主人
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ゆっくりと浮上していく意識。微睡みのようなそれはポタッという水音によって覚醒する。
一定の感覚で落とされる水音に耳を傾けながらひどく重たい瞼をこじ開けるように持ち上げた。
いつかのように、見慣れない天井が視界いっぱいに広がる。首を少しだけ動かすと、右手に大きな窓があった。墨を落としたような闇に橙の光がポツリポツリと点在している。
「生き、てる……」
掠れた声で深く言い聞かせるようにそう呟くと、未だ霞みがかったままだった思考が晴れた。鼻につく消毒の匂いと見回りらしい看護婦のキャスターが転がる音がどこか遠くで聞こえる。
ここは病院の一室で尚且つ一人部屋。隔離、とまではいかないだろうが他の病室からは少し遠いらしい。ドアの磨りガラスからナースステーションのものらしい暖色の明かりが仄かに見られる。
もう少し状況を、そう思い上体を持ち上げると、
「~~~~っ!!??」
身体中を痛みが駆け抜けそれは叶わなかった。喉の奥からは声にならない叫びが出た。それと同時に麻酔が解けたが如く全身が軋み出す。よくよく身体を確かめてみると激しく殴打された右肩はしっかりと固定されており、右腕にもきつく包帯が巻かれている。見ることはできないが、恐らくほぼ全身がこのような状態なのだろう。首をもたげて窓を見ると左頬に大仰なガーゼを張り付けた自分の顔が見えた。
首からは管が出ており、大きな点滴に繋がれて変わることのない一定の速さで中身を落としていた。
腕ではなく首に点滴が繋がれているところを見ると僕は随分と気を失っていたらしい。あれから何日経ったのだろう。
感覚が戻り激痛に慣れ始めた頃、ふと左腿にダルさとは違う重みを感じた。わりかし無事な方の手をベッドにつき、何とか上体だけ起こす。
シーツとは違う白が目に飛び込んできた。
「蓮、様……?」
小さな丸椅子に腰掛け、頭を僕の左腿の上に預ける蓮様がいた。道理で足が痺れる。
サッと見たところ、怪我をしている様子は見られずホッと息を吐く。
スヤスヤと寝息をたてる蓮様を眺めながら、サイドテーブルにあった水のボトルを拝借すると渇ききった喉が潤った。
右腕はまだ動かせそうにないので左手で既に治った傷のところの包帯やガーゼを外していく。
何日経ったのか分からないが、左腕の細かな傷は殆ど消え頬も微かに傷痕が残るだけであった。赤霧の血には全く感服である。自分の身体ながら相も変わらず異常な治癒力だ。
流石に刺された脇腹や右腿や深く切られたところはいまだに熱を持っているものの、恐らく既に重症の域は脱しているだろう。
外したガーゼやテープを置いてあったゴミ箱のなかに放り込み、再び蓮様を観察してみる。
そういえばこの子、僕と別れるとき凄い勢いで死亡フラグを建設していったよな。自覚はないのだろうが精神衛生上大変よろしくなかった、と独りごちる。
フワフワと柔らかい髪を左手で撫でる。にしても、時間こそ分からないものの小学生が保護者もなしにこんなところで寝ている、というのは如何なものであろうか。
髪を撫でていると隠れていた目元が目に入り思わず息を飲む。うっすらと隈が出来、閉じられた瞼の縁は赤を散らしていた。あまりの痛々しさと罪悪感に、起こさないようにと気を遣いながら指先でつ、と触れる。
結局僕は彼を泣かせてしまったのだろうか…………?
あの時、僕はいったいどうするのが最善だったのだろうか。僕は彼が逃げるだけの時間を稼ぐことを優先した。結果、彼は逃げることが出来た。だが今僕の目の前にいる彼を見て、後悔の念に駆られている。後悔をしても、僕はあれ以上の策を見つけることが出来ない。きっと今からあの日をやり直しても時間稼ぎをするという判断を下しただろう。
考えても考えても、結局僕は無力なのだ。
蓮様の座る丸椅子の横にあったパイプ椅子に掛けられたコートをせめて、と思い彼の身体に掛ける。が左手だけで掛けようとした所為でフードが蓮様の頬に触れてしまった。
「んっ……う、」
「!……すいません、起こしてしまいましたか」
「りょ、涼!!」
眠そうに目を擦っていた蓮様だったが声をかけたのが僕だとわかると目を見開き身を乗り出した。不安定に掛けられていたコートがバサリと床に落ちる。
「はい、おはようございます」
「お、おはようじゃないっ!いつ起きたんだ!」
「ついさっきですよ」
今さらどんな顔をしていいのか分からず困ったような情けない顔をした。これだけ聞くと見開かれた目にぶわっと涙が溢れぎょっとする。
「れ、蓮様っ……、」
「お、前、なん、あんな、死んだかと、無茶、!!」
「と、取り合えず落ち着いて、深呼吸しましょう深呼吸!!」
泣きながら意味をなさない言葉の羅列を吐き出す蓮様を片腕で抱き寄せ背中を撫でる。脇腹や足が痛いとかは今はどうでも良い。荒い息を調えさせつつ蓮様の言葉を待つ。
本当なら目が覚めた時点で枕元にぶら下がったナースコールを押した方が良いのであろうが、今は蓮様と話がしたい。その事は都合よく子供のうっかりの如く忘れさせてもらう。
「……落ち着かれましたか?」
「何で、こんな無理したんだよ……」
消え入りそうな声で詰るように問う。先程より落ち着いてる分言葉が胸に刺さる。
「……申し訳ございません」
「謝罪が聞きたい訳じゃない」
伏せられていた顔があげられその赤い双眸とかち合った。
ぞわりと冷水を浴びせられたような感覚が駆け抜ける。感情を全て排したような目。
今僕は、蓮様ではなく主人と話をしている。
再び振り返した熱を急速に散らし全神経が蓮様の一挙一動に向いた。
「……お前は昔俺に言ったな。『翡翠は御側付に相応しくないと判断された。』と。兄よりも自分の方が優れており、適任であると」
ひしひしと蓮様の言いたいことを予期する。察しが良いことをこんなにも悔やんだのは初めてだ。合った目は逸らされない、逸らせない。蓮様の赤い瞳の中の僕の目は酷く揺れていた。
「それで、この様は何だ?」
蓮様の目が僕の包帯だらけの身体へと移る。その目にこの傷で覆われた情けない体を晒すことに恥ずかしいと思いながら青ざめた。震えそうになる身体を両手を強く握ることで圧し殺す。
「そ、れは……」
「それは?」
申し開きがあるなら言ってみろ、そう問われているのに僕の口は動かない。言い訳など出来ないのだ。全ては僕の未熟さ故。
呆れたような視線に耐えきれず布団へと落とす。
しかしすぐに蓮様は許さないとばかりに片手で僕の顎を掴み無理矢理視線を合わせた。
息がかかるほどの距離。
身を引こうにも蓮様の真っ直ぐな視線が離さなかった。
そして形の良い唇が笑みを浮かべる。
他でもない、恐怖を掻き立てる表情。
僕は彼の紡ぐであろう言葉に恐怖した。
聞きたくない。
しかし無情にも背筋も凍るような笑顔の彼は僕に告げた。
「涼、お前は俺に相応しくない――――」
「お側付を辞めろ」
僕の中の何かが音をたてて壊れた。




