カウントダウン
「……本当に、そんなこと言って良かったか?」
「くどいぞ、蓮……」
嬉しそうでありながら申し訳なさそうにそう問う蓮様の額を軽く弾いて黒海は小さく笑った。同じく様々な感情が綯い交ぜになった僕もまた、彼に額を弾かれる。
「……だいたい今更、だろ?そんなことは。ある程度、危ないってことは、前からわかってた。何年一緒にいると、思ってる……」
「ですが……、」
「涼ちゃん!ここまで黒海くんが言ってるのにそれを無下にしようだなんて思わないでよね!」
「日和……、」
今の今まで沈黙を通していた日和が僕のギュッと抱き着いてきていつものように締まりのない表情でにへらと笑った。思わず胸辺りにある日和の頭をわしゃわしゃとかき回すが、すぐにハッとする。百歩譲って黒海が側にいてくれるとはいえ、日和はどうであろう。いや、むしろ僕は日和こそ離しておきたい。彼女は女の子だ。顔や身体に傷がついては彼女にも親御さんにも合わせる顔がない。彼女は本当に関係がない。白樺にとっても、この世界にとっても。彼女が巻き込まれていいわけがない。
「日和、君は……、」
「ま・さ・か、私が一緒にいるの嫌だと思うとでも?危ないとか、襲われるとかそんなことでイケメン二人の隣っていうポジションを手放すとでも!?」
「でも……、」
「うじうじしちゃって涼ちゃんらしくもない!というかさ、私はもう思いっきり関わってると思うけど?お姉ちゃんは完全に白樺関係者だし、もし周りの弱い人間を狙うなら私だってとっくに危ない立ち位置にいるよ。……それならわざわざ涼ちゃんたちから微妙に離れたところにいても、すぐそばにいても変わんないでしょ。むしろ涼ちゃんの側にいればかなり安全な方だし」
だって涼ちゃんは、守ってくれるでしょ?
そう言いながら満面の笑みで僕を見上げる日和を、潰さないように気を遣いつつ抱きしめ返した。
僕らは本当に、この上なく恵まれている。微かな薄暗い思いを心の陰に残したまま、僕らを乗せて電車は走る。すでに外は夜の帳が下ろされ月のない空に点々と星が白光を散らしていた。
******
家に着くとすぐに母様に迎えられ、怪我がないかあちこちを確認された。その心配性っぷりに思わず苦笑いを零すが、本当に安心したように抱きしめられたため、その苦笑いはすぐにしまうことになった。家を出る前よりもかなりスキンシップが増えた。だがそれについて何かを思う間もなくただ享受する自分についてふとこの距離感の丁度良さについて気が付く。
ここに来てからずっと、それこそ赤ん坊のころから、両親は両親ではなかった。兄は兄ではなかった。私と家族の間には、目視することこそ適わねど確かに存在する壁、もしくは溝というものがあった。そしてある意味では、両親が両親でないのと同じように、私もまた僕ではなかった。赤霧涼でありながら、赤霧涼ではなかった。
今になってやっと、私はこの世界に存在し馴染んでいることを自覚した。
僕は、まだ赤霧涼としても今までを取り戻せるだろうか?
部屋に戻り荷物の類を簡単に片づけてから、すでに翡翠から連絡を受けて件の駅へ向かった父様と翡翠に無事に蓮様を送ってきたことをメールに打ったところで、先まで忘れかけていた電車内で理性を失いかけたことについて気が付き晴れかけていた筈の陰りが急激に成長し始めた。じわじわと胸の奥から喉まで広がる自己嫌悪に吐き気にも似た何かがこみ上げる。黒々とした思いを僕はまた静かに胸の底へと沈めていく。薄暗い底に堆積する思いを再び掬い上げるときまで先延ばしにしている自覚は十二分にある。それでも僕はやはり後回しにせざるを得ない。後回しにする理由も、いずれ必ず掬い上げる根拠も本心では気付いていても、僕はそれすら沈める。沈めなければならない。
ゆらゆらと下降し底へと落ちていくそれを心のどこかで感じつつそれを一時的に忘れるために、布団すら敷かずに仄かに冷たい畳に倒れこむ。頬を藺草がチクチクと刺す。そこから冷たさが広がりかき乱れた感情整理する。起きたら頬に跡がつくかも、そう思いながら微睡の中に落ちようとしたところで、暗い部屋の中でパカパカと小さく点滅する携帯のライトに気が付いた。
******
「お疲れですか、蓮様?早くお休みになられた方がよろしいですよ」
「涼……、」
制服から着流しに着替え、屋敷の塀を乗り越えて、そのまま蓮様のいる縁側に軽く着地した。こんなことをすれば普段の蓮様なら小言の一つでも申し付けるはずだが、主人は何も言わずに僕に隣に座るよう促した。隣に腰を下ろすと半ばしがみつくように抱きしめられる。予想していたことなので特に慌てることなく濡れて冷たくなった白い髪を梳くように撫でた。今日はいろんな人に抱きしめられる日だ、と一人ごつ。
「本当に、情けない……」
その言葉に一瞬謝りかけるが彼の表情に気が付きすぐにそれを飲み込んだ。それは僕に向けられた言葉ではない。彼自身に向けられたものだった。
「涼、ごめん……、」
「……あなたが僕に謝るようなことは何もないと思いますが?」
「違うっ、俺は、俺はまた何もできなかったっ!去年と、同じように!何も変わってないっお前を俺が守りたいのにっ……!なのに俺は、見てることしかできなかった!」
背中に回された手が握りしめられ、着物がぐしゃりと崩れるのを感じた。すっかり縋り付くような体勢の彼をなだめるように撫でる。彼が僕に守られてばかりであることについて以前から思うところがあったのは知っていた。そして成長がないことを嘆いている。だがそもそも、僕と蓮様の考えていることが完全に食い違っていることを、彼は知らない。今は。きっと彼はいずれ気が付くだろう。僕の真意に。
一時的に紛らわせた陰りが再び鎌首をもたげる。
「……大丈夫ですよ。今回は誰も怪我をせずに済みましたし、それに悪いのはどう考えても襲ってきた男でしょう?」
「そういう問題じゃないっ今度は俺がお前を守れるくらい強くなるって、お前に言った!でも俺は全然動けなくてっ、茫然としてるだけで、お前を守るどころか、自分の身すら守れない……。豪に見てもらわなくても、少しはましになるように自分でトレーニングもした、護身術も勉強した……、でもそんなのは全然役に立たなくてっ……!」
「大丈夫です。役に立たないことなどありません。それらは必ず身になります。それにまだあなたは武術を始めてまだ数か月なんですよ?一朝一夕に身につくものではありませんから、結果が出るのはまだ先です。焦らなくても、大丈夫です。あなたに守られずとも、僕は自分の身を守れるくらいには、強い」
いつもふわふわと空気を含んでいる彼の髪は彼の心情と同様に萎れている。
僕は慰めなどではなく心から、彼に武術が身についていないことを問題ないと考えている。本当に、何の問題もない。ただその根拠を彼に伝えることはできないし、とても伝えられる根拠ではない。だから僕はひたすらに大丈夫だと繰り返すことしかできないのだ。腹の奥底から湧き上がってくる何かの姿から目をそらす。それの正体を自覚し、言葉にした瞬間すべてが終わってしまうことを知っているから。
「それだけじゃない……、」
「……黒海と日和のことですか?」
二人の名を出すとビクリと肩が跳ねる。力が入り固くなった身体をほぐすように何度も背中をさすった。
「俺のせいで、二人まで巻き込むかもしれない。わかってたのに、わかってたのに、二人を遠ざけることができなかった……!」
「……それは僕も同じですよ。本当に二人のことを思うなら突き放すべきでした。それでも僕は、何も言わなかった」
分かっていて口を開くことはしなかった。あんな言い方で距離を取ろうとすれば、黒海が従うはずがないことくらい分かっていたが、僕は言葉の限りを尽くして彼を遠ざけようとはしなかった。それはひとえに僕の、僕らの我が儘に他ならない。初めてできた大切な友人を手放したく無いがゆえに、彼が決して離れるという選択肢を選ばない、いや選べないように話をした。
「二人に対してずるい聞き方した……ああいう言い方すれば二人とも一緒にいてくれるって、わかってたから……!」
「…………、」
口を開こうとして、止めた。この場に相応しい言葉が見つけられない。擁護するのは簡単だ。だが正当性を持たせることは恐らく不可能だろう。
鳩尾のあたりから喉へと上がってくる罪悪感。じわじわと深海のような冷たさと息苦しさに体内が埋め尽くされる。だがそれと同時に僕の精神が僕から離れていくのを感じた。僕にしがみつき、時折しゃくりあげながらその罪を吐露する主人を見れば見るほど僕の精神はまるで身体から追い出されるかのように遊離していく。だが僕はそれに一切の抵抗を試みなかった。……それはおそらく、僕がひどく穿っていて、そして盲目であったから。僕の意から離れた体はまるでそれを感じさせることなく、震える彼の背をあやすように撫で続けていた。
確かに僕もまた蓮様と同じように罪悪感に苛まれている。自分の意思で彼の傍らにおり、力を保持する僕と違い黒海や日和は一般人だ。常日頃、周りを警戒し己を鍛え、可能性の高い万が一に備えている、僕とは違う。何の関係もない、彼らを巻き込んでしまった。そして幼い主人の拙い説得、決して二人が離れるとは言えない説得を……僕は一度たりとも遮ったり止めることはなかった。偏に、僕が蓮様に笑っていてほしかったから。彼が友人達と離れたくないことくらい、わかる。僕はただ、苦しく思いながらも二人の手を引く主人を見ているだけだった。二人の安全よりも、彼一人の笑顔を優先した。あえて彼の苦しげな言葉を肩代わらなかったのは、その言は彼が負うべきささやかな責任だと考えていたから。その責を終え、力なく泣く彼に、僕はもっと他にかける言葉があったはずだ。
だが僕はいまだ気の利いた言葉の一つもかけられていない。今の僕には余裕というものがない。今もまだ胸の奥底に沈みきっていないそれが、電車内での出来事を思い出すたびに、まるで浮力でも得たかのごとく、浮かび上がってくるのだ。私はそれに幾重もの意識の鎖を巻き付け鉛を結び、沈めなくてはならなかった。
腕の中の主人がふとほとんど動かなくなる。しゃくりあげていたその喉はすでに穏やかな寝息をたて、苦しさに力んでいた身体は全て僕に預けられていた。完全に眠っているのを確認した後、起こさないよう注意を払って彼を抱き上げる。いつの間にか随分と大きくなったものだと独り言つ。いつか彼を持ち上げられなくなる日が来るのではないかとも思ったが、すぐに苦笑とともにその考えを打ち消した。
彼に笑っていてほしい。そう願った。だが、もし今夜彼が涙を流すことなく、罪悪感に悩ませられることなく狡猾に笑っていたとしたら、僕はそれを喜んだだろうか。一瞬そんな考えが脳裏を掠めたが、そう気にとられるものではなかった。きっとこうして泣いていてこそ僕の主人なのだろう。あまりにも優しすぎ、そして誰よりも繊細な彼だからこそ、僕はこうして彼に仕えることを望んだのだろう。白い肌に痛々しいほどの朱が目尻に映える。親指でそれを撫ぜようとするが、すぐに硬い肉刺の存在を思い出し、比較的傷の少ない薬指でそっと気遣いながらなぞった。
「……僕が守りますから、すべて」
小さく呟いた僕の声が彼に届くことはない。でもそれでよかった。これは僕自身に対するけじめであり、戒めである。僕はただひたすら、白樺蓮のためだけに動く。彼の望むすべてを守り、彼を害すすべてを除く。
その時が来るまで、僕のすべてを彼に捧げよう。
時が来て、沈めていたすべての『思い』を開けるとき、貴方が笑っていてくれることだけを願って。
一陣の風が吹く。その時一片の『思い』が私の目尻から音もなく零れ落ちた。その『思い』がなんであったか、今の私は知らない。
ただ私は理解した。カウントダウンは始まった、と。
『その時』蓮様は、笑っているだろうか。
『その時』、私は笑っていられるだろうか。
読んでいただきありがとうございました。
全キャラクターが出そろったところで、次回より高校生編、ゲーム本編に突入させていただきます!
以前に比べ更新はかなり遅くなっていますが、どうぞ気長に待っていただけると幸いです。




