スペースボディ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
あいだだだ、腕と腰が痛むよ、どうもね。
新年早々、備品移動とか参っちゃうよ。机とか盛大に分解しちゃってさ、トラックで何往復したか、分かんないっつうの。
高い階層って眺めはいいんだけど、こういうふうに備品を動かす時が辛いのなんのって。エレベーターを使うなら使うで、接触しやすい面に段ボールとか貼って養生するべきだし、乗せる備品の幅や高さを考えるし……学生の時、演劇部で色々と気を遣ったのを思い出したなあ。
そしたらさあ、若い子のひとりがいうんだよ。「力仕事を男に任せて、女は楽している。差別だ」ってさ。
男も女も関係なく、ちょっと自分に不都合だと思うや、すぐにうるさくなるよねえ、人間は。差別と配慮の違いも、分からなくなっているんじゃないのかい?
仮に「楽だ」と思える立場の人に入れ替わったとしても、見えていなかった苦労に潰されて、「ああ、あっちが良かった」と思うのが関の山さ。
自分よりも周りの人の方が、実際には万倍、億倍辛いかもしれない。そんなことを知るためにも、スペアのボディがたくさん欲しいと思う、今日この頃だよ。
「不平等、不平等」とうるさい輩に、自分が周りの人に比べて、いかに自分の悩みがちっぽけか、いかに自分が楽で幸せな立場にあるのか、実感させてやりたいものさ。
――ああ、ボディといえば思い出したんだが、昔、ちょっと特殊な体を持っているおじさんがいたんだ。
今、考えてみても、ちょっと不思議な方でね。君の興味を引けるだろうか。
僕の母親の兄にあたるおじさんは、親戚内でも随一のアスリートだった。
特にフィールド競技については、学生の頃から賞状やトロフィーをもらっていて、実家である僕の家に、今でも大切に飾られている。
「荷物は少ない方がいい」って、一人暮らしを始める際に持っていくことを拒んだらしい。
僕だったら喜んで持っていっちゃうねえ。学生時代、そのような栄誉を賜る機会は全然なかったものだから。ことあるごとに、過去の栄光を眺めて、ニヨニヨするねえ。
「僕は、ホントはすごいんだ、できる奴なんだ」って自己暗示かけるし。もちろん、妄想で終わらせずに、ちゃんと行動するけどね。
そんなおじさんなんだけど、僕の母さんいわく、ちょっと不思議な習慣を持っていたらしい。
おじさんは夜になると、時々、家の二階のベランダに出ては星を眺めていたんだ。それだけなら別におかしい話じゃない。
けれどおじさんは、柵を乗り越えて張り出した屋根の上に腰かけると、ポケットからあるものを取り出して、目にあてがうんだ。
五円玉だった。
理科の授業で、お母さんは聞いたことがある。満月の時、目いっぱい腕を伸ばして、月と五円玉を重ねると、満月が五円玉の穴の中に、ぴったりとはまってしまうと。そのデータから月までの距離を計算することができ、結果として、月までは約地球三十個分ほどの距離があることが分かるとも。
お母さんも最初に見た時は、そんな天体観測かと思ったのだけど、どうもおかしい。
おじさんは虫メガネのように、左目に五円玉をあてがったまま、一向に腕を伸ばす様子がない。それどころか、指で押さえた五円玉を顔の上、首筋と肌に沿って滑らせていき、ついには服の中にまで潜り込ませてしまう。
それでもまだ満足がいかないらしく、シャツ越し、ズボン越しにも五円玉を身体にこすりつけていった。そして、ズボンの裾から出てきた五円玉も引き続きスライドさせ、膝小僧、すね、足首を通り、靴下の中へと導いていった。
何がそこまで、兄をこの奇妙な動作へとかき立てるのだろう。
母は我慢できなくて、ベランダへと出る。物音を聞きつけたおじさんが振り返った時には、すでに満月は雲にかかって見えなくなっていた。
おじさんは特に慌てず、妹が柵を越えて、自分に近づいてくるがままに任せていたそうだ。母が先ほどまでの所作と、その理由を尋ねると、おじさんはこう答えてくれた。
「お月様はね、昼間に見えないだけで、いつも僕たちがいる地球を見下ろしているんだ。遠い遠いところだけども、確かに存在している場所。
僕はね、こうして月が良く見える時に、月の方からも、自分を見てもらおうとしているんだ。この五円玉の穴を通して集まる、月の光。まるで、僕をのぞかんとするまなこのようだろう? 月が僕を守ってくれるように、というお願いもかけているんだ」
いつになく詩的で、抽象的な表現をするおじさん。はっきりいって、似合わないと母は思ったそうだ。
月にはウサギさんがいるとは、昔に聞いたことがあったものの、当時の母はすでにそのことを信じなくなっていた。月にあるのは、石ばかりだ。
ほどなく、かげっていた月影が、再び空に輝き始める。先ほどまでの青白い姿から、黄色に満ちた光を放っていたのを、母はよく覚えていたのだとか。
月が僕を守ってくれる。まゆにつばをつけながら話を聞いていた母が、にわかに信憑性を増したできごとが、数週間後に起こる。
その日の母は、友達と遊んだ後の帰り道で、たまたま兄の姿を見かけたらしい。
車道を挟んで、向かい側にある歩道。そこでトレーニングウェアを着た兄がジョギングしていたんだ。毎日、決めた距離を走っているそうで、放課後に用事がある日は早朝に。用事がない場合は、学校から帰った後に行うのだとか。
特に足を止めることもなく、声をかけることもなく、母はただ横目で、走るおじさんの背中を追っていた。道路越しにすれ違う形で、互いの距離が開いていき、やがて歩道は切れ、路側帯の敷かれた車道へとおじさんは踏み入れる。
それからさほど時間を置かず。
けたたましいエンジン音と共に、カーブした道路の向こうから、赤いスポーツカーが姿を現した。レースさながらの勢いでぐんぐん迫ってくる車体は、微妙に左右へぶれている。このスピードでは、ちょっとしたハンドルさばきで、簡単に車体は揺れ動いてしまうだろう。
「ウゥウン」とうなるような音とともに、母とすれ違ったスポーツカー。一瞬遅れて巻き起こった風が、母の髪を容赦なく後方へかきあげるけど、それを気にしてはいられない音が背中からした。
厳密には声。悲鳴だった。
言葉にならないうめきが、音となって母の耳を打ったんだ。そしてその声の主は、母が日ごろ、飽きるほど耳にしている。
振り返った。そして、見た。
数十メートル離れた路側帯。そこで兄が、道路に近い側の右足を抱えて、うずくまっていたんだ。更にこの距離からでも見えるほど、路側帯をまたいで赤いものが道路についている。
事故、と思った母だけど、スポーツカーのエンジン音は、兄がうめいた後も止むことなく通り過ぎて行ってしまった。
減速しない原因。兄に殺意を持っていたか、あるいは本当に気づいていないか。いずれにせよ凶悪だ。
加えて、衝突音らしい、衝突音は響いてこなかった。あのスピードで車体にぶつかられたら、人体はひとたまりもないはずだ。
それがうずくまり、うめくことができる。足の近くにしか血が飛び散っていない……。
――まさか、足だけ轢かれた?
思わず、自分の両足を靴越しにさすって、「ひいぃ」と悲鳴をあげかける母。
車に足だけ潰される。それもあれだけの速さを伴ったものに、だ。
肉どころか、骨だってぐちゃぐちゃになってしまうかも知れない。いや、あまりの速さと重量に蹂躙されるまま、指が切断、なんてことも……。
想像してまた、「ひいぃ」と悲鳴をあげつつ、車が来ないか確認して車道を渡った母。
兄の近くに、通行人はいない。すぐに状態を確かめて、必要なら救急車を呼ばないと、と思ったんだ。
ところが、母が向かいの歩道へたどり着いた時。
先ほどまで痛がっていた兄が、すくっと立ち上がった。そして潰されたはずの右足のつま先で、トントンと地面を二回叩くと、そのままランニングを再開。
さすがにアスリート。軽く流しているスピードも、母の全力疾走に劣らないほどだったけど、母の関心はそんなところにはない。
――何、走り出しちゃっているの? 足は大丈夫なの? あんなに痛がっていたのに?
先ほどまで、彼がうずくまっていた現場に急行。残っている血のりに顔を近づけて、母は顔をしかめたんだ。
路側帯の一部を隠すようにして浮かび上がっていたのは、黒ずんだ血じゃなかった。そこにはかさぶたとよく似た、真っ黒い石が転がっていたらしいんだよ。
その夜。また屋根の上で五円玉に月の光を集めるおじさんに、母は昼間のことを詰問したんだ。
おじさんは、昼間にけがをしたはずの右足に五円玉を当てながら、つぶやく。
「言ったろう? 月が僕を守ってくれるようにってさ。
これ、友達から教えてもらったんだよ。ケガ防止のおまじない。満月の光を五円玉に集めて、身体をさすると月の加護が宿るって話。けれどそれは、ごくわずかな人にしか効果が出ないともね。
どうやら僕はその、ごくわずかだったらしい。ああいう風に血が出るケガをしてもね、数秒で止まり、痛みも引いちゃうんだ。そしてその場には、僕の血とは似て非なる石っころが転がる……。
僕はもしかすると、自分の身体の傷を、月の石に塞いでもらっているのかもしれない。光を通して御覧に入れている、僕の体にぴったりと合う、月の石にね」
母は今でも、おじさんの話をまゆつばものだと思っている。けれども、もしおじさんの言う通り、月の光を通して、月の石とおじさんの身体が入れ替わっているとしたら、ゆゆしき事態だ。
おじさんの身体の一部。ひいてはそこに住まう生き物が、月に送られていることになる。
この先、月で生命体が見つかったとしても、それはもともとおじさんの身体にあったものが、月の環境で育ったんじゃないのか。
そう考えてしまう余地が、生まれるからだってさ。




