拾う
ガラリと扉を開け、廊下にしゃがみこむ人をしかと見据えた。
「へ……?」
目が合う。
呆然とし、口が『あっ』とでもいうように無音で開かれる。色彩の薄い病院の廊下に翡翠の赤い髪は良く映えた。
見つめあっていたのはほんの一瞬なのかはたまた数秒なのか、時間が止まった。
「ひす、」
「あああああっ!?」
声を掛けると同時に突如謎の雄叫びをあげる。びくりと肩を跳ねさせると翡翠は我に返ったようにクラウチングスタートで脱兎の如く走り出す。が、タイミングが良かったのか悪かったのか、彼は今日も持ってきていた果物と皿をまだ床に置いていなかったらしく手には皿を持ったまま走ろうとした。しかも不運なことに檸檬、林檎と続く本日の果物は葡萄であった。
更に不幸は重なる。
彼の持っていた葡萄は一房。だがそのうちの幾つかは茎から外れてしまっていたのだ。
当然、無茶な体勢からのクラウチングスタート尚且つ両手に皿を携えた彼は不安定。あまり深くなかった皿から紫の粒が舞う。
ポンポンと廊下を跳ねる葡萄達に思考が停止。
しかも彼は律儀なことに、そのまま走って逃げれば良いものを慌てながら回収しようとバタバタと拾い集める。で、屈むのでもちろん翡翠の持つ葡萄の皿は傾く。先程の衝撃も相まって茎から放たれた葡萄が拾った端からコロコロと転げ落ちていった。
正に混乱が混乱を呼ぶ。
絵面的にはそうでもないが僕ら二人の頭のなかは叫喚だ。訳が分からない。
訳が分からないのは依然として変わらないが、とりあえずハッとしてこのカオスな状況に収拾をつけようと僕も一緒になってテンテンと跳ね回る葡萄を拾い集めた。
白い床から紫が消えた頃、拾い集めた葡萄を翡翠の持っている皿に戻す。
「どうぞ」
「あっ、ありがとう、っ!?」
至極普通に礼を言いかけるが僕の顔を見た瞬間、しまった!という顔をする。と同時に僕もこの状況を思い出す。そういえば翡翠逃げようとしてたじゃん。落ち着いて葡萄手渡してる場合じゃない。
「…………っ!」
拾い終わった葡萄を手に再び走り出そうと勢いづく翡翠。
「ちょ、待ってくださいっ!このまま走ったらまた葡萄飛び散りますからっ!」
「あ、……」
今更気づいたらしいがまた前傾姿勢になった翡翠の皿から葡萄が一粒転がり落ちた。条件反射のように走り出しそうになった翡翠の腕を掴む。
「……」
「……、えっ、と」
掴んではみたものの、それからどうするという考えがあるわけでもなく無言が空間を支配する。バチリと音がするのではないかというほど合わさった視線を逸らすことも掴んだ手を離すこともできずとにかく言葉を探す。
もはや普通に会話をしたのが遥か昔の記憶でなんと話しかけたら良いのか分からない。だが決して強いとは言えないような力で掴む僕の腕を振りほどかないのは、
「あの……一昨日の檸檬と昨日の林檎は、翡翠が置いていったんですか?」
「……っ!」
とりあえずドアを開けた本来の目的を果たす。そう問うと、僕の顔を声に我に帰ったらしく目を見開き口を物言いたげにパクパクと動かした。
「なっ……、ばっ……、違っ……!!」
「と、とりあえず落ち着いてください」
沸騰したように顔を染め、言葉にならない音を羅列させる。僕も僕でなんとも居心地悪く、手を離すことなく彼の言葉を待った。この機会を逃したらそれこそ永遠に和解の機会は得られないだろう。もっとも、和解の仕方も知らないのだけど。何でも良いから話してみたい。
しばらく口をパクパクさせた後、多少落ち着いたらしく葡萄を持ったまま半分叫ぶように僕に言う。
「べ、別に見舞いとかじゃねぇっ勘違いすんなよバーカッ!心配とか全然してねぇしいつ退院するとかどうでも良いしっ!?」
「や、そこまでいってないんですが……」
聞いてないことまでべらべらと饒舌に叫び出す。全部自分で言っちゃってるよこの子……。どうやら見舞いに来てくれて心配してくれていたらしい。少しだけ気持ちに余裕が出てきた。
「あの、その葡萄は……?」
「ひ、拾った」
「昨日の林檎は?」
「……拾った」
「一昨日の檸檬は?」
「拾ったっ!」
「貴方は森にでも住んでるんですか?」
拾ったって、適当すぎる。いく先々で果物を拾う訳がないだろう。そしてやはりここのところの果物は翡翠が持ってきたものだったようだ。そうなると檸檬の時の何度も書き直された手紙にも納得がいく。
「翡翠……」
「なっ、何だよ……」
びくびくとこちらを警戒する様は野生の動物のよう。警戒しているくせに掴まれた腕を振りほどかないのは、僕が怪我人だと知っているからだろう。
「そろそろ退院できると思います。怪我はもうほとんど治っていますので。……心配かけてすいません」
軽く笑うと赤かった顔が更に怖い赤くなる。耳どころか首まで真っ赤だ。
「っっ!?だっ、だから心配とかしてねえっ勘違いしてんじゃねぇよバーカコノヤローッ!!」
手を振り払い持っていた葡萄を皿ごと僕の手に押し付け叫ぶと、用は済んだと言わんばかりに逃げ出す。かどを曲がってすぐに声を掛ける。
「翡翠っ!」
既に姿は角に消え、走り去ってしまったかと思ったが律儀にも角で次の言葉を聞こうとしているらしく、姿こそ見えないものの赤い跳ねた髪が廊下から見えクスリと笑う。
「お見舞い、ありがとうございました」
自分が言いたかっただけなので反応は期待していなかったのだが、予想に反して翡翠はひょいと角から顔だけ出す。いまだに顔の赤みは引かない。
「っだ、だから見舞いじゃねぇよ道に迷っただけだバーカッ!!」
バーカという余韻を残しつつ走っていく足音をなんとも言えない気分で見送る。しかしゆるゆると何やら嬉しさが込み上げる。和解ができた、とは言いがたいがこうしてわりと普通に話ができたことが嬉しい。少しずつで良い。少しずつだけでも良いから歩み寄っていきたい。
今の今まで放置してきた僕が言えたことではないけれど、彼は唯一無二の双子の兄で紛れもなく大切な存在。いつか笑顔で話ができる日を願う。
廊下に一粒残された葡萄を広い皿の上に乗せた。
きっとそれは決して遠すぎてての届かないものではないだろう。




