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胡蝶の夢  作者: 秋澤 えで
中学生
92/157

激情

靴先を退けてやると男は激しく咳き込みながらも憎悪の目で僕を睨み付けてきた。



「何しやがる……!」


「何、だと?蹴られたことさえ分からないのか屑が。さっきから大人しく聞いていれば、僕らのせいで苦痛を受けた?はっ、笑わせるな誘拐犯風情が。自業自得という言葉を知らないのか。お前たちが誘拐など画策するから多大な人々が迷惑を被ったんだ。原因であるお前が僕らに八つ当たりするなど……恥を知れ」



足元の男は怒りに顔を紅潮させる。だが、いまだ立ち上がることはできない。焦点がうまく合わないその眼は僕を見ていたが、その奥には怯えがちらついた。それにまた苛立つ。自分でもよくわからないドロリとした感情が首をもたげているのを感じ、またそれをどこか冷静に見ている自分もいた。僕はこの男に対して『怒っている』。だがそれは明らかに純粋な怒りではなかった。じりじりと腹の底から焦がしていくような、害意。



「八つ当たりなんかじゃねぇッ、俺は、俺たちは何もしてねえ!お前らを襲ったのはワゴンの奴らだ!俺たちは別にっ……!」

「関係ない、とでも言うつもりか……?」

「っ……!」



足元で男はびくりと跳ね、ひきつった音を喉から発した。だがもはやそれすらどうでもいい。



僕はこの男を排除しなければならない。絶対に。


――私は守らなければならない。******のために。




「涼、やめろ」

「え……?」



気が付けば、右手首を痛いほどに握られていた。僕の右手には男の前髪が掴まれていて、ほぼ無意識にこの男にとどめを刺そうとしていたことを知った。特に考えることもなく、ただ促されるままにそれを離した。ひどく、耳鳴りがした。



「落ち着け、涼。これ以上電車内で騒ぐと拙い」

「……でも、翡翠、」

「でももくそもない。お前は加減を知らなさすぎる。理性を持て。お前らしくもない」



自分と同じ赤い目に見据えられ、やっと状況を把握し始める。


車内はざわつき、僕らがいるところは不自然に避けられている。避けてはいるが、好奇心にかられた人々の視線と聴覚がこちらに向けられていることにやっと気が付いた。僕らから少し離れたところで、蓮様、黒海、日和がいた。皆一様に色をなくしていた。



「……次の駅で俺がこいつを連れて電車を降りる。お前は蓮様たちを連れてほかの車両に移動しろ。これ以上視線を集めるのはよくない」

「だめ、僕がこいつを連れて降りる。だから翡翠は、」



そこまで言ったところで胸倉をつかまれ言葉が詰まる。



「いい加減頭を冷やせ。お前の仕事は蓮様を守ることだろうが。少なくとも不審者に構って主人を放置する御側付がどこにいる。……それにこんな状態のお前にこいつを預けられるわけねえだろ」

「こんな状態って……特に支障はない」

「……自分で気づけよ。敬語外れてる。それに瞳孔開いてる上に殺気が漏れっぱなしだ。そんな状態のお前にこいつを預けたら確実に殺すだろ。俺はこいつを連れて次の駅で降り、家に連絡を入れておく。お前は無事に蓮様を送り届ける。……いいな」

「……はい」



絞り出した返事をしてからゆっくりと息を吐き出した。胸倉を離したその手でコツリと軽く小突かれる。持て余した殺意を散らせ、やたらと眩しい光を遮るために一度目を閉じた。


不甲斐ない。不甲斐ないにもほどがある。我を忘れ、ただあの男を殺そうとした。周りに迷惑をかけ、揚句翡翠に諭される始末。これほどの失態が今までにあっただろうか。忘れてはいけない。僕にとっての最優先事項は蓮様(・・)を守ること。不審者を排除するのは二の次だ。しかも僕はうかつにも人の目があるところであの男に情報を吐かせようとした。男は錯乱していたため決定的なことは一切言わなかったが、もしもあの男が一言でも「白樺」の名を出していたなら状況は最悪だっただろう。改め自分がどれほど冷静さを失っていたかを自覚した。



耳障りな音を立てて電車が失速する。念のためにカッターとへし折った刃を翡翠に渡す。まず不必要だが、物的証拠はあるに越したことはない。これからあの男がどうなるかは知らない。翡翠から連絡を受けた父様たちが処理するのであろうが、どのようにするかは知らない。ただ男の言っていた苦痛を味わうことよりも重くなることは確かだ。


男を引きずり下車する翡翠の背中を見送り、僕は後ろの三人に向きなおった。



******



最後尾の車両に移動すると、そこは改札から遠いためか、ほとんど人は乗っていなかった。さて、どのようにどれから話そう、そう考えるも未だに頭の整理がつかず真っ白になったまま人気のない車両を進んだ。どこから話せばいいのだろうか。いや、何より。


やっと冷静になりかけたところでスウ、と鳩尾が冷えた。今の今まで蓮様のことしか考えてこなかった。だが今はどうだろう。今は、黒海がいる。日和がいる。危険に晒してはいけない者がいる。


僕らと付き合うことで彼らを危険に晒してしまうのではないだろうか。彼らは何でもない、一般人なのに。僕らとは違う、命を狙われることなどないはずなのに、僕らが巻き込んでしまうかもしれない。僕らの、せいで。


今日は一人だったからよかった。弱く頭も足りない奴だから簡単にのすことができた。だが必ずしも一人で来るとも限らない。いつ、どのような場所で襲われるかなど分からない。……僕の力で対応できるかも分からない。



僕は、彼らを(・・・)守れるだろうか。


いや、それ以前に。彼らは変わらず、僕たちの側にいてくれるだろうか。

自分の身を危険にさらす原因の隣に、居てくれるだろうか。



僕の後ろを歩く彼らから、恐れにも似た目を向けられることが怖くて、僕は振り向くことができなかった。そしてまたそれとは違う恐れが確実に胸の底を占拠していた。


車両の中腹まで来たところで、諦めにも似た面持ちで足を止めると後ろの足音も止まる。息を吸って振り向こうとしたところで、ドンッとここ数か月で慣れた重みを腰に感じた。



「……日和?」

「さっきのって……、」



ヒュッと息を吸い込み喉の奥で誰に知られることなく咽た。振り向かないでいられたのは微かな救いだが、それでも確実にことを突き付けられると焦りと不安が生まれる。



「涼ちゃんのお兄ちゃん?」

「そう、さっきのは……って、え、翡翠、のことですか?」

「そう!赤い髪のイケメン!確か球技大会の時にもいたよね?青柳君を回収しにさ」

「ええ、まあそうですが……、」



自分が考えていたこととは全く違うことについて日和に聞かれ、呆然としつつ彼女の本意を探すがいくら探せど答えは分からない。首だけで後ろを見るとこちらを見上げる日和と目が合う。その眼には恐れも忌避もなかった。彼女は本当にいつも通りだった。いつも通り、くりくりとした二重の目は好奇心の色がにじんでいた。ただ、それだけだった。



「……涼、日和は面食いだ……イケメンが最優先事項、なんだろう」

「ちょっと、否定はできないけどもう少し言い方あるよね?イケメンは世の宝だよ!誰だって好きだって!」



やや呆れたような声色の黒海に日和が頬を膨らませて反論にもならない苦情を入れる。日和と同じように、黒海もまた、いつも通りだった。つい数分前の殺伐とした光景など、何もなかったかのように。その彼らの様子にまるで白昼夢か何かを見ていたかのような気すらしてきた。だが、男の手を縛った僕のネクタイは現実であることを主張するように僕の胸を飾ってはいない。


黒海の後ろにいた蓮様が僕の横に立つ。何かを感じ取ったらしい日和は僕の腰に回していた腕を解き、少しだけ距離を取る。やっと振り向いた僕の背中を蓮様が、しっかりしろとでも言うように軽く叩いた。背筋をスッと伸ばしたが、改めて自分の脆弱さをまざまざと見せつけられ奥歯を食いしばった。




「違う、話がしたいのはそっち、翡翠のことじゃない。……襲ってきた男の方の話だ」


どこかふざけていた二人は表情を引き締め僕らを見た。詰まりそうになる息を気が付かれることのないように静かに吐き出し、蓮様の言葉を継ぐ。


「……今回襲ってきた男はおそらく昨年蓮様を誘拐しようとしていた犯行グループの一人です。どのような手段かまでは知らされていませんが、主犯、実行犯ともにこちらで処理していました。もちろん基本的に命をとるようなことのない対処のようでしたが、今回それが裏目に出たようです。……前回の犯行にどれほどの人数が裏で関わっていたか、僕たちには明かされていませんが、いつ何時また襲われるかわかりません」


「俺の家は、そこら中から恨みを買っているし、これからも恨まれることは増えていく。俺が何をするに関わらず。きっと何度でも襲われる。それに……必ずしも、その矛先が俺や涼だけに向けられるわけじゃない。つまり……、」



そこで蓮様はしばし言い淀んだ。僕らが考えていることは間違えようもなく一致しているだろう。お互いの思考くらい理解しているし、それ以外に案を持っていることはない。綺麗ごとを吐けるほど、僕らは子供ではないし世間知らずでもなかった。



「つまり……、蓮や涼の、近くにいると、俺らが狙われる、かも……って、言いたいのか?」

「……ああ、簡単に言うと、な」



苦い顔でそう答えた蓮様の言葉に若干黒海は眉を顰めた。



「それで、俺らが巻き込まれないように、離れろって、ことか?」

「……そこまでは言いません。ただ……これからの付き合い方を検討した方が良い、ということです」



我ながら苦しい言い換えだ、と呆れるもののそれ以外に言い表しようがない。

だが、友人として付き合うのならば命の危機に出くわす覚悟でいろ、などとどうして僕らが言えようか。



「今回はたまたま襲われた場所が閉鎖的な空間でなおかつ、犯人に一番近い位置にいたのが僕だったからすぐに対処ができ、誰にも怪我を負わせることなく収束できましたが、次もこうとは決して言えません」

「……勝手なこと言ってるって自覚はある。でもお前たちを巻き込みたくないんだ」


「それで?」

「え、いや……それでって、」

「それだけか?理由は」



黒海の発した短い言葉に蓮様の毅然とした態度が崩れる。いつの間にか泳ぎかけていた僕の視線も黒海に戻された。彼は変わらず真剣な顔つきで僕らを見据えていた。



「……それだけ、いえ、それほどの理由だと、少なくとも僕らは考えています。そしてそれは、十分すぎる理由でしょう」

「なら断る。……俺にとっては、不十分だ。そんな理由」

「……これ以上ない理由だとは思わないか?自分とは全く関係ないことで、襲われたり攫われたりするかもしれない。そうなっても良いとでもいうのか?俺と関わっていたせいで」


「じゃあ、蓮は俺に、離れてって、ほしいのか?俺が、邪魔か?」

「違うッ、そうじゃない!その、俺は友達でいたい、でも俺のせいでお前や日和を巻き込むようなことは、したくないんだ……絶対に」



こちら側にあったはずの話の流れは黒海に傾き、比例するように僕らは焦りを見せる。これは、だめだ。こんなことでは。



「なら、問題はない。俺は、蓮や涼たちと、一緒にいたい。だから、離れたりしない。一緒にいる、これからも」

「だからっ、そう簡単な話じゃない!今回は運が良かった。でも次があるかもしれない。俺や涼がいないところで、お前や日和が襲われるかもしれない!」

「かもしれない、なんていうのは、あくまでも、可能性でしかない。そんなことを言っていては、キリがないぞ……?」

「しかし……その可能性はもしかすると『全ての可能性を不可能にする可能性』かもしれませんよ」

「それでもだ」



冷静な黒海とは対照的に蓮様は目に見えて焦りと不安を膨らませる。黒海の言う通り、可能性の話に終わりはないし、答えが出ることもない。そして黒海が可能性のすべてを捨てても良いときっぱりと言い切ったことに苦虫を噛み潰す。彼のことだ、僕の言い回しが分からないわけがない。



「必要なら、最低限、自分の身を守れるくらいには、強くなる。……足手まといには、ならない」

「そういう問題じゃないッもしかしたら……もしかしたら殺されるかもしれないんだぞッ!?」

「蓮様っ!」



熱を帯び半ば叫びのような言葉を吐き出す蓮様を咎めるが、パンッ、という乾いた音が電車内に静寂を落とした。タタンタタンと揺れる音だけがやけに響く。そして先ほど両手を打ち鳴らした黒海が再び口を開いた。



「殺されるかもしれない。確かに、そうかもしれない。でも……、」



一歩踏み込み距離を縮める。素早いわけもないのに、僕らは動くことができなかった。



「そんな、殺されるかもしれないところに、蓮と涼を置いていくような、恥ずかしい真似が、できるか……!そんな危険なところに、大事な友達二人を、置いていけるか!!」



今まで、彼がこんなにも声を荒らげるようなことがあっただろうか。重い鉛が占めていた胸の底から、熱い何かがこみ上げてくる。すぐ隣の蓮様が唇をかみしめながらも、どこか安心したような色を見せたのはきっと僕の見間違いじゃない。

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