第4π ランジェ・リーの酒場
日が落ち始め、地平線に沈む太陽が赤く輝いている。しかし、辺りは薄暗くなりながらも、仄かなピンク色に染まっていった。
空の様子がおかしいな、と灰次は空を見上げると、そこには桃色の奇妙なものが浮かんでいた。縦長に伸びた空の裂け目のように見える。その裂け目とその周辺がピンクで縁取られ、光を放っているのだ。
それはまるで、空に浮かぶ女性器の様であった。
「な、なぁ、あれは一体なんだ?」
灰次は空を指差し、メークル達に訊いた。
「ん? あれがどうした?」
メークルはきょとんとした顔をしている。
「あの、空に変な裂け目があるじゃないか。しかも、なんか卑猥な感じの……」
「ふむ。ハイジの世界には無かったのかしら? あれは境界の歪で、紅破と呼ばれているわ」
ベルが説明する。
「ク、クパァ?」
灰次は照れ笑いをしながら鸚鵡返しで訊いた。やはり卑猥だ。
「そう。夜はあの紅破の光が闇を照らしてくれているのよ。あの裂け目から、私たちを含む生命が生まれたとも言われているわ」
「へえ。女性器みたいな形ですからね。そりゃ、生命も誕生しそうですね」
「まあ、そうね。女性器に似ているから、そういう伝承も生まれたのかもしれないわね。夜の薔薇とも呼ばれているけどね」
女性器を上品に薔薇と例える人もいるからな、と灰次は納得する。
するとクレアが口を挟んだ。
「ハイジ、お前の世界には紅破がないのなら、夜は暗闇なのか?」
「いや、クパァの代わりに月が出たよ」
「月?」
「ああ、黄色く丸い天体でね。太陽の光を反射して淡く光るんだ」
「ふーん。卵の黄身みたいなのが空に浮かんでいるのか……」
「まあ、そんな感じだ」
実際の所を説明しても、月が無い世界の人間に説明できる気がしなかったので、灰次は頷いた。
そうこうしている内に、夜空に無数の星が瞬き始めた。
この世界にも星は存在するらしい。クパァも何かしらの天体なのだろうと灰次は思った。
*
再び小型魔導飛空艇でベルの家まで戻った。
ベルは安楽椅子に腰を掛け、パイプに火をつけて一服を始めた。
「そういえば、ハイジはどこか泊る当てはあるの?」
煙を吐きながらベルが訊いた。
「いえ、この世界には俺の家は無いし、お金も無いので……」
「そうよね。私の家は魔導具でいっぱいだし、どうしようかしらね」
ベルはちらりとメークルを横目で見た。メークルは少し気の進まないような顔をしながら頭を掻いた。
「まあ、仕方ないですね。ハイジを拾ってきてしまったのは私だし、面倒見ますよ。
従兄弟のランジェが酒場をやってるから、私が頼めば住み込みで働かせてもらえるかもしれない」
「ランジェのお店か。上に部屋が幾つかあるって聞いたことがあるけど、どうかしらね。もし、駄目だったらうちの庭の片隅にテントでも張ればいいわ。野営グッズならあるから」
ベルはにこりと微笑んだ。
「じゃあ、ハイジ。ランジェの店まで行くわよ」
そう言うとメークルはドアの方へと進んだ。灰次は後ろに付いていく。
「では、先生。相談に乗って頂いてありがとうございました。失礼しますね」
メークルは振り返ってそう言うと、ベルは微笑みながら手をひらひらさせた。
メークルは再び小型魔導走行艇にまたがり、灰次は荷台に乗った。街はずれから中央部へと走り抜けていく。街は洋風の小綺麗な佇まいで、道も石畳で舗装されている。街灯のようなものが等間隔で設置されており、その下を人々が通り過ぎていく。魔導具と思われるランプで照らされた街は、思いのほか明るかった。
飛行機やバイクのような乗り物も存在し、街は整備されているようで、文明レベルは高いように思えた。
灰次は物珍し気に、かつ感心しながら眺めていると、賑やかな酒場らしき場所の前で停まった。ここがランジェのお店らしい。
「着いたぞ」
メークルが走行艇から降りると、荷台の袋から布で巻かれた耳の長い動物の死骸を取り出した。
「ん? どうした。ラビューンが珍しいのか?」
「その動物、ラビューンっていうのか?」
「ああ。ちなみに、この布は魔力が込められてて防腐作用がある」
「へぇ」
「それもモンスターなのか?」
「いや、違うよ」
「レッドベアはモンスターで、ラビューンは動物なのか。何が違うんだ?」
灰次の目にはどちらも動物の一種に見えた。
「モンスターと動物の区別は魔族の光を帯びているかどうかで判断する。たいていの場合、眼が光っていたらモンスターだ」
「そうなのか」
灰次はレッドベアの姿を思い出す。確かに、レッドベアの眼は赤く光っていた。
灰次も荷台から降り、スタスタと店に入っていくメークルを小走りで後を追うように店に入った。
店はなかなか広く、東京で出しても人気が出そうなお洒落な雰囲気だった。店内には数グループの客が談笑して酒を飲んでいた。客は入っているが、店の広さの割には多くは無いように感じた。しかし、比較対象が元いた世界の日本なので、この世界ではこの位が普通なのかもしれないと灰次は思った。
カウンター席まで行くと、とても美人な女性がいた。だが、あまり胸は大きくない。灰次の見立てではBカップと言ったところだった。女性はメークルに気が付くと、拭いていたグラスを置いて身を乗り出した。
「メークル、今日は遅かったじゃない」
「ごめんごめん、ちょっと色々あってね。はい、ラビューン三体だよ」
メークルはテーブルにラビューンの死骸を載せた。
「ありがとう。いつも助かるわ。はい、六〇〇〇ダール」
女性が紙幣を手渡すと、メークルは「まいど」と言って受け取った。
「ふーん。で、その方は?」
女性が灰次の方に視線を向ける。
「ああ、この男は森で倒れていたんだ。名前はハイジ」
「ハイジです。よろしくお願いします」
「私はランジェ・リー。よろしくね」
ランジェリー……。ということは、ここはランジェリーパブかと灰次は思った。
にやけそうになりながら、灰次は「はい」と返す。
「それで、急なんだけど、ハイジをこの店で住み込みで働かせてやって欲しいんだ」
「えっ。ここで?」
ランジェは驚いたように目を見開いた。
「駄目か?」
「いや、二階に空き部屋もあるし問題ないと言いたいんだけど、最近経営が厳しいのよね。従業員にはバーニィやメイもいるし……」
ランジェはフロアで注文を取っている女性らの方に目をやった。彼女らがバーニィとメイなのだろう。
「そんなに経営が厳しいのか?」
メークルが訊くと、ランジェは俯きながら曖昧に頷いた。
すると、カウンターに座っていた中年男性が話に割って入った。
「あれだろ、街の西の方に出来た激安酒場のせいだろう?」
「二ヶ月くらい前に出来た〈ゴール・デン酒場〉か」
メークルが中年男性の方を向いた。
「そうそう。かなり繁盛してる様子だぜ。酒も食い物はイマイチなんだが、なんと言っても激安だからな。酔えればいいって奴らも多いから、そっちに客が行ってしまっているのさ」中年男性は酒で赤くなった顔で上機嫌に語った。「でも、俺はランジェちゃんのお店の方が、酒も飯も美味いし好きだぜ」
中年男性は下手なウインクをランジェにしてみせた。
「ありがとうございます」
ランジェは微笑みながら返した。
「確かに、冒険者達の中でも最近は〈ゴール・デン酒場〉が人気の様だ。しかし、祖父の代から続くこの〈グロー・リー酒場〉も以前と比べれば客が少なくなったが、閑古鳥が鳴くほどではないから平気だと思ってたよ」
「ええ、まだ潰れるほどじゃあ無いのだけど。人を増やせるかっていうと微妙なのよね」
「そうか……。部屋だけ貸してやってくれないか。ハイジの手が空いてるときはこき使ってもいいし。家賃は一ヶ月二万ダールくらいで」
メークルが両手を合わせて頼んだ。ランジェは少し考えて「そうね、部屋は空いてるからいいわよ」と答えた。
「えっ。ちょっと待った。俺、金持ってないけど……」
灰次が慌てたように二人に言った。すると、気乗りはしていないが仕方ないといった表情でメークルが灰次の肩に手を置いた。
「ハイジは冒険者として働けばいい。暫くは私が指導してやる。もしもの時は強烈な魔法もあるしな。おっぱいを揉まれるのは正直嫌だが、緊急時の飛び道具としては使えるからな」
灰次は目を白黒させた。冒険者なんて自分に務まるのだろうかと不安になった。しかし、メークルのおっぱいが揉めるのならそれもアリかもしれないと、メークルのおっぱいの谷間をちらりと見て少しだけ思い直した。