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センとイズミ

 大正11年 春


 夜明け前、春とはいえまだ薄寒い空気の中、ポンポンポンと薄闇の中に船の音が響く。倉庫が建ち並ぶ船だまり沿いの道をヨロヨロと黒い影が動く。



 1


 数年前に建てられたヨーロッパ調の駅舎が、午後の日差しを背にその美しいシルエットを駅前広場に落としている。

 駅前広場を行き交う人々をよく見ると、多くの着物姿にまじり、モガやモボと称される小洒落た洋装の人達がいる。外国航路の船が着くこの海峡の街には、異国の人達も多く活気に溢れていた。


「ワッツ! 眩しい」

 扉が開いた瞬間、光が目に飛び込んでくる。

 駅舎の屋根越しに午後の太陽が輝いている。

 閉まったばかりの扉には“美容室ラ・フランス”の文字。

 まぶしさに目を細めて飛び出した三人は美容室を利用するにはまだ早い年齢に見える。

 三人の名前は、

 羽瀬川セン、12歳、日焼けした淺黒い顔に大きな二重の目が印象的な少女である。自分のことを「僕」と言い、いつも男袴を履いて男の子のように振る舞っている。今日も稽古用の剣道着を着ている。

 羽瀬川イズミ、センより6ヶ月年上の12歳、顔は陶器のように白く透き通るような肌、日本人形のように整った美しい顔をしている。

 二人とも母を亡くし、父羽瀬川萬(はせがわよろず)に引き取られ養女となっている。

 清永伊助、イズミと1ヶ月違いの12歳、羽瀬川萬が営む旅館の番頭成治と仲居頭八重の子である。身長はセン達より少し高く、日焼けした顔に笑うと八重歯がよく似合っている。

 三人は羽瀬川旅館で生まれたときから姉弟のように育った。尋常小学校を卒業したばかりの12歳である。やはり美容室はまだ早い。


 駅前の人が行き交う中、三人はお互いを見て思わず吹き出した。

「センと伊助は、切りすぎじゃない? 瞳子(とうこ)さんにしかられるかも・・・」イズミがいたずらっぽく笑う。

 瞳子さんとは住込みの家庭教師で、センとイズミの礼儀作法の師匠である。

「まさかここまで短くなるとは・・・」耳の辺りまで短くカットされ、クルクルはねている前髪を触りながら、「『お任せします』って言っただけなんだけど。『最新流行に仕上げましょう』って言うからつい安心して・・・」唇を尖らせてセンが呟いた。

「つい安心して眠ってしまったのよね」呆れたようにイズミが後を引き継いだ。

「大丈夫なんとかなるよ」とセンが笑うと、

「またそうやってごまかす」

「でも、イズミちゃんは素敵だよ」センと同じく短くなった頭を触りながら伊助がイズミの髪を褒めた。

 イズミは、ゆるやかに巻いた髪が肩にかかり、両側の一部を三つ編みにして後ろで纏めてかわいくリボンで結んでいる。あと数年したら間違いなく美人になるであろう幼さの残る整った顔によく似合っていた。

 センと伊助は、襟足にそって短くカットされ、少し長めの前髪にパーマでつけたウエーブがゆるやかにかかり少年らしい雰囲気を出している。これはこれでとてもよく似合っていた。

 三人が美容室で髪を切ることになったのは、小学校を卒業したのを記念して、すこし大人っぽい髪にしたいとイズミが言ったからである。普段なら瞳子に切きってもらうところを、最近出来た美容室に行ってみようと言う話になり、特別に今回だけとの条件で美容室に行くことになったのだった。

 髪の話で盛り上がる三人のすぐ横を乗合自動車がスピードを上げて通りすぎた。

「わっ!」

「カ・・・!」

 三人が驚いて叫ぶ声に、誰かの声が重なった。

「危ないなあ、危うくひかれるかと思った」

 伊助が着物の裾を払いながら言った。

 「自動車は危ないな!」

 「そうよね、事故に遭わないよう気をつけないと・・・」

 三人が乗合自動車について話していると、駅から人の集まりが出てきた。

「汽車が着いたみたいだね」

 「本当だ。煙が上がっている」

 駅舎の上に白く見える蒸気の煙が見える。

「今日は風がないから助かるね」

「そうそうせっかくの髪がたまに飛んでくる煤をかぶらないようにしなくちゃ」

 センは手ぬぐいを懐から取り出してほっかむりをした。

「あはは、なにそのかっこう!」

 伊助が笑いながら手ぬぐいを取ろうと手を伸ばした時、

「何をしているの」と後ろから声を掛けられた。

 振り向くと兄の羽瀬川京(はせがわけい)が立っていた。

 羽瀬川京は、萬の息子で、センとイズミの義理の兄になる。中学の制服に爽やかな笑顔が似合う。いつ見てもかっこいい!美しい顔立ちの爽やかなイケメンである。センとイズミの自慢の兄である。

「京兄!」「京兄様!」

 センとイズミが同時に驚きの声をあげた。

 京は隣の市の中学校に行っている。いつもは学生専用の下宿に入っているので会うのは久しぶりだった。

「やあ、こんなところで会うなんて珍しいね。ていうか、センはほっかむりなんかしてどうした?」

「小学校を卒業した記念に美容室に行ってみたいとイズミが言うから、興味半分に僕たちもついてきたら切られた」と伊助の髪をくしゃくしゃと触った。

「セン!せっかく綺麗にしてもらったのに!」伊助がセンの手を自分の頭から外す。

「ハハハハ、ほんとにバッサリだなあ、センも同じように切られたの?」京が聞いたので、センはこくこくと頷いた。

「武士の命とか言って伸ばしてなかった?」

「いや、不覚の致すところで・・・」とセンが言葉を濁すと、

「寝てた、だけです!」イズミが突っ込みを入れた。「ところで京兄様は今の汽車で帰っていらしたのですか?」

「ああ、春休みになったからね」

 と京は笑った。

「おや、京の妹ですか?」

 いつの間にか京の横に眼鏡を掛けていかにも優等生という感じの京と同じ制服を着た学生が立っていた。

「ああ、妹たちだ。センとイズミと伊助だ」

 京は三人を紹介した。

 そのいかにも優等生は、三人を見渡し、イズミに目を止めると少し驚いた顔をしたが、すぐにもとの表情に戻った。

「私は、西園寺蓮二郎と申します」

 センと伊助を無視して、イズミに向かって軽く頭をさげた。

「はじめまして、羽瀬川イズミです」

 挨拶が終わっても、西園寺蓮二郎はイズミをじっと見ているので、イズミは京の後ろに隠れた。

「蓮二郎!妹が怖がっているじゃないか!」

「あ、ごめん、あまりに可愛いから見とれていた。京は可愛い妹がいていいな・・・」

 悪びれるでもなく蓮二郎はそう言いつつイズミから目を離さなかった。

「フェックション!」

 センが思いっきりくしゃみをした。

「う、寒、風邪を引いたかな・・・京兄、僕たちはもう帰る」

「風邪か?悪い風が流行ってるらしいから気をつけたほうがいい、早く帰りなさい」

 京が急かすように三人を蓮二郎から遠ざけた。

「京兄は帰らないのか?」センが聞いた。

「ちょっと人と会う約束が入っているんだ。それが終わったら帰るよ」

 「そうか、わかった。父様に京兄が帰って来たと言っとく」

「ああ、頼む」

 センの言葉に京は少しホッとしたようだった。

 京と蓮二郎は三人と別れて駅舎の方に歩いて行った。


「嫌な奴だな」

 二人が立ち去ると、ずっと黙っていた伊助が呟いた。

「ほんと!気持ち悪い」イズミが腕をさすった。

「ムカつくよな!あいつイズミをじっと見てた」

 伊助が珍しく怒っている。

「まあまあ伊助君、カッとなるのも分かるけど、今ここで爆発するなよ。京兄に会った時からずっと僕たちを見てる奴がいる」センが小声で囁いた。

 「それは私も気がついた。駅の方からとても冷たい視線を感じるわ」

「俺も気がついた」伊助も頷いた。

「とにかく帰ろう。帰って父様に京兄が帰ってきたと報告しよう」

 三人は駅前の通りを急いで離れることにした。


 京と蓮二郎は駅舎の2階にある食堂に入った。

 駅前の広場が見渡せる窓際の席に白髪に片眼鏡を掛けた初老の人物が座っていた。まわりの気温が5度ほど下がるような冷徹な雰囲気の人物だった。

「遅くなりました」と蓮二郎は老人に向かって恭しく挨拶をした。

「いや、時間通りだ」

「はい、ですが少し遅くなりました」

 老人は窓の外に目を向けて、

「あれは(よろず)の子か?」と聞いた。

「はい、私の兄妹です。偶然会いました」少し固い表情で京は答えた。

「ふふ、面白いものが見れた」と老人は窓の外に目を向けたまま小さく笑った。

 老人が何を面白いと思ったのかわからないが、京は固い表情を崩さなかった。


 駅から100mほど歩くと路面電車が通る通りに出る。

 通りに出たところで、三人は緊張から解かれたようにホッと一息ついた。

 その時、

「カイリ!」

 誰かがセンの手を引いた。

「はい?」

 振り向くと茶褐色の髪に緑の瞳の女の子がセンの手を掴んでいた。

 センと目が合った女の子は、人違いと気づいた。

「あ、ごめんなさい・・・弟と間違えて・・・」と慌てて手を離した。

 「弟・・・?」

 「弟は・・・カイリというのだけど、今朝から行方がわからないの、さっき乗合自動車からあなたを見かけて・・・てっきり弟だと思って戻ってきたの」少女はそう言ってセンに謝った。

 「僕に似てるの?」

「ええ、髪型とか雰囲気がとても似ていて・・・着ているものは違うけど・・・」

 センの袴姿を見て、だんだん声が小さくなる。

「ふーん、何処で居なくなったの」

「旅館を出て食堂に行く途中、気がついたら居なかった・・・」

「旅行中?」

「いいえ、今は横浜だけど、来月から父の転勤でこちらに住むことになったので、休みを利用して家族で下見に来たのだけど・・・」

 少女は弟がいなくなったことをとても心配していた。

「じゃあカイリ君はこの辺りは初めてなんだね」

 「迷子になったのかも・・・警察には届けたの」とイズミ

「ええ、でも戻ってくるかわからないって・・・」

「ああ、最近子供が突然居なくなる事件が多くて,警察も手を焼いているみたいだから・なぁ」

「突然居なくなるって!まさか誘拐!」

 少女の顔が青ざめた。

 少女の顔を見て、センは言い過ぎたと思った。

 イズミが口を開いた

「このところ小さな子供が突然居なくなる事件があると聞いてるけど、まだ誘拐と決めつけるのは早いわ、ほんとに迷子になっているかも知れないし、あなたまで迷子になったらご両親が心配するとわ、旅館に帰って警察からの連絡を待った方が良いと思う」

「そうだよ、君まで迷子になったら困るからね。僕たちも帰る途中に探してみるから、君は戻った方がいいよ」

「でも、カイリは・・・弟は昨日から風邪気味で少し熱もあったから心配で・・・何処かで倒れているかも知れない・・・」

 それでも弟を探しに行こうとする少女を説得していると、少女の両親と思われる外国人の夫婦が現れた。

「キャシー!」

「お父さん!おかあさん!カイリじゃなかった!」

 お父さんと呼ばれた紳士はセンを見て、

「こんにちは、はじめまして、キャサリンの父です。色の黒いところや髪の形、ほんとによく似ていますね。キャサリンが間違えるのも無理はないですね」と言った。

「ほんとに!あなたのお母さんも外国の方ですか?」

 キャサリンのお母さんは、センを見てそう聞いた。

「いえ、日本人ですけど・・・」

 首をかしげるセンに、

「変なこと聞いてごめんなさい、なんでもないわ」キャサリンのお母さんは、慌てて口を閉じた。

「すまないね、変なことを聞いて」とキャサリンのお父さんも謝った。

「ごめんなさい、カイリの本当のお父さんは日本人だから・・・母はカイリに似ているあなたも、たぶんそうかも知れないと思って聞いたと思う。カイリは、二年前に私の父とカイリの母が再婚したので、弟になったの」不思議がるセンにキャサリンが説明した。

「なんだ、そういうことか」センが納得したように頷いた。

「とにかく、キャサリンさんはご両親と旅館で待っていた方がいいわ」

 イズミはキャサリンが独りでカイリを探さないように、キャサリンの両親に、

「最近、子供が居なくなる事件が多いので、キャサリンさんが事件に会わないとも限らない。だから旅館で警察からの連絡を待っていた方が安全と思います」

 キャサリンの両親は、イズミの話を聞いて納得した様子で、渋るキャサリンを説得した。。そしてキャサリンを連れて帰って行った。


 キャサリン達と別れて、電車通りを家に向かって歩く。

「全く!センが余計なことを言うから」

「う、ごめん」

「人攫いか・・・」

「あの子も一人で探していたら、危ないかもしれない、帰ってくれて良かった」

「私たちも帰って父様に報告しましょう」

「報告することがふえたな」

 三人は急いで家に戻った。


 2


 街中から少し外れたところに八幡様がある。戦の神様が祭られている由緒正しき神社と聞いている。その八幡様の近くに旅館「羽瀬川」はあった。この旅館がセン達の家である。

 旅館の主である羽瀬川萬は、16年ほど前、百合との結婚を両親に反対され、百合を連れて駆け落ちした。駆け落ちをしたことで両親から勘当され、行き場をなくした萬は流れ流れてこの地で羽瀬川左衛門と出会った。羽瀬川左衛門は旅籠「羽瀬川」を営んでいたが子供がなく、萬を養子に迎えて旅館を継いでもらった。とセンたちは聞いている。


 旅館の手前の路地を入ると家人用の玄関がある。玄関を開けて中に入り厨房を覗くと、瞳子さんが料理長と食事の打合せをしていた。瞳子はセン達の家庭教師の他に最近は旅館の手伝いもしていた。何でも実家が接客業とかで、料理のことに詳しかったので萬が献立等で厨房の手伝いをお願いしていた。

「ただいま-」

「お帰り・・・!」

 センを見て瞳子の声が止まった。

「その頭どうしたの!」

「すみません、切られました」

 瞳子から小言を言われる前にセンが謝った。

「切られたって! 切りすぎでしょう!」

「すみません、つい居眠りしてたらこうなってしまいました」

 呆れて声が出ない瞳子に、

「私たちが付いていながらすみません」とイズミと伊助が頭を下げる。

 そこに萬が入ってきた。

「何を騒いでいるんだ」

「あ、父様!ただいま帰りました」

「セン!伊助!その頭・・・!」

「ほら、萬さんからも言ってください!」

 瞳子は萬に助けを求めた。

「まあ、切ってしまったからには、元に戻せというのも無理というものだよ」

「萬さん!」

「良いじゃないか、三人ともよく似合っている」

「萬さんは甘いんだから・・・」

 萬が取り合わないので、瞳子は何を言っても無駄と諦めて、笑って見ていた料理長と打合せを再開することにした。


 セン達は萬を連れて居間に異動した。

「どうした、何かあったのか?」

 三人のいつもと違う様子に萬が聞いた。

「報告したいことが2つあります」とイズミ

「1つは、駅前で京兄さまに会いました」

「ほう、帰ってきたのか」

「はい、その時、西園寺蓮二郎というご友人と一緒でした」

「気持ちの悪い奴で、ジーッとイズミから目をそらさないんだ」と伊助

「ジーッとイズミを見ていた・・・それは気持ち悪いね・・・」萬は話を聞きながら考えているようだった。

「そいつも気味悪いけど、駅の2階の窓から誰かが僕たちを見てた」

 センは駅舎から感じた視線の話をした。

「どう表現したら良いか分からないけど、かなり冷たい視線を感じました」とイズミも同調した。

「君たちが気がつくくらいの視線とは・・・」

「いったい何者だろう。ねっとりと気持ち悪い視線だった」センは思い出すのも嫌そうだ。

「ふむ、だいたいのことはわかった」萬は心当たりがあるようだった。

「誰だかわかるの!」

「たぶん父さんの知ってる人だと思う。もしそうだとしたら、気をつけた方が良い何を考えているか分からない人だからね」

「わかった、近寄らないようにすれば良いんだね」

「そうだね、また視線を感じたらすぐその場を離れること。それから、その京の友人ともできるだけかかわらないように」

 萬は真剣な口調で三人に念を押した。

 父の様子から、その人物が父にとってあまり良い相手ではないということが分かった。

「わかりました。気をつけます」声をそろえて三人が答えた。

「次に2つ目の話なんだけど」イズミが話題を変えた。

「電車通りで出会った女の子の話なんだけど、弟のカイリ君が行方不明らしいの」

 昼間キャサリンと会った時の話をした。

「その子、僕に似てるんだって!もしかして最近の子供が居なくなる事件に遭遇したかもしれないけど、本当に迷子になっているかも知れない。父様、町内の人と毎晩見回りしているでしょう。その時カイリ君を探すことは出来るかな?もし父様が許してくれたら、今夜の見回り僕と伊助も参加したいけどダメかな?」

 センは萬に自分たちも夜回りに参加できるよう頼んだ。

「それはダメだ!」

「危ないことはしないよ」

「子供が狙われているんだぞ、そんなところにのこのこ子供が出て行ってどうする!」

「えーっ、大丈夫だよ、策があるんだ!場所の目星もついているんだ!」

「ダメだ!そのカイリ君のことは探してみるから、センは家に居なさい!」

 センと伊助が頼んでも、頑として萬は提案を受け入れてくれなかった。


 夜、8時過ぎ、萬が見回りに出て行った。

「よし、出かけたみたいだ」

 センは表を注意深く覗きながら、萬が出てくのを確認した。

「本当に行くの、父様の言うように家に居た方が良いのでは・・・」

 イズミはセンが出かけるのを止めた方がいいと思いながらも迷っていた。

「大丈夫だよ、居るか居ないか確認してくるだけだから。幸いうるさい瞳子さんは今夜は急用が出来たとかで出かけて帰ってこないし、ね、伊助」

「うん、僕も付いてるし大丈夫だよ」

 ひょろっとして頼りなさそうに見えるが、三人の中では一番力が強い。

「一時間して帰ってこなかったら、迎えに来て」

「一時間したら迎えにって!何処に迎えに行けば良いの」

「この先の角を右に曲がって隣町を通り抜けてたら倉庫街に出るだろう、倉庫街に入ったら3つ目の倉庫、ほら僕たちがいつも遊んでいる倉庫だよ、そこが怪しい」

「どうして怪しいと思うの」

「最近、誰かが侵入した形跡があるんだ」

「船主さんじゃないの」

「いや違う、昨日たまたま船主のおじさんに会って聞いたけど、壁に穴があいているからあの倉庫は使ってないと言っていた」

「穴が開いているから、私たちが入り込んで遊んでいるのよね」

「そうそう、だから怪しいんだよ」

 イズミに説明しながら、センは出かける準備を進めた。

「ところで、その顔はどうしたの」

 センの顔にソバカスみたいに赤い点がついている。

「これも作戦!」

 センは片目をつむって笑った。

「さあ出来た、伊助行こうか」

「はい、僕も準備できました」

「じゃあイズミ、もうすぐ京兄も帰ってくると思うから、一時間して戻ってこなかったら京兄と迎えに来て」

 木刀を持って、肩にロープ担いでほっかむりをして、これから泥棒に行きますと言わんばかりの格好で、二人は出て行った。


 二人は目星の倉庫の裏手に着いた。

「さあ、始めよう」センがロープを倉庫の屋根にある出っ張りに掛ける。

「よし!掛ったぞ!」

「犯人が居たらどうする」

「大丈夫!さっき表を通った時、入り口の鍵は掛っていた」

 天井近くに子供が1人入れるくらいの小さな穴が開いている。センはするすると壁をのぼり穴に入った。伊助も慌てて後を追った。

 倉庫の中は真っ暗だが、いつも遊びに使っているので、中の様子はわかっている。穴の近くに大きな木の箱がいくつか積まれていて、幸い中からは穴が分からないようになっている。

 真っ暗な中、手探りで床まで降りる。

「しっ!誰か居る」

 暗闇の中でかすかにうめき声が聞こえた。

 声の方に静かに近づく。

 センの手が何かに触れた。

 人の手だ! それも熱い!

 センは持ってきた蝋燭に火をつけた。まわりがほんのりと明るくなる。

 明かりの中に少年が現れた。

 少年は手を縛られて、猿ぐつわをされている。顔が妙に赤い、汗もかいてるし熱があるようだ。猿ぐつわから漏れる息が荒い。

 顔に明かりがあたったからか少年は目を開けた。

「カイリ?」センが小声で聞いた。

 カイリと呼ばれた少年は苦しそうに頷いた。

「よし!伊助!計画の実行だ」

 計画とは、カイリが安全な所に移動するまで、センとカイリが入れ替わり、カイリが無事に脱出できたら、センが逃げ出すという計画だ。

 伊助がカイリの洋服を脱がして、センの脱いだ着物と袴を着せた。センはカイリの洋服を着て言った。

「カイリ、次に僕に会うまで僕になるんだ、名前を聞かれたら『セン』と答えてね」

 センの言ったことが分かったのか、カイリは頷いた。

 熱でうまく動けないカイリを伊助と2人で、穴の所まで押し上げ、先に伊助が外に出て、カイリをロープにくくりつけて外に出した。カイリが下に降りた時、表の鍵を開ける音が聞こえた。

「誰かきた!伊助後は頼んだ」

 センは蝋燭を消して、外れるように細工したロープに手を通し、猿ぐつわは抵抗があったので、首にずれたようにして、カイリが寝ていたところに横になった。

 扉が開いて、蝋燭の明かりが中に入ってくる。

 男が二人立っていた。

「おい、目が覚めたか」誘拐犯の一人が聞いた。

 センは、ゴホゴホと咳をすると、カイリがしてたのような荒い息をした。

「おい、具合でも悪いのか?」

 蝋燭の明かりが近づいて、センの顔を照らした。

 汗にぬれた顔に赤い斑点が浮かんだ。

「わっつ!」誘拐犯が飛び退いた。

「おい、どうした!」

「こいつは、流行病だ!」

「なに!」

 もう一人の男がセンに近づこうとした。

「近づくな!流行病だ!うつるぞ! 聞いたことがある、昔隣村で変な病気が流行ったんだ。熱が出て、顔に斑点が現れて、何人も村人が死んだそうだ!」

「本当か!」

「ああ、こいつはあの病気だ!連れて行けばみんなにうつる!俺は死にたくない!さっさと出るぞ」

「お頭になんと言う!」

「流行病にかかってたから焼いたと言おう。ここはもう使えないし、火をつけて焼いてしまおう」

 誘拐犯は角に散らばった荷藁を集めて火をつけた。

「恨むなよ」と呟いて、外に出ると鍵を掛けて去って行った。

「鍵を掛けて行かなくても良いのに」

 センは火と煙に巻かれないよう気をつけて穴から外に出ると、となりの倉庫の屋根に上った。

 屋根の上から伊助達はまだ近くにいると思い姿を探した。カイリを背負った伊助が通りの角にいるのが見えた。誰かと話している。街灯の明かりで、その相手が昼間あった西園寺蓮二郎とわかった。

 センはとっさに身を隠し、「ゲッ、西園寺!」と小さく呟いた。

 まるでその声が聞こえたかのように西園寺がセンの方を見た。そしてフッと笑ったように感じた。

 恐るべし!西園寺!姿は見られていないと確信したセンは、屋根から降りると、伊助達がいる場所とは別の道を通って家に帰った。


 そっと縁側から入って、イズミが待っている部屋に行く。

「ただいま」

「ジャスト一時間!心配したんだから!」

 部屋に入った途端、イズミの声が聞こえた。

「ごめん」

 部屋には京も居た。

「伊助君は?」

「西園寺に捕まった」

「西園寺に?」

 センはカイリを救出した所までは計画通りだったと、西園寺を見かけるまでの状況を話した。

「そうか、西園寺は僕が帰るのに付いてきたから」京が申し訳なさそうに言った。

「付いてきた?」

「ああ、なぜか家に来たがって、途中まで一緒に来たんだ、断るのに苦労したよ」

「じゃあ京兄と分かれた後、偶然伊助に会ったのかな」

「・・・」京は戸惑ったような顔をした。

「誘拐犯からカイリを取り戻したら、今度は西園寺か、カイリは熱があるのに大丈夫かなあ、帰ってくるかなあ」

「たぶん今日は無理だろう」京が呟いた。

「どうして?」センとイズミが同時に聞いた。

「西園寺の後ろに付いている人が、家のことに興味を持っているらしい」

「後ろに付いている人って、昼間窓から僕等を見てた人?」

「ああ、気付いてた?」

「気付かない方が無理!刺すように見てたから」

「父様の知ってる人みたいだけど」

「そうか、僕もまだ憶測でしかないので、この話は父さんが帰って聞いてみよう」

「分かった、じゃあ僕はお風呂に入ってくる」

「そうね、汗とすすとその顔はなんとかした方が良いと思うわ。今着てる服は八重さんに洗濯してもらいましょう。伊助のことも伝えないといけないし」

 イズミはやらなければいけないことを口にした。

「京兄様は夕食は食べたのですか?」

「済ませてきたから、センの後に風呂に入ろう」

「京兄もお風呂に行くなら、一緒に入ろう!」とセンが言った。

「いや、遠慮しとくよ」と京はセンから目をそらしてた。

「えーっ!僕そんなに汚いかなあ」

「はいはい、センは汗まみれでとても臭くて汚いです。誰も一緒に入ろうと思いません」

 イズミがピシャリと言った。



 3


 萬は日付が変わる頃に帰ってきた。

 京、セン、イズミの三人は寝ずに萬の帰りを待っていた。

「お帰りなさい、父様」

「まだ起きていたのか。今日は倉庫が燃える事故があって遅くなった」

 萬は三人を見ながら座った。

 萬が座ると、三人は座りなおした。

「じつは、父さんにお話したいことがありまして、お帰りをお待ちしていました」

 京が妙にかしこまった様子で萬を見て言った。

 萬は三人を見回し、

「どうした?妙にあらたまって」

「父様、すみません、その倉庫の火事は僕のせいです」畳に頭をつけてセンが謝った。

 センは萬が出かけた後、伊助と倉庫に行きカイリを見つけた。そして助けるためにカイリと衣服を取り替えて入れ替わり、カイリを倉庫から助け出した。その直後に誘拐犯が入ってきたので、カイリと入れ替ったことがバレないように流行病のふりをしたら、誘拐犯が驚いて倉庫に火をつけて逃げて行ったと萬に話した。

 センの話に萬の顔はだんだん険しくなった。そして、

「おまえは何を考えているんだ!」拳を握りしめ、声を荒げた。

「すみません、火をつけるなんて思ってなかったんです!」

 センはひたすら謝った。

「そういうことじゃない!もうすこし考えろと言っているんだ!無事だったから良かったものの、反対に誘拐されたらどうするつもりだったんだ!」

「すみません!そこまで考えていませんでした」

 センは謝りながら話を続けた。

「それで・・・僕は無事だったのですが、伊助とカイリが無事ではなかったんです」

「どういうことだ?」

「じつは、伊助とカイリが外に出た後、あの西園寺蓮二郎に連れて行かれたんです」

「西園寺蓮二郎? 何故そこで西園寺が出てくる」

 センは倉庫の屋根から、伊助とカイリが西園寺に何処かへ連れて行かれるのを見たと話した。

 その後を京が引き継いで話した。

「すみません、西園寺が何故か僕の家を見たいと、断っても付いてきて、ところが家の近くまで来たところで気が変わったのか、突然『帰る』と言ったのです。僕も引き止める気はなかったのでそこで別れました」

「途中で伊助たちの気配に気がついたのかもしれないな。西園寺を甘く見ない方がいいな」と萬が言った。

「父さんは西園寺を知っているのですか?」

「いや、直接は知らない。ただ、屋根の上にいたセンの気配を感じ取るだけの能力があるということだ」

「えっ!」

「おまえは何も感じなかった、と言いたそうだな、京」

「はい」

「おまえは、セン達の気配をいつも身近で感じているから、家の近くでちょっとした気配を感じても不思議に思わなかったんだろう」

「すみません」

「いや、謝ることではない、西園寺はそれなりの鍛錬をしているということだ」

「まさか彼は・・・!」とイズミが言った。

「いや、彼はそれとは違う、自身を守るためだろう」

「あの・・・、それより、伊助とカイリを助けに行かないと・・・」とセンが言うと、

「伊助達は大丈夫だ」と萬が言った。

「は、話が見えないのですが・・・」

「何処へ連れて行かれたか、西園寺が絡んでいたら行き先はわかる。あんがいカイリ君がセンと入れ替っていたのは良かったかも知れない」と萬は言った。

「話がますます分からないのですが・・・」

 首をかしげるセンに、

「京は本家に目をつけられたようだし、センもイズミも12歳になったから、そろそろ知っていても良いだろう」

 萬は改めて三人を見た。

「さて、どこから話そうか・・・明治になって50年も過ぎた大正の時代に古い風習と言われるかも知れないが、ある人達は隠密という陰の存在をいまだに抱えている。私の母はこの隠密と呼ばれる側の人間だった。京は今日、一条正(いちじょうせい)に会ったのだろう?」

 萬が京に聞いた。京は頷いた。

「彼は、なんと名乗った」

「名前は一条正と名乗りました。そして父さんの知り合いだと言いました」

「知り合いか・・・他には?」

「蓮二郎と東京に来ないかと誘われました」

「そうか、西園寺はいつからおまえに近づいた」

「中学に入ってすぐです」

「そんなに早くから・・・」萬は考え込むように呟いた。

「京には話してなかったが、一条正は私の父だ」

 京がやはりという顔で萬を見た。

「私の父は、身分や血筋をとても大事にしていた。また女は自分の血を継ぐ子を生む為の道具としか思ってなかった。私の母は正の妻薫子(かおるこ)さま付きの侍女で薫子様の陰として付いていた。正は陰を陰を嫌っていたので、母はいない者として扱われていた。薫子様はとても優しい方で、婚姻に先立ち、自分と離れて自由に生きなさいと母に言ってくださったそうだ。でも、その結婚が家同士が決めた薫子様の望まない結婚だったため、母は薫子様を心配して一緒に一条家に行ったそうだ。正と薫子様の間に長女百合子様と長男京一郎様が生まれたが、京一郎様は難産で生まれ、薫子様はその後子供を産めない身体になったそうだ。跡継ぎの京一郎様が生まれたので、それでいいと薫子様は思っていたが、京一郎様は病弱だったため、もう一人男子を望んだ正は、揉めごとになるような側室を持つ気はなかった。陰の血と交わるのを嫌っていた正だったが、薫子様の側にいて外部ともあまり接点のない母にその役目を命じた。薫子様は反対したが、正におしきられ、そして生まれたのが私だった。血筋を尊ぶ父は私を薫子様の実子として入籍した。薫子様や百合子姉さん、京一郞兄さんは、本当の家族として接してくれたが、父は他の姉弟とは違う態度で私に接した。」

 萬は一息つくと、改めて京を見て言った。

「京、これから話すことは、今後おまえの進む道に迷いを生むかも知れない。しかし、おまえの前に一条正が出てきたからには知っていなければならない。まあ、私が言わなくても,東京に行ったら百合子姉さんから聞くことになると思う。百合子姉さんから聞くよりも私から、いま話しておこう」

 少し思案してから萬は話し始めた。

「母は、私を産んでから、私を育てながら2年間薫子様の側に使えていた。

 薫子様にはある貴族の元に嫁いでいる華子(はなこ)様という妹がいた。ある日、華子様が少し膨らみ始めたお腹で薫子様を訪ねてきた。そして自分のお腹には双子がいるらしい。医者からその話を聞いた華子様のご主人は、双子は不吉だから、生まれる子は一人だけでいいと医者に言っているのを偶然聞いてしまい、どうしたら良いか分らないと相談に来たのだった。薫子様と華子様と母は思案を重ね、何かあったらすぐ医者に連絡とれるようにして、産婆と母で子供を取り上げ、1人を華子様の元に残し、もう1人は母の里で育てることにした。産婆は里から母の姉に来てもらうことにした。

 臨月になると母は薫子様から華子様の身の回りの世話を頼まれたと言って華子様の屋敷に入った。そしてご主人がいない時を狙って、お産を早める薬を飲ませた。計画通り出産は早まり、生まれたのは男の子と女の子の双子だった。男の子を華子様の手元に残し、女の子は密かに母の姉が里へと連れ帰り、母の姉の子として育てた。その女の子が百合だ。

 それからしばらくして、母は薫子様の侍女の職を辞めて、私を連れて里に帰った。

 私が6歳になった時、小学校は一条家から通うようにとの連絡があり、それから私は一条家で暮らした。長い休みになると、薫子様が里に帰れるようにしてくださった。薫子様は他の姉弟と同じように自分の子供として接してくれたので、母と離れていても寂しくはなかった。

 母はまだ私が里にいる頃、ある男性と知り合い結婚した。その人は商家の三男坊で気ままに暮らしていると聞いていたが、妹が生まれる前に何処かに行ってしまった。母はその人が何処へ行ったか知っているようだったが、教えてくれなかった。

 私が高等学校に行き始めた頃、薫子様の体調が悪くなり、母が呼び戻された。母と一緒に百合と妹の塔子も付いてきた。久しぶりに会った百合はとても綺麗になっていた。薫子様も百合と会えてうれしかったのか、少しずつ体調も良くなっていった。百合は薫子様に望まれて、身の回りの世話をするようになった、塔子は通訳になりたいと東京の中学に通い始めた。

 平穏な日々が2年ほど続いたある日、母は一条の父の命である屋敷に臨時の使用人として行くことになった。1ヶ月ほどで帰ってくる予定だったが、それっきり帰ってこなかった。使用人として雇われた屋敷が強盗に入られ、一家全員が殺されたそうだ。母もその巻き添えで死んだと聞かされた。

 母がいなくなったら、一条正は百合と塔子に一条家を出るように言った。塔子は、自分の父親のことを母から聞いていたらしく、父親と暮らすと言って出て行った。百合は薫子様が側に置きたいと言ったが、正は百合を里に帰せと言った。

 その頃、京一郞兄さんは風邪をこじらせて大学を休学して家にいた。ある夜、京一郞兄さんは僕を呼んで『百合を連れて逃げてくれ』と言った。京一郞兄さんと百合は密かに付き合っていたらしく、それが父に知られたみたいで、百合がどんな目に会うか分らないから、百合を連れて逃げてくれという。私も百合が好きだったのでショックだった。どうして自分で連れて逃げないんだ?と聞いたら、自分は肺病らしい,このまま逃げても百合を幸せにしてあげられない。それから、百合は子供が出来たかも知れない、もし子供が生まれたら、男でも女でもいいから『京』と名付けて欲しい。と言って私の手を握って泣いた」

 萬の話に、京だけでなくセンもイズミも驚いた。

「じゃあ僕の父さんは・・・」

「ああ、京は百合の子だが、私の子ではない」

「えっ・・・」

「そうだ、京、おまえの本当の父は京一郞兄さんだ」

「私は兄さんの話を聞いたあと、百合に会って確認をした。そしてそれが間違いではないと知った。百合は1人でも生きていけると言ったが、私は百合を1人で行かせることは出来なかった。兄に頼まれたこともあるが、子供の頃からずっと百合に憧れていたから、百合が不幸になることは望まなかった。

 翌朝、私は父に百合と結婚したいと言った。出来なければ家を出ると。そしたら勘当だと言われた。もともと父とは相性が悪かったので、その日のうちに百合を連れて家を出た。家を出て母の里に向かったけれど、里の手前で、いとこの五紀(いつき)が一条家の人が里に来ているので、里へは帰ってくるなと言って、羽瀬川のじいさんを訪ねるようこの場所を教えてくれた。

 それから、私は百合と結婚をして、京が生まれた。しばらくして、羽瀬川のじいさんから旅館の後を継いで欲しいと言われたので、羽瀬川左衛門の養子になった」

「それで、京一郞さんは、今どうされているのですか」

「兄さんは私たちが家を出て、しばらくして血を吐かれたそうだ。そして一年後亡くなったと百合子姉さんから手紙が来た」

「え、百合子さんは、父様がここに来たのを知っていたのですか」とセン、

「百合は薫子様の姪でもあるから、とても心配していた。それで、百合子姉さんとは連絡が取れるようにしていたんだ」

「そうだったんですね。だから東京に行ったら聞くと言ったのですね」

「ああ、薫子様はおまえの本当のおばあさまで、百合子姉さんは叔母様になる。おまえの祖父は私の血が卑しいから駆け落ちをしたとかいろいろ言うかも知れないが、おまえは本当の父と百合から、そして私たちから愛されて育ったんだ、なにも臆することはない。これからも自分を信じて生きなさい」

「ありがとうございます、父さん」京は頭を下げた。


「さて、次はイズミだが、イズミの母五紀(いつき)は百合と姉妹として育った、詳しいことは分らないが、百合が里に帰った時、戻っていた五紀と偶然会ったそうだ」

「母から父は裕福な家に生まれたけれど、子供の頃から人形が好きで、家の反対を押し切って人形師になったと聞いています。結婚して私がお腹にいる時、事故で亡くなったそうです。父が死んだら、結婚に反対していた人達に家から追い出されたと言ってました。私の持っている日本人形は父の形見のようです」

 イズミは自分のことなのに、他人事のように淡々と話した。

「そうか、それならいい」

 萬は頷いて、そしてセンを見た。

「えっ、次は僕の番?」センは自分を指さした。

「そうだ、おまえの番だ」

「僕も母様から、私はじじ様の孫で、父様と母様の子ではないと聞いていたけど」

「おまえは私の妹塔子(とうこ)の子だ。そして、おまえの父親は異国の人と聞いている」

「えっ!それで昼間のあの人は僕の母親は日本人か?と聞いたのか」

「私も詳しいことは知らない。塔子はおまえが生まれる半年ほど前に、ふらっとここを訪ねて来た。高校の時に分かれて以来だから、私も百合もびっくりした。突然現れて、お腹に子供がいるが、どうやら私は病気らしい。生まれても育てる自信がないので兄さん達の子として育てて欲しいと言ってきた。ただ相手が異国の人なので、もしかしたら髪や目の色が違って生まれるかも知れないと言った。それを聞いた左衛門じいさんが自分の孫にしょうと言ってくれた。羽瀬川左衛門という人は、若い時から髪が白く顔も異国の風情のある人だったから、孫がちょっと変わっていても不思議に思われないだろうと思ったらしい。療養を兼ねて生まれるまで爺さんの知人が温泉宿をしているのでそこへ行くことにした。左衛門じいさんと塔子と百合はまだ小さかった京を連れて温泉地へ行った。

 半年後、赤ん坊のセンを抱いて、左衛門じいさんと百合と京、そしてイズミを連れてた五紀が帰ってきた。塔子はセンを生んだ後亡くなったそうだ」

「親を亡くしたセンを育てるため、イズミを生んで間もない五紀に左衛門爺さんが声を掛けたそうだ。五紀も一人で子供を育てるのは大変だったみたいで、左衛門爺さんの誘いに乗ったと後で聞いた。私たちはそうして家族として暮らすことになった」

 何処かで一番鶏の鳴く声がした。

「もうすぐ夜明けだな」

 そう言って萬は立ち上がった。

「おまえ達はもう寝なさい。私も少し寝てから、伊助を迎えに行ってくる」



 4


 時は少し遡って、

 センと伊助が倉庫の抜け穴から、熱でぐったりしているカイリをなんとか倉庫の外に出したところから始まる。

 センを倉庫に残し、カイリを背負って電車の通る広い通りに出たところで、

「君たち、大丈夫?」と急に声を掛けられた。

 伊助はびっくりして、危うくカイリを落とすところだった。声の方に目を向けると、そこには西園寺蓮二郎が立っていた。

 伊助は嫌な奴に会ったと思いながら、

「すみません急いでいるので」とその場を去ろうとしたが、

「おや、君は昼間の・・・京の妹の友達だったよね」そして背中のカイリを見て、「彼は具合でも悪いの」と近づいてきた。

「センが急に熱を出して具合が悪くなったので、連れて帰る所です」

 西園寺蓮二郎は「ふーん」と言って、セン(カイリ)の額に手をあてた。

「本当にひどい熱だね、医者に連れて行ってあげよう」

 伊助の背中からセン(カイリ)を抱き取ると、ちらっと倉庫の方を見てフッと笑った。

 西園寺蓮二郎はちょうど近くを通りかかったタクシーを止めて、セン(カイリ)をタクシーに乗せた。

「君も来るかい?」と聞かれたので、伊助は慌ててタクシーに乗り込んだ。

 時間的には5分も経たない間の出来事だった。

「すみません、心配するといけないので、病院ではなく家に行ってください」

 タクシーが家と反対方向に走り出したので、びっくりした伊助は西園寺に戻るように頼んだ。

「ああ、その件は心配しなくても良いよ、さっき倉庫の上から君達のお友達が僕のことを見てたから、彼女から家の人に伝わると思うよ。京の妹はおてんばだね。」

 伊助は西園寺蓮二郎が倉庫の上のセンをイズミと間違えていると思った。センが僕たちが西園寺にタクシーで連れて行かれるのを見ていたら、萬が絶対助けに来てくれる。そう伊助は考えた。

「ふっ、理解したようだね、萬さんのことだから、今夜は無理として、明日には迎えに来るんじゃないかな」

 伊助の考えを読んだみたいに西園寺は言った。

 タクシーは市街地を抜け山手の別荘地に入っていった。そして一軒の別荘の前で停まった。

 タクシーが着くと、家の前に数人の人影が出てきた。別荘の使用人のようである。

「西園寺様、お帰りなさいませ」

「おや、その方達は・・・」

「僕の友人の家族だよ。偶然に出会ってね。熱があるみたいだから医者を呼んでくれないか」

 西園寺は別荘の使用人の中でも支配人とおぼしき人に指示を出した。

 伊助とセン(カイリ)は案内されるままに部屋に連れて行かれた。

 医者が呼ばれ、風邪と診断された。薬を処方され、一晩寝れば熱も下がるだろう。と言って帰って行った。熱のあるセン(カイリ)のことが心配で、ずっと緊張していた伊助は、医者の言葉にホッとした。

 西園寺蓮二郎は医者が帰るまで一緒に居たが、その後は伊助に任せて部屋を出て行った。


 蓮二郎は部屋を出たところで、別荘の支配人に声を掛けられた。

「西園寺様、ご主人様がお呼びになっています」

「わかった」

 蓮二郎は一条正の待つ部屋へ向かった」


 コツ、コツ、コツ、扉を叩くと、中から返事があった。

「お呼びですか?」

「萬の息子を送って行ったと思ったら、今度は何だ、あの子等は」

「ああ、京の妹の友達です。京と分かれた後偶然会いまして、熱があるようなので医者に診せるために連れて参りました。医者の診察も終わりましたので、ご不快なら家に返しますが」

「蓮二郎、おまえが何を考えて連れてきたかわからんが、今夜は泊めなさい。たぶん明日萬が迎えに来ると思うから、その前に会ってみよう」

「わかりました、ではそのように致します」

 恭しく礼をして、西園寺は部屋を出て行った。

 一条正はしばらくの間、蓮二郎が閉めた扉を冷たい視線で見ていた。


 伊助は、西園寺蓮二郎が出て行った後しばらくして、そっと部屋を抜け出した。廊下に出て角を曲がろうとして足を止めた。そこに居るはずのない人物を見てしまった。気付かれないようにそっと覗くと、その人物は突き当たりの部屋にノックをして入っていった。

「何をされているのですか?」

 急に後ろから声を掛けられて伊助は驚いた。振り返ると別荘の使用人が立っていた。

「厠を探していたら,迷ってしまって。厠は何処ですか?」

 慌てて伊助は聞いた。

「厠ですか。ご案内しましょう」

 その使用人は伊助を厠まで案内して、出てくるのを外で待ち、その後部屋まで送ってくれた。


 伊助は、目が覚めてすぐには自分が何処にいるかわからなかった。やけにふかふかしたベッドに寝ていた。横を見ると、となりのベッドにセンが寝ていたので、びっくりして飛び起きた。そして昨夜の出来事を思い出した。

 伊助はベッドを抜け出すと、カイリの側に行き耳元で呟いた。

「おい、大丈夫か?」

 カイリがパチリと目を開けた。

「ああ、よく寝た」

 大きく伸びをしてカイリが起き上がった。

 そこへ、見計らったように西園寺蓮二郎が入ってきた。

「おや、目覚めましたね」

「着替えが終わったら、行きますよ」

「何処へ?」

「この別荘の主に会ってもらいます」

 西園寺蓮二郎は、ドアの外に待機させていた使用人を呼び、伊助達の朝の支度を指示した。

「まずお風呂に入ってください」

「お風呂?」

「貴方たちは気がついていないようですが、かなり臭いです。そのまま主に会って頂くことは出来ません」

「それと着替えの着物も用意してあります」

 使用人に促されるままお風呂に入り、身支度を調えられると、蓮二郎に食堂に連れて行かれた。やけに長い長方形のテーブルの端と端にお皿が置かれていた。入り口近くの席に二人座ると、奥の扉から片眼鏡を掛けた初老の人物が入ってきた。その人物は二人に冷ややかな視線を送ると、テーブルの反対側に座った。蓮二郎はその人物が席に着いてから椅子に座った。

「まあ、食べなさい。話はその後だ」遠くの席から片眼鏡の人物は抑揚のない冷たい声で言った。

 伊助は味がわからないくらい緊張していた。カイリと打合せをする時間がなかったので何を聞かれるかとても不安だった。横を見るとカイリが、飲み込むのがつらそうにパンをスープにつけて食べていた。

「喉が痛いの?」伊助が小声で聞いた。

「・・・」カイリが伊助の顔を見て、喉を指さして頷いた。

 蓮二郎がジロリと睨んだので、食事に専念することにした。

 食事が終わって、テーブルの上が片付くと、

「名前は?」と聞かれた。

「伊助です」

「ボ・・・ゴホッ、ゴホッ」カイリは声を出そうとして思い切り咳き込んだ。

「すみません!こっちはセンです」

 慌てて伊助が言った。

「フン」初老の人物が氷点下の視線で睨んだ。

 その時、支配人が部屋に入ってきて、主の耳元で何か囁いた。

「早かったな」その人物は席を立ち、

「蓮二郎、萬が来たようだ」と言って部屋を出て行った。


「君たちを迎えに萬さんが来たようだ」

 蓮二郎は、二人を立たせると玄関まで連れて行った。

 玄関に萬が待っていた。

「セン!伊助!」

 二人は萬の元まで走って行った。

「大丈夫だったか?」

「はい」

「・・・」

「センは、喉が痛そうで、声が出ないみたいです」

「そうか、大変だったな。もう心配ない!」

 萬は二人を背中にかばい、西園寺蓮二郎に向かって、厳しい顔で忠告した。

「家の子供達が世話になったみたいだが、今後はこのような勝手なことをしてもらっては困る」

「すみません、苦しそうだったので医者に診せることしか考えていませんでした。今後はこのようなことは致しません」

 西園寺蓮二郎は、真摯に萬に謝った。

 萬はセン(カイリ)の額に手をやり、

「まだ少し熱があるようだな」と言ってセン(カイリ)を背負った。

 萬は西園寺から伊助達が着ていた着物を受け取り別荘を後にした。


 別荘が見えなくなった所で、伊助が話しかけたが、萬はそれを止めた。

「言い訳は帰ってから聞く」

 坂道を下って少し広めの通りに出たところで、

「おや、羽瀬川の旦那、こんなに朝早くからどうされたのですか?」

 人力車を引いている佐の助に声を掛けられた。

「佐の助もこんなに早くから仕事かい」

「私は色町で遊んで朝帰りの旦那を送った帰りですよ」

「そうか、車が空いているなら、頼まれてくれるか」

「良いですよ」

「助かった。センが熱があるので、背負っていたが、しばらく背負わない間にずいぶん重たくなって、家まで持つか考えていたところだった」

「それはそれは、大変でしたね」

 佐の助は道の片側により、人力車を止めた。

「伊助!おまえセンと一緒に車に乗れ」

 萬は、セン(カイリ)を人力車に乗せた後、伊助に一緒に乗るように促した。

「良いんですか?」

「おまえも疲れているだろう。子供が遠慮するな」

「はい」

 セン(カイリ)と伊助を乗せて、佐の助は人力車を引き、その横を萬が付いて家まで帰った。


 旅館「羽瀬川」の窓から通りを見ていたセンが叫んだ。

「父様が帰ってきた!伊助とカイリは佐の助の人力車に乗っている!」

「佐の助の人力車か、センお前は迎えに出ない方がいいかもしれないな」

「そうね、センが二人になってしまうとややこしくなりそう」

 京とイズミに言われ、センは2階で待つことにした。

 京とイズミは、萬達を迎えに降りていった。



 5


 萬を先頭に、京、伊助、カイリ、イズミの順でセンの待っている部屋に五人が入ってきた。

「伊助!無事だったか!西園寺の野郎に変なことされなかったか?」

 センは伊助の手を取った。

「ああ、大丈夫だった。西園寺はカイリを医者に診せてくれた」

「カイリ!熱は下がったのか?」

「まだ少ししんどいけど、(ゴホッ)大丈夫です。すみません、僕の不注意で皆さんにご迷惑を掛けてしまいました(ゴホッ)」

 カイリは皆に謝った。

「僕はカイリ・服部・ゴードンと言います。じつは昨日ゴホッ・・・家族と朝食に出かけた時、怪しい動きをする人物を見つけて後をつけたのですが、つけている途中で急に具合が悪くなって、よろけて音を立てて気づかれてしまいました。(ゴホッ)すぐに逃げようとしたのですが、なぜか身体に力が入らなくて捕まってしましました」

「人さらいにさらわれたのではないの?」とイズミ

「はい、さらわれたのではなく、(ゴホッ)捕まったのです」

「カイリ君は何故つけようと思った?」

 萬がカイリに聞いた。

「なんだろう?父の影響で怪しい人を見ると興味がわくというか、何というか習性みたいなもので、(ゴホッ)それで怪しい動きをしている人影を見つけたら、つい身体が勝手に動いてしまい、気がついたら後をつけていました(ゴホッ)」

「彼らが怪しいと思ったのはなぜ?」

「感です!」

「感!今回は助かって良かったけれど、勝手に動くと皆が心配する。今後は気をつけることだ」

 萬は少し腹が立っていた。夕べのセンの行動、そして今のカイリの話、みんな危険を考えずに動こうとする。萬には考えられないことだ。

「はい、すみません(ゴホッ)」

「では、充分に反省したと言うことで、ご両親も心配しているだろう、家まで送ろう」

 おもむろに萬は立ち上がり部屋を出て行こうとした。

「待ってください!」カイリが引き止めた。 

「羽瀬川萬さんですよね(ゴホ、ゴホッ)」

「そうだが」

「じつは僕、萬さんに会うように父から頼まれてまして・・・」

「父?」

「私の父は服部生馬と言います。萬さんとは学生時代のご友人と伺っています。父は昔は警察関係の仕事をしていましたが、今は探偵をしています。(ゴホッ)その服部生馬から萬さん宛ての手紙を預かって来ました」

「手紙?」

「はい、昨日僕が着ていたズボンのポケットに入っていたと思うのですが・・・」

「君の着ていた服?あそこにあるあれかな」

 客用の夜着の浴衣をいれる箱に洋服が綺麗にたたまれて入っていた。

「ああ!はいそれです!(ゴホッ)」

 カイリは置いてあったズボンに手を伸ばしポケットを探ったが、何も入ってなかった。

「おかしいな?落としたかな?」

「ごめん、忘れてた。洋服を脱いだ時出したままだった」

 センは部屋を出て行った。しばらくして一枚の封筒を持ってきた。

 萬はセンから封筒を預かると、表を見てそして中身を出した。

「手紙とはこれか?」

「はい!それです!その中に詳しく書かれてないですか?(ゴホッ)」

「表は『萬へ』中には『カイリに聞け、生馬』としか書いてないが」

「ああ、またあの人は!」カイリが頭を抱えた。

「着いてそうそう捕まるわ!会いたくもない一条正に会うわ!で息子は大変な思いをしたのに!あの人と来たら・・・(ゴホッ)僕が萬さんに会わなかったらどうするつもりだったんだろう」

「私が君に会わなかったら、生馬は何も無かったと言うだろうな」

「そうですね。そういう人です!」

「で、生馬が今調査していることは、俺に関係のあることなのか?」

「僕も詳しくは聞いていないのです。最近依頼を受けた事件に関係することだと思います(ゴホッ)」

「君が知っている範囲でいいから話してくれないか」

「すみません、その前に洋服に着替えて良いですか。(ゴホッ)着物は久しぶりでどうもスースーして風邪に良くないみたいなので」

 カイリは話を中断して洋服に着替えた。

 着替え終わると、イズミがカイリにマスクを渡した。

「すみません、ありがとうございます(ゴホッ)」

 カイリはマスクを付けると話はじめた。

「じつは3ヶ月ほど前、東京である事件がおきました。父はその事件の被害者の親族から事件の真相を探るよう依頼されたそうです(ゴホッ)」

「東京の事件と私とどういう関係が?」

「父は事件に繋がるヒントが「羽瀬川旅館」にあると言ってました」

「ヒントがここに?」

「はい、今回の東京の事件が、三年前横浜で起こった宝石商大原一家殺害事件とよく似ているらしいのです(ゴホッ)」

「・・・!」

 イズミが息を飲んだ。

「三年前の横浜の事件と関係がある?」

「三年前の事件で父は萬さんと十数年ぶりに会ったと言っていました」

「萬さんはその事件の被害者の一人、大原五紀さんの関係者だったそうですね」

「そうだが、五紀は私の従姉だ」

「じつは事件の時、報道はされませんでしたが、その家の長女が偶然出かけていて助かったそうです。その少女は五紀さんに荷物を送るよう頼まれて郵便局に出かけていたそうです。それで難を逃れた。残された少女は親戚の家に引き取られました。しかし、少女を引き取った人達が次々と事故に遭うなど不幸が重なりました。彼女を助けようとすると不幸に見舞われるという噂が広まって、次第に彼女に手を貸す者はいなくなりました。彼女は横浜に居づらくなり、ある日姿を消したそうです。今回の事件を受けて父は、唯一生き残ったその少女、大原調子を探すことにしました」

「大原調子がここにいると、生馬が思った理由は?」

「調子さんが最後に送った郵便物の住所です。彼女に送るように頼んだのは義理の叔母の大原五紀さん。彼女が何故大原邸に居たのかはわかりませんが、自分宛の荷物を送るよう調子さんに頼んだそうです。荷物の送り先はここ羽瀬川旅館でした。大原五紀さんもその事件で亡くなっています。大原五紀さん自身が郵便局に行っていたら助かっていたかも知れません。すべてを失って頼るところの無い調子さんが、大原五紀さんが最後に書いたここの住所を訪ねる可能性があると父は考えました。タイミング良く、今の僕の父ゴードンの転勤先が羽瀬川旅館の近くと知った父が、僕に萬さんを訪ねるようにと言ったのです」

「わかった、五紀に関係する人が旅館を尋ねてきたと言う記憶は無いが調べてみよう。ところで、東京の事件について教えて欲しいのだが」

「事件があったのは3ヶ月前、七草も終わり正月気分も抜けた頃だそうです。恵比寿の松方氏の屋敷に強盗が入り、家族全員殺されました。強盗が入ったのは朝食の時間らしく、家人のほとんどは食堂で殺されていました。使用人も皆それぞれの場所で殺されていたそうです。みんな心臓を一突きだったそうです。お嬢さんの涼子さんも心臓を一突きされていたのは同じだったのですが、客間のベッドの上で殺されていたそうです。どんな殺され方だったか父は教えてくれませんでしたが、『蕾を摘み取って心臓を一突き』と言っていましたので、僕でも想像はできます。涼子さんは僕と同じ12歳だったそうです」

「それが横浜の事件と似ていると言うのは?」

「横浜の事件でも、お嬢さんの一人奏子さんが同じように客間のベッドで殺されていたそうです。ご存じ無かったですか?」

「生馬が調べることになったのは?」

「松方涼子さんは、事情があって徳川家から松方家に養女に出されていたそうです」

「そうか、それで生馬に依頼が来たと言うことか」

「この事件には一条正が絡んでいるらしいと父が言っていました」

「一条正が・・・なぜ?「」

「詳しいことは話してもらえませんでした。ただ、松方氏と一条氏は貴族議員の中でも対立的な立場にありました。松方氏がいなくなって一条氏は優位になったという噂があります」

「それで一条正が松方を殺害したと・・・」

「そう単純な話ではないと思いますが、一条正が誰かに依頼したとも考えられます。現に議会における一条の存在は大きくなっているそうです。(ゴホッ)しかし、まさかここで一条正に会うと思わなかったので、びっくりしました」

「面識があるのか」

「まさか!父の仕事の手伝いをしていれば、貴族議員様の顔は覚えておくことの一つです」

 萬はしばらく考えて、

「京、一条は何時発つと言っていた」

「今日の夕方の船で、西園寺と僕を東京に連れて行くと言っていました。一週間の予定です。一週間の間に東京の学校に行くかどうか決めるよう言われました」

「そうか、一条はセンやイズミのことは知っているのだろうか」

「直接会ってはいませんが、駅で僕等が会ったのを見ていたようです。『面白いものが見れた』と言っていました」

「そうか・・・」

「だいたいの話はわかった」

「では、調査して頂けるのですね」

「調べてみよう、結果は直接生馬に手紙を書く」

「宜しくお願いします。僕は明日の船で横浜に戻り、4月にこちらに戻ってくる予定です。その時は宜しくお願いします」

「ああ、わかった。君も一条正に目を付けられないよう気をつけるように」

「はい」

 カイリは自分の役目を果たしたとばかり、安心した顔になった。萬とイズミは複雑な表情を浮かべていた。

「あの父の子なので、母はあまり心配はしてないと思いますが、そろそろ帰らないと、さすがに叱られそうです。すみません、いろいろ迷惑をかけました。ありがとうございました」カイリは萬に挨拶をして立ち上がった。

「じゃあ、僕が送っていくよ」伊助がカイリに声を掛けた。

「あ、僕も」「私も」とセンとイズミも立ち上がった。

「ありがとう、僕の泊まっている旅館は駅の近くだし、電車にも乗ってみたいので、一人で帰るよ」

 それでは電停まで送ろうということになり、みんなで見送ることにした。

 部屋を出たところで、瞳子とぶつかりそうになった。

「あら、ごめんなさい。お友達?」瞳子はカイリを見て驚いたように聞いた。

「ああその子は、夕べ見回りの時に迷子になっていたのを見つけてね、風邪を引いてはいけないので、一晩ここに泊めたんだ」と萬が瞳子に言った。

「そうでしたか。夕べは急にお暇を頂きすみませんでした、今戻りました」

「そうか、実家はどうだった?」

「おかげさまで、急いで帰るほどのことではありませんでした」

「大事なくて良かったな。ところで料理長が探していましたよ。戻ってきたら声を掛けるようにと言っていたから、帰って早々ですまないが、お願いできますか」

「はい、わかりました」

 瞳子は挨拶を済ませると、出て行った。

 セン達もカイリを連れて階段を降りていった。伊助は階段の途中で立ち止まり、萬の元に引き返した。

「萬さん」

 伊助が萬の袖を引いて、萬にだけ聞こえるよう小声で囁いた。

「すっかり忘れていましたが、僕、昨夜一条の別荘で瞳子さんを見ました」

「それは本当か!」

「はい」

「わかった、先にカイリを送ってきてくれ。詳しい話は帰ってからだ」

 伊助は頷いて、みんなの後を追った。


 カイリを電停まで送って戻ってくると、瞳子が出かけるところだった。

「あら、瞳子さん出かけるの?」

 イズミが尋ねると、

「はい、何でも今夜から一週間ほど京さんが旅行に行かれるとかで、旅行鞄を買って来るよう頼まれました」

「京兄様旅行鞄持っていませんでしたっけ?」イズミは京に聞いた。

「いつも使っているのは父さんの鞄、僕個人は持ってないよ」京が答えると、横からセンが

「そうか!これから使う機会が増えるかも知れないと父様が考えたんだね」と言った。

「僕は父さんのでかまわないのだけど・・・」

「京兄様、センの言うとおりですわ。東京の高等学校に行かれることになれば、使う機会も増えると思います。ご自分の旅行鞄は持っていた方が良いと思いますわ」

「あら、京さんは東京の高等学校に行かれるのですか?」

 イズミの言葉に瞳子が驚いた。

「まだ決まったわけではないけど、旅行中に考えるそうですって。京兄様は夕方の船で出発する予定なので、鞄と旅行に必要な物も一緒に買ってきてもらえると助かりますわ」

 イズミが女主人のように瞳子に言った。京は苦笑いを浮かべてイズミを見ていた。

 瞳子はイズミを見てクスクスッと笑って

「わかりました。では出かけてきます」と出かけていった。

「行ってらっしゃい」

 済まして見送るイズミを、

「なんだかイズミは京兄の奥さんみたい・・・」

 センは複雑な気持ちでイズミを見ていた。


「みんな戻ってきたか」

 瞳子さんを見送っていると、萬が声を掛けた。

「瞳子さんに京兄様の買い物を頼んだのは、なぜですか?」イズミは不服な顔をして萬に聞いた。

「伊助が夕べ別荘で瞳子さんを見かけたそうだ。だから話を聞かれないように用事を頼んだ」

「えっ!」萬の言葉に伊助を除く三人が驚いた。

「ここで立ち話も何だから、中に入って話そう」

「はい」

 萬に続いて先ほどまでカイリと話していた部屋に戻った。

「父様!横浜の事件って!母様のあの事件!」

 部屋に入る早々、イズミが萬に聞いた。

「そうみたいだな」

「あの時、母様は死んだ父様の形見分けをするので、横浜まで来てくれと、呼び出されました。父様が死んだのは私が生まれる前と聞いています。何故今更と、母様は言っていました」

「それは、私も聞いていた」萬が言った。「何故呼ばれたのかわからないと五紀は迷っていた。そして行かないとわからないこともあると言って出かけていった」

「母様が出かけて数日後、母様が死んだという知らせと、父様の人形が届いた」

「調子さんが五紀さんに頼まれて送った荷物が、その人形だった!」

「そうすると、形見分けは本当で、五紀さんはタイミング悪く事件に遭遇してしまったと考えられるな」

「そうかな・・・」センが呟いた。

「どうしたセン」

「その時何があったのかは、調子さんに聞かないとわからないと思う」

 センはまっすぐ萬の目を見た。

「そうだな、しかし、3年前の宿帳を見ても、大原調子と言う名前は見つからなかった」

「調子さん、僕知っている」

「えっ!」

「でもどこにいるか、今は言えない」

「どうして!」

「自分のことは誰にも話さないでと言われたから」

「だから父さんにも黙っていたのか」萬が聞いた。

「誰にも話さないと約束したから」

「その人は自分が大原調子と名乗ったの?」とイズミ。

「名前は聞いていない。だけど多分そうだと思う」

「詳しく話してくれ」萬はセンの目を見ていった。

 センは萬はじめみんなを見て話し始めた。

「3年前の2月の末、父さんとイズミは五紀さんの法要で里に帰っていて、京兄と僕は留守番をしていた。京兄は小学校の卒業式の打合せで学校に残り、先に帰った僕は伊助を誘って道場に行こうと表に出たとき、旅館の前に女の人が立っていた。とても悲しそうな顔をして立っていたので、気になって中に入るように言ったんだ。なんか一人置いておける状態には見えなかったので、伊助に先に道場に行ってもらい、僕は女の人が落ち着くまで一緒に居ることにした。しばらくすると女の人は「ありがとう」と言って出て行ったけど、海に飛び込まないか心配になってそっと後をつけたんだ。そしたら、僕以外に女の人をつけている怪しい人を見つけた。女の人はぼんやりと海まで歩いて行って、しばらくボーッと海を見ていたんだけど、その後思った通り海に飛び込んだ」

「死んだの!」

「いや、僕が助けた」

「えっ!どうやって」

「絶対飛び込むと思ったので、先回りして、潮に流されないよう自分の身体をロープで巻いて岸壁の下で待機してた」

「セン!」皆が同時に叫んだ。

「幸い何艘かボートがあったので、女の人が飛び込んですぐ捕まえて、流されないよう抱きしめて、ボートの影に隠れた」

 女の人をつけていた人は、飛び込んだときに脱げたカーデガンが流されていくのを見て海岸沿いを走って追っていったから、気付かれなかったとおもう」

「セン!なんてことを!一つ間違えたらお前も死んでいたかもしれないんだぞ!」

「大丈夫だったよ、ちょうど佐の助が通りかかって助けてくれたから」

「佐の助が!」

「車を引いて帰る途中だったみたいで、僕がロープを身体に巻くところから見てたと言ってた」

「で、助けてどうした」心臓に悪い話を聞いて青い顔をした萬が聞いた。

「昔、母様とよく行っていた婆様のところに連れて行った」

「婆様?左衛門じいさんの知り合いのあの婆様か!」

「うん、あの婆様。僕は女の人を婆様に預けて帰った。後のことは婆様が全部してくれた。今はあるところにいる」

「あるところ?センは知っているのか」

「知ってるけど、行ったことはない。あの時誰に追われていたのか僕も聞いてみたいと思っていて聞けなかったから、一度話を聞いてみたいと思っていた」

「追われてた?それは確かなのか?」

「間違いないよ。女の人が落ちたのを確認して、助けも呼ばずカーデガンの後を追ってたから」

「そうか」

「それだけじゃないよ。その数日後、女の人をつけていた人と同じ人が今度は父さんの後をつけているのを見たよ」

「えっっ!」

「とうさんは、見張られているみたいだね」

「そうだ3年くらい前から誰かに見られている。五紀の事件の後だ」

「それから、京兄さんも、何故だかあの西園寺にもついている。それに今朝からもう一人増えた。今度は誰につくのだろう」

「センはよく見てるな」

「僕だけじゃ無いよ、この旅館が見張られていることは、京兄も伊助もイズミも気付いている。だから、あの女の人が生きていることがわかったら、もっと嫌なことが起こる気がする」

「もっと嫌なことか・・」

「たぶん、カイリのことも調べられるだろうから、僕たちは迅速かつ慎重に動かないといけない。気付かれないように秘密裏に・・・婆様のところに行ってくる」

 センはそう言い残して、部屋を出て行った。



 6


 センは見張りに気付かれないように旅館の裏手に出た。旅館の裏はすぐ山になっている。センは山を登り反対側に出た。山の反対側にも、街中に通じた自動車の道があった。

 センは街とは反対方向に歩き始めた。

 道沿いを歩いていると、後ろから来る人力車に気がついて手を振った。

「セン、何をしている」

 佐の助が近づいてきた。

「婆様のところに行こうと思ってる」

「婆さんのところか・・・ちょっと遠いな・・・」

 佐の助は少し考えて、

「少し待ってくれ」

 と人力車をセンに預けて何処かへ行った。

 しばらく待っていると、佐の助が戻ってきた。

「歩いて行くから良いよ」

「それはダメだ。センに何かあったら婆さんに叱られるのは俺だ」

「行ってくれるの?」

「仕事は他の奴に頼んだから大丈夫だ」

 佐の助は、センを人力車に乗せると、婆様のところへ連れて行った。


「おや、セン久しぶりだね」

「婆様、ご無沙汰しています」

 婆様はこの海峡の街で人力車の会社を営んでいる。商売柄街の情報通でもある。センの爺様羽瀬川左衛門の古い友人で、60歳はとうに過ぎていると聞いている。痩せてはいるが、背筋も伸びて凜とした年を感じさせない佇まいの人物だ。センの母百合が左衛門亡き後もいろいろ話相手になっていた人である。父萬はこの婆様を何故か苦手にしている。

「見ない間に大きくなったね」

「12歳になった。こないだ小学校を卒業したよ」

「もうそんなになるかね」

 センを感慨深げに見ながら、

「ところで、今日は何か用があって来たのだろう」と聞いた。

「うん、3年前に僕が連れてきた女の人の事で・・・」

「3年前? ああ、あの寒い日にびしょ濡れで連れてきた女の子のことかい?」

「そう、その人のことなんだけど」

 センは、カイリを助けに行ったところから順を追って婆様に話した。

「そうかい、あの子にそんなことがあったのかい」

「婆様も聞いてなかったの?」

「ああ、あの子は誰とも話そうとしなかったからね。いつも一人でぼんやりしてた。私も落ち着いたら話してくれると思って待っていたんだけどね。1ヶ月ほどそんな状態が続いたかねぇ。ある日、京が小学校を卒業した報告に来たんだ」

「京兄が?」

「ああ、あの子は良い子だねぇ」

「京兄がどうしたの?」

「どうもしないさ。ただ女の子と目があった時、にっこりと笑っただけだったけど、女の子がフフッと笑ったような気がした」

「笑ったの?」

「誰かに似ていたのかねぇ。フッと懐かしい人に会ったように微笑んだんだよ」

「笑ったんだ」

「そんな気がしたよ。それまで、また海に飛び込むかも知れないとヒヤヒヤして、何かにつけて注意して見てたけど、笑えるなら大丈夫と思ったよ」

「そうなんだ」

「それからしばらくして、今の所を紹介したのだけれど・・・、はて、どうしたものかね」

「来て話してもらうのが一番良いんだけど、羽瀬川家はいろんな人から見られているから、来て下さいと言えない」

「ほんとにやっかいな家だねぇ。これに服部が絡んでくるとなると、ますますやっかいだねぇ」

「服部さんを知っているの?」

「昔、ちょっとね。生馬と言ったっけ?あいつの親父とちょっとね」

「婆様、やはりただ者じゃ無いね!」

「期待に反して申し訳ないけど、私はただの婆だよ」

「違うよ!婆様は僕が師匠と仰ぐ内の一人だからね」

「はいはい、光栄です」

「また、そう言ってはぐらかす!僕は本気で思っているんだからね!」

「ところでセン」

「なに?」

「もう12歳になったと言ったね」

「そうだけど」

「その『僕』と言うのはいつまで続けるつもりだい?」

「いつまでって?どういうこと?」

「来月から女学校に行くんだろう?」

「父さんは行きなさいと言っている。イズミも一緒に行こうと言っている」

「イズミ?ああ、五紀さんの・・・」

「そう、五紀叔母さんの子だけど、今は父さんの子になっている。イズミは僕と違ってすごく女の子らしいんだ」

「一緒に育っていて、どうしてそんなに違ってしまったのかね」

「いつだっけ?まだ僕も小さくて母様が生きていた頃、イズミが『京兄様が好きだから、私京兄様のお嫁さんになるの。だからセンはお嫁さん以外なら、京兄様と一緒にいても良いわよ』と僕に言ったんだ。僕も京兄様が好きだったので、京兄様のお嫁さんにならなくて、京兄様とずっと一緒にいるためにどうすれば良いだろうと考えて、『弟』になろうと思ったんだ」

「弟にかい?」

「母様に聞いたら、それもいいわね。と言ってくれたから、僕はその日から京兄の『弟』になったんだ」

「百合が良いと言ったのかい?」

「うん、母様は、センにはいつか騎士様が現れるから、それまでは『弟』でいいわよって」

「騎士様って、あの西洋の騎士のことかい?」

「よくわからない。でも僕には騎士様でないといけないと爺様が言ったと言っていた」

「ふうん、百合らしいと言ったら、百合らしいね」

「だから、僕は京兄と同じ事がしたいんだ。でも僕は中学には行けない。イズミは女学校に行って先生になりたいと言っていた。それに最近どんどん女の子らしくなった」

「センはなりたいものは無いのかい?」

「京兄の『弟』以外なりたいと思ったものは無い」

「そうか、京兄はなんと言っている?」

「『センは今のままでいいよ。センはセンだから』と言ってくれる」

「セン、萬と百合は結婚してたけど、何故お前に弟や妹がいないかわかるか?」

「わからない。でも母様が騎士様の話をしたとき、『私の騎士様は京一郎様、京のお父様よ。センの騎士様も素敵な人だといいわね』と言っていた。母様は父様と結婚してたけど、ずっと京一郎様を好きだったのだと思う。だって母様は父様をいつも『兄様』と呼んでいたから」

「百合はねえ、成り行き上萬と結婚したけど、萬を兄以上に思えなかったんだ。だから子供を作ることが出来なかった」

「どういうこと?」

「センにはまだ早いかな。センは京兄が、例えばイズミと仲良く話していたら、嫌な気持ちになることは無いかい」

「べつに何も気になることは無いよ。ただ、今日イズミが京兄の旅行の支度について瞳子さんと話しているとき、なんかこの辺がモヤッとした」

 センは胸のあたりを指して言った。

「ふーん、そうかい・・・」

「なに?」

 婆様は意味ありげに笑って、

「そろそろ帰りなさい、京の出かけるのに間に合わなくなるよ。調子さんの件は、2・3日内に連絡をいれると萬に伝えておくれ」そう言うとセンを表まで送った。

 表には佐の助が待っていた。

 センは佐の助に会ったところまで送ってもらい、山を越えて旅館の裏手から誰にも気付かれないように、自分の部屋に入った。

 お昼を少し過ぎていた。

 センは、部屋を出て一階に降りていった。

「お腹すいた」

 下ではみんなが集まって昼食を食べていた。瞳子さんも戻っていた。

「セン!やっと起きてきた」

 イズミが顔を見るなり言った。

「とてもよく寝ていたので起こさなかったのよ」

「あ、ごめん!夕べあまり寝れなかったので、ちょっとのつもりだったんだけど・・・」

「夕べはいろいろあったからな」萬が言った。

 センは京の横が空いていたので、そこに座った。

「セン、ぜんぜん箸が進んでいないじゃないか」

 京が心配そうにセンを見た。

「お腹すいてる感じなんだけど、なんか食べ物見たらお腹いっぱいになった」

「大丈夫か?セン」

 京は箸を置くと、センの額に手を当てた。

「セン!熱があるじゃないか!」

「熱?無いよ」

「馬鹿だなぁ、自分で感じて無いだけだ」

 京はセンを抱えて、

「瞳子さん、水枕用意して下さい」瞳子にそう言って、センを二階の部屋まで運んだ。

 京の後を伊助が追って、薬袋を渡した。

「これ、昨日医者がくれた薬。熱冷ましと言っていたから・・・」

「ありがとう」

 京がセンを布団に寝かせていると、瞳子が水枕を持ってきた。

「瞳子さん、薬を飲ませるので、水もお願いできる?」

「京兄、僕は大丈夫だよ」

「大丈夫じゃ無い!こんなに熱いじゃないか!」

「このまま寝たら、京兄の見送りに行けない」

「一週間で帰って来るから、見送りはいいよ」

「でも・・・」

「セン、京兄様の見送り、私も行かないことにしたから」

 瞳子から預かったのか、水の入ったコップを持ってイズミが入ってきた。

「あの、西園寺とか言う人からまたじろじろ見られるのも嫌だし、センが熱を出したので、看病のため見送りに行けないという立派な口実が出来て、私はうれしいくらいだわ」

 イズミの言葉にセンは、

「あ、そうだった!西園寺を忘れてた!イズミが行かないなら、僕も行かない!」

「はい、決まりだね」

 京は笑って、センに薬を飲ませた。

「京兄、気をつけて行ってきてね」

 センはそう言って目を閉じた。

 京とイズミはしばらくセンを見ていたが、センの寝息が聞こえると、そっと部屋から出て行った。


 グー

 センは自分のお腹の鳴る音で目が覚めた。窓の外はすっかり暗くなっていた。

 布団から出ると、下に降りた。

 下には伊助と伊助の両親の成治と八重そしてイズミがいた。

「お腹すいた」

 そう言いながら降りてきたセンに、

「気分は良くなったの?」

 とイズミが聞いた。

「おかげさまで、熱も下がったみたい」

「どれどれ」

 イズミがセンの額に手を当てた。

「熱は下がったみたいね」

「お腹すいた」

「また、そればっかり!八重さん、センも大丈夫みたいだから、お父様のお帰りを待たずに、先にお夕食にしませんか」

 イズミがそう言ったので、センは萬と瞳子のいないことに気がついた。

「父様と瞳子さんは?」

「京兄様の見送りに行かれたわ」

「瞳子さんも?」

「一人で行くのがいやだったみたい。京兄様は来なくてもいいと言ったのだけど、お父様が西園寺蓮二郎に会ってみたいと言って見送りに行ったの。でもそこで一条正と会って話すのは嫌だったみたい。で、瞳子さんを連れて行けば一条正が近づいてこないと思ったみたいよ」

 イズミが訳知り顔で言ったので、

「ふーん、大人は難しいね」

 とセンが言うと、その場のみんなが笑った

 萬は一条正と顔を合わせることなく帰ってきた。



 7


 三日後、萬は旅館組合の寄り合いに出かけていた。寄り合いは月に一度開かれる。今回は旅館組合と置屋組合の合同で行われていた。置屋とは芸者や芸子を宴会などに派遣するところである。

 その寄り合いが終わった後、置屋「小湊」の女将から声を掛けられた。最近小学校を卒業したばかりの子を引き受けたが、泣いてばかりでなかなか馴染めず、年の近い芸子見習いの子に面倒を見させているけれど、その子がまた無口で、一緒になって泣く始末。何かいい方法はないかと考えていたら、先日駅前でセン達を見かけて、羽瀬川さんに会ったら子供達をしばらく遊び相手に貸して貰えないかと頼もうと思っていたと言ってきた。萬が渋っていると、昼間は他の芸者もいるしお稽古もあるので、夕方でも来てくれないか。夕方だと子供達だけでは心配と思われるなら、萬さんも一緒で、子供達が遊んでいる間お茶を飲みましょうと一方的に約束させられてしまったらしい。

 萬としては、そういう世界に触れさせるのはまだ早いと思っていたので、困り顔でセンとイズミに話すと、

「置屋さんか、一度は行ってみたいと思っていたのよね」

 とイズミが興味津々で聞いてきた。

「そうだね、うちの旅館は宴会が少ないから、たまに芸者さんが来るのを見るのは楽しいよね」

 二人が面白そうに話すと、

「楽しみ?」

 と萬が疑問符をつけた。

「だって、綺麗な人が踊っているのを見るのは楽しいよ。なあ、伊助もそう思うだろう」

 いつの間にか話に加わっていた伊助が頷いた。

「おいおい、お前達!」

「はい、話は決まり!」

 イズミが苦り切った萬にポンと言った。

 仕方なく萬は女将と相談してみると言ってその場を納めた。


 二日後の夕方、萬に連れられ三人は出かけた。

 置屋「小湊」は羽瀬川旅館から歩いて20分ほどのところにあった。

 女将が入り口で待っていた。

「まあ、よく来てくれたね。さあ入って下さいな」

 狭い格子戸を開けると、小さな中庭の先に玄関があった。玄関を開けると少し広めの土間があり、上り框は広く、廊下の左に二階に上る階段があった。セン達は階段横の座敷に通された。座敷の奥は板張りになっている。

「今日はお座敷が多くてみな出かけているから遠慮しないでね。お願いしたハルはお稽古に出ていてまだ戻っていないのよ。今は小蝶一人残っているので、ハルが戻るまで相手をしてもらいますね」

「小蝶って?」

「萬さんにも言ったけど、3年くらいここにいるのだけど、とても無口で、この春からお座敷に上げようと思っているのだけど、うまくお座敷でやっていけるか心配で・・・。今お茶を持たせますので少しお待ちくださいな」

 そう言って、女将は部屋を出て行った。

 しばらくして、

「失礼いたします」

 小さな声がして、静かに襖が開いた。

「いらっしゃいませ、小蝶でございます」

 小蝶と名乗った芸子は顔を上げることなく俯いたまま座っていた。

「ほら、小蝶顔を上げて」

 後ろから女将が声を掛けた。

「ごめんなさいね。こんな調子で」

 女将の言葉に小蝶は目は伏せたままゆっくりと顔を上げた。

「こんにちは、小蝶さん、僕を覚えてる?」

 センが声を掛けると、わずかにセンの方に目を向けた。

「どうしているか、ずっと心配してたけど、元気そうで何よりです」

 小蝶はセンを見てかすかに微笑んだ。そしてセンの横のイズミに視線を移した。

「あっ」と息を飲んだ。

「奏子!」

 小蝶は小さく叫んで、イズミの前に飛び出した。

「奏子、生きていたのね。良かった!」

 イズミを抱きしめて泣き出した。

 なかなか泣き止まない小蝶に、イズミは申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい、私は奏子さんではありません」

「え?」

 小蝶は不思議な顔でイズミを見た。

「奏子さんではありません。わたしは大原イズミ、大原五紀の娘です」

「五紀伯母様の娘・・・?」

「母は私のことを、あなたのご家族に話してなかったのですか」

「私は知らなかった」

「奏子さんは亡くなりました」

「ああ、奏子はやはり死んだのね」

「はい」

「そうよね。あれからずいぶん経つのに、あの頃のままの奏子が現れるわけ無いわよね。あなたが奏子にとても似ているので・・・ごめんなさい・・・」

 小蝶は着物の袖で涙を拭いた。

「奏子さんは私に似ているのですか?」

「ええ似ているわ、声もよく似ている」

「そうですか」

「奏子さんとイズミは従姉だから似ていてもおかしくないと思うよ」

 横からセンが口を挟んだ。

「そうだね。偶然とはいえ二人は従姉同士なんだ」と萬も頷いた。

「女将、イズミの従姉なら私にとっても小蝶は大切な子供になる。ここは子供達に任せて、私は小蝶の今後のことを女将と話し合いたいのだが」

 そう言って萬は女将を促すと二人で部屋を出て行った。

「父様らしいな」とセンが言うと、

「そうね」とイズミが答えた。

「ところで、小蝶さん」

「はい」

「あらためまして、私はイズミ。そしてセンと伊助です」

「私は大原調子です」

 お互いを自己紹介し終わると、イズミが調子に聞いた。

「私は母の死んだ時のことが知りたいの。父の形見分けをもらいに東京に行ったと聞いているけれど、あなたが知っていることを教えてもらえますか」

 調子はしばらく躊躇していたが、少しずつ話し始めた。

「母から聞いた話ですが、五紀叔母様は、私の父とは10歳も年の離れた兄、敬伯父様の奥さんでした。父は敬伯父様をとても慕っていて、唯一信頼できる兄だったそうです。五紀叔母様は、母の侍女で結婚の時に母と共に大原家に来たそうです。敬伯父様は芸術家で若いときはフランスに留学していたと父から聞いたことがあります。日本に帰ってくると、人形作家になると言って家業を父に譲り、自由奔放な生活をしていたそうです。母が嫁いで、五紀叔母様と知り合うと、五紀さんと結婚すると言ってみんな驚かせたそうです。父は、五紀伯母様が敬伯父様を誘惑したと言って結婚を認めなかったそうです。当時、敬伯父様は40歳で、五紀叔母様は20歳だったそうです。二人は父の反対を押し切って結婚したと聞きました。そんな時、敬伯父様が自動車事故で亡くなりました。父は母の止めるのも聞かず「お前が敬兄さんを殺したんだ!」と言って、五紀伯母様を追い出したそうです。敬伯父様は私が3歳の時に亡くなったと聞いています。私は敬伯父様のことも五紀叔母様のことも知らずに10年幸せに暮らしていました。あの事件の1ヶ月ほど前、横浜で大規模な展示会を開催することになり、展示品を一時保管するために倉庫の片付けをしていたら、敬伯父様の遺品が出てきたそうです。遺品は人形で、二つは私と妹の奏子宛、もう一つは五紀伯母様宛でした。カードが付いていたので、それぞれの誕生日に渡すつもりだったみたいです。父は伯母様には知らせなくていいと言ったのですが、母が五紀叔母様に知らせたのです。母と五紀叔母様は別れても連絡を取り合っていたようです。私はその時初めて、敬伯父様と五紀叔母様の話を母から聞きました」

「人形って、あの日本人形?」

「私と奏子は洋服を着た西洋風の人形で、五紀叔母様には着物を着た日本人形でした。あの日、事件の日、五紀叔母様が慌てた様子で人形の小包を私に持たせ「この荷物を午前中の便に乗せて出さないといけなでいので、急いで郵便局に行ってもらえないか」と私と奏子二人で郵便局に行くように言われました。私は不思議に感じながらも郵便局に行くことにしました。奏子は『蓮二郎君が来るから残る』と言って行こうとしませんでした。それでも五紀伯母様は私たち二人で行くようにと勧めたのですが、結局私一人ででも行くようにと半ば強引に家から出されてしまいました。私は郵便局に向かい、何とか午前中の便に荷物を乗せてもらいました。帰る途中で蓮二郎君と会って、奏子が私の名前で蓮二郎君を家に招いたことを知りました。二人で家に戻ったら、警察の人が来ていました」

「蓮二郎君って、まさか西園寺蓮二郎?」

「蓮二郎君を知っているのですか?」

「まあ、ちょっと」

「蓮二郎君は、私の婚約者でした」

「婚約者!」

「蓮二郎君が生まれたときに、私の婚約者にとお父様同士が決めたそうです」

「調子さんの婚約者?」

「ええ、私の婚約者だったのですが、妹の奏子が蓮二郎君に恋をして、私が蓮二郎君の事を好きでないなら、婚約者を奏子の変えてと言っていました」

「私は親が決めたことでもあるし、年上なので変わっても良かったのですが・・・。父は聞き入れてくれなくて、それでは実力行使だと言って奏子は蓮二郎君にアタックしていました」

「そうなんだ」

 頷いて聞いていたが、二人が家に帰ったその後の事は聞けなかった。

 自然とみんな無口になってしまった。

 表の格子戸をガラガラと開ける音が聞こえた。

「あ、ハルちゃんが帰ってきたみたい」ホッとしたように小蝶が立ち上がった。

 しばらく待っていたが、玄関の戸を開ける気配がなかった。

 心配になって、みんなで玄関まで迎えに出ると、ようやく玄関の戸が開いた。さっきまで泣いていたのか目を真っ赤にした女の子が入ってきた。

「ハルちゃん、どうしたの?」

 小蝶がハルの荷物を受け取リながら話しかけた。

「うえーん、小蝶姉さん、また叱られた」

「おやおや、また泣いて帰ってきたのかい」

 奥から女将さんが呆れた顔で出てきた。

「で、今日は何で叱られたんだい」

「踊りの覚えが悪いと言われました」

「初めてお稽古事をするんだから、そんなに早く覚えられないよ。今から今日教わったところをおさらいしてみよう。あんたのために友達も用意したからね。みんなで一緒にやってみよう」

「えっ!僕も踊るの?」センはびっくりして女将に聞いた。

「そうだよ、初めての人が側にいると、自分の実力がわかるだろう」

「げっ!聞いてないよ」

「うだうだ言わないの」

 女将は渋るセンと伊助を引っ張って、座敷に戻った。それから1時間、みっちり踊りの稽古に付き合わされて、センと伊助はゲンナリした。イズミは覚えが早く、当人であるハルもセンと伊助よりはうまく踊れていた。ハルはセン達を見て少し自信を持ったみたいだった。

 センと伊助は、ハルの為と、2・3日通うことを約束して帰ることにした。


 翌日も前の日と変わらず、センとイズミと伊助は踊りの稽古に付き合わされた。センの踊りを見てハルも元気になり、女将は「センに感謝しなきゃね」と言って喜んだ。センは踊りの才能が無いことを知った。


 二日目もぐったりして帰ったセンは、お風呂に入って早々と寝る支度をして、疲れた身体を布団に預けて眠りにつこうとしていた。珍しくイズミがセンの部屋を訪れた。部屋と言っても襖を隔てた隣がイズミの部屋なので、いつでも行き来出来た。

「ねえ、セン起きてる?」

「起きてるよ」

「難しい顔をして、まだ踊りの事を考えてたの」

「簡単にできると思っていたのに、何故かなあ?」

「頭より身体が先に動くという感じね」

 センは踊りの型の覚えは早いのだが、人より少し早く動いてしまう傾向があった。

「どうもあの曲調について行けない!」

「センはせっかちなのよ。もう少し間を取ればいいのに」

 イズミは笑った。

「ところでセン、相談なんだけど」

 イズミが真顔でセンを見つめた。

「セン、京兄様のことをどう思っているの?」

「どうって?」

「好きかってこと」

「好きだよ。イズミも好きでしょ」

「そういう意味じゃ無くて、男の人として好きかってこと」

「男の人として?考えたこと無い」

「ずっと前私達がまだ小さかった頃、私が京兄様のお嫁さんになるとセンに言ったこと覚えてる?」

「うん、だから僕は弟になると言った」

「なぜ弟になろうと思ったの?」

「だって、大好きな京兄と離れたくなかったから、イズミがお嫁さんになっても弟だったら一緒にいられると思ったから・・・」

「センは京兄様が好き?」

「好きだよ。イズミの次に好き」

「私の次?」

「僕の一番好きなのはイズミ、そして京兄」

「ありがとう、うれしいわ」

 イズミはセンが自分を一番好きと言ってくれたことがとても嬉しかった。

「でもね、セン。私たちがいくら京兄様を好きでも、京兄様は私たちをどう思っているかわからないわ」

「京兄が僕たちを?」

「そう、あの百合叔母様の子よ、妹としか思っていないかも知れない」

「?」

「でね、今度京兄様が戻ってきたとき、二人で告白しましょう」

「告白?」

「そうよ、お嫁さんにして下さいと告白するの」

「どうして、急にそうなる?」

「京兄様は4月から東京の高等学校に進学されるかも知れないのよ。京兄様が東京に行かれたら、今までみたいにすぐ会えるわけではないのよ。調子さんと話していて思ったの、貴族の人は子供の頃から婚約者が決まっていると聞くわ。京兄様も東京に行ったら婚約者が出来るかも知れない。私たちはしがない旅館の娘よ、東京の貴族様に適うはず無いわ。だから今のうちにお兄様の気持ちを聞いておきたいの」

「東京に行ったら、京兄の側にいれなくなる?」

「そうよ。もしかしたら、二度と会えないかも知れない」

「それは嫌だ!」

「だから告白するの。私を選んでもらえたら一番いいのだけど、東京の女よりセンの方がまだ私としては許せるの。だから二人で京兄様に告白するのよ」

「なんと言って告白するの?」

「そのまま『お嫁さんにして下さい』と言うのよ」

「・・・わかった」

「良かった。じゃ京兄様が戻ったらね。約束よ」

 そう言うと、イズミは自分の部屋に戻っていった。

「僕が京兄のお嫁さん?」考えたことのない話にあれこれ考えて、その晩センは寝つけなかった。



 8


 次の日の夕方、伊助は京の迎えを頼まれたので、稽古に参加することを免れた。センは相変わらず、ワンテンポ速く動いて注意を受けていた。

「はい、今日はこれまで」

 女将がパンパンと手を叩いた。

「終わった~」

 ホッとしたようにセンは畳に座り込んだ。

「セン!まだ終わってませんよ」

 女将が言った。

「はい?」

 キョトンとした顔で女将を見上げると、

「今日はお兄様が帰ってくると聞きましたので、この3日間の成果をお兄様に見て頂きます」

 センを見下ろして女将がにっこり笑った。

「えーっ!」

 驚くセンをイズミと調子が両脇に抱えて、二階に連れて行った。

「な、何をする!」

「みんなでお化粧をして踊るのよ。センもよ」

 イズミは楽しそうだ。

「イズミちゃんはお化粧したことある?」調子が聞いた。

「母様に少し教えてもらったことがあるわ」

「じゃあイズミちゃんはハルちゃんと一緒にお化粧をしてね」

「わかりました。調子さんはセンをお願いします」

「僕は化粧なんてしなくていい!」

 騒ぐセンを夕日のあたる窓際の椅子に座らせると、

「今日だけ、少しだけの辛抱だから」と調子はセンをなだめながらお化粧を始めた。

 白粉をつけて、いつも浅黒い肌を白くして、頬に紅をさし口紅をつけた。

「センちゃん、かわいい!」

 調子が感嘆の声を上げた。

 センはふくれっ面をしていたが、くっきりとした目が印象的な美少女に仕上がっていた。

「セン、見違えた!」

 イズミもセンの変わりように驚いた。

「これはうかうかしてられないわ」イズミがボソリと呟いたのは誰も聞いてなかった。

「ちょっと待っててね。カツラを持ってくるから」

 調子は奥にカツラを取りに行った。

 椅子に座って何気なく窓の外を見ていたら、道の向こうに京の姿が見えた。京はセンに気付くと一瞬驚いた顔をしたが、にっこりと笑って手を振った。

「京兄に見られた」センが慌てたように呟いた。

「京兄様が帰ってきたの?」

 イズミが窓辺まで来て外を覗くと、伊助が京と西園寺を連れて来るのが見えた。イズミはハルを連れて階段を降りていった。

「センちゃん、お待たせ」

 奥から調子が、長い髪のカツラを持って現れた。

「あら、イズミちゃんとハルは?」

「下に迎えに行った」

「まあ、お兄様が来たのね。着物に着替える時間は無いから、カツラだけ付けましょう」

 調子はセンにカツラをつけて言った。

「出来たわ、センちゃん綺麗ね」

 うっとりするような顔をして言われたので、センは恥ずかしくなり窓の外に目をやった。その時、目の端にイズミの姿が映った。

「イズミ!」

 慌てて椅子から立ち上がると、部屋を飛び出し、階段を二段飛びで降りた。

 ドタドタと降りる音に座敷にいたみんなが出てきた。

「セン!どうした!」

 京が聞いた。

「イズミがさらわれた!」

「えっ!」

 一同が驚いてまわりを見回すと、イズミの姿は何処にも無かった。

「伊助!旅館に戻って父さんにイズミのことを知らせて!それから西園寺!ここで調子さんを守っていて!」

 センは西園寺にそう言うと表に飛び出した。その後を京が追った。

 センは通りかかった佐の助を呼び止めてイズミを見なかったかと聞いた。イズミがさらわれたと聞いた佐の助は、自分も手伝うと言って、セン達とは違う方向に走っていった。


 


 イズミの意識はまだ覚醒していなかった。ぼんやりとした頭の中にボソボソと話し声が入ってくる。

「兄貴、後2刻もしたら夜明けですぜ。どうします?」

「どうしますと言われても、仕方ないだろう」

「なんでこんなに警備が多いんでしょうね?」

「俺たちがこの子を攫ったからだろう」

「今までこんなこと無かったですよね」

「今までは目をつけた子を適当に攫ってたけど、今回はご指名だからだろう」

「と言うことは」

「さらったこの子を攫ったのが悪かったと言うことだよ」

「じゃあ俺たち捕まってしまうんですか?」

「わからない」

「お頭はなんと言っているんです?」

「お頭とも連絡取れないんだ。俺たちはここから動けない状態だ」

「じゃあ、この子を逃がしたらどうですかい」

「そんなことしたら、俺たちが殺される」

「どうして?」

「お頭が言ってたんだ。依頼人は危ない奴だと。失敗したら殺されると言っていた」

「えーっ!めちゃくちゃヤバイじゃないですか!」

「しっ!もっと小さい声で話せ。目を覚ましたらどうする」

 イズミは人さらいの話を聞きながら自分は何故ここにいるのだろうと考えていた。あの時、京兄様と西園寺を迎えに出て、玄関の戸を開けて「座敷で待っていて下さいね」と言って表を見たら、格子戸が開いたままになっていた。格子戸を閉めに表に出たところで目の前に白い物が急に現れて口を塞がれたら意識がなくなった。不注意だった、久しぶりに京兄様に会えたので嬉しくてまわりに注意してなかった。私のミスだ。今頃みんな心配して探してくれているだろうな。

 ところでここは何処だろう。焼け焦げた匂いがする。

 イズミは動こうとして、手足が縛られていることに気がついた。口は猿ぐつわでしゃべれない。

「おい、目が覚めたか?」

 野太い男の声がした。蝋燭の明かりが近づいてくる。

「お前のおかげで、俺たちは大変な迷惑をしているんだ」

 イズミはそんなこと、私は知らないと睨み返した。

「かわいい顔をして、そんな目するなよ!」

 男は片手のナイフを見せながらもう一方の手でイズミの頬に触れようとした。イズミは触られまいと顔をそむけた。

「おい、止めとけ」

「兄貴、ちょっと触るくらいいいじゃないですか。こんなかわいい子は久しぶりですぜ」

「止めとけ、その子に手を出したら、首が飛ぶぞ」


 イズミはどうやらこの男達は私に危害を加えることを禁止されているらしい。少し安心した。そこでまわりを確認することにした。焼け焦げた箱の隙間から、天井近くにひび割れた穴が見える。ここはいつも遊びに使っているあの倉庫だ。カイリが閉じ込められていたあの倉庫だと思った。穴の向こうは漆黒の闇が広がっている。

 私はどのくらい気を失っていたのだろう。そういえば後2刻で夜明けと言っていたような・・・。みんな心配しているだろうな。センはどうしているかな・・・。そんなことを考えていると、遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「兄貴、どうしたんです?」

「しっ!蝋燭を消せ!」

 声はだんだん近づいてきた。

「イズミーっ!」

 多くの声に雑じってセンの声が聞こえた。私を呼んでいる。

「くそっ!定期的に巡回してやがる」

「心配するな、ここには大丈夫だ」

 兄貴分らしい男が、もう一人の男を宥めた。

「どうしてそう言い切れるんです?」

「ここは一度調べられている。一度調べたところはそう何度も調べない」

「そんなもんですかい」

 近づいた声が遠ざかる。

 男達は蝋燭を点けた。

 イズミは声が出れば外に聞こえると思った。口元が自由になるように、頭を少しずつ動かして猿ぐつわの結び目を緩めた。再び声が近づいてきたので叫んだ。

「セ・・・!」

「おい、止めろ!」気がついた男がイズミに飛びかかった。

 鋭い痛みが脇腹を襲った。刺されたと思った。あまりの痛みにイズミの意識は遠のいた。


「おかしいな?」

 夜通しイズミを探していたセンがキョロキョロしながら呟いた。

「どうしたセン」

 隣にいた京がセンの様子に気がついた。

「イズミの声が聞こえた気がしたんだけど・・・」

 センと京と伊助の三人がグループになってイズミを探していた。

 センは倉庫街でイズミの声が聞こえたような気がした。

「あの倉庫を覗いてみたい」

「あの倉庫って?」

「カイリが捕まっていた倉庫」

「あの倉庫は閉鎖したと聞いているよ」

「でも・・・」

 三人で話しているところに、萬と町内会のグループが寄ってきた。

「どうした?」

 萬が声をかけた。

「センがこのあたりでイズミの声がしたそうなんです」

「どの辺りかわかるか?」

「あの倉庫のところ、でも今は聞こえないんだ」

「あの火事のあった倉庫か?」

「うん」

 センと萬がそんな話をしていると、町内の一人が言った。

「あの倉庫は最初に見たけれど誰もいなかったよ」

「やはり気のせいだったのかな・・・」

「イズミのことが心配で、風の音がイズミの声に聞こえたのかも知れないよ」

 萬の言葉にセンは「そうかも知れない」と思い、別のところを探しに行った。

 町内の人が最初にこの倉庫を探したのは間違いではなかった。人攫いの男達は逃走経路を塞がれて行き場がなくなり、町内の人が調べた後に、たまたまその場しのぎで倉庫に入ったのだった。


 ポンポンポンと船の音が聞こえる。

 どのくらい経ったのだろう。イズミは目を開けた。

 倉庫の扉が開いていた。外は薄闇が広がっている。もうすぐ夜明けだと思った。

「帰らなきゃ」

 そう呟いて起き上がろうとした。脇腹に鋭い痛みが走る。そうだ私は刺されたんだ。イズミのまわりに血だまりが出来ている。感覚的に傷は深いと感じた。傷口からはまだ血が出ていた。踊りのために締めていた帯が止血の役目をしてくれたようだ。

 縛られていた手足の縄は外されて自由になっていた。

 イズミは痛みをこらえてヨロヨロと立ち上がった。

 男達の動く気配はなかった。

 私を刺したので、逃げたのかも知れないとイズミは思った。

 センが呼んでいる。そんな気がした。

 よろけながら倉庫を出た。船だまり沿いの道をフラフラとよろけながら家に向かって歩いた。

 イズミの歩いた後には点々と血痕が落ちていた。

 センが待っている。その思いだけがイズミを動かしていた。

 八幡様の階段までたどり着いた。苦しい息をしながら一段一段階段を上がる。

 やっとの思いで上まで登り、石柱を支えに階段に腰を下ろした。

 もう少し歩けば家に帰れる。そう思ったがもう身体が動かなかった。

 空が白み始めていた。

 海が見える。対岸の街に夜明けが訪れていた。

「セン、夜明けだよ。最後にセンに会いたい」

 薄れる意識の中でセンに会いたいと願った。

「イズミ!」

 センの声が聞こえた。

 階段の下にセンが大きな目を見開いて立っているのが見えた。

 センに会えた!

「セン、私もセンが一番目に好きだよ」

 そう呟くとイズミの意識は落ちていった。目は閉じられることなく最後までセンを見つめていた。

「イズミ・・・」

 センは自分を見つめるイズミの目から光が消えたのがわかった。イズミは旅立ったのだとと思った。センはイズミを見つめたまま動けなかった。

 センは無意識に手を伸ばした。しかし、有るはずの京の手はそこにはなかった。イズミの元に向かっている京の背中が見えた。

「行かないで・・・」

 突然センの心は不安と悲しみに溢れた。不思議な感情だった。息が出来ない!センはその場に崩れ落ちた。


 階段の石柱に寄りかかり、美しい少女は日本人形のように座っていた。薄く開かれた目は海を見ているようだった。サーッと風が吹いてどこからか飛んできた桜の花びらが舞った。花びらに浮かぶ、美しい少女は微笑んでいるように見えた。

 イズミは息をしていなかった。

 萬、京、伊助そのほかイズミを探すのを手伝ってくれた人々が少女のまわりに集まった。

「イズミ!」

 萬が泣きながらイズミを抱きしめた。伊助も泣いていた。

 京はそこにセンがいないことに気がついた。

 階段の下を見ると、ぐったりしたセンを佐の助が抱きかかえていた。

 京は慌ててセンのところへ行った。

「イズミの死にショックを受けたのでしょう。京さんあなたがセンを守らなくてどうするんです」

 センを京に渡しながら佐の助が言った。

「ありがとう」

 佐の助に礼を言いセンを抱いて、京は階段を上っていった。



 10


 センは夢を見ていた。

 センもイズミもまだ小さくて、百合と五紀もいる。

 二人はエンドウ豆の身を出す手伝いをしている。

「ねえ、セン」

「なあに、イズミ」

「私、大きくなったら大好きな京兄様のお嫁さんになるのよ」

「えっ!」

「だからセンは京兄様を好きになってはダメよ」

 センはしばらく考えてから、

「わかった!じゃあ私は京兄様の弟になる!それならいいよね」

「女の子は弟になれないのよ」

「だって、私も京兄様好きだし、イズミも好きだから、二人とも好きなときはどうすればいい、私が弟になったらずっと二人の側にいることができるでしょう」

「ふふふ、京はもてるのね」百合と五紀が二人のやりとりを笑って見ていた。


 夢は続く、

 センは少し大きくなっていた。

 百合とセンの二人がいた。

「ねえ、母様」

「なあに」

「僕、兄様の弟になったけど、時々イズミが羨ましくなるんだ。どうしてだろう?」

「ふふふ、今はまだそれでいいのよ。その気持ちを大切にしなさい。もう少し大きくなって、本当に好きな人が出来たらいろいろなことがわかるようになるわ。それにね、センには特別な騎士様がいるのよ」

「騎士様?」

「爺様が言っていたの。センにはいつか騎士様が現れるって。そして、センの気持ちと騎士様の気持ちが同じなら契約の儀式をするのよ」

「契約の儀式?」

「それはね・・・」


 センは目を覚まさない。

 京はセンの寝顔を見ながら、佐の助に言われたことを考えていた。

「僕がセンを守る?」

 いつだったろう、子供の頃爺様とそんな話をしたことがある。

 センの寝顔は汗でお化粧が崩れてドロドロになっていた。

 昨日、夕日を浴びて化粧をしたセンを見たとき、センの美しさにビックリした。知らない間にセンは美しい女の子になっていた。その時京は驚きとともに喜びを感じた。

 妹だから好きだと思っていた。でも今は愛おしいと思う。この気持ちは何だろう。

 京は戸惑っていた。イズミが死んで、思考がおかしくなっているかも知れないと思った。

「京兄さん、変わりましょう」

 伊助が部屋に入ってきた。

「大丈夫だよ、センは僕が見てるから。伊助も夕べから寝てないだろう。部屋に戻って寝なさい」

「でも・・・」

「今夜はお通夜だから、今のうちに寝てた方がいいよ」

「わかりました。すみませんセンのことお願いします」

 伊助は部屋を出て行った。

 京は水を持ってきて、センの顔の化粧を綺麗に拭いた。


 センは目を覚ました。

「気がついた?」

 心配そうにセンを見る京がいた。

「あれ、僕どうして寝てるの?」

「まる一日寝ていたんだよ。大丈夫?」

「うん、イズミは?」

「イズミはダメだった・・」

「えっ」 

 センはイズミを見つけたときのことを思い出した。

「僕はイズミが僕を見ながら旅立っていくのがわかった。もう少し早く見つけていれば・・・」

 センの呟きに、京が答えた。

「早い遅いは関係なかったみたいだよ。イズミの傷はとても深くて、そのまま死んでいてもおかしくなかったらしい。あそこまで動けたのが不思議だと医者が言っていた」

「今どこにいるの」

「下の座敷で寝てる」

「わかった」

 センは下に行こうと起き上がった。いつもより髪が長く頭がおかしく感じた。触るとまだカツラを着けたままだった。センは無造作にカツラを外そうと引っ張ったが、もつれた髪が地髪と絡まってなかなか取れなかった。

「カツラを着けたままだったね」

 京も初めて気がついた様子で、センを手伝って丁寧にカツラを外した。

 そして驚いた。

「セン!」

「なに?」

「髪が白くなっている!」

「えっ!そんなはずないよ。昨日まで黒かったから」

「そうか、カツラで蒸れて色が抜けてしまったのかも知れないね」

 京は戸惑いながら聞いた。

「どうする、このまま降りる?」

「ん、イズミに早く会いたい」

 センは起き上がると、そのまま下に降りていった。


 センが下の座敷に入ると、そこに居た全員がセンの髪を見て驚いた。

「セン!お前の髪!」

 萬が絶句した。

 センは何も言わずイズミの前に行って座り込んだ。

 イズミは化粧をして、綺麗な着物を着て布団に寝かされていた。本当に眠っているようだった。

「イズミ、目を覚まして」

 センが話しかけても、目は閉じられたままだった。

 悲しいのに、とても悲しいのにセンは涙が出なかった。

 その場にいた人達は何も言わず、センとイズミを見ていた。

 部屋の端で萬と京が話していた。

「センのあの髪はどうした?」

「イズミのことがショックだったみたいで、色が抜けたみたいです」

「もともと白髪の多い髪だったが・・・」

「そうですね」

「左衛門爺さん譲りかな。爺さんは若いときから白かったと言うから」

「イズミの死が相当ショックだったのでしょう。ほら見て下さい、泣くわけでもなく表情のない顔でイズミを見ています。何かの本で読んだことがあります。精神的ショックで白髪になる人がいると書いていました」

「治るのか?」

「人によると思いますが、落ち着いてきたら戻ると書いてありました」

「そうか、後で医者に診てもらおう」

 萬は京の説明に納得すると、驚いている人たちのところに行って、京から聞いた話を伝えた。

 萬には知らせていないが、センは生まれつき髪の色は白銀だった。

 知っているのは、爺様と百合と五紀とイズミそして京と本人の六人だけで、赤子の頃から黒く染めて隠していた。時々染めむらが白髪のように見えていた。カツラを着けたまま夜通し走り回ったので、蒸れて色が抜けたのかも知れないと京は考えた。

 センはイズミの側から動こうとしなかった。


 置屋「小湊」の女将とハル、西園寺蓮二郎と調子が弔問に訪れた。

 みんなセンを見て驚いたが、萬と京の説明に納得したようだった。

 焼香を済ませた後、調子はセンの隣に座り、センの手を握ってそのまま一緒に座っていた。センは調子に手を握られたことに気づいていないようで、ぼんやりとイズミを見ていた。調子も黙ってセンの隣でイズミを見た。

 萬は女将を部屋の隅に呼んだ。

「女将こんな時になんだが、先日も話したように、調子さんをうちで引き取りたいんだが」

「そうだね、イズミがこんなことになって・・・センを見てると誰か側にいた方があの子のためにもいいと思う。センの為にも調子は萬さんにお願いすることにします」

「ありがとう、女将」

「いえ、私も預かったてまえいろいろ心配していたけれど、萬さんなら安心して任せられます。こちらこそ宜しくお願い致します」

 女将と萬の話で、調子は萬が引き取ることになった。

 女将はハルを連れて帰っていった。


 夜になり通夜が始まっても同じ姿勢でイズミの側にいた。

 弔問に来た人々はイズミの死に涙し、そしてセンの髪に驚いた。萬からショックで白髪になったと聞いてまた涙した。

 弔問客もいなくなり、宿の従業員だけが残った。

「みんなありがとう。明日は忙しくなると思うので、今夜はもう休んでくれ」

 萬は礼を言って、みんなを帰した。

 残ったのは、センと調子、萬と京と西園寺蓮二郎、伊助と両親の成治と八重の八人だった。

 伊助が目を真っ赤に腫らして座っていた。センに話しかけようと何度か試みたが、センは自分の世界に閉じこもったままで、聞こえていないようだった。

 萬と京と蓮二郎が部屋の隅で話していた。

「西園寺君、君と一条正の関係を教えてもらっていいかな」

 萬が聞いている。

 センの耳に“一条正”という単語が入ってきたので、意識が萬の話に向いた。

「一条正氏は、僕の後見人です」

「後見人?」

「一条正氏は僕のお婆さまの兄になります」

「ほう・・・」

「3年ほど前、父が友人の借金の保証人になり、多額の負債を背負わされて自殺しました。母は僕が幼少の頃亡くなっていたので、身寄りの無くなった僕に、大伯父である一条正氏が後見人を申し出て下さったのです。当時いろいろなことが重なって、精神的に疲れていた僕を、横浜から遠ざけた方がいいと考えた大伯父が、僕をこちらの中学に通えるようにして下さいました」

 センの手を握っていた調子の指に力が入った。

 センはその時調子に手を握られていると気がついた。横を見ると調子が唇を噛んで下を向き、泣きたいのを必死で我慢しているように見えた。

 センはイズミが死んだいま調子の気持ちが手に取るようにわかった。調子は泣きたいのに泣けないんだ。

 センはおもむろに調子にだきついた。

「僕はまだ泣けないけど、調子さんはもう我慢しなくていいよ。僕が受け止めてあげるから泣いていいよ」

 センは調子の耳元でそう語りかけた。

 調子がビックリした顔でセンを見た。

「ずっと一人で抱えていたんでしょう。誰かに頼りたかったんでしょう。調子さんも今日からうちの家族になるんだから、僕たちの前では泣いてもいいよ」

 優しく語りかけるセンに、調子の目から涙が溢れた。調子は泣いた。嗚咽を漏らしながら涙を流して泣いた。センは調子の背を子供をあやすようにトントンと叩きながら優しく抱いていた。

 調子の様子に驚いた三人が寄ってきた。

「センが泣いてるかと思ったら、調子さんどうした?」

 萬が心配そうに覗き込んだ。

「おい、西園寺!」

 センは蓮二郎を指さした。

 呼び捨てにされた蓮二郎はむっとした顔でセンを見た。

「お前、昨日と言い、僕に対して失礼じゃないか!」

「西園寺!調子さんの婚約者だろう。どうして彼女を守ってあげなかったんだ」

「婚約者!」萬と京が同時に叫んだ。

「親同士が決めた婚約だ!」

「それでも、好きだったのだろう?」

「そうだよ。好きだった!」

「じゃあどうして手を離したんだ!」

「あの時は、僕にもいろいろあって余裕がなかったんだ」

「今は守れるか?」

「守れるか、とは?」

「今でも好きかと聞いているんだ!」

「・・・」

「どうなんだよ!」

 調子が涙を拭いて、

「いいのよセンちゃん、ありがとう」

「よくないよ、一番いて欲しいときにいなかったんだぞ!」

「違う!あの時、僕と父は調子さんを引き取るつもりだったんだ!」

「えっ!」

「調子さんを受け入れる準備をしている時に、父が負債をかかえて、一条の伯父さんに相談に行ったけれど取り合ってもらえず、父は自殺したんだ。葬儀が終わって調子さんを探したときはもう横浜にいなかった。僕は少しおかしくなっていたと思う。そんな時、一条正氏が

 横浜を離れてみないかと言ってきた。僕は横浜から逃げたかった。だからその話を受け入れてこっちに来たんだ。調子さんのことは忘れたことはなかった。初めてイズミちゃんの顔を見た時はとても驚いたんだ。奏子ちゃんにそっくりだったから。もしかしたらこの子は調子さんのことを知っているかも知れないと思ったんだ」

 ほとんど独白のように、蓮二郎は一気に話した。

「そうかわかった。聞いてた?調子さん」

 センは抱いていた調子を離すと、蓮二郎の方に押し出した。

「いろいろ誤解があるみたいだから、二人で話してみたらいいよ」

 蓮二郎と調子は気恥ずかしそうに見合うと、二人で部屋の隅にいった。

 萬と京が呆れて見ていた。

「さてと、イズミ騒がしくしてごめんね」

 センはイズミのところに戻って座った。

「セン」

 伊助が声をかけた。

「今夜は伊助も一緒にイズミと語ろう」

 今度は伊助の声は届いたようだった。二人は黙ってイズミの側に座った。


 夜遅くなって、車屋の婆様と佐の助が弔問に来た。

 イズミに手を合わせると、センをチラリと見て、萬のところへ行った。

「今回は大変だったねぇ。綺麗な顔をして、もったいないねぇ」

「夕べからどうもありがとうございます」

 萬が礼を言った。

 婆様は街中の車屋仲間そして警察にイズミの捜査の手配をしてくれていた。

「いや、残念な結果になって申し訳ない」

「婆様が手を回して下さったので、遠くに動かされずに助かりました」

「警察が言ってたよ。イズミはあの倉庫で刺されたみたいだね。八幡様まで血が点々と続いていたそうだ。検視した医師があの傷でよく動けたものだと言っていたよ」

「そうですか。ところで誘拐犯はみつかりましたか」

「ああ、同じ倉庫中で殺されていたよ」

「えっ!」

「警察は大事にしたくないので、仲間割れで差し違えたと発表する予定だが、あの殺し方はプロだね。心臓を一突きだそうだ」

「プロですか」

「上がいるんだろう。私は商品に傷をつけたから、殺されたと見ているよ」

「そうですか」

「ところで、センのあの髪何とかした方がいいよ」

 婆様がセンを指さした。

「ショックで白くなったとは言え、黒くなるまで待つしかないと・・・」

「ばかだねぇ。カツラなり、染めるなり何とかしなよと言っているんだよ」

「わかりました、早急に考えます」

「わかればよろしい、じゃあ私は帰るからね。あんたも気をつけるんだよ」

 婆様はそう言って帰って行った。

「カツラか」

 京は立ち上がると部屋を出て行った。しばらくして長い髪のカツラを持って戻ってきた。

「それはどうしたんだ?」

「昨日センが着けてたカツラです」

「センが?」

「何でも稽古した踊りを僕らに見せてくれるとかで、カツラを着けたみたいです」

「そうか、間に合わせにそれを使おう」

「ちょっと長いので、少し切りましょう」

「セン、ちょっといいか」

 京はセンに声をかけた。

「なに?」

「婆様が髪が元に戻るまで、カツラか染めるかしなさいと言っていたから、昨日のカツラを持ってきたけど、長すぎてもつれているので、センに合わせて切ろうと思うんだけど」

「髪?ああ、そうだった」

 センは髪のことはすっかり忘れていたようだ。

「私がお手伝いしましょう」

 調子が近づいて来た。

 京からカツラを受け取ると、調子は懐の巾着から串を出して梳かし始めた。カツラについていたピンを一つ一つ外しながら丁寧に梳かした。梳かし終えると、センの頭にカツラを着けた。そして、京から鋏を受け取り切る前にセンに聞いた。

「どの長さがいい?」

「んー、なんか下手に切ると小さな子供みたいになりそうな気がする」

「ふふふ、そうね」

「肩くらいに切って、後ろで結ぶように出来る?」

「出来ると思うわ」

「じゃあそれでいい」

 調子は肩の高さで髪を切りそろえ、紐で結んだ。

「おお、うまく出来たじゃないか」

 萬が言ったので、何故かみんなが笑った。


 葬儀の朝は、棺にイズミの日本人形を入れる入れないで、萬とセンの言い合いから始まった。

「イズミのご両親の形見なんだから一緒に持たせてあげなさい」

 萬が言い含めるように言っている。

「嫌だ!これは僕がイズミの形見として貰う」

 どちらも譲らないので、京が仲裁に入った。

「センはどうしてその人形が欲しいの」

「この人形はイズミなんだ。僕がイズミに聞きたいことをこの人形に話しかけると答えてくれる気がする。だから僕はこの人形を貰いたい」

「どうする?父さん」

「センがそれほど言うのなら、センが持っていなさい。その代わり大事にするんだぞ」

 萬が折れた。

 その後葬儀はつつがなく執り行われた。



 11


 時は止まることなく、日々を刻んでいる。

 蓮二郎は下宿をでて、今は羽瀬川旅館に宿泊している。

 調子も萬の養女にこそならなかったが、羽瀬川家の家族になった。

 蓮二郎と調子は誤解が解けたようで、最近は二人仲良く話していることが多かった。


 あるおぼろ月夜の晩、羽瀬川旅館の従業員と蓮二郎と調子は夜桜を見に出かけていた。

 センはまだそんな気分になれないと自分の部屋に籠もったので、萬と京も出かけないで旅館に残っていた。

 久しぶりにのんびりした夜だった。

「お前は、東京の高等学校に行くつもりなのか?」

 萬が京に聞いた。

「先日東京に行って驚きました。やはり帝都東京はすごいです。情報が溢れています。僕は多くのことを知らなければいけないと思いました」

「それで?」

「東京に行こうと思っています」

「敵地に乗り込むのか。何があるかわからないぞ」

「覚悟の上です」

「そうか、京が決めたのならそれでいい」

「それから、父さんにお願いがあります」

「お願い?」

「センを僕にください」

「は?」

「僕はセンもイズミも同じように妹として好きだと思っていました。でも違ったんです。不謹慎ですが、イズミが死んだとき、自分でも驚きましたが、センでなくて良かったと思ったんです」

「・・・」

「初めは気の迷いだと思いました。でもセンが調子さんの事で蓮二郎に言っているのを聞いて、僕が守りたい人と考えた時、センしかいないと確信しました」

「センには言ったのか?」

「いいえ、センは僕を兄のように慕ってくれています」

「それ以上の気持ちを持たなかったらどうする?」

「その時は、それでもいいと思っています」

「そうか、覚悟はあるんだな」

「はい、だから僕にセンをください」

「いいだろう。お前の好きなようにしなさい」

「ありがとうございます」

「さて、私も花見に行くとするかな」

「行かれるのですか」

「夜風に触れて考えたいこともある」

 萬はふらりと出かけていった。


 京は萬が出かけたので、表玄関に鍵をかけて2階の自分の部屋に上がった。

 障子を開けて中に入ると、暗い部屋の中にセンが座っていた。

「セン!どうした?」

 京はビックリして部屋の電気を点けようとすると、センは点けないでそのまま聞いて欲しいと言った。

「僕、兄様に言わないといけないことがある」

「僕に?」

「イズミと約束した」

「イズミと?何を?」

「京兄が東京に行く前に、イズミと僕が告白すること」

「告白?」

「イズミは京兄に『結婚して下さい』と言うと言っていた」

「えっ」

「僕にも同じように言うように言われた」

「それで、センはなんと答えたの」

「その時は、まだ僕は京兄は好きだけど、結婚とか考えたことなかった」

「それで」

「今でもよくわからないけど、イズミが死んだ時、京兄がイズミのところに行くのを見て嫌だと思った。側にいて欲しいと思った」

「・・・」

「僕は兄様が好きです。イズミの次に好きです。イズミがいなくなった今、僕には京兄しかいない。僕のことだけ見て欲しいと思う。結婚とかわからないけど僕だけの騎士様になって欲しい」

 京は思わずセンを抱きしめた。

「京兄?」

「いいよ、セン。僕は君だけの騎士様になるよ」

「本当に!ありがとう」

 センはゆっくり立ち上がった。

「じゃあ兄様、契約の儀式をしょう」

「契約の儀式?」

「そう、母様から教えてもらったの。僕に好きな人が出来て、相手も同じ気持ちなら契約の儀式をしなければならないんだって」

 センは京に膝立ちするようにお願いした。

「ちょっと恥ずかしいから目を閉じて聞いていてね」

 京は目を閉じた。

 センは京の額に手を置いた。

「サエモンナールの王女の名に於いて、この愛が永遠であることを誓います」

 そう言って、センは自分の唇を京の唇に重ねた。

 京が驚いた表情で目を開けた。

「母様が教えてくれたの」

 恥ずかしそうにセンが答えた。

「そうか、次は僕の番だね」

 京は跪き直し、センの手を取って言った。

「サエモンナールの騎士の名に於いて、この愛が永遠であることを誓います」

 京は恭しくセンの手に唇を当てた。

「兄様は騎士様なの!」

「爺様に騎士にして貰った時、教えてもらったんだよ」

「嬉しい!」

 二人は再び抱き合い、今度は京がセンの唇に唇を重ねた。


12


「ねえ母様、契約の儀式って?」

「それはね、センに大好きな人が出来て、その相手は騎士さまでないといけないのだけど、その騎士様もセンのことが大好きだったらこう言うのよ『サエモンナールの女王の名に於いて、この愛が永遠であることを誓います』」

「サエモンナールって何?爺様のこと?」

「爺様のお国だそうよ」

「ふーん、じゃあ愛ってなあに?」

「愛は大好きってことよ」

「そうなんだ、大好きなんだね」

「それからね」

「まだあるの」

「誓いますと言った後に、キスをするの」

「キスってなあに?」

「センの唇と騎士様の唇を重ねるのよ」

「そうしたらずっと好きでいられるの?」

「そうよ」



「ねえ爺様」

「おや京、どうしたんだい」

「僕、あの白い髪の子が好きなんだ」

「おやおや、京はおませだね」

「それでね、母様に言ったら、あの子は騎士様でないとダメなのよと言われたんだ」

「それで?」

「僕、騎士様になりたいんだけど、僕でもなれる?」

「二人女の子がいるけど、髪の白い子が好きなの?」

「うん、白い子が好き」

「あの子の何処が好きなんだい?」

「なんか守ってあげないといけない気がするんだ」

「京は守ってあげられるのかな」

「うん、守ってあげる。だから騎士様になりたい!」

「そうか、では騎士様にしてあげよう。私が居なくなったら、京があの子を守るんだよ」

「うん、わかった」

「そしたら騎士様の証に京にこの指輪をあげよう。これは私の後継者と言うことだよ。絶対無くしたらいけないよ。それとこのことは誰にも言ってはいけないよ。爺と京との約束だ」「母様にも?」

「そうだ、父様にも母様にも誰にも話してはいけないよ」

「わかった。誰にも言わない」

「大きくなって、もしあの子が京のことを好きになって「契約の儀式」をしたら、こう返事をするんだよ『サエモンナールの騎士の名に於いて、この愛が永遠であることを誓います』覚えたかな」

「うん、覚えた」

「じゃあ、約束したよ」

「うん、約束した」


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[良い点] おもしろいです! また読ませていただきます!!! [一言] 是非、私のも読んでみてください!
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