第1話
悪いことというのは重なるものだ。
そういえば、今日は朝からついてなかった気がする。
携帯のアラームが鳴らなくて、確かめたら充電が切れていた。いつもの時間に起きられたから良かったものの朝の短い時間では充電しきれなくてモバイルバッテリーを学校に持っていく羽目になったし、その代わりと言ってはなんだけど出がけにバタバタしてしまったせいか今日は忘れ物が多かった。ペンケースを忘れたのなんて小学生以来のことで、友人たちには体調不良を疑われたくらいだ。授業では何度も当てられるし、トイレに行くと満員で、今朝慌てて鞄に入れたお弁当は中で傾いて汁が漏れていた。新学期早々、教科書に筑前煮の匂いがついてしまったのはさすがに悲しい。
テレビの占いコーナーで「今日の最下位は天秤座です」と言われた通り、今日のわたしの運勢は最悪なのだろう。「でも、素敵な出会いがありますよ」なんて笑顔で言っていたお姉さんをつい恨みたくなる。
そんな不運な一日の夕方、学校帰りのわたしに訪れたのはちっとも素敵じゃない“出会い”だった。
「ね、ちょっとでいいからさ。ビンボーなオレたちに金くれよ」
「珠洲女の制服着てるし、お嬢様なんでしょ? お嬢様だったら財布の万札をオレたちに譲ってくれるくらいわけないよねぇ?」
そう言って、自称募金活動中らしい彼らはじろじろとこちらを眺め回す。
わたしの通う珠洲風女学院がいわゆるお嬢様学校なのは事実だが、わたしの実家はそこまで裕福なわけではない。他の生徒と比べれば、の話ではあるけれど。せいぜい小金持ちといった程度か。
もちろん、お金の有る無しに関わらず、見ず知らずの相手に渡す万札はない。
そう言ってこの場から去りたいのだが、目の前のいかにもガラの悪そうな二人組はやっと見つけた金づるを逃がす気がないようで、何度も断りの言葉を口にして振り切ろうとしたものの、気づけば人気のない路地の壁際に追い詰められていた。
きっと彼らはカツアゲのプロに違いない。
ぼんやりとそんなことを思う。現状を楽観的に見ているわけではなく、ただ現実感が薄かった。こういった事態に遭うのは初めてで、どう対処していいかわからないということもある。
しつこそうだし、諦めてお金を渡してしまおうか。
「………………」
「おい、黙ってんじゃねえよ!」
「お嬢様だからってお高く留まってんのか? さっさと金寄こせつってんだろうが!!」
わたしの無言の逡巡をどうとったのか……いや、あまり良い方にはとらなかったのだろう。彼らは苛立った様子で怒鳴り散らした。
怖い。どんどん濃くなる彼らの纏う暴力的な空気が、声も出せないほど怖かった。
大きな声で怒鳴りつけられるのは苦手だ。得意な人なんていないかもしれないけど、身体が震えるほど怖い。怖くて、ぎゅっと目を瞑った。
最後に視界に映った握りしめられた拳が振り下ろされるのを待つように、嵐が通り過ぎるのを待つように、身を縮めて息を潜める。できるだけ早く終わってほしいと願いながら。
「女一人相手に何やってんの、お前ら」
痛みは、なかった。
近くで聞こえた第三者の声におそるおそる目を開ける。知らない背中が目の前にあって、誰かが庇ってくれたのだと理解する前に何が起こったのかと混乱した。
「はあ? テメーこそ何のつもりだよ。オレらは集金中なんだよ、邪魔すんじゃねえ」
「いきなり現れて正義のヒーロー気取りかあ? ボコられたくなかったらどっかいけや!」
「……カツアゲとか超ダサ。しかも女に金集るとか」
突然現れた“正義のヒーロー”らしいその人は、邪魔をされていきり立つ二人組をハッと鼻で笑う。相手は二人で、片方は彼よりも体格がいいのにこちらに背を向けるひとに怯む様子はない。
彼が気を引いてくれている間に逃げるなり、助けを呼んでくるなりした方がいいとわかっていたけれど、その堂々とした背中から目が離せなかった。
黒い背中。どこの学ランだろう。この近くの高校だろうか。
「てっめぇ、覚悟はできてんだろうなあ!?」
「やんの? 二人じゃねえとカツアゲもできないのに喧嘩なんかできんのかよ?」
二対一だというのによほど自信があるのか、彼は余裕そうに相手を挑発している。
一触即発の空気を肌で感じた。目の前で喧嘩が始まってしまう。どうすれば、と気ばかり焦ってしまって何もいい案が浮かばない。
そんなわたしにはもう意識もいっていないだろう二人組の一人が、突然何かに気づいたように“あっ”と声を上げた。
「おい、どうした?」
体格のいい方が訝しげに尋ねる。
「こ、こいつ……オニ高の大鳥じゃね?」
尋ねられた方は、相方の問いに引き攣った顔で答えた。それを聞いて、尋ねた方は一瞬ポカンとした後、わかりやすく顔を蒼褪めさせる。
先ほどまでとは打って変わった様子の二人組を見て、“オニ高”というのが有名なヤンキー高校の略称だということを思い出した。学ランの後ろ姿だけではわたしには判別がつかなかったが、正面にいる彼と同じくヤンキーらしい二人組にはわかったようだ。校章でも見えたのだろうか。
鬼嶋高校。この辺りの学生なら“絶対に関わるな”と学校側から口を酸っぱくして言われるせいで誰もが知っている。わたしの学校でも鬼嶋高校……と、さすがに名指しではなかったけれど、近づかないようにと注意がきていた。偏差値と素行の悪さなら近隣一だろう。男子校だし、珠洲風女学院とはある意味対極の存在だと言える。
「ま、確かに俺はオニ高の大鳥だけど? ……つーか、オニ高の名前だけでビビってるくせに、俺らの縄張り荒らしてんじゃねえよ」
凄みのある声、というのだろうか。大声で怒鳴り散らしていた彼らとは格が違うとでもいうように、それは静かな恫喝だった。
わたしをカツアゲしようとしていた二人組は怒りのせいか羞恥にか顔色を蒼から赤へ転じさせ、“覚えてろ”なんてどこかで聞いたような捨て台詞を吐いて追い立てられるように去って行く。
「うーわ、マジであいつら喧嘩の一つもマトモに売れねえのかよ。本気でダセえな」
独りごちるような呟きが聞こえる。相手を心の底から馬鹿にしたような声だった。
「つか……えっと、大丈夫? あんなのに絡まれるとか災難だな」
言いながら振り向いた彼の言葉は少しぎこちない。しかし、あの二人組と話していたときとは違う、ぶっきらぼうだが柔らかい声音がこちらを気遣っていることを教えてくれていた。
優しいひとだ。それこそ正義のヒーローみたいに。
そうとわかると現金なもので、実は心のなかで怖いと思っていた鬼嶋高校の生徒だということなんてどうでもよくなってしまう。不良生徒らしく真っ赤に染められた髪にも苦手意識は持たなかった。むしろ格好いいような。髪を立てているせいか、ちょっと鶏のとさかっぽいのも可愛いかもしれない。
耳だけでなく鼻にもピアスをしていて、全体的にヤンキーらしく尖った雰囲気のあるひとだけど、もう怖いとは思わなかった。
目の前のひとが輝いて見えるのは、助けてくれた恩人だからという理由だけではないのだろう。
白馬の王子様に助けてもらったなんて考えるほど少女趣味ではなかったはずなのだけど、こんなに素敵なひと相手なら助けてもらって一目惚れしてもおかしくない気がする。
「あの! 助けていただいて、ありがとうございます」
恋の予感に胸を高鳴らせながらお礼を言ったわたしに“白馬の王子様”は――。
「うわ、ブスじゃん」
わたしを見て、嫌そうに顔を歪めた。
思ってもみなかった言葉と態度に思考が停止する。あまり容姿がよくない自覚はあるが、面と向かってブスと言われたのは初めてかもしれない。
「マジ最悪。珠洲女の制服だからレベル高いと思ったのに。美人しかいないって嘘じゃねーか」
うちの学校に“美人が多い”とか“偏差値に比例して顔面偏差値も高い”とか“顔で生徒を選んでいる”とか、そういう噂があるのは知っていた。実際、可愛い子が多いのは事実だ。残念なことに、わたしはそれに含まれないけれど。
「絡まれてんのがこんなブサイクだってわかってたら助けなかったっての。ブスはブスって背中に書いとけよな」
助けて損したとばかりにさんざんに悪態を吐いて、彼はわたしに背を向けた。
わたしを庇ってくれた背中。ひどい言葉を投げつけられて、幻滅してもおかしくないのに、なぜかこのままその背が遠ざかっていくのは嫌だった。
「あの!」
「あ?」
彼が振り返る。返事とも言えない声も振り向いた顔も、なんとも思っていないどころか煩わしそうだ。
「一目惚れしました!」
「はあ?」
「好きです、付き合って下さい!」
ほとんど勢いだけで、自分で自分が何を言っているのかよくわかっていない状態だった。そうじゃなければ、初対面の名前も知らない相手にこんなストレートな告白なんてできないだろう。
「意味わかんねえ。あんた、Mかよ。キモいのは顔だけにしとけっての」
舞い上がっているところに冷水を掛けられたような気分だった。
向けられる視線も返された言葉も驚くほど冷たいもので、優しい答えが返ってくるなんて思ってなかったけれど……そもそも、どんな答えが返ってくるか想像する間もなく思ったことが口を突いて出たのだが。
そっと唇を噛みしめて泣くのを堪える。
心無い言葉には傷ついたけれど、自分から呼び止めておいて泣き出すなんて迷惑だろう。初対面の相手に……しかも、別に可愛くもない相手に告白されて嬉しいはずもない。
「鏡見ろよ、ブス」
そんな言葉を残して、今度こそ彼はこの場から去って行く。
もう一度呼び止めることもできず、わたしはその背中が見えなくなるまでぼうっとしていた。悲しいような、でも頭の中がすっきりしているような妙な気分だった。
視界の端で近くの街灯がともったのがわかって、やっと我に返る。
「“オニ高の大鳥”だっけ」
名前も聞けなかったけれど、それだけは知っていた。噛みしめるように呟いてみる。
「……大鳥くん、か」
口に出しただけでなんとなく気恥ずかしい。誰かが聞いているわけでもないのに変な話だ。
わたしは自分で思っていたよりずっとしつこい性格だったらしい。あれだけ言われても彼を嫌えない。
学校と苗字がわかっていたら探すのはそう難しくないだろう。きっぱり……というより手ひどく振られたのに追いかけるなんてストーカーみたいだけど、結構ひどいことを言われたし、相手の迷惑なんて考えないでアタックしてみよう。
自分では草食系だと思っていたけれど、わたしは意外と肉食系だったのかもしれない。
――この三か月後、わたし、雛里幸恵は押しの一手でヤンキーの彼氏をゲットした。
ヒーローをクズっぽくしようと頑張ったんですが、作者の技術的にまだ早かったようです。魅力的なクズキャラって好きなんですけど、いざ自分で書くとなると難しい。
ちなみに、ヒーローのクズ描写はここがピークです。たぶん。




