七年間越し
『勝負を降りる』
欠片も想像していなかった言葉にフリーズするがすぐに思考を叩き起こした。
「な、何故?兄さんはお側付きになりたがっていたじゃないですか」
確か、そのはず。まだ幼かったときは翡翠は流されるままに希望していた。とは言え僕との勝負に負けたあとも彼は鍛練をずっと続けていた。それこそ、僕と引けを取らない程に。勝負の剣道だけでなく僕同様あらゆる武術に手を出していた。
「そのために武道を続けていたんじゃないんですか?」
そう聞くとしばし迷う素振りを見せるが、重く喘ぐように答えた。
「……俺は今までお側付きになりたいと、蓮様を守りたいと思ったことは、ない」
「っでも、少なくとも七年前兄さんはなろうとしてたじゃないですか。だから僕と勝負を……、」
「違う、そこからもう違うんだ。お前が目指すって言うから俺も目指した。それに父さんは涼じゃなくて俺がお側付きになることを願ってた。だから、期待に応えたくて目指した」
顔を歪め苦しそうに言葉を吐き出す翡翠に、僕は口も開くこともできず、ただただ呆然としながら耳を傾けた。
「……あの時は、俺はお側付きになりたかったのかもしれねえ、でも俺が目指していたのはお側付きであって、蓮様を守ることじゃなかった。結局、俺はお前に完膚なきまでに負けた。……それで、お前から逃げた」
「…………、」
道場から走り去る彼の後ろ姿を、今でも鮮明に思い出せる。大人げなく二本先制した上に三本目を翡翠に譲った。今思えばとんでもないことをしたと思う。確かに三本目を譲ることは公式戦において珍しいことではない。しかしあの時のそれは、相手への侮辱に他ならなかった。
僕を睨み付ける、憎しみに満ちた目は、今の翡翠の目には重ならない。
「その後、俺は確かに武術に打ち込んだ。でもそれは蓮様を守るためじゃねぇ。……お前を潰すためだけに」
「……っ、」
真っ向から告げられた敵意に僕は目を反らした。それは既に彼の中にないとしても、少し胸が傷んだ。
「本当は多分、最初からそうだったんだ。お側付きを目指したのも、お前に負けたくなかったから。でも、お前は全てにおいて完璧だった。俺が何をしても、絶対にお前には届かねぇ。尚更お前が憎くて、気に入らなくて……、もう一度お前とやりあえる機会を待ってた」
「じゃあ、何で……、」
「聞いてくれ、」
翡翠の声以外に僕らの鼓膜を揺らす音はない。
彼の辛そうな顔をはっきりと見せつける痛いくらいの月光が憎い。
「何でも簡単にこなすお前を見返すためだけに強くなろうとした。お前に勝つことが、俺の全てだった。……ずっとそう思ってた。でも、後少しで勝負の日って時に蓮様とお前は襲われた」
今にも泣き出しそうな顔で話す翡翠が今何を思い僕と話をしているのか、僕にはまだわからなかった。
「……父さんから、その時お前がどうしたのか聞いた、全部。それまではさ、俺のことなんて眼中にないお前がすごい嫌いだったんだ。でも本当は最初から俺とお前じゃ見てるものが全然違ったって、気付いた。それで、何かすげぇ情けなくてバカらしくて、俺にはお側付きなんて絶対できねえって分かった。そんな度胸も忠誠心も覚悟も俺は持ってねえ。……だから俺は勝負を降りる。お側付きには涼、お前がなれ」
真剣な顔つきで話す翡翠。それがあまりにもらしくない様子で、まともに頭が働いてくれない。
彼の言うことは理解した。理解は、したが何となく釈然としなかった。翡翠がひたすらに守るためではなく僕に勝つために心血注いでいた、というのは言われてみれば薄々分かっていたことだ。そしてそんな彼が万一僕に勝ち、お側付きになったとしてもきっと彼には務まらない。
しかしふと思う。違う。務まらない訳がない。少なくとも僕の知る未来では彼は白樺蓮のお側付きをしていたのだ。できない理由がない。
「……貴方はそれで良いんですか?」
「ああ、それが良い」
淀みなく答える翡翠にやはりモヤモヤとしたものが胸に残った。そんなにアッサリと、七年間の努力を捨ててしまえるものなのか。
「父様にはまだ言ってないんですか?」
「……先にお前に言ってから、と思って」
「……分かりました。恐らく父様も了解すると思います」
翡翠の決めたこと。無理に勝負をさせる運びにはまずならないだろう。
再び沈黙が支配しする。
それに耐えられなくなり僕は踵を返そうとした。しかしまた翡翠に腕を捕まれる。
「悪い、一つ頼みがあるんだ……」
やはり、と思いつつ振り向く。ただではないとは予想していた、なんて思う僕はかなりひねくれている。
「僕に、出来ることならば」
そう言うと先程のようにまた言い淀む。でもそれは先よりも短いものだった。掴まれた手に力が込められるのを感じた。
「お側付きを決めるものじゃない。……一度お前と勝負がしたい」
「……」
「それが俺なりのけじめ、折り合いの付け方だと思ってる。この七年間をおいそれと泡にできるほど潔くねぇ。……お前との試合で、それを終わらせたい」
少し苦し気だがそれ以上に清々しさが勝る。彼の目にはいつかの殺意や敵意、嫌悪の色はない。そこにあるのは純粋な闘争心。
「……分かりました。喜んでお受けします」
ニッと笑うと翡翠も緊張した面持ちを崩し笑った。
「非公式ですが、立ち会いは豪さんに頼みましょう。彼にはこちらから話を通しておきます」
「頼む」
話が纏まり二人で部屋まで歩く。特に話題もなかったので先程から気になっていたことを翡翠に聞いてみた。
「さっきから気になっていたのですが……普段と話し方とか所作がかなり違いますよね。どうしてですか?」
父様の部屋を出てからずっと思ってたことだ。なんというか、いつものツンツンした雰囲気じゃない。小動物のような愛らしさは全く鳴りを潜めている。
するとピタリと足を止めて、言って良いものか否かと逡巡し始めたが、小さく「まあお前なら……」と呟き口を開く。
「あれだ……普段のっていうかさっきの話し方だと怖いってよく言われるから。俺、口調荒いし言葉汚いし。……それでその、ああいう?暴言吐きつつ顔赤くするだけで何となく印象良くなるっぽいし、どことなく父さんも母さんも嬉しそうだからよ」
想定外どころじゃない返答。
「言うなよ?」と言う翡翠に
「き、器用なんですね……」
と、口元をひきつらせながら言うことしか出来なかった。
相手や状況によって全力でキャラを演じる点はやはり双子、と言うものなのかもしれない。




