終劇
鏡の前に立つ。
唐突に七年前のこの日を思い出す。後ろで控えめに結んだ赤い髪はあの時と何ら変わっていない。でもたくさんのことが変わった。
それが良いものなのかは未だにわからないものも多くある。だがその未だにわからないと言うものは、まだ良くなる余地があると言うこと。それは僕が自信を持って言えること。
今が良いかはわからない。でも絶対に、昔は良かったなんて言いたくない。それは今までの思い、行動、出会い、その全てを否定する言葉だから。
背が伸びた。だが決して目に見えるものだけが成長じゃない。
僕にしても、彼にしても。
気合いを入れるようにパシッと両頬を叩く。鏡の中の赤い目と視線が合わされた。
あの時のように、外で僕を待つ三人はいない。
追憶もほどほどに、僕は道場へ足を向けた。
「こんにちは」
「こんにちは、涼さん」
いつものように豪さんが僕を出迎えてくれた。普段と変わった様子は何もない。
翡翠がお側付きの勝負を辞退することは意外にもアッサリと許可された。曰く、それは決して強要するものではなく志願するものだからであるそうだ。
今回のこの試合は内密に行われる。故に道場に来るのは僕と翡翠、そして立会人の豪さんだけだ。別に見られて困るものではないのだが、これは完全な私闘である上に試合と言うよりも決闘に近い。自分達の全てをぶつけるこれは、決して見世物にはなり得ない。
「翡翠君はもう着替えに行っていますよ」
「そうですか……今日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。……今日の試合、楽しみにしていますよ」
楽しそうに笑う豪さんに首を傾げる。
ほぼ毎日僕らを見ている豪さんからすれば別に珍しいものでも面白いものでもない気がするのだが。
「君たちはとても強い。純粋な力だけで言えば、私や他の武道家とは比べ物にならないくらい力です。そんな試合を見ることができるのが楽しみなんです」
それに少し納得する。確かにこんな化け物同士の対戦など普通ない。お互いに体力お化けの上に怪力。随分と翡翠の動きを見ていないが力自体は恐らく僕と同じくらいだろう。それにこんかいは以前のような一方的な暴力にはならない。そして手を抜くこともない、真剣勝負だ。
「……僕も、楽しみです。では、着替えてきますね」
胴着と袴を抱え更衣室へ向かう。
冷え冷えとした空間であるはずなのに、僕の身体は感じないとばかりに熱を帯びていた。数分後に始まるであろう試合を思うと心が沸く。文字通り、楽しみだった。
「準備できたみたいだな、涼」
「はい、兄さんはどうですか?」
「問題ない」
二人道場の中心で向かい合い淡々と会話を交わす。お互いにどこか心ここにあらずというのは、始まる試合への労力を惜しむからだろう。落ち着き払っているようで何となく落ち着かない。
「……涼、これだけは約束してほしい」
「何ですか?」
固く息を吐き、キッと僕を視線で射抜く。その顔に鼓動が一際大きく鳴った。
「例え、俺とお前の間にどれ程の力の差があったとしても、絶対に手加減するな。……殺す気で来い」
好戦的な赤い目にゾワリと皮膚が粟立つのを感じ、同時にじわじわと闘争心が頭をもたげ始めた。確信する。彼はもう既に狩られることを待つことしかできないひ弱な小動物などではない。力を持ち喰らおうとする肉食動物だ。
「ふ、ははっ、……手加減する余裕なんてきっとありませんよ?」
「よく言う……」
余裕があるわけじゃない。けれどもゾロリと込み上げるどうしようもない笑いが溢れた。
「御両人、準備はよろしいですか?」
「問題ありません」
「僕も大丈夫です」
豪さんがそれぞれに木刀を手渡した。重すぎず軽すぎない持ち慣れたそれは、昂った心を鎮めるには十分であった。かつて大きすぎて持てなかった木刀は今ではしっかりと僕の手に収まる。当初渡された、幼子には不釣り合いな木刀を今は僕と翡翠の両方が握っている。それは紛れもなく僕らを対等にさせた。
「両人、前へ」
水を打ったように静まり返る道場に、豪さんの凛とした声だけが響いた。一種の神聖さすら感じさせる雰囲気の中差し向かい、黙礼をする。僕らの流儀に開始の合図はない。礼をした瞬間からが勝負なのだ。
終らせる時が来たのだ。
目の前の翡翠が笑うように、きっと僕も笑っているのだろう
ダンッ!
先に踏み出したのはどちらだったのか考える暇もなく木刀を降り下ろした。
七年ぶりの再戦後、僕は冷たい道場の板敷きに背中を預けていた。結果だけ言うなら、僕は翡翠に勝てなかった。そしてまた翡翠も同じく僕に勝てなかった。彼は今僕の隣で倒れている。
一本目を取ったのは僕だった。十秒に満たない中でこちらが踏み込み身体のバネで距離を詰め胸に一閃を入れた。上段に構え袈裟に切ろうとした翡翠は低い姿勢の踏み込みに対応しきれずそれを受け止める形となった。ただこれは一本目で尚且つ翡翠に一切の先入観か無かったがためできたこと。二度目はない。更に言えば一本目で突きを入れたなら二本目三本目にダメージを持ち越せることができるが、真剣でもないのに切っても実質的なダメージはない。木刀も相当ではあるが期待はできない。
二本目を取ったのは翡翠だった。一本目とは一変して数分間にわたる打ち合い。一本目の踏み込みのせいで完全に警戒されたため打ち合い以外は中段、下段の構えでつけ入る隙がない。一瞬隙ができた瞬間はあった。だがそれは上段からの打ち込みの時体重の乗せられたそれは防ぐだけで精一杯。結局、鍔迫り合いで押しきられ一本を取られてしまった。
そして三本目。想定外の事故が起きた。なんと打ち合っているうちに僕ら両方の木刀が大破。その場の三人が騒然となる。しかも豪さんは豪さんで試合を止めるでもなく新たに木刀を用意するでもなく僕らをみていた。しかしいち早く気を取り戻した翡翠が素手で僕に殴りかかる。
想定外すぎる。
僕も僕で大人しく殴られる訳がなく、条件反射で十八番の大内刈りをかけるが今は柔道着ではなく剣道着に袴。袴の裾が邪魔になり上手く足を引っかけることができず敢えなく二人して転倒。起き上がったところで蹴り、突き、固め。途中までは武術だったが所々でただの殴りあいの喧嘩に。お互いに引っ込みもつかずとりあえず相手を潰すことに尽力する。大破した木刀もそのままに最終的には取っ組み合いのキャットファイトに発展したところで二人とも豪さんに首根っこを掴まれ放り投げられたことで収拾がついた。
そして今に至る。
「なあ……これどっちの勝ち?」
「どちらの勝ちでもないと思いますよ?」
「やっぱそうか……」
冷たい板敷きに身体も心もクールダウンされ何となく気の抜けたように返事をしてしまう。
「なんか……全部アホ臭くなってきた」
「そうですか……」
ボケッとしながら板敷きをゴロゴロと転がっていると視界に大きな足が写りこむ。上から笑い声が降ってきた。
「二人ともお疲れさまです。取り敢えず、怪我はありませんか?」
「大きなものはありません。……放っておけば治る打ち身とか切り傷です」
「俺もです」
少し離れたところに寝ていた翡翠も立ち上がるのが億劫らしくこちらへ転がってきた。
「あの、ところで何でさっき止めなかったんですか?」
先程を振り返り尋ねる。落ち着いて考えれば、木刀が大破した時点で一旦止め試合を再開するのが普通のように思える。現に僕はそのつもりだった。もっとも翡翠に殴られかかった時にはそんな考えは吹き飛んでいたが。
「いえ……、止めるのは少々野暮に思われて、それに木刀渡してもまた大破されると思うと『まあ良いか』という気になってしまいまして」
「……木刀、すいませんでした」
先っぽ三十センチ程が大破し無惨にも床に散乱している。……うん、申し訳ない。木刀が大破するなら次やるときは刃を引いた刀でやらざるを得ないかもしれない。
「それに何だか面白くなってしまって……くすぐったい青春ものでも見ている気分になってしまいました」
クスクスと愉快そうに笑う豪さんに苦笑いをする。でも言われてみればそんな気もしてくる。
「何でしょう……仲たがいした末に喧嘩して拳と拳でわかり合う、みたいな感じですか?」
「あー少しわかる。じゃあ俺がお前に言うのはあれか?『へっ、なかなかやるじゃねえか。』とか?」
「じゃあ僕は『ははっお前もな。』みたいなのですかね?」
「でもせっかくならそれを青い空の下、運動場か屋上に寝っ転がって会話してもらいたいですね」
そうなると完全にただの喧嘩になってしまうがドラマ的にはそんな感じかもしれない。青春ドラマの不良役、と言ったところだろう。
「でも僕らのこれじゃドラマにはなれませんよね。冷戦が長かったです」
「な、とても1クールや2クールじゃ終わらねぇドラマだもんなー」
ぐだくだと愚にもつかない話をしつつ起き上がり、豪さんから湿布や消毒液、ガーゼを受けとる。よくよく見てみれば殴られた左頬はうっすらと腫れ腕や足も所々腫れていた。
「兄さんは怪我大丈夫ですか?」
「んー、別に。大した怪我はねぇよ」
そう言って起き上がる翡翠を見るが、いう通り目立った傷や痣はない。まあ顔は極力避けたから代わりに胴体は痣だらけだろう。
「兄さんどうしてくれるんですか?顔殴られたせいでイケメンフェイスが腫れました」
「お前キャラどうした?そもそもお前は女子なんだからイケメンじゃなくて美少女とか……いや、それはないか」
「疲れてるんです。……自覚はありますが改めてあからさまに言われると腹立ちますね」
たがまじまじと翡翠の顔を見ると翡翠の方が美少女フェイスだ。整った顔に長い睫毛二重の大きめの目……。昔にもまして僕との顔に差が出始めた。完全に僕と翡翠の顔が逆だ。僕は成長すればするほど男顔になっていく、泣きたい。
湿布を貼りながら翡翠と駄弁る。因みに豪さんは大破した木刀の片付けをしてくれている。重ね重ね申し訳ない、本当に。
管を巻いていたがふと、翡翠が真面目な顔をする。
「その、涼、ありがとな」
「お礼を言われるようなことは特にしていませんよ」
「これで踏ん切りつけられる。やっと終われるんだ。……お前もお側付き頑張れよ」
片手でくしゃりと頭を撫でられたのでこちらからもてを伸ばし、僕とは少し質の違う赤い髪をかき混ぜた。
「言われなくとも、もちろんです」
そう言って笑うと屈託のない笑顔が返ってきた。
「なあ、俺決めたわ」
「何をですか?」
「俺中学いったら不良になる」
真面目な顔で僕にそう宣言する翡翠。
聞き間違いでなければ彼は不良になると言い切った。不良というのは頑張ってなるものなのか、それとも僕と兄さんの間に不良の認識について大いなる差があるのか。
困惑しつつも取り敢えず、
「が、頑張ってください……?」
とだけエールを送った。
やっと、やっと仲直りしました!冷戦が長すぎる。
そろそろ、本当いい加減中学生にしてみます!
今回は双子をゴロゴロさせたかっただけです!




