるけど、聞いてもいい?」
京は五紀の手紙を人形の何処に隠していたか教えて欲しいと言った。センは自分の部屋の棚からイズミの人形を持って来て、上半身と下半身を捻って二つに分かれることを教えた。
「これが何か役に立つの?」
「蓮二郎の屋敷をかたづけているのは知っているよね」
「うん、父様にお金を借りて修理したんでしょう」
「そうなんだけど、誰かが何かを捜しているみたいなんだ」
「何かって?」
「それはわからない。ただ調子さんの人形が見当たらないので、征一郎さんが何処かに隠したと思うんだ。そしてその中に何かを入れていると思う」
「調子さんの人形は西洋人形だって言ってた」
京はそれが何処にあるのかわかったような気がした。
「セン、ありがとう」
京はセンに礼を言って、抱きしめた。
「京兄・・・」
「セン大好きだよ、今日はゆっくりおやすみ」
「僕も京兄が好き」
少しはにかむようにセンが言った。
京はセンを部屋に送ると、襖を閉めた。
京は爺様の手紙の途中から一つの風景が頭の中に蘇っていた。
雪の中、フラフラ歩く女の人。京はその人が好きだった。京が話しかけると小さく笑って答えてくれた。女の人はお腹が大きかった。京はお腹にも話しかけた。女の人はそんな京の頭をなでてくれた。
京は女の人の後をついて行った。
女の人が京の前から突然消えた。走って行くと土手のところで転んでいた。京は土手を滑って降りた。女の人は血だまりに座りその中に赤ちゃんがいた。女の人はぼんやりしていたが、赤ちゃんが泣いたのでゆっくりと声の方を見た。赤ちゃんに気付いて優しい目で抱き上げようと手を伸ばして、驚愕の表情になった。
「いやー!」
絶叫がこだました。
京は夢中で女の人と赤ちゃんの間に入った。女の人はとても悲しそうな目をして京を見た。女の人の悲しさが伝わってきて京は気を失った。
蘇った記憶を京は考えた。塔子はとても優しい目で生まれた子供抱き上げようとしていた。そして子供を見て叫んだ。白い髪を見て絶望したのかもしれない。黒い髪だったら彼女は生きていたかもしれないと思った。だって京が見つめると塔子さんはとても悲しい目をして泣いていたから。
京は自分が守った命をこれからも守っていくと改めて決意した。そして、思い出した記憶を再び閉じ込めることにした。
翌朝、朝食の席で、蓮二郎と調子が婚約を継続することにしたと報告した。蓮二郎も調子も顔を赤くして嬉しそうにしていた。
京とセンは手放しで喜んだが、萬は少し寂しそうだった。
8
サエモンナール王国
セバスチャンは国に帰ったその足で王城に向かい、王に謁見を申し出た。
王は執務室にセバスチャンを呼んだ。
「ご苦労であった。で、どうだった?」
「はい、ケイ・ハセガワに会いました。私の私見としましては公爵継承に相応しい人物と考えます」
セバスチャンの報告に王は、
「そうか」とだけ言って詳しく聞こうとしなかった。
「それでもう一つの方はどうだった」
「はい、そちらも調べて参りました」
「で、生きていたか?」
「いえ、亡くなられていました」
それを聞いた王は安心したように笑った。
「そうか、死んでいたか」
「はい」
王はセバスチャンにそれ以上のことは聞かず「ご苦労」と言って下がらせた。
セバスチャンは謁見を終え、前国王に会うために王城の別の棟に向かった。
別棟に入って奥に進むと広間がありそこには代々の王の肖像画が飾ってあった。セバスチャンは元王ハリス・サエモンナールの肖像画の前で足を止めた。隣にはハリスの妻のソフィア・サエモンナールの肖像画があった。
セバスチャンはケイに会った時に感じた既視感を思い出した。セバスチャンがまだ幼い頃王であったハリスに聞いたことがあった。
「この女性は誰ですか?」
ハリス王は微笑みながらセバスチャンに言った。
「私の大切な人だよ」
その時のハリス王の顔とケイの顔が重なった。そして旅館の前であった少女がソフィア様に似ていることに気がついた。
こんな偶然はあるのだろうかと肖像画の前で呆然としていた。
「ジュニア帰ってきたのか」
突然声を掛けられてセバスチャンは驚いた。
「あ、父さんすみません、ただいま戻りました」
セバスチャンの父、老セバスチャンが立っていた。
セバスチャンの家は代々執事家系で、皆セバスチャンと呼ばれていたので、父から見るとジュニアになり、現セバスチャンから父は老セバスチャンと呼ばれていた。
「父さん、ユーリー様はいらっしゃいますか?」
父は隠居した前王ユーリー・サエモンナールの執事をしていた。
「ユーリー様はお前が戻るのを待っていた」
「そうですか」
セバスチャン親子は、ユーリーの部屋へ向かった。
「ユーリー様、ただいま戻りました」
60歳を過ぎたユーリー・サエモンナールは白い髭を蓄えた恰幅の良い隠居するにはまだ早いと思わせる快活な雰囲気の男だった。
「おお、待っておったぞ。で、どうだった」
国王と同じ姿勢で同じように聞いてくる。
「ケイ・ハセガワに会いました。私の私見としましては公爵継承に相応しい人物と考えます」
セバスチャンは国王に言ったのと同じことをユーリーに伝えた。
「セバスチャンはケイが公爵になるのに相応しいと考えると言ったが、どうしてそう思えた」
「ユーリー様、私はケイ様にハリス様の面影を見たような気がしました」
「ハリス元王の面影?」
「はい、とても漠然としていますが、ケイ様と短い会話をしたときの彼の仕草や言葉に私が幼き日に感じたハリス様を感じたのです」
「ほう、そうか」
ユーリーはセバスチャンの能力を高く買っていたので、一度会っただけで兄ハリスの面影を感じるという少年に早く会ってみたいと思った。
「セバスチャン、もう一つ国王から頼まれていた件はどうだった」
「ティティ様のことですか?」
「そうだ」
「ティティ様の父親に会いました。ティティ様は亡くなられたそうです」
「そうか、亡くなっていたか。ヨハンは喜んでいただろう」
ユーリーは苦笑交じりにため息をついた。
「父親にあったと言ったが、どんな人物だった?」
「日本国の現外務大臣でした」
「外務大臣!普通階級の人ではなかったのか」
「はい」
「ヨハンは騙されたようなことを言っていたが、違うのだな」
「はい、昔のティティ様を知っている人に会いました。ティティ様の本当の名前は東郷塔子様と言うそうです。学校を卒業して通訳見習いとして外務省に勤めていました。ヨハン様はそんな東郷塔子様に毎日プロポーズをして交際を迫っていたそうです。そして行方不明になったと言っていました」
「行方不明になった」
「はい、父親は行方不明になった一年後に骨になって帰ってきたと言っていました。誰も詳しいことは知りませんでした」
「そうか、お前達も知っているだろうが、あの当時ヨハンが恋をしていたカトリーヌがロシアの貴族と結婚してかなり落ち込んでいたので、兄ハリスの噂を聞いたこともあり、しばらく国を離れるのも良いことだと日本に行かせたのだが・・・」
「カトリーヌ様は五年前に戻ってこられました」
「そうだあのロシアの革命の前に異変を感じたあれの夫が子供のいないカトリーヌを帰してきた。その革命で夫は死んだ。不謹慎だがカトリーヌが戻ってきてヨハンは喜んでいる。わが国では王族の再婚は認めていないのだが、あれは結婚したいと思っている。たった一夜で相手に逃げられたヨハンが“契約の儀式”に縛られて一人で一生を送るのもかわいそうだと思った私はティティが死んでいたら考えると言った」
「そうでしたか」
「しかしティティの親が日本の外務大臣となると、ヨハンの話をそのまま受け止めて良いか迷ってしまう」
ユーリーは悩ましい顔をした。
セバスチャンは胸のポケットから紙入れを取り出し、封筒をユーリーに差し出した。
「ケイ様の妹から預かってまいりました」
ユーリーは封筒を見て驚いた。
「これは!」
「ハリス様からユーリー様に当てたお手紙のようです。最近見つけたと言っていました」
ユーリーは封を切ると手紙を取り出して読んだ。
『愛する我が弟ユーリーへ
長いこと連絡を取らなくてすまない。
この手紙が届く頃には私はもうこの世界にいないだろう。でもお前が読んでくれることを願って書いている。
私はいま幸せだ。明るい日差しの中で子供達に囲まれて過ごしている。
私は子供達の一人、ケイを私の後継者とすることに決めてお前に手紙を書いた。
突然異国の子供を後継者にしてお前は驚いたと思う。しかし、私がケイを後継者にしたのには理由がある。
日本人は皆黒髪だが、子供達の中に白い髪の女の子がいる。私はこの子の父はヨハンではないかと思っている。
この子の母は、外務省で通訳見習いをしていた時、行方不明の伯父を捜しているという外国の人と知り合ったと言っていた。その男は会うたびに求婚してきた。毎回言われるため困ってしまい、断るために一度だけ食事に付き合うことにした。食事の席でジュースだと思って飲んだものがお酒だったらしく、食事の途中からの記憶がなく、目が覚めたらその男のベッドの中だった。あまりの出来事に彼女は驚きと恐怖で何も考えられなくなり慌ててその場を逃げ出し家に帰った。その時彼女の父親は長期出張中で家にいず、誰にも相談出来ずに、仕事にも行かず家に閉じこもった。しばらくして身体の変化に気づいたそうだ。彼女はますます恐くなって姉に相談するために姉を捜して私の旅館を訪ねて来た。偶然にも彼女は私が日本で養子にした萬と百合夫婦の妹だった。彼女の名前は東郷塔子。私は塔子から話しを聞いて、その外国人がヨハンではないかと思った。
私はヨハンのことは伏せて塔子に接した。塔子はずっと通訳になる夢を目指して生きてきたらしい。そんな塔子にとって妊娠は耐えられないことだったようだ。塔子は愛してもない、知らない国の男の子供は産みたくないと言った。また子供を持つことで夢を諦めなければならないと思い込み精神的に追い詰められていた。ことあるごとに自分の身体を虐めて子供が生まれることを拒んだ。
私たちは、そんな塔子を宥めながら無事に子供が生まれるように気をつけて暮らした。でも事故が起きた。子供は予定より早く生まれて塔子は死んだ。
子供は白い髪の女の子だった。私はこの子は間違いなくヨハンの子だと思った。
私は死んだ塔子に、罪深き甥ヨハンのことを詫びた。
いま塔子の子供は私の横で笑っている。目の大きなよく笑うかわいい子だ。髪を黒く染めているが、ソフィアによく似ている。
ケイはこの子を守りたいと言ってくれた。私はこの子のためにケイを私の後継者にした。
私はこの子が幸せに育ってケイと一緒になってくれることを願っている。
ユーリー、ヨハンの罪は許しがたく、そして塔子には申し訳ないが、君の孫は私の孫と同じだ、私は遠い異国で偶然にも血の繋がった孫を授かった。私はこの子をこの手で抱き愛することができて幸せだ。
いつか君もこの子を抱けることを願っている。
1912年 3月 君の兄ハリス』
手紙を読み終えてユーリーは老セバスチャンに手紙を渡した。
「この手紙をジュニアに渡したのはケイの妹と言ったな」
ユーリーは慌てたように早口で言った。
「はい」
「どんな子だった」
「目の大きな、ソフィア様に似た感じの少女でした」
「その子だ!」
ユーリーの慌てぶりにセバスチャンは驚いた。
老セバスチャンもユーリーから渡された手紙を読んで同じように驚いていた。
老セバスチャンから手紙を受け取ったセバスチャンも手紙を読んで驚いた。ハリスがケイを後継者にすると手紙が来た時も驚いたがそれ以上の衝撃だった。
「セバスチャン!日本に会いに行くぞ」
「はい、ご同行します!」老セバスチャンが答えた。
「国王様にはどうお伝えしますか」
セバスチャンは日本に行くと騒いでいる二人に問いかけた。
「日本行きは私が直接話す」
とユーリーが言った。
「ではお子様のことも話されるのですね」
「いやそれはお前に任せる。その手紙を見せてやれ」
ユーリーは言葉を濁した。子供が現れたことで王とカトリーヌの再婚話が変更になるかも知れないので、いろいろ泣き言を聞かされるのが嫌なのだと思った。
「ではカトリーヌ様とのことはどうされますか」
「私が帰ってから決める」
ユーリーはそう言うと、ウキウキと老セバスチャンと日本行きの相談を始めた。
セバスチャンはそんな二人を残し自室に戻った。
自室で旅の荷ほどきをしていると王がやってきた。
「セバスチャン!」
セバスチャンは王をジト目で見た。
「主従の関係とは言え、ノックくらいして入ってきたらどうです」
「あっ、すまないって、そんなことより大変なんだ。父上が急に日本に行くと言ってきた。私とカトリーヌのことは帰ってからだと言われた」
今にも泣きそうな顔で王はセバスチャンに言った。
「そうですか」
王は慌てていた。冷静に荷ほどきの手を止めずに聞いているセバスチャンの手を取った。
「いったい何があったのだ」
セバスチャンはユーリーから預かった手紙を王に差し出した。
「なんだ?」
「ハリス様からユーリー様に宛てたお手紙です」
「ハリス伯父さんからの手紙!君はさっき一言もそんなこと言わなかったじゃないか」
「王様、あなたは自分の知りたいことしか私に聞きませんでした」
「うっ、そうだった」
「私はいつもあなたに言っていると思いますが、人の話は最後まで聞いて内容を確認しなさいと」
「すまない」
セバスチャンの言葉に王はシュンとなった。
4歳年上のセバスチャンは子供の頃から聡明で頭も良く父王ユーリーから一目置かれていた。そんなセバスチャンを王は兄のように慕い尊敬していた。だから今でもセバスチャンには頭が上がらなかった。
王はセバスチャンから手紙を受け取り読んだ。
「私に子供が・・・」
呆然とする王にセバスチャンが言った。
「私は今まであなたを東洋の女に騙されたかわいそうな人と思っていましたが、かわいそうなのはティティ様の方でした」
「いや、そんなはずはない」
「あなたのことです、早とちりして自分のペースで進めてしまったのでしょう。ティティ、いえ塔子様が傷つくことなど考えずに」
「じゃあ父上は・・・」
「その少女に会いに行かれると言っていました」
「私も日本に行く!」
「ダメです。先の大戦とスペイン風邪の影響で国内がまだ落ち着いていません。今、王が国空けることは出来ません」
セバスチャンからピシャリと言われ、王はしぶしぶ日本に行くことを諦めた。