霧の中の魔物
「やあ、ひさしぶりだね」
そう言って、ヤツは僕に手を差し伸べたんだ。
ことの起こりは、友人のミキオが僕を登山に誘ったことだった。
ミキオは大学の山岳部に所属していて、山を登るのが大好きな奴なんだ。
「槍ヶ岳から見える風景は最高だった。あの迫力がたまらないんだ」
とか、
「富士山の山頂から見た雲海は、幻想的だった。まるで、天国にでもいるようだったよ」
など、会えば山の話ばかりを延々と聞かされていた。
僕はさして……いや、まったくと言っていいほど、山に興味はなかった。
でも、友達だからさ、相槌を打ったりして、いちおう話は聞いてあげていたんだ。
それを、どう勘違いしたのか、ミキオは僕も山に興味があるのだと思ってしまったらしいんだ。
「いいスポットを見つけたんだ。まさか、こんなに近くに、あんなにいい景色が見られる所があるとは思わなかった。県内だよ。灯台下暗しってやつだね。お前もきっと気に入るよ」
ある日、ミキオがこう言ってきた。
「お前と違って、僕は山に興味はないんだ」
僕は、そう言えばよかったのだと思う。でも、言えなかった。
ミキオをがっかりさせたくなかったんだ。
だって、僕はミキオを、数少ない友達の一人だと思っていたから。
けれど、やっぱり、言えばよかったんだ。
……あんなことになるくらいなら。
次の休日、僕らは早速山に登った。
僕は、
――いったい、どんな険しい山に連れていかれるのだろう――
と内心ひやひやしていたけれど、ミキオが指定したのは緩やかな山だった。地元では、おじいさんやおばあさんが健康維持のために登れる山として知られていた。
「山って、この山か?」
驚いて尋ねた。ミキオは笑ってうなずく。
僕は思った。
――そうか。ミキオの奴、本当は僕が登山の知識も経験も、まったくないということを知っていたんだな――
この山なら、僕でもなんなく登れそうだ。そう思ったら、僕は家を出る時までの憂鬱さが一気に吹き飛んだ。
僕らは、山を歩く。僕は登るつもりできていたが、緩やかな坂が続くだけの山道を、本当にただ歩いているだけだった。
途中、おじいさんやおばあさんたちと何度かすれ違った。
「これくらいの山ならさ、もっと軽装でくればよかったよ」
僕は、山の上は冷えると思って、たくさん着込んできていた。また、リュックサックの中には、500ミリリットルのスポーツドリンクが3本と、非常食にスティックタイプのバランス栄養食、板チョコ、ビスケット、ナッツをそれぞれ5つずつ入れていた。
日帰りだということは知っていたのだけれど、初めての登山ということで、少しばかり神経が過敏になっていたのかもしれない。もしものことを考えると、たくさん持ってないと不安でしかたなかった。僕は、生来からの心配性なんだ。
「ミキオは随分と軽装だな。こんな緩やかな山だと教えてくれていたなら、僕だってもっと軽い格好できたのに」
僕は、レインウェアを脱いで、中に着込んだパーカーを脱ぐと再びレインウェアを着た。パーカーをリュックサックの中にぎゅうぎゅうに詰め込む。
「お前さ、リュックは背負っているみたいだけど、ぺしゃんこじゃないか。なにか入れているのか?」
ミキオに尋ねると、
「ああ、入れてるよ」
そう答えた。そして、リュックサックの中から取り出した物の意外さに、僕は一瞬言葉が出てこなかった。
「あれ、これがなにかわからないのか?」
ミキオが折りたたみ式のそれを伸ばしながら、とても意外そうな声を上げる。
「いや、そうじゃなくて」
僕は言う。
「それ、登山でよく使う杖でしょ?」
「杖ってなんだよ。トレッキングポールだろ」
「そう、それ。なんで?」
「なんでって?」
「いらないだろ。こんな緩い山でさ」
ミキオは、それには答えなかった。けれど、その口元が妙にほくそ笑んでいるように見えた。
「そっちじゃない。こっちだ」
コース通りに歩いていたら、ミキオが僕を呼び止めた。
「え、だってそこは……」
ミキオが示した道に、僕は言葉を失った。だって、そこにはロープが張られていて、「立ち入るべからず」の立て札が掲げられていたのだから。ロープの向こうに見える道も、まったく手入れのされていない獣道に見えた。
呆気にとられている僕を無視するように、ミキオはロープを跨いで奥へ奥へと進んでいく。しかたなく、僕もそのあとを追った。
僕は、ミキオがトレッキングポールを持ってきた理由を知った。この道は、さっきまでと打って変わって急勾配が続いている。
「なあ、ミキオ。一本貸してくれよ」
僕はよろめきながら言うが、
「一本じゃバランスがとれないじゃないか」
そう返されてしまった。
「でも、この坂、急すぎだよ」
ふと、ミキオからの返事が途絶えた。
「ミキオ?」
顔を上げる。少し先にミキオの背が見える。ミキオがいる所は、ここよりも安定した地面のようだった。
「ミキオったら」
僕はなんとか登りきり、立ち尽くすミキオの肩を叩いた。ミキオは、打たれたようにこちらに目を向けた。だが、
「……本当にいた……」
と、訳のわからないことを言って、すぐに前方に視線を戻す。
「いたって、なにが?」
僕も、ミキオの視線を追ってそちらに目を向けた。
「霧が立ち込めてきたみたいだな」
「この山には、魔物が棲みついているという噂があるんだ」
僕の言葉には答えたず、ミキオは唐突にそんなことを言った。
「この山はさ、50年くらい前には完全に閉鎖されていたんだよ。それが、山岳ブームかなにか知らないけど、10年くらい前から開放された。でも、開放されたのはほんの一部。頂上に登ることは、今も禁止されているんだ」
「へえ、そうなんだ」
さっき無視されたこともあって、僕は気のない相槌を打つ。だが、ミキオはまったく気にしていないように続けた。
「ここが頂上だ」
ミキオが言う。霧が濃くなったように感じた。
「なんで閉鎖されてたの?」
ふと気になって尋ねた。
「魔物が出るとか言ってた、それのせい?」
「うん。ここはさ、昔、処刑場だったんだってさ。それでね、処刑場じゃなくなって、一般に公開されるようになってから、戻ってこなくなる人が相次いだらしいんだ」
「それって、遭難したってことか?」
「さあ。でもさ、遭難するような山でもないだろ? 戻ってこない上に死体も見つからない。行方不明ってことだよ」
その話を聞き、僕はどうしたって腑に落ちない気持ちがあった。
――半日もあれば頂上まで辿り着けるような山で、行方不明?――
ここまで入り組んだ道など、一本もなかったのに。
「それで、魔物に食われたんだっていう噂がたったのさ」
「ふうん。でも、ただの噂だろ? だから、封鎖を解いたんだろう?」
「封鎖は解いてないよ」
「え?」
「だって、魔物が出るのは頂上……元処刑場だったこの辺りだから」
霧が、さらに濃度を増していく。
「昔はね、頂上までの道を、鉄製の戸を置いたりして厳重に閉ざしていたらしいんだけど、おもしろ半分に扉を開けようとする輩がいてね、今の簡単な形になったらしいよ」
ミキオの話を聞きながら、僕はあることを思い出した。さっきまで、たいして気にもとめてなかったことではあったけれど……。
「ねえ、いたって、なにが?」
「……」
「さっき言ってただろ? 本当にいたってさ」
「だから、魔物がだよ」
「え、魔物が?」
僕は、ミキオから目を逸らし、前方をじっと見つめた。真っ白な霧が立ち込めるだけで、なんの姿も見当たらない。
「どこだよ? それって、どんな姿をしているんだ?」
返事がない。僕は、ミキオがいた方に視線を戻した。けれども、そこにミキオはいなかった。
「ミキオ?」
呼んでも答えがない。辺りは白一色に覆われ、僕は完全に霧にまかれてしまったようだった。
――どうして?――
僕は、パニックになった。
一体、いつの間に、周りが見えなくなるくらいの霧が発生したんだろう。
その時、僕の耳になにかが聞こえてきた。
――なんだ? なんて言ってるんだ?――
あ……また、聞こえた。
今度は、はっきりと。
「やあ、ひさしぶりだね」
耳元で聞こえた。そして、霧の中から手を差し伸べられた。
ごつごつとした手。
白く華奢な手。
しわしわの手。
たくさんの手が、一度に僕の方へと伸びてきたんだ。
「うわあ!!」
僕は絶叫し、くるりと向きを変えると走り出そうとした。でも、それは叶わなかった。
たくさんの手が、食料でぱんぱんに膨れているリュックサックをつかんで離さなかったんだ。
僕は、リュックサックを放り出そうとした。けれど、それもダメだった。大切な食料を落としてはいけないと思い、リュックサックから垂れているベルトを腰に回していたからだ。
心配性であることを、この時ばかりは本気で呪った。
僕は、たくさんの手に、つかまれ、引きずられ、そして……食べられた。
いったい、どれほどの間そうしていたのだろう。
真っ暗な中に、僕はいた。
身動きはとれない。だが、意識はあるようだ。
僕は、確かに、あの真っ白な魔物に食べられたはずなんだが……。
そうだ。
間違いなく、僕は食べられた。
だから、僕は、もう……きっと、僕じゃない。
僕は、憎しみに覆われていた。
憎い……。僕を騙して、ここへ連れてきたミキオが。
憎い……。この山に立ち入る人間が。
人の笑う声。楽しそうな人間たち。
生きている人間たちが、憎い。
憎い、憎い、憎い、憎い、憎い……。
僕は、こんなに妬み深い人間だったろうか。
きっと、この時にはもう……僕は人ではなくなっていたんだ。
ああ、あれは、ミキオじゃないか。
ミキオがこちらに向かってくる。
……本当に、ミキオかな?
ミキオにしては、背が低い気がする。
体つきも華奢だ。
少し見ない間に、髪が伸びたんだな。
黒髪だったのに、茶髪にしたのか。
お前は、本当にミキオか……?
……いや、間違いない。お前はミキオだ。
だって、振り向いたお前の顔……。
目が、ふたつある。
鼻があって、口だってちゃんとあるじゃないか。
間違いない。ミキオだ。
懐かしくて、僕は声をかけた。
「やあ、ひさしぶりだね」
すると、さっきまで楽しげに笑っていたミキオの口元が、なぜか恐怖に歪んだんだ。