ライター
ベッドから降りヒタリと床に素足を下ろす。左足にかけていた体重をゆっくりと右足にも移し、一歩だけ前に進む。若干ふらついているものの、足に痛みが駆け抜けることがないことに満足する。この分なら元のように、とは言えなくともすぐに歩き回ることも出来るようになるだろう。
少々心が軽くなり、もう一歩窓の方へ踏み出し窓を開ける。右肩も動きにくく少し痛いがきっとこの身体ならそれもあと数日だろう。期待してます、僕の身体。
窓を開け低い桟から身を乗りだし景色を見てみる。余り外に目を向ける機会はなかったがなかなか遠くまで見通すことが出来た。大きな病院の遊歩道では車椅子の回りを駆ける子供たちが、それを微笑ましげに見る老夫婦が視界に映りこちらまで穏やかな気分になる。体重のかかる右腕が少し辛いが、リハビリということにしておこう。
「おっ、お嬢ちゃん!早まっちゃいけねぇ!」
「はい?」
後ろを向けば入り口で顔を青くしながら不自然にこちらに手を伸ばす挙動不審な瀬川さんがいた。
「いや、もう、心臓に悪いねお嬢ちゃん……飛び降りでもしようとしてるのかと思ったよ」
「嫌ですよ、するわけないじゃないですか」
開けていた窓を閉めると流れ込んでいた肌を刺すような空気が掻き消える。瀬川さんは着ていた厚手のコートを脱ぎ、丸椅子に腰を下ろした。
「ごめんごめん、なんとなくお嬢ちゃんはそういう極端な方向に行きそうなイメージだったからさ。何か自己嫌悪の果てにしそうじゃない?」
「や、しそうしそうじゃないって本人に言いますか……。自殺なんてそんな不毛なことしませんよ。もう少し有効活用しますから」
「そう言う問題じゃ……まあ、良いか」
一瞬だけ右手を胸ポケット辺りに彷徨わせるが、所在なさげに左腕と組まさせれる。
瀬川さんのお陰で色彩の薄い病室に明るい色がもたらされた。
「……これ、ガーベラですか?時期的に考えて、もしかしてプリザーブドフラワー?」
「おっご名答。冬であんまり見舞いに相応しい花がなかったからさ」
なるほど、それで生花ではなくプリザーブドフラワーなのだと納得する。壊さないよう指先で触れるが、その質感は生花と至極にているように感じた。
「流石社会人って感じですね。僕の知る人の誰よりも常識があるのはやはり貴方のようです」
そう言うと微妙な顔で苦笑いされ首を傾げる。
「どうなんだろうな、そもそも赤霧のお嬢ちゃんの周りにまともな感覚を持つ人間なんざいないだろう?」
「さあ、どうでしょう?」
なかなか無礼な言葉だが真っ向から否定する気にもならなかったので適当にお茶を濁しておく。
「にしても本当は使わない方が良かったんだけどさ、お嬢ちゃんアレ使ったんだね」
一変して神妙な顔になる。
「ええ、正直役に立ったとは言いづらいですがないよりかは良かったでしょう。ありがとうございます」
他意があるわけではないが若干きつめの言葉に珍しく申し訳なさそうな顔をする。
「悪かったね。やっぱり普通の防犯ブザーを渡しておけば良かったよ」
改めて普通のものらしい防犯ブザーを渡された。
実は瀬川さんと会うのはこれで三回目なのだ。
立食会の後日、話がしたいとのことで会ったので個人的に会いに行ったのだ。ほぼ初対面の大人の誘いに乗るなどあまり宜しくないのだが、あの人は自分の不利益となることは一切しないつまり、警戒するべき点はないのだ。事実だけ見ると瀬川さんが犯罪者1歩手前のようだが。
そこで面白いものがたまたま手に入ったと言って見せてもらったのが音のならない防犯ブザーだった。
『それ、最早ブザーと呼べませんよね?音鳴りませんし。』
『まあ仕組みは防犯ブザーと変わらないから良いんじゃない?』
彼の掌に乗るそれは形仕組みこそ同じものの、大きさは通常のそれとは大きく異なり本当に小さいものだった。見た目は燻銀の武骨な四角いライター。だがライターの隅には細いチェーンが付けられており、それを引っ張りピンを引き抜くことで作動するらしい。
『防犯ブザーには全く見えませんね……、特注ですか?』
聞くものの、よもや彼が自ら発注したものとは微塵も思っていない。彼からしたら重たすぎる無用の長物であろう。
『これねー、この前久しぶりに同僚と会ってさ、そいつは俺が御曹司のお守りをしてるのをどっかで聞いたみたいで、御子息の安全を考えて……!とか、要らない気ぃ回しちゃってわざわざこんなのを俺にくれたわけ。もう重いね!同僚の気遣いも、物理的にも、おじさんには 全くもって役不足だよ。』
げんなりとしながら指先で小さなそれを弄ぶ彼に苦笑いをこぼす。
『音が鳴らないならどうやって防犯するんですか?』
根本的なことを聞くと少し愉快そうな顔をする。
『それがさ、この端っこのピンを引き抜いても音はならないけど、警察に110番できるスグレモノらしいんだよね。万が一の時、犯人に警戒されず尚且刺激することもなく速やかに通報できる代物なんだってさ。』
『でも通報した後、警察は何処へ行けば……?』
『はははは、実はこいつGPS登載してるんだな。110番と同時に現在位置も知らせてくれるから問題ないみたいよ。』
ひょい、と掌からブザーを取り上げる。それは見た目に反してなかなか重かった。……他にも色々内蔵されてそうだ。確かにこれは精神的にも物理的にも少々重い。しかしふと思う。
『……これ、もしかして先日の盗聴器付き万年筆と製作者同じだったりします?』
『……確認した訳じゃないけど御曹司と面識あるみたいだし目を掛けてるからそうかもね。いやぁ、趣味って怖いわー。』
どう考えても趣味の域を越えているだろう……!同僚、ということは機械製作がメインではないのだろうが、素人のやることじゃない。しかも確実に前回の万年筆よりもグレードアップしている。万年筆の欠点であった異常な大きさは改善され、非常にスマートなフォルムだ。
『そういえば、一つ聞きたいんですが、』
『ん、何?』
『これって、テストしましたか?』
『ふっ、するわけ無いでショ。警察来ちゃうし。』
目の前の高機能ブザーへの信頼は失せた。まあ確かに個人的に作ったものなので気軽にテストするわけにはいかないだろうが、テストなしの一発勝負とか、不安しかない。
『詰めが甘いでしょ?もしくはおじさんを実験台にしようとしてるのか……。』
『お疲れさまです。』
詰めが甘い、とはいえそれは同僚さんなりの彼への心遣いなのだろう。あからさまなものではなく、ライターを模した形、小さな本体にピンを抜きやすくする工夫。
『まあ、これを使う機会はまずないけどネ。』
『楽観視すると足元掬われますよ?万が一のことがあれば……。』
『お嬢ちゃん……あの御曹司を窮地にたたせられるような人間いると思う?そんなのがいたら十中八九魔王に違いないよ。』
『……なんかすいません。』
遠い目をする瀬川さんに居たたまれなくなった。相変わらず御曹司様に手を焼いているらしい。
『あ、良ければこれ、お嬢ちゃんにあげようか?おじさんには必要ないし。』
『へ?いや、流石にそれをいただくのは申し訳ないです。』
『でもそれ俺が持ってるよりお嬢ちゃんが持ってる方が良いんじゃない?タイプとしても合ってると思うし。』
『タイプ?』
『そうでしょ。俺のことはいいからお前は逃げろ!っていう自己犠牲の死亡フラグタイプ。』
へらへらという瀬川さんに苦笑いする。この人は真面目なのか適当なのか。
『死亡フラグは建てませんが、それが何故このブザーに繋がるんてすか?』
重い銀色のそれに目を向ける。飾り気のない武骨一辺倒だ。
『守る相手がいるなら、真っ先にこのブザーで通報する。犯人に気づかれないようにね。でそこからは犯人と交渉して相手を逃がすのも良し、時間稼ぎをするも良し。つまりこいつのメインの使われ方は、対象を逃がすための時間稼ぎのリミットを付けること。それに伴う心の安寧ってところだろうね。例え時間内に対象を逃がすことが出来なくとも警察が来れば問題ない。』
もっとも、テストされてないこれじゃあせいぜい保険位にしかならないけどネ。そう言う彼に少し納得してしまった。
あれば良いが無くても問題がないと言ったところだろう。
『通報を受けてパトカーが車での時間ってどれくらいでしたっけ?』
『あーっと、平均して六分五十秒位、大体七分くらいだったと思う。まあ状況にもよると思うよ。天気が悪かったり、道路が事故で使えなかったり、分かりにくい場所だったり……。』
『その時々ってことですね。』
『頼りないけどまあ無いよりかは良いし、貰っておいてよ。』
防犯ブザーが僕の手に握らされる。やはりそれは重かった。
そして今、それは瀬川さんの大きな手の中にあった。
読んでいただきありがとうございます!
思ったより長くなりそうなので一区切りです
病院の側で蓮畑を発見して、蓮くん書かなきゃなー、って思ったのに瀬川さんが出張る不思議




